ハイネ詩集
生田春月 訳
最後の詩集から
その五
十字路に三人の女がすわつてゐる
彼等は歯をむき出しては糸を紡ぎ
嘆息しては考へ込んでゐる
それは実に醜い婆さんたちだ
一番目の女は
糸を巻いては
濡らしてゐる
そしてその埀れ下つた唇は乾いてゐる
二番目の女は
いかにもおどけた風をして
この婆さんの眼は真赤に血走つてゐる
三番目の
鋏を手にもつて
その尖つた鼻の
おゝ、どうか急いで断つてくれ
この悪運の糸を
さうしてわたしを
この恐ろしい生の悩みから!
その六
恋は三月に始まつた
そのときからわたしの心は病み附いた
けれども緑の五月が来たときに
わたしの悲みは終つてしまつた
それは
菩提樹の茂みの奥にある
かくれ場の腰掛の上で
わたしは彼女に恋をうちあけた
花は匂つてゐた、樹立の中では
たつたひと言も耳には入れなかつた
ふたりはもつと大切なことを話してゐたのだもの
ふたりは互に死ぬ迄変らぬ誠を誓つた
時は流れた、
けれどもふたりは長いことすわつたまゝ
闇の中でやつぱり泣いてゐた
その七
わたしの
わたしの考へること、わたしの思ふことを
おまへは考へなければならに、思はなければならない
おまへはわたしの
わたしの
そしておまへのゐる処にはきつとゐる
おまへは寝床の中にゐてさへも
彼の
わたしの
けれどもわたしの
彼はまるで家の霊でゞもあるやうに
おまへの胸に住んでゐるのだ、かはいゝ人よ!
その住み心地のいゝ巣を貸しておやりなさい
おまへはその怪物からとても免れ得ない
たとひおまへが支那日本まで逃げようとも——
おまへはそのあはれな盗賊からのがれ得ない!
おまへが何処へ行かうとも逃げようとも
おまへの胸にわたしの
そしておまへはわたしの考へを考へなければならないのだ——
わたしの
その八
心といふもの有つものは、その心の中に
愛といふもの有つものは、もう半ば
負けてしまつてゐるのだ、そこでかうしてわたしは今
わたしが死ぬるとわたしの
舌は切れてしまふだらう
彼等はわたしがまた冥土から
出て来てしやべるのを恐れてゐるからね
死人は墓穴で黙つて腐つて行く
そしてわたしは決して漏らしはしない
あのやうにわたしに加へられた
いろんな笑ふべき悪業を
その九
わたしが馬鹿なためにおまへの性悪を
忍んでゐると思つちやいけない
またわたしが赦すことに慣れてゐる
神様だと思つちやいけない
おまへの気儘もおまへの意地悪も
わたしは勿論黙つて忍んで来た
わたしの位置に他人を立たせたら
重い十字架よ!それでもわたしは曵きずつて行く!
おまへはわたしがいつも忍んでゐるのを見るだらう——
おい、女よ、わたしはわたしの罪を
償ふためにおまへを愛してゐるのだぞ
さうだ、おまへはわたしの煉獄だ
けれどもおまへの意地悪い腕からは
恵み深く慈悲深い神様でさへ
わたしを救ひ出してくれはしない
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年)
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
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