ハイネ詩集 生田春月訳

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ハイネ詩集
生田春月 訳
 
 
 
新しい春
 

  三十五

わたしの口がおまへの美しさをたゝへる
うまい比喩たとへを見附けたために
この恋をわたしが世間の人に
洩らしはせぬかと心配せずともよい

花に蔽はれた森のなかに
静かな人の知らない場処がある
そこにあの熱烈な秘密は埋めてある
あの深く秘められた情熱は

いつか薔薇の花からあやしい火花が
燃え上るらうとも—— 心配するな!
世間はそれが火だとは思はずに
熱烈な詩だと思ふだらう
 

  三十六

昼間とおなじやうに夜もまた
春はわたしのために音楽を奏する
それは青々した反響こだまとなつて
夢の中にまで入つて行く

すると小鳥は童話おとぎばなしの鳥のやうに
一層楽しげな声でうたひ
その声が一層やはらかに響いて行くと
一層心のときめく菫の匂ひが立ちのぼる

薔薇も一層あかく燃え立つて
ちやうど昔の絵にけてゐる
天使の頭のやうな子供らしい
黄金色の円光を帯びてゐる

するとわたしは自分が夜鶯うぐひす
この薔薇にわたしの愛を訴へようと
夢のやうな気持で不思議な歌を
うたつて聞かせてゐるのだと思ひ込む——

朝の日かげの呼び醒ますまで
または窓の外に鳴いてゐる
あの今ひとつの夜鶯うぐひす
たくみな歌声が呼び醒ますまで
 

  三十七

かはいゝ金の足をもつた星は
空をおづおづ歩いて行く
夜のふところに眠つてゐる
地を醒ましてはならないと

森は黙つて聞耳立ててゐる
その一葉々々は緑の耳!
山は夢でもみてゐるやうに
その影の腕をのばしてゐる

だが彼方むかうで呼んだのは何だらう?
その反響こだまはわたしの胸に沁み通る
それはわたしの愛するものゝこゑだつたのか?
それとも夜鶯うぐひすにすぎなかつたか?
 

  三十八

春は真面目だ、その夢は悲しい
花はみな苦しみに心を動かされてゐるし
また夜鶯うぐひすの声の中には
人知れぬ悲しみがこもつてゐる

おゝ、微笑するな、愛する人よ
そんなに晴れ晴れと懇ろに微笑するな!
おゝ、いつそお泣き!そしたらその涙を
わたしはおまへの顔から吸ひ取つてあげるから
 

  三十九

そんなに深く愛してゐる人のその胸から
またもわたしは引きはなされて——
はやも別れて行けねばならぬ
おゝ、どんなにわたしは止まつてゐたいだらう!

車はめぐり橋はがたがたいふ
河はその下に濁つて流れてゐる
わたしはふたゝび幸福から別れて行く
こんなに深く愛してゐる人のその胸から

空には星が飛んでゐる
ちやうどわたしの悩みを避けるやうに——
さやうなら、愛する人よ、わたしは遠い国へ行く
だが何処へ行かうとわたしの胸はおまへの為に燃えてゐる

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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