ハイネ詩集 生田春月訳

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ハイネ詩集
生田春月 訳
 
 
 
帰郷
 

  九十

去勢者たちは不服を言つた
わたしが歌をはじめたとき
彼等はいろいろ非難した
わたしの歌は下等だと

それから彼等は歌ひ出した
実に小さなやさしい声で
彼等は歌つた、涼しい声で
水晶のやうな顫音トリラア

彼等は歌つた、恋のあこがれを
恋のなやみと満足を
すると御婦人がたはお泣き出しになつた
まあなんて高尚な歌でせうと言つて
 

  九十一

サラマンカのまちの城壁の上に
風はそよそよ吹いてゐる
其処を愛する婦人ドンナの手をとつて
わたしは夏の夕方散歩する

美しい人のほつそりした
身体からだのまはりに手をやつて
仕合せな指ではかつて見る
彼女の立派な胸の高鳴りを

だが心配さうな囁きが
菩提樹の並木を渡つてゆく
下の小暗い水車の小川には
不安な夢が悲しくつぶやいてゐる

『あゝ、奥様センノラ、今にわたしはこゝから追放されて
サラマンカのまちの城壁の上を
二人でこれから散歩が出来ないやうな
何だかそんな気がしてなりません』
 

  九十二

わたしの隣室には美男子の名を取つた
ドン・ヘンリケスが住んでゐる
ふたりの部屋は隣同士
薄い壁一枚へだてられてゐるばかり

サラマンカの女たちはぼつとなる
口髭をひねり、拍車を鳴らし
犬をたくさん引連れて
あの男が街路まちを歩いて行くのを見ると

けれど静かな夜になると
彼は部屋にたつた一人ですわつてゐる
手なれた六弦琴ギタアを抱きかゝへて
心はさみしい夜にみたされて

彼はいとをはげしくかき鳴らし
何だか出鱈目に弾きはじめる——
あゝ!そのきいきい云ふ音が
宿酔ふつかゑひのやうにわたしを苦しめる!
 

  九十三

ふたりが始めて逢つた時、おまへの目付と声とによつて
おまへがわたしを好いてくれてゐるのに気が附いた
意地の悪いお母さんさへ傍にゐなかつたなら
きつとふたりは直ぐにも接吻したであらう

明日はまたわたしはこのまちをたつて行く
これまで通りに旅を続けて行くために!
するとおまへはブロンドの頭を窓から出すであらう
そしたらわたしは心をこめた最後の接吻きすをおまへに投げませう
 

  九十四

日ははや山の上にのぼつてゐる
羊のむれは遠くで鳴いてゐる
恋人よ、わたしの羊よ、光よ、たのしみよ
もう一度わたしはおまへの顔が見たい!

わたしは窺ふやうな面付かほつきで見え上る——
さやうなら、かはいゝ人よ、わたしは旅に上るのだ!
駄目だ!窓掛すらも動かない
彼女はまだ床にゐて—— わたしの夢でも見てゐるのか?

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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