ハイネ詩集 生田春月訳

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ハイネ詩集
生田春月 訳
 
 
 
北海

海辺の夜

夜は冷たく星も見えない
海は大口あけて欠伸してゐる
さうして海の上には腹這ひになつて
無恰好な北風が寝そべつてゐる
さうして上機嫌になつた片意地な恋人のやうに
呻くやうな低い声でひそひそと
彼は水にむかつて饒舌しやべつてゐる
いろんな馬鹿げた話を話してゐる
殺伐極まる可笑しな巨人の伝説や
諾威のの太古おほむかしのサガやを
さうしてその間には高く笑つたり吠えたりして
エッダのまじなひの歌を響かせる
まらルウネンの箴言は
暗い魅するやうな力をもつて導くので
白い海の子供たちは大喜びで
高く飛び上つては歓呼する
すつかり高慢な気持になつて

そのとき平たい岸辺には
潮に濡らされた砂の上を
一人の旅人が歩いてゐる
彼の心は風や波より荒れてゐる
彼の歩みをはこぶ度び
火花が散つて貝がらが鳴る
彼は茶色の外套マントにしつかりくるまつて
夜風を衝いて急いで行く
さびしい漁夫の小舎の火は
さも楽しさうにまたたいて
彼の行手を照らし、彼をさし招く

父と兄とは海に出てゐて
小舎には一人で、たつた一人ぼつちで
漁夫の娘が留守をしてゐる
本当に美しい漁夫の小娘が
娘は炉辺ろばたにすわつて
釜の煮え立つ音を聞いてゐる
何をか告げるやうな楽しいひそやかなその音を
さうしてばちばちいふ小枝を火にくべて
そつと火を吹くその度びに
赤い光りがゆらゆらのぼり
魔法のやうにうつし出す
花のやうな美しいその顔を
粗い灰色の寝衣ねまきから
心を動かすやうにのぞいてゐる
白いやさしいその肩を
そのほつそりとした腰のまはりに
下着をしつかり結んでゐる
小さな用心深い手を

ところが不意にばつたり戸が開いて
見馴れぬ客が入つて来る
彼の眼はおだやかな愛の光を帯びて
驚き怖れてゐる百合のやうに
がたがたしながら彼の前に立つてゐる
白いほつそりとした娘をぢつと眺めやる
さうして彼は外套を地に投げて
さうして笑つて話し出す

『ねえ、娘よ、わしは約束を守つてやつて来た
そしてわしと一緒に天の神々が
人間の娘のところに下りて来て
人間の娘と睦み合つて
人間の娘と一緒になつて
人を治める王者の族や
世界の竒蹟なる英雄などを生んだ
古い時代がやつて来たのだ
だがもうそんなに驚かないでもいゝ
わしが神だといふことを
どうかお願ひだ、わしに茶をわかしてラム酒を入れてくれ
戸外そとはまつたく寒かつたからね
さうしてこんな夜風にあたると
我々もまた凍えてしまふ、我々不死の神々も
容易く不滅の風邪を引いて
不滅の咳にかゝるからね』

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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