ハイネ詩集 生田春月訳

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ハイネ詩集
生田春月 訳
 
 
 
帰郷
 

  三十五

『おまへのはかない恋を見て
彼女は何とも言はなかつたか?
おまへは彼女の眼のなかに
一度も愛の答へを読まなかつたか?

おまへは彼女の眼のなかから
心の底まで突き入らなかつたか?
友よ、おまへはかうした事に
いつもはそれ程馬鹿ぢやないんだが』
 

  三十六

ふたりはしんから惚れてゐたが
どちらもうちあかさうとはしないで
そしらぬふりに冷やかに
ものも言はずに行きすぎた

とうと逢はなくなつちまひ
夢のほかには見なかつた
互の愛をも知らずに死んだ
ふたりの墓には苔むした
 

  三十七

わたしが君たちにこの苦しみを訴へた時
君たちは欠伸して何も言はなかつた
しかもそれをわたしが立派な詩にして見せた時
君たちは大そうわたしを賞めそやした
 

  三十八

わたしは悪魔を呼んだ、悪魔が来た
驚いてわたしは彼を見た
彼は醜くもなく、びつこでもない
人好きのする気の利いた男だ
男ざかりといふ年配で
丁寧で、またよく物のわかつた男だ
彼は如才のない外交家だ
そして教会や国家について雄弁をふるふ
顔はいくらか蒼かつたが、それも不思議はない
サンスクリットとヘエゲルを今ぢや研究してゐるからね
彼の愛読の詩人は相変らずフウケエだ
だが彼はもう批評はやらぬと言つてゐる
そんな事は今ぢや祖母おばあさんの
ヘカテエにみなまかせてしまつたのだ
彼はわたしの法律の勉強を賞めて
自分も以前これをやつてゐたものだと言つた
彼はわたしがあまり打ちとけてくれないと
いさゝか不平を言つて、それからうなづいて
我々は以前まへにも一度逢つたことがある
西班牙公使のところで逢つた筈だがと言つた
それで彼の顔をよくよく見たら
成程、昔馴染の男であつた
 

  三十九

人間よ、悪魔を嘲るな
人生といふものは短いからね
そして永遠の地獄の苛責といふものは
いゝ加減な迷信ぢやないからね

人間よ、おまへの借金を払ふがよい
人生といふものは長いからね
そしておまへはまだ度々借りなきやならないからね
おまへがこれまでいつでもしたやうに

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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