ハイネ詩集 生田春月訳

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ハイネ詩集
生田春月 訳
 
 
 
新しい春
 

  二十五

はじめて時計を発明したものは
時間や分秒を発明したものは誰だらう?
それは寒さに凍えた悲しい男であつた
彼は冬の夜ひとりすわつて考へ込んで
鼠の不気味な泣き声を数へたり
虫のこつこつ木を噛る音を数へたりしたのであつた

はじめて接吻きすを発明したものは誰だらう?
それは幸福に燃えてゐる唇だつた
それは接吻きすしながら何も考へなかつた
それは美しい月の五月であつた
花は土地から咲き出だし
太陽は笑ひ鳥は鳴いてゐた
 

  二十六

石竹はまあ何といふいゝ匂ひ!
星は黄金の蜂のやうに
心配さうにまたゝいてゐる
菫いろをした大空に!

栗の林の茂みから
白い立派な邸宅やしきが見える
硝子戸はがたがたいつてゐる
さうしてなつかしい声はわたしに囁いてゐる

たのしいふるへ、甘いをのゝき
こはごはながらのやさしい抱擁——
若い薔薇さうびは聞耳立てゝるし
夜鶯うぐひすは高くうたつてゐる
 

  二十七

このすべての幸福しあはせについてこれまでの
これとおなじ夢をわたしは見なかつたらうか?
それはおなじ木立ではなかつたらうか?
おなじ花、接吻きす、愛の目差まなざしではなかつたらうか?

この河のほとりのふたりのかくれ場の
木の葉越しに月はかがやいてゐなかつたらうか?
その入口には大理石に刻んだ神々が
静かに番してゐなかつたらうか?

あゝ!わたしは知つてゐる、このすべての
やさしい夢がどんなに変るかを
どんなに冷たい雪の外套に
心も樹立も包まれてしまふかを

どんなに我々自身が冷たくなり
互に別れて忘れてしまふかを
今こんなにやさしく思ひ合つてゐる我々が
こんなにやさしく互ひの胸にやすんでゐる我々が
 

  二十八

暗闇くらやみの中で盗む接吻きす
暗闇くらやみの中でかへす接吻きす
さうした接吻きすはどんなに楽しからう
まことの愛に心が燃えてゐるならば!

あとさきのことを気にかける
心はそのをり考へる
過ぎた日のことをいろいろと
未来のことをいろいろと

けれど接吻きすをするときに
あんまり考へすぎるのは危険けんのんだ——
いつそそれより泣くがいゝ
泣くのがずつと気やすいからね
 

  二十九

むかし年よりの王様があつた
髪は真白く心は重かつた
この気の毒な年よりの王様は
若い婦人を妃に立てた

むかしきれいなお小姓があつた
髪はブロンド心はかろく
若い妃のもすそを彼は
さも嬉しさうに持つてゐた

おまへはこの昔話を知つてゐるか?
たのしくも悲しくも響くこの歌を!
二人はたうとう死なねばならなかつた
あまりはげしい恋ゆゑに

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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