ハイネ詩集 生田春月訳

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ハイネ詩集
生田春月 訳
 
 
 
新しい春
 

  三十

くの昔に消え去つた幻像まぼろし
わたしの記憶に栄えてゐる——
おまへの声の響の中にあつて
わたしをこんなに動かすものは何であらう?

わたしを愛してゐることを言つてはいけない!
わたしは知つてゐる、この世では
美しいものは、春もまた恋も
つひには身の恥になつてしまふのを

わたしを愛してゐることを言つてはいけない!
たゞ黙つて接吻きすして笑つておいで
わたしが明日萎れた薔薇の
花輪をおまへに見せるとき
 

  三十一

『月の光に酔うて菩提樹の花は
甘い匂ひを注いでゐる
さうして夜鶯うぐひすの歌声は
空と木立を満たしてゐる

愛する人よ、この菩提樹の下に
すわつてゐるのはどんなに愉快だらう
黄金の月の輝きが
木立の葉越しに洩れるとき

この菩提樹の葉を見るがよい!おまへはそれが
心臓の形をしてゐるのに気が附くだらう
だから恋してゐるものは
この樹が一番好きなのだ

だがおまへは遠いあこがれの
夢にひたつてゐるやうに笑つてゐるね——
ねえ、かはいゝ子よ、どんな願望のぞみ
おまへのかはいゝ心に浮んで来たんだね?』

《あゝ、それをあなたに話しませう
ねえ、わたしの話をお聞きなさいな
わたしはね、冷たい北風が
不意に白い雪をもつて来たらいゝと思ひますわ

さうしてふたりが毛皮にくるまつて
きれいに飾つた橇に乗つて
鈴の音を響かせ、鞭を鳴らして
河や野原を滑つて行けたらいゝことね》
 

  三十二

月の照つてゐる森なかを妖精エルフのむれが
馬を駆つてゐるのをこのごろ見たが
彼等のかくは吹き立てられ
彼等の鈴は鳴つてゐた

額に金のつのの生えてゐる
彼等の白い小馬は矢のやうに
白鳥がそらかけるやうに
風を切つて飛んで来た

女王は笑ひながらわたしに会釈して
笑ひながら傍を駆けすぎた
それはわたしに新しい恋を告げたのだらうか?
それともまた死ぬことを知らせたのだらうか?
 

  三十三

朝は茎をおまへに送る
これは森で夜明けにつんだのだ
晩には薔薇を持つて行く
これは庭で夕方折つたのだ

このしをらしいふたつの花は
何をおまへに告げるだらう?
おまへが昼間はまことを尽し
夜には愛しておいでと言ふ
 

  三十四

おまへのよこしたこの手紙
あまりわたしは気にとめぬ
おまへはもはやわたしを愛しないといふ
しかし手紙は長かつた

一二頁が足らぬほど
きれいに書いたふみのあと!
誰れがこんなにこまかに書くものか
もしも厭気いやけがさしたなら

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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