ハイネ詩集 生田春月訳

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ハイネ詩集
生田春月 訳
 
 
 
宣言

夕の幕は下りて来て
海はますます荒れ狂ふ
わたしは海岸にすわつて
白い波の舞踏をどりを眺めてゐた
そしてわたしの胸は海のやうに湧き上り
深い郷愁がわたしの心をとらへてしまふ
やさしい姿よ、おまへのための郷愁——
おまへはいたるところでわたしを取りかこみ
いたるところでわたしを呼ぶ
いたるところで、いたるところで
風の音にも、海のとゞろきにも
自分の胸の嘆息にも

細い蘆の茎でわたしは砂に書いた
『アグネス、わたしはおまへを愛する!』と
けれども意地の悪い波が来て
このたのしい心の告白を
ついわけもなく消してしまふ

脆い蘆よ、直ぐくづされてしまふ砂よ
流れ砕けてしまふ波よ、わたしは最早おまへ逹を信じない!
空は暗くなる、わたしの心は荒くなる
わたしは強い手でもつてかの諾威の森林から
一番高い樅の樹を引き抜いて来て
それをエトナな燃え上る
あの真紅まつかな噴火口にひたして
その火を含んだ巨大な筆で
暗いそらのおもてにわたしは書かう
『アグネス、わたしはおまへを愛する!』と

そしたら毎夜、大空に
永遠の焔の文字は燃えるだらう
さうして後から後から生れて来る子孫等は
歓呼しながらこの天の言葉を読むであらう
『アグネス、わたしはおまへを愛する!』と

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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