ハイネ詩集
生田春月 訳
帰郷
七十五
あの狂気じみた女が何処に
誰も知つてゐる人はない
篠つく雨のふる中を罵りながら
息せき切つてかけつけて
突けんどんな給仕たちに
たづねて見ても突き止められぬ
すると向うの窓からあの女が
手招きをしてくすくす笑つてゐるのを見た
あゝ、わたしはおまへがこんな大旅館に
まさか泊つてゐようとは思はなかつた
七十六
くらい夢の中ででもあるやうに
家並は長く連つてゐる
外套の襟に顔をうづめて
わたしは黙つて歩いて行く
高く聳えた
鐘は一二時を告げ知らす
美しい顔とたのしい
あの人は今わたしを待つてゐる
月はわたしの道連れだ
わたしの行手を親切に照らしてくれる
おやもうあの人の家に来た
わたしはいそいそとして月に声かける
『わたしの古い友逹よ、有難う
君はよく道を照らしてくれたねえ
もうわたしは君にお別れする
どうか今度は
さうして若し何処かで恋に悩んでゐる
ひとり寂しく嘆いてゐる人を見たならば
君が昔わたしを慰めてくれたやうに
どうかその人を慰めてやつてくれたまへ!』
七十七
おまへの
おまへの
よしまた晩までに
なに、別に急いだことはない
まだこんなに長い
ねえ、かはいゝ子よ、さうぢやないか!
こんなに長い
たくさん
七十八
おまへがわたしの妻になつたその時は
さだめし人も羨むほどであらう
おまへは何の苦労も知らず
愉快に
たとへおまへがどんなに叱らうと
罵らうとも、わたしはぢつと我慢しよう
だが、若しおまへがわたしの詩を賞めぬなら
わたしは直ぐにおまへを離縁する
七十九
あの人がやさしくわたしを抱いたとき
わたしの心は空へ飛んで行つた!
わたしの心を飛ばせた、そのひまに
あの人の
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年)
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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