ハイネ詩集 生田春月訳

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ハイネ詩集
生田春月 訳
 
 
 
帰郷
 

  九十五

ハレムのまちの市場には
二頭の大きな獅子が立つてゐる
おい、このハルレの傲慢な獅子よ
おまへたちは本当によく馴らされてゐる!

ハルレのまちの市場には
大きな巨人が立つてゐる
つるぎを手にして身動きもしない
恐怖のために化石して

ハルレのまちの市場には
大きな寺院おてらが立つてゐる
愛国的な大学生諸君が
そこで祈祷いのりをさゝげるのだ
 

  九十六

世帯しよたい上手の美しい婦人
家も屋敷も世話が行届いて
廏も穴倉もきちんと片附いてゐる
畠はすつかり耕されてゐる

庭の隅から隅までも
すつかり掃除が行届き
藁は立派に始末して
寝床に入れる用意が出来てゐる

けれどあなたの胸とあなたの唇は
美しい婦人よ、すつかりほつたらかしてありますね
さうしてあなたの寝室は
半分しきや役に立つてはゐませんね
 

  九十七

夏の夕は落ちて来た
森と緑の牧場の上に
青い空からは黄金の月が
匂はしい光を投げてゐる

河のほとりには蟋蟀こほろぎが鳴き
水はさらさら音立てる
旅人はそのせゝらぎに聞き惚れてゐる
静かななかに一つの呼吸いきの音

その河辺にはただひとり
美しい妖精エルフが水に浸つてゐる
白いかはいゝかひなくび
月の光にてらさせて
 

  九十八

知らぬ道には夜が落ちてゐる
心は傷つき身体からだは疲れてゐる
あゝ、いま静かな天の恵みのやうに
美しい月よ、おまへの光は流れ落ちる

あゝ、美しい月よ!おまへの輝きは
夜の恐れを追つてしまふ
わたしの悩みは消えてしまひ
眼にはいつしか露がおく
 

  九十九

死はほんに冷めたい夜だ
生はあつくるしい昼間だ
もう暗くなる、わたしはねむい
昼はわたしをつからした

わたしの寝床を蔽うた木の
葉かげに若い夜鶯うぐひす
きよいまことの恋をうたふ
わたしは夢の中でもそれを聞く
 

  百

『不思議なはげしい火のために
心をすつかり燃やさせながら
むかし君があんなに美しく歌つてゐた
あの君の恋人はどうしたい?』

《あの火は消えてしまつたよ
僕の心は冷たくなつて悲しんでゐる
さうしてこの小さな書物こそ
僕の恋の灰を盛つた骨壺だ》

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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