ハイネ詩集 生田春月訳

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ハイネ詩集
生田春月 訳
 
 
 
帰郷
 

  七十

この愛すべき青年は
どんなに尊敬していゝかわからない位だ
彼はライン酒や牡蠣やリキユウル酒やを
いつでもわたしに御馳走してくれた

彼は上着もズボンもよく似合つてゐたが
襟飾は一層似合つてゐた
そして毎朝彼はやつて来て
わたしの機嫌をうかゞつた

わたしのどえらい名声や
わたしの機智ヰツト才能タレントの話をしたり
わたしのためになるようにと
いろいろ彼は骨折つてくれた

さうしてばんになると満座の中で
いかにも感激したやうな顔をして
婦人連に朗読して聞かせた
わたしのすばらしい詩をみんな

おゝ、若しもこのやうな青年が
まだ見つかつたらどんなにか嬉しからう
かうして毎日のやうにだんだんと
いゝものゝ無くなつて行く今の世に
 

  七十一

わたしは自分が神様で
天にすわつてゐる夢を見た
天使たちはわたしのまはりに集つて
みんなわたしの詩を賞めてくれる

買へば大変な金が要るぐらゐ
菓子を食べたり砂糖漬を食べたり
カルディナルをさへ飲む始末
それに借金などは少しもない

ところが今度は退屈でたまらなくて
いつそ地上にゐたならと
こんな神様なんかの身でなくて
悪魔であつたらよかつたと考へた

長髄ながすね天使のガブリエル
早く急いで降りて行つて
わたしの友人のオイゲンを
早くこゝへ連れて来い

教室なんかで探さずに
トオカイ酒を飲んでゐるところを探して来い
ヘドヰツヒ寺院なんかで探さずに
マイエル嬢のところで探して来い』

すると天使は翼をひろげ
さつと下界へ降りて行き
彼をつかまへて連れて来た
あのいたづら者の旧友を

『おいこら、おれは神様だぞ
おれは世界を治めてゐるんだぞ!
今にすばらしいものになつてやると
始終おまへに言つてゐた通りだ

そして毎日竒蹟を行つてゐるが
それを見たらおまへは、有頂天になるだらう!
そこでおれは今日はおまへを楽しますために
伯林ベルリン市街まちに恵みを埀れてやる

街路とほりの敷石といふ敷石は
今にすつかり割れてしまひ
その一かけ毎にうまさうな
生きてゐる牡蠣がついてゐよう

檸檬レモン水は雨か露のやうに
頭の上から降つて来るし
街路まちの溝には極上等の
ライン酒を一杯流させよう』

伯林人はもうすつかり夢中になつて
はやがつがつと食ひはじめる
判事、検事といふ厳しい先生たちは
溝の中から飲みはじめる

詩人連は飛上るほど狂喜する
この神様の御馳走に!
中尉連や旗手連は
街路とほりをすつかり甞めまはる

中尉連や旗手連は
至極賢い連中だから
今日のやうな竒蹟が毎日起るものぢやない
この機会をはづすなと考へてゐるのだ
 

  七十二

七月の暑い盛りに別れて行つて
一月の寒い最中にまた出逢ふ
あの祈りはあんなに暑いと言つてゐたのに
今では涼しく、いや冷たくさへなつてゐる

やがてわたしはまたも別れて行く
今度来た時は温かくもなく冷たくもなくて
おまへ逹の墓の上をわたしは歩くだらう
自分もみじめな老いた心を抱きながら
 

  七十三

美しいくちから引きはなされて
しつかり巻いてゐた美しい腕からはなされて
まだもう一日とゞまつてゐたいと思つても
はやもう馭者は馬を引いてやつて来た

これが浮世だ、かはいゝ子!尽きせぬ嘆き
尽きせぬ別れ、これが永遠のおさらばだ!
おまへの心もわたしの心を止め得ないのだらうか?
おまへの眼さへわたしを引止め得ないのだらうか?
 

  七十四

夜つぴてわたしたちは二人きり
郵便馬車で旅をした
互の胸にもたれてやすんだり
ふざけ散らしたり笑つたり

ところがとうと夜が明けたとき
いとしい人よ、二人はどんなに驚いたか?
二人の間にはすわつてをつた
アモオルが、あの盲目の旅人が
(独逸では無賃の乗客をも盲目の旅人といふ)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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