ハイネ詩集 生田春月訳

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ハイネ詩集
生田春月 訳
 
 
 
帰郷
 

  二十

わたしはおまへに挨拶する
広い不思議な大都会!
おまへの膝にはそのむかし
わたしの恋人が抱かれてをつたのだ

まちの門よ、塔よ、言つてくれ
わたしの恋人は何処へ行つたのだ?
わたしは彼女をおまへ逹にあづけて置いた
おまへ逹はその担保かたにならなきやならぬ

塔には何の罪もない
彼等はその場を動き得ないから
トランクや包みをもつて恋人が
市街まちをさつさと出て行つても

だが門のやつはわたしの恋人を
こつそり逃がしてしまつたのだ
門はいつでも承知する
女のたのむことならば
(門といふ字にはまた馬鹿といふ意味もある)
 

  二十一

かうしてまたも昔の道を行く
むかし馴染のその路を
こひしい人の家のまへに来て見ると
人気もなく荒れ果ててゐる

街道とほりは本当に狭くるしい!
敷石はとても我慢も出来やしない!
家並やなみは頭の上に落ちて来さうだ!
出来るだけ急いで行つちまはう!
 

  二十二

むかし彼女がわたしにかはらぬ誠を誓つた
あの堂へ久しぶりにのぼつて見たら
むかし彼女の涙のしたゝつたところからは
不気味な蛇が這ひ出してゐた
 

  二十三

夜は静かに街路まちには人の影もない
この家にわたしの恋人は住んでゐたんだ
彼女はもうとくにこの市街まちを棄てゝ行つたが
そのうちはやつぱり同じところに立つてゐる

そこには一人の男が立つてぢつと見上げてゐる
はげしい苦痛に両手をしぼりながら
その男の顔を見たときわたしはぞつとした——
月はわたしにわたし自身の姿を見せたぢやないか!

あゝ、わたしの分身よ、蒼ざめた男よ!
なぜまたおまへはわたしの真似をする?
すぎ去つた日の夜毎夜毎
こゝに立ち尽しては嘆いたその真似を
 

  二十四

おまへはわたしのまだ生きてゐるのを知つてるか
どうしておまへはやすやす眠れるのか?
またも昔の怒がかへつて来ると
わたしはこの桎梏なんかぶちやぶつてしまふぞ

おまへはあの古い小唄を知つてるか?
むかし一人の若者が死んでしまつてから
真夜中ごろに恋人の娘のところに現れて
自分の墓へ娘を連れ込んだといふあの唄を

わたしを信じてくれよ、かはいゝ子
本当に美しいやさしい子
わたしは生きてゐるんだよ
死人より、どの死人よりもつと強いのだよ!

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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