ハイネ詩集 生田春月訳

.

ハイネ詩集
生田春月 訳
 
 
 
船室の夜

海には真珠がかくれてゐる
空には星が照つてゐる
しかしわたしの胸には、わたしの胸には
わたしの胸には恋がある

海は大きく空はひろい
しかしわたしの胸はなほひろい
そして真珠や星よりも
わたしの恋は更にきれいに光つてゐる

若い小さな娘さん
わたしのひろい胸へお出で
わたしの胸と海と空とはね
恋のためなら死にもする
 

   *   *   *

青く澄んだ空には美しい
星がぴかぴか輝いてゐる
あそこへわたしはこの唇をおしつけたい
さうしてはげしく泣いて見たい

あの星はわたしの愛する人の眼だ
絶えずまたゝきながら輝いて
わたしにやさしく挨拶する
青く澄んだ大空から

あの青く澄んだ大空へ
恋しい人の眼の方へ
わたしは腕をさしのばし
さうしてしきりに乞ひ願ふ

『やさしい眼よ、恵みの光よ
おゝ、わたしの心を幸福にして下さい
わたしを死なせて下さい
さうしておまへと、そのそらとを褒美に下さい!』
 

   *   *   *

天の眼からはふるへながら
黄色な火花が闇を通して落ちて来る
さうしてわたしの心は愛のために
だんだんひろくなつて行く

おゝ、おまへ逹天の眼よ!
おまへ逹がわたしの心で泣き出すと
その輝く星の涙のために
わたしの心は一杯になる
 

   *   *   *

海の波からゆすられながら
夢のやうな思ひにすかされながら
わたしは静かに船室の
暗い隅の寝台に横つてゐる

開かれてゐる艙口から
高いあかるい星を眺めやる
深くも心に愛する人の
いとしい甘い目差まなざし

そのいとしい甘い目差まなざし
わたしの頭上に番してゐる
その眼はしきりに輝いては合図する
青く澄んだ大空から

青く澄んだ大空を
わたしは楽しい気持で長いこと眺めてゐる
真白な霧の面紗おもぎぬ
そのいとしい眼を隠してしまふ迄
 

   *   *   *

わたしの夢みる頭を置いてゐる
舷側ふなばたに、船の板壁に
波は、荒波は砕け散る
波はつぶやき音立てゝ
ひそひそわたしの耳にさゝやく
『おゝこの馬鹿な若者よ
おまへの腕は短かく空は遠い
さうして星は黄金の釘でもつて
あの高見にしつかり打ちつけてある——
無益なあこがれ、無益な吐息
おまへは寝入るが何よりだ』
 

   *   *   *

静かな白雲にすつかり蔽はれてゐる
広い荒野をわたしは夢にみる
さうしてその白雲の下に埋められて
わたしは眠つてゐる、寂しく冷たい死の眠りを

けれども暗の空からは星の眼が
わたしの墓を見下してゐる
甘い眼よ!その眼は勝ち誇つたやうに輝いてゐる
静かに快濶に、しかも愛の思ひに充ち満ちて

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
物語倶楽部作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、物語倶楽部で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。