ハイネ詩集 生田春月訳

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ハイネ詩集
生田春月 訳
 
 
 
新しい春
 

  十五

ほつそりとした睡蓮ひつじぐさ
うみの中から夢みるやうに目を上げると
月は空から挨拶する
愛の悩みに燃えながら

するとさも恥しさうに睡蓮は
またも波間に頭を落してしまふ——
そしてその足もとに蒼ざめた
あはれなものゝ倒れてゐるのを見る
 

  十六

おまへがいゝ眼をもつてゐるならば
そしてわたしの歌をのぞいて見るならば
おまへは一人の美しい若い女が
その中を歩き廻つてゐるのを見るだらう

おまへがいゝ耳をもつてゐるならば
おまへはその声を聞くであらう
その嘆息は笑ひは歌声は
おまへのあはれな心を惑はすだらう

その女は眼付と言葉とで
わたしと同じやうにおまへを惑はすだらう
愛にとらはれた春の夢想家よ
おまへは森を迷つて行くであらう
 

  十七

この春の夜に何がおまへを追廻すのか?
おまへは空を狂はせた
菫はぼつくりしてふるへてゐる!
薔薇は恥かしさに赤くなつてゐる
百合は死人のやうに真蒼まつさをになつてゐる
彼等は嘆いて口籠つてぶるぶるふるへてゐる

おゝ愛する月よ、花といふものは
実に無邪気なものではないか!
さうだ、たしかにわたしが悪かつた!
だがわたしが恋しい思ひに夢中になつて
星と話をすてゐたときに
彼等が立聞してゐようなどとどうして予期しよう!
 

  十八

青いすゞしい眼でもつて
おまへはわたしをぢつと見る
すると夢でも見るやうな気になつて
わたしはものも言へなくなつてしまふ
おまへの青い目のことばかり
わたしは何処へ行つても思つてゐる——
青い思ひの大波は
わたしの心にいうちよせる
 

  十九

またも心は打負かされて
深い怨みも消えてしまひ
またもやさしい感情を
五月はるはわたしに吹込んだ

またもわたしは急いで通る
昔馴染の並木道を
さうして一つ一つのボンネットの下に
美しい昔の面影を探して見る

またもわたしは緑の河ばたに
またも橋のたもとに立つて見る——
あゝ、多分彼女はこゝを通るだらう
彼女の眼はわたしを見るだらうと

滝の響のその中に
わたしは聞く、またも微かな溜息を
さうしてわたしのやさしい心はよくさとる
真白な波の言ふことを

またも曲りくねつた道の上で
夢想に耽つてゐるときに
籔の中から小鳥等は
恋に狂つた馬鹿な男を嘲弄する

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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