ハイネ詩集 生田春月訳

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ハイネ詩集
生田春月 訳
 
 
 
帰郷
 

  三十

そんなにわたしの目をくもらせて
一体どうしようと言ふのだらう?
このさびしい涙は昔から
わたしの目からはなれない

かつては輝く姉妹きやうだいをもつてゐたが
それはみなくに流れ去つた
わたしの悩みと喜びとにともなうて
夜と風とに消え去つた

ほほゑみながらこの胸へ
あの喜びと悩みとを
なげこんだ青い星もまた
流れてしまつた霧のやうに

あゝ、わたしが抱いてゐた恋すらも
あとのない風のやうに消え去つた!
古いさびしい涙よ
おまへも流れて行つちまへ!
 

  三十一

蒼白い秋の半月が
雲間からそつと覗いてゐる
墓地の隅にはものさびしげに
牧師の家が静かに立つてゐる

母親は聖書を読んでゐる
息子は灯明あかりをぢつと見つめてゐる
姉娘は寝ぼけて伸びをする
姉娘の言ふのには

『あゝ、何て退屈なことだらう
本当にくさくさしてしまふ!
誰か墓場に埋められる時でなくちや
何一つ見るものだつてないんだもの』

母が読書をやめて言ふのには
『そんならお気の毒だね、墓場の入口に
おまへのお父さんの埋められなさつてから
たつた四人よつたり死人があつたきりだものね』

姉娘はその時欠伸して
『かうしてゐたんぢやひぼしになつちまふ
わたしは明日は伯爵のところへ行かう
あの人はお金持だし、わたしを好いてるからね』

息子はからから笑ひ出して
『星の世界ぢや三人の猟夫れふしが酒盛してる
あいつ等はきんを造ることを知つてるから
おれにその秘密を教へるだらう』

母は息子の瘠せた顔を目がけて
聖書をどしんと投げつけて
『この罰当りめ獄道ごくだう
おまへは追剥にでもならうと思ふのか!』

彼等はその時窓を打つ音を聞き
さし招いてゐる手をば見る
戸外そとにはなくなつた父が立つてゐるのだ
黒い僧服を身に着けて
 

  三十二

何といふわるい天気だらう
雨がふる、風がふく、雪がふる
わたしは窓辺にすわつたまゝ
暗の中をばながめてゐる

をりしも灯火あかりが一つあらはれた
動くともなく揺れながら
提灯さげたお婆さんが
街路まちのむかうへとぼとぼ行く

あのお婆さんは玉子と牛酪バタ
粉とを買ひに出たのだらう
さうして大きな娘のために
菓子をこさへてやるのだらう

その娘はうちの肱かけ椅子で
ねむたさうに灯明あかりを見てるだらう
きれいな顔を波のやうな
黄金の捲毛に蔽はせて
 

  三十三

恋のなやみのはげしさに
わたしが苦しんでゐると人は言ふ
さうして人とおなじやうに
たうとうわたしもそれを本当にしてしまつた

大きな眼をした小さな人よ
わたしはいつもおまへに言つた
とても口では言へぬほどおまへを愛して
その愛する思ひにわたしは心を噛まれてゐると

しかし自分の寂しい部屋で
壁にむかつて言つただけ
あゝ!なぜかおまへの前に出ると
いつでもわたしはだまり込んでしまふ

それは意地の悪い天使があつて
わたしの口をおさへてしまふからだ
さうしてあゝ!その悪い天使のために
わたしは今こんなに不仕合だ
 

  三十四

おまへのましろな百合の指に
一度接吻きすが出来たなら
さうしてそれをわたしの胸におしあてゝ
さうして静かに泣けたなら!

おまへの澄んだ菫の眼が
日も夜もむかうにちらついて
さうしてわたしを苦しめる
あゝ、何を語るか甘い空色のこの謎は!

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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