ハイネ詩集 生田春月訳

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ハイネ詩集
生田春月 訳
 
 
 
破船者

希望のぞみも恋も!みんな破れてしまつた!
さうしてわたし自らは
海が怒つて投げ出した死骸のやうに
わたしは海岸に横つてゐる
荒涼とした海岸に
わたしの前には水の沙漠がある
わたしのうしろには悲みと苦みがある
わたしの上には雲が飛ぶ
形のない灰色の風の娘たちが
霧の桶でもつて
海から水を汲み上げては
さも重さうに引きずつて
また海の中へこぼしてしまふ
何といふ悲しい退屈な無駄な仕事だらう
まるでわたし自身の生涯のやうに

波はつぶやきかもめはさけぶ
苦しく楽しい昔の思出や
忘れた夢や、消え去つた面影が
わたしの胸に浮んで来る

北の国に一人の女がゐる
美しい女王のやうに美しい女が
扁柏いとすぎのやうにすらりとした身体からだには
軽い白い着物をまとうてゐる
ふさふさした黒髪は
まるで楽しい夜のやうに
かるく束ねられた頭からこぼれて落ちて
夢のやうにもつれて乱れてゐる
美しい蒼白い顔のまはりに
そしてその美しい蒼白い顔からは
はげしい大きな眼が輝いてゐる
まるで真黒な太陽のやうに

おゝ、真黒な太陽よ
わたしはどんなに感動して
どんなに屡々おまへの焔を飲んだらう
さうして火の酔ひによろよろよろめいたらう——
それからその引きしまつた誇らはしい唇には
鳩のやうにやさしい微笑がうかび
その引きしまつた誇らはしい唇は
月光のやうに甘く、薔薇の匂ひのやうに
ものやはらかな言葉を吐いた——
するとわたしの心はたかまつて
鷲のやうに空へ飛んだ

波よかもめよ、黙つてしまへ!
すべては過ぎ去ぎたのだ、希望のぞみ幸福しあはせ
希望のぞみも恋も!わたしは地面に横はる
荒れた心の破船者は!
さうしてわたしの熱した顔を押附ける
濡れてしめつた砂の上に

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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