ハイネ詩集 生田春月訳

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ハイネ詩集
生田春月 訳
 
 
 
帰郷
 

  四十

東方から来た三人の聖なる王様が
市街まちへ入つて来るたびに訊くのには
『坊ちやん方に嬢ちやん方
ベトレエムへはどう行きますか?』

子供も老人としよりもその道を知らなかつた
王様たちは真直に進んで行つた
彼等はやさしく清く輝いてゐる
黄金の星に従つて行つた

星はとまつたヨセフの家に
そこで彼等は中へ入つて行つた
牝牛は吠えた、赤児は泣いた
そして三人の聖なる王様は歌をうたつた
 

  四十一

わたしのかはいゝ子よ、二人は子供であつた
小さな愉快な二人の子供であつた
二人は鶏小舎とりごやへ這ひ込んだ
藁の下へもぐり込んだ

二人は雄鶏のやうに鳴いた
人がちかくへ来たときに
『コケッコオ!』といふとみんなは本当に
雄鶏のなき声だと思つた

庭に置いてあるその箱に
二人はきれいに壁紙をはつた
さうしてその中に一緒に住んだ
さうして立派な住居すまゐをこしらへた

年よりの猫が近所づきあひに
よく訪ねて来たものだ
ふたりはお辞儀をしたり挨拶したり
いろいろお世辞を言つてやつた

ふたりは親切にまた気を附けて
猫の機嫌をうかゞつた
それからといふものはいろいろの
年とつた猫におなじやうな事を言つた

ふたりはすわつて利巧さうな話をして
まるで老人としより同士ででもあるやうに
さうして昔は何もかも
もつとよかつたものだなんぞと愚痴を言つた

愛も信実まことも信仰も
この世からみな消え去つた
さうして珈琲コオフイは高くなり
金はなかなか儲からないと——

子供の遊びは過ぎ去つた
さうして何もかも過ぎ去つた
金も世界もいゝ時も
信仰も恋も信実も
 

  四十二

わたしの心は圧し附けられて
昔を偲んで嘆息する
昔はこの世も住みよくて
人々は暢気に暮してゐた

それに今では何もかも違つてしまつた
何といふ情ないことだらう!
天なる神様もおなくなりになり
地には悪魔も死んでしまつた

そして何もかも悲しさうに見える
冷たく濁つて混乱してゐる
これで愛といふさへもなかつた日には
それこそ落着くところもないわけだ
 

  四十三

まつくろな雲の間から
月の光りの洩れるやうに
すぎ去つた日の暗い鏡の中に
一つのあかるい姿が浮んで来る

甲板に皆すわつてゐる
舟はラインを下りて行く
岸辺の夏の緑のいろは
入日の光に燃えてゐる

きれいなやさしい女の足もとに
わたしは黙つて跪いてゐる
彼女の蒼ざめたあいらしい顔は
あかい夕日に照らされてゐる

琵琶はかき鳴らされる子供はうたふ
驚くばかりのおもしろさ!
空はますます青くなり
心はひろがつて行くやうだ

山やお城も森も野も
お伽噺のやうに過ぎて行く——
さうしてそれらが皆見える
美しい女の輝く眼のなかに
 

  四十四

夢にわたしはあの人を見た
悲しさうにおどおどしてゐるあの人を
むかしあんなに花のやうだつたのが
すつかり萎れて褪せてゐる

彼女の腕に一人の子供を抱いて
一人の子供の手を引いてゐた
貧乏と苦労の影ははつきり見えてゐた
歩きぶりにも目付にもまた着物にも

彼女は市場をよろめいて行つた
そのとき彼女はわたしに出あつたのだ
そしてわたしを見たときに
わたしは静かにやさしく言つた

『さあわたしのうちへお出なさい
あなたは顔色もわるく病気らしい
わたしは懸命に働いて
あなたを養つて上げませう

わたしはあなたのお子さんたちの
お世話をしても上げませう
だが何よりもあなたのお世話をね
気の毒な不仕合なむかしの人よ

さうしてあなたを慕うてゐたことを
わたしは決して言ひません
さうしてあなたがなくなつたら
わたしはあなたの墓で泣きますよ』

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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