ハイネ詩集 生田春月訳

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ハイネ詩集
生田春月 訳
 
 
 
ハルツ旅行から 

  (一八二四年)

山の牧歌

山の上には小舎こやがたつてゐて
年とつた山番が住んでゐた
そこには緑の樅の樹がさらさら鳴つて
黄金いろの月が輝いてゐる

小舎の中には精巧たくみ彫刻ほりものをした
肱掛椅子が一脚置いてある
それに懸けてゐるものは幸福しあはせ
そしてその幸福者しあはせものはこのわたしだ

わたしの膝に腕を突いて
娘は踏台にかけてゐる
瞳は二つの青い星
口は真紅まつかな薔薇の花

さうしてそのかはいらしい青い星は
ほがらかにわたしを眺めてゐる
さうして百合のやうなその指は
紅い薔薇の上にふざけたやうに置かれてゐる

母親はふたりを見てゐない
わき目も振らずに糸を紡いでゐる
父親はまた六絃琴ギタアを弾いて
古い歌曲メロデイを歌つてゐる

娘はそつと囁くやうに
声をひそめてひそひそと
いろんな大切な秘密をば
みんなわたしに打明ける

『けれど叔さんがなくなつてから
わたし逹はもう行けません
あのゴスラルの射的場に
本当におもしろい処ですけれど

こゝは寂しうございます
冷たい山の上なのですもの
冬中まるでわたし逹は
雪に埋められてゐるやうなものですわ

わたしは臆病な娘なの
それで子供のやうにこはいのよ
夜ふけになると山の悪魔まものたちが
いたづらをしに出て来るんですもの。』

不意に娘は黙つてしまひ
自分の言葉におびやかされたやうに
ふたつの小さな手でもつて
その眼をそつとかくしてしまふ

樅の樹のそよぎは一層高く鳴り
糸車はぶんぶん音立てる
その間には六絃琴ギタアの音が
古い曲調メロデイをひゞかせる

『こはいことなんかないよ、かはいゝ児
悪魔まものの力なんぞ何でもない!
昼も夜もおまへを、かはいゝ児
天使が番をしてゐてくれますからね!』

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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