ハイネ詩集 生田春月訳

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ハイネ詩集
生田春月 訳
 
 
 
船暈

灰色の午後の雲は
海の上に低く埀れてゐる
海は黒く雲にむかつて逆巻いてゐる
そしてその間を船は走つてゐる

船暈ふなゑひに悩みながらやつぱり帆檣にもたれてすわつた儘
わたしは自分の身について考へ事をしてゐる
はじめ非常に幸福であつたのが
のちに大層不幸になつたとき
かのロトの父がしたやうな
太古おほむかしからの灰色なあの考へ事を
時々はまたいろんな昔話を思つて見る
十字架のしるしをつけた昔の巡礼が
海で嵐に遭つたとき信心ぶかく
聖母の尊い御像に接吻きすした話や
またこんな暴風しけのとき船暈ふなゑひに悩んだ騎士が
その貴婦人の愛する手套てぶくろくちにおしつけて
心を慰めたといふ話やを——
けれどもわたしはすわつて腹立しげに噛つてゐる
宿酔ふつかゑひ嘔気はきけに効くといふ
古い青魚にしんを、塩漬のこの名薬を!

その間にもおそろしく
巻きかへる波と船は戦つて
棒立になる軍馬のやうに
つと突立つて舵もめきめきいふかと思ふと
今度はまら真逆様に落ち込んで行く
吠えわめく水の深淵に
それからまた暢気な気持になつて
はげしい力でうちよせて来る
大きな波の真黒な腹の上に
身を横たへようと思ふとき
いきなり荒い大滝が
白い渦を巻いて落ちて来て
わたしは飛沫しぶきのためにびしよ濡れになつてしまふ

こんなに揺れて傾いて震動しては
とても堪へられない!
わたしは無益に目を馳せて独逸の岸を
探すけれど、あゝ!たゞ水ばかり
何処までも水、動く水ばかり!

ちやうど冬の夕に旅人が
温かい茶の一杯を渇望するやうに
今わたしの心はおまへを渇望してゐる
わたしを生んだ独逸の国よ!
たとひおまへの地面が狂沙汰きちがひざた
驃騎兵フザアルや悪詩で蔽はれてゐようとも
また生ぬるい薄弱な規則で蔽はれてゐようとも
たとひおまへの斑馬ぶちうまあざみの代りに
薔薇を飼葉かひばにして肥つてゐようとも
たとひおまへの貴族の猿どもが
閑暇ひまにあかして着飾つて傲然とかまへ込み
ほかの賤しい這ひ廻る畜類けだものどもよりも
ずつと自分がえらいのだと思つてゐようとも
たとひおまへの蝸牛の会合が
自分逹がのろのろ歩いて行くからとて
自分逹を不朽だとめようとも
たとひ乾酪チイズの虫は乾酪チイズの一部か否かについて
毎日議論が戦はされてゐようとも
たとひ羊毛を上等にするために
埃及の羊を改良することや
牧羊者ひつじかひが彼等をほかの羊とおなじやうに
わけへだてなく刈込むことなどについて
長いこと協議が交されてゐようとも
たとへ愚鈍や不正やが
すつかりおまへを蔽うてゐようとも、おゝ独逸よ!
それでもわたしはおまへに渇望する
すくなくとも、おまへはそれでも陸地だからね!

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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