ハイネ詩集 生田春月訳

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ハイネ詩集
生田春月 訳
 
 
 
小唄
 

  十

父の庭園おにはになよなよと
蒼ざめた花が悲しげに咲いてゐた
冬が往つても春が来ても
蒼ざめた花はやつぱり蒼ざめてゐる
その蒼ざめた花は何となく
病身の花嫁のやうに見える

その蒼ざめた花がそつとわたしに囁くには
『ぼつちやん、わたしを摘んで下さいな!』
花にわたしが言ふのには、『いやだよ
わたしはお前を摘みたくない
わたしが一生懸命に
さがしてゐるのは真紅まつかな花だもの』

蒼ざめた花が言ふには『いゝわ
そんならあなたは死ぬまで探しなさい
どうで無駄です、どうしたとても
真紅な花は見附かりますまい
それよりわたしをお摘みなさい
わたしはあなたのやうに病気です』

蒼ざめた花がこんなに囁いてたのむので——
わたしもたうとう摘みました
すると突然わたしの胸はもう血を流さなくなり
わたしの心のまなこは開いて来て
わたしの傷ついた胸のうちに
しづかなきよい楽みがやつて来た
 

  十一

わたしの悩みの美しい揺籃ゆりかご
わたしの安息の美しい墓標はかいし
美しい市街まちよ、いよいよもうお別れだ——
さやうなら!とわたしはおまへに言ふ

さやうなら、わたしの恋人の
足に踏まれた神聖な敷居よ
さやうなら、二人がはじめて逢つた
神聖な場処よ、さやうなら!

二人が一度も逢はずにしまつたなら
美しい心の女王さま!
そしたらわたしもこのやうに
苦しむこともなかつたらうに

おまへの胸にわたしはさはらうとはしなかつた
おまへの愛を決して求めはしなかつた
たゞおまへの息のするところで
黙つて暮さうと思つてゐたばかり

それにおまへはわたしを追ひやつて
むごい言葉を投げ附けた
わたしは狂人のやうになり
心は病んで傷いてゐる

そして身体からだは弱つてゐるけれど
杖にすがつて歩かにやならぬ
遠い他卿の冷たい墓に
疲れた頭をおくまでは
 

  十二

待つてくれ、待つてくれ、船頭さん
わたしも直ぐに港へ往くからね
わたしは二人の処女に別れて行く
欧羅巴と、さうして彼女とに

わたしの目からは血が流れる
わたしの身からも血が流れる
わたしの熱い血をもつて
この苦しみを書くために

それにおまへはなぜ今日はまた
わたしの血を見てふるへてゐるか?
わたしが真蒼まつさをになつて血を流しながら
前に立つてるのを長年見てゐたおまへぢやないか!

不吉な林檎をくれてやつて
われ等の祖先を不幸におとしいれた
あの楽園パラダイスくちなは
古い話をおまへは知つてるか?

林檎はあらゆる不幸を持つて来た!
イヴはそのために死をもたらした
エリンはトロヤの火焔ほのほを齎らした
そしておまへは二つとも、死と火焔ほのほとを齎らした
 

  十三

山と城とは鏡のやうな
ラインの流れにうつつてゐる
わたしの小舟はするすると
きらめく日影のなかをすべる

黄金の波のたはむれを
しづかに眺めてゐるうちに
胸底ふかくかくしてゐる
むかしの感情こゝろがよみがへる

笑顔をつくつてねんごろに
流れはわたしを誘ふけれど
わたしは知つてる—— いくら輝いてゐるからとて
夜陰と死とが底にかくれてゐることを

うはべは楽しさうだが胸に悪意たくみを秘めてゐる
流れよ、おまへは恋人のとほりだよ!
あの人もこんなにねんごろに会釈して
やさしく無邪気に笑つて見せたもの
 

  十四

はじめわたしは苦しくて
とても堪へられないと思つたに
しかもわたしは堪へて来た
だが訊いちやいけない、どうして?と

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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