卍(まんじ) 谷崎潤一郎

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 その八
 
 でも前の事件の時分は結婚して間もないことで、まだ処女時代の純真さ持ってましたから、今よりはうぶで、気イ小そうて、夫に済まんいう心持強いでしたけど、その手紙にもありますように今度はさっぱりそんな気持になりませなんだ。わたしかって、ほんまいうたら夫の知らん間にたんと苦労しましたのんで、だんだんれて、ずるうなってたのんですが、夫にはそれ分らんと、いまだに子供や子供や思てます。わたし最初それが口惜くやしいてなりませんでしたが、口惜しがるとなお馬鹿にしられるので、ようし、むこが子供や思てるのんなら、何処までもそう思わして、油断さしてやれ、と、次第にそんな気イになりました。うわべはいかにもやんちゃ装うて、都合の悪い時はだだこねたり甘えたりして、おなかの中では、ふん、人を子供や思てええ気イになってる、あんたこそお人好しのぼんぼんやないか。あんたみたいな人だますぐらいじッきやわ、と、嘲弄ちょうろうするようになって、しまいにはそれが面白うて何ぞいうとすぐ泣いたり怒鳴どなったりして、自分ながら末恐ろしいなるほど芝居するのんが上手じょうずになってしもて、……先生なんかこんなことよう分っておられますやろけど、ほんまに人間の心理いうもん境遇によってえらいえらい変りようするもんですなあ。前でしたら時にってははっと思て、ああ、こんな事するのんやなかったと、後悔する気イになりましたのんに、今では反抗的に、なんじゃ意気地のない、これぐらいのことこわがってどないすると、自分で自分の臆病おくびょうあざわらうようになるなんて、……それに、夫に内証で外の男愛したら悪いやろけど、女が女恋いするねんよってかめへん。同性の間でなんぼ親しなったかて夫がそれとやかくいう権利あれへんと、いつもそんな理窟つけて自分の心あざむいてました。その実わたしの光子さんを思う程度は、前の人思うたのより十倍も二十倍も、……百倍も二百倍も熱烈やったのんですけど、……
 わたしがそない大胆になったもう一つの理由は、夫は学生時代からそれはもうお話にならんキチン屋のガリガリ屋で、それを父から見込まれましたくらいやのんですから、ほんまに常識一点張りの、ちょっとでも変ったことや普通のこととちごてることは分らん人やのんで、わたしと光子さんとの間柄なんぞも、なかなか感づかんやろう、やっぱりただの仲好しや思てるやろうと、たかくくってましたのんです。初めは夫もそんなことあるやろうとは夢にも想像してませんでしたが、そのうちにだんだん、なんやけったいやなあ思うようになりましたのんですやろ。そらそのはずで、前には学校の帰りがけに事務所い寄って夫誘いましたのんに、近頃ではひとりで先い帰ってしまう。そんで三日に一遍ぐらいはきっと光子さんやって来なさって、二人で長いこと閉じこもってる。モデルに使うねんいうてるけど、何してんのか、何日たっても絵エ出来上らんし、おかしい思うのんあたりまえやのんです。「なあ、光ちゃん、この頃あの人ぼんやり気イつき出して来たよって、用心せんとあかんねん。今日はあてがあんたとこい行くわなあ」いうて、わたしの方から光子さんの家い出かけることもありましたけれど、……はあ、学校でイヤなうわさあったのんは市会議員の中傷やいうこと分りましたのんで、光子さんのお母さんはちょっとも私疑ごうてなされしませなんだ。わたしも信用落したらいかん思て、ンねるたんびにお母さんの機嫌きげん取ってましたのんで、「柿内の奥さん奥さん」いうて、「ええ友達が出来てよろしおますなあ」いうてなさった。それくらいですよって、毎日ほど遊びに行ても電話かけても差支さしつかいあれしませなんだけど、……お母さんの外にその手紙にある梅いうおつき女子衆おなごしゅもいますし、いろいろハタ眼があるもんですよって、わたしの家のような訳には行きません。「あてとこやっぱりあかんなあ。折角お母ちゃんが姉ちゃん信用してはんのに、下手へたなことしてしもたら厄介やさかい」いうて、「そうそう、宝塚の新温泉どうやろ?」と、光子さんがいい出しなさって、二人でむこい行て家族風呂い這入はいりながら、「姉ちゃんずるいわ、あての裸ばっかり見せてくれ見せてくれいうて、自分のんちっとも見せん癖に。」「あてずるいことないねんけど、あんたがあんまり白いよって恥かしいねん。あんた、こんな黒い体見ても愛想尽かさんといてなあ」いうたりしましたが、わたしほんとに、自分のはだ初めて光子さんに見せた時は、一緒に並ぶのんイヤな気イしました。光子さんは色が飛び切り白いだけでのうて、体の釣合いよう取れてて、姿がすらッとしてなさるのんで、それに比べたら、何や急に自分の体無細工ぶさいくに思われて来て、……「姉ちゃんかって綺麗やないかいな、あてとちっとも変れへんもん」いわれますと、しまいにはそれをに受けて何とも思わんようになりましたけど、……初めはわたし身がちぢむように感じました。
 それであのう、その前の日曜に夫と二人で苺狩いちごがりに行たことが光子さんの手紙にありますでしょう。その日は実はまた宝塚い行きたいなあ思てたとこい、「どうや、今日は天気ええよって鳴尾なるおい行てめえへんか」いわれましたのんで、あいさには夫の機嫌取っといてやれ思いまして、イヤやなあ思いながら出かけたのんですけど、魂は光子さんのところ飛んで行てしもて、ちょっとも興乗りませなんだ。恋いしさがつのれば募るほど、なんやかやと話しかける夫がうるそうて、腹立たしいて、ろくさま返事もせんと一日ふさぎ込んでましたよって、その時からもう夫の方は一ぺんらしてやらんならんと考えたらしいのんです。けど例に依ってなんや浮かん顔してるだけで、喜怒哀楽をなかなか面へ表わさん人やもんですから、わたしの方ではまさかそない怒らしたとは気イつけしませなんだ。そして夕方帰って来ると、留守に電話かかったいうのんで口惜くやしいて口惜しいて、夫や家の者たちにぷんぷん当り散らしました。そしたら明くる朝光子さんから恨みの手紙来ましたよって、すぐ電話で打ち合わして、阪急の梅田で落ち合うて、学校い行かんと、そのまま宝塚い行てしもて、それから一週間ほどずうッと一日も欠かさんと宝塚い行てたのんです。そうそう、さっきのあの写真、それはちょうどその頃にそろいの着物出来ましたのんで、二人で記念にったのんですが、……そして、苺狩に行た日から五、六日たってからやったか知らん、或る日二階でいつものように話してると、三時過ぎ頃に女子衆おなごしゅあわてて段梯子だんばしごけ上って来て、「旦那さん帰って来やはりましたでエ!」いいますのんで、「えー、なんでやろこんな時分に!」と、えらいまごついてしもて、「光ちゃん、よしいでわ!」いいながら、二人ともけったいな顔して下い降りて行たことありましてん。夫はその間に洋服をセルの単衣物ひとえものに着かえてしもてまして、わたしたち見た瞬間ちょっとイヤな顔しましたが、すぐ平気になって、「今日は僕なんにも仕事なかったのんで事務所早退はやびきして来てん、お前らも学校なまけててんなあ」いうて、「お茶でも入れて何ぞうまいお菓子ンでも出さんかいな、お客さんもあるし、……」と、それなり三人で無駄話しながら何事ものう済みましたけど、その時うっかり光子さんが私のこと「姉ちゃん」いうてしもたのんではっとしました。「あんた、あてのこと『姉ちゃん』いわんと『園ちゃん』いうてくれた方がええなあ、つい口癖になってしもて誰の前でも出るよって」と、わたししょっちゅういうてましたのんですけど、そういうといつも光子さん気イ悪うして、「イヤや、イヤや、そんな水臭いことあるもんか、姉ちゃんはあてに『姉ちゃん』いわれるのんいやか?」いいなさって、「頼むさかい『姉ちゃん』いわして! あて、人のいる時きっときっと気イつけるよって!」いうてなさったのんですが、とうどそこで出てしもたのんです。そんで光子さんが帰ってしまいなさってから、夫も私も奥歯に物はさまったような工合ぐあいでした。そいからその明くる日の夕方、晩御飯たべたあとで、「僕、どうもこの頃のお前の素振そぶりに落ちんねんけど、何ぞ訳あるのん違うか」いうて、ふと思いついたようにンねますのんで、「腑に落ちんてどういう工合に? うち、自分で一向気イつかんけど」いうてやりますと、「お前、あの光子いうとえらい仲ええようやけど、一体あの児どない思てんねん?」いうのんです。「うち、光子さん大好きやわ、そやよって仲好うしてんねんわ。」「好きは分ってる、どういう意味で好きやねん?」「好きいうことは感情やもん、理由やかいあれへんわ。」――わたし、弱み見せたらいかん思て、故意に挑戦的に出てやりましたのんで、「そうお前みたいにぽんぽんいわんと、もっと落ち着いて分るように話したらええやないか」いうて、「好きにもいろいろの意味があるし、――学校でそんなうわさあったりしたんやさかい――誤解受けたらためにならん思うよってンねてんねん」いいます。「万が一そんなこと世間い聞えてみいな、あの児よりお前が責任あんでエ。お前の方が歳上としうえやし、夫のある身イやし、……そしたらあの児の親たちに対しても申訳立たんやないか。お前だけやない、僕かって黙って見てたいわれたら、後日になってどないにもいいようない。」わたしは夫のいうこと一々胸にこたえましたけど、そんでも強情張って、「もう分ってる、うち、そんな、友達のことまで何や彼や干渉されるのんきらいやわ。あんたはあんたで好きな友達持ったらええし、うちうちで勝手にさしといて欲しいわ。うちかって自分の責任ぐらい知ってまッせ」いうてやりました。「ふん、そら、普通の意味の友達やったら僕は決して干渉せえへん。そやけど、毎日のように学校休んだり、夫の眼エをかすめたり、こそッと人のとここもったりするようなんは、健全な交際とは認められん。」「へえ、あんた、おかしいこというねんなあ。そんなけったいな想像するなんて、あんたこそ下等やないか。」「もしほんとに僕の方が下等やったら、なんぼでもあやまる。僕はなるべく僕の想像あたらんように祈ってる。けど、お前は僕を下等やいう前に自分の良心に訴えてみる必要ないのんか。自分にちょっともやましいとこないいえるのんか。」「なんでまた今日そんな事いい出したん? うちは光子さんの顔好きやさかい、それもとで友達になったいうことは、あんたかって知ってるやないか。あんた自分で、そんな綺麗な人やったら会わしてくれいうたやないか。誰かって綺麗な人好きになるのん当り前やし、女同士の間やったら美術品愛するのんと同じやんのに[#「同じやんのに」はママ]、それ不健全いうたら、あんたの方がもっともっと不健全やわ。」「そやかって、美術品愛するのんやったら何も二人だけで閉じ籠らんと、僕のいる前でもええはずやが、……いつでも僕が帰って来ると、お前ら妙にモジモジしてるのんどういう訳や? それに第一、きょうだいでもないのんに『姉ちゃん』やの『妹』やのいうのんから、気に入らん。」「あほらしい! あんた女学生間のことちょっとも知らんねんなあ。誰でもみんな仲のええもの同士やったら、『姉ちゃん』や『妹』やいうのん珍しいことあれへんわ。そんなこと不思議がんのん、あんたぐらいなもんやわ」その晩は夫もなかなか負けてませなんだ。いつもやったら私が少しだだねたら、「しょうのないッちゃなあ」いうて、ええ加減にあきらめてしまいますのんに、イヤにねちねち追窮して「うそついてもあかん、僕ちゃあんときよに聞いてるねん」いうて、絵エ書くためでないのん分ってる、一体何してるのんか、はっきり説明してみいいいます。「そんなこと説明の限りやない。絵エ画くいうても本職の絵かきがモデル使つこて製作すんのんと違うねんもん、どうせ遊び半分やよって、そないきっちり真面目まじめくさってばっかりもいられへん。」「そんなら二階使わんかって、下の部屋でしたらええやないか。」「使ても悪いことあれへんやんか。――あんた、一ぺん絵かきのアトリエい行て絵エくとこ見て御覧、本職の人かって製作するのんにそないむずかしい顔ばっかりしてせッせとしてるもんあれへんわ。――休み休み気分の動くのん待つようにして画かんと、ええもん出来でけへんよってなあ。」「お前そんなえらそうな口きいて、いつぞ一ぺん絵エ出来上るつもりかいな。」「出来る出来んはうち問題にしてえへん。光子さんいうたら顔ばっかりやのうて、そらもう体じゅうふるい着きたいように綺麗やさかい、観音様のポーズしてもろてそれじいッと眺めてると、絵エ画かんかって何時間でも見飽きせえへん。」「あの児はそないして、何時間でもお前に肌見られてて平気やのんか?」「そらそやわ。女が女に見せるねんもんはずかしいことあれへんし、誰かて自分の肌められて悪い気イせえへんやんかいな。」「なんぼ女同士やかて昼日中ひるひなか若い女が裸になったりして、お前らまるで気違い沙汰ざたやな。」「うちあんたのようにコンヴェンションにとらわれてえへんよってなあ。――あんた、映画女優の裸体見てつくづく綺麗やなあと感じたことあれへんか? うちやったらそんな時ええ景色見るのんと同じようにうっとりとして何ちゅうことなしに幸福な、生きがいある感じして来て、しまいには涙出て来んねん。『美』の感覚のない人に説明したかて分れへんやろけど。」「そんなことが『美』の感覚と何の関係あるもんか、そら変態性慾や。」「あんたこそ頭古いねん。」「馬鹿いいな! お前は年中しょうむない恋愛小説ばっかり読んでるよって、文学中毒起してんねん。」「うるさいなあ、ほんまに」いうて、私が取り合わんと横向いてしまうと、「一体あの光子いう児も真面目なお嬢さんとは受け取られへん。少し常識のあるもんやったら、人の家庭へ闖入ちんにゅうして平和破壊するようなことする訳あれへん。あらきっと性質ええことない児やで。あんなもんと附き合うてたらお前も今に迷惑するでエ。」――自分のことよか好きな人のこといわれた方がどないに口惜しいか知れんもんで、この光子さんの悪口が出ると思わずらずむかッとしました。「何やのん、あんた! あんた何の権利あってうちが大好きやいう人のこととやかくいうのん? 光子さんほど姿と性質のぴちッと合った人、世界じゅう捜したかってまたとあれへん。あんな心の清い人、人間やあれへん、観音様と同じこッちゃ。悪口いうたら勿体もったいのうてばちあたるわ!」「それ見い! そんなこというのんが正気の沙汰やあれへん! 気違いのいい草や。」「あんたこそ人間の化石や。」「お前いつの間にや立派な不良少女になってしもてんなあ。」「どうせうち不良やよってなあ。――そんなこと昔から分ってんのんに何でそんなもんと結婚しなはってん? あんた、うちのお父さんに洋行費出してもらいとうてうちもらいなはったん? きっとそうだッしゃろ!」なんぼ人のええ夫でもこんだけいうたら見る見る額に青筋立てて、「なんやと、もう一ぺんいうてみい!」と、珍しいことに大声で怒鳴りました。「ふん、何べんでもいうたげるわ! あんたは男らしいもない、お金が欲しいてうちと結婚してんやろ! 卑怯ひきょうもん」途端に夫がむくッとすわり直した思たら、なんやシューッと白い物飛んで、カチッと後の壁い当りました。夢中で首ちぢめたのんで私は何ともありませなんだが、灰皿取って投げ付けたのんです。夫が仮にも私に対して手エ挙げるなんぞいうことは今まで一ぺんもなかったのんで、かっと興奮してしもて、「あんたうちがそないにまで憎いのんか! うちの体にカスリ傷でもさしたらお父さんにいうたげるさかい、それ承知やったらたたくなと殺すなと勝手にしなさい! さあ殺して欲し! 殺していうたら!」夫は「馬鹿!」いうたなり、半狂乱に泣きわめいてる私の姿あきれて眺めてるだけでした。
 夫も私もそんなり口ききませんで、明くる日一日にらみ合いつづけて、晩に寝室い這入ります時もやっぱり黙ったままでしたが、夜中ごろに夫がくるりと向き直って、肩い手エかけて、私の体を自分の方へ向け変えようとしますのんで、しられる通りにしながら眠ったふりしてますと、「ゆうべは僕もちょっといい過ぎた。そやけどそれもお前を愛してる結果やいうことはお前も分ってるやろ。僕は態度が無愛想やよって冷淡なように見えるけど、心は冷淡と違うつもりや。僕に悪いとこあったら出来るだけ改めるようにするさかい、お前も僕の意志尊重してんか。僕は決して外の事には干渉せん、ただあの光子いう児とは今後交際せんといてくれ。何卒どうかそれだけ約束してくれ。」「イヤや」と私は、眼エつぶったまま強う首振りました。「それがイヤやったら交際するだけは仕方ないよって、あの児をこの部屋い入れたり、二人だけで何処やかし行かんようにしてくれ。そんでこいからは家出るにも帰るにも僕と一緒にするようにしてくれ。」「イヤや」と私はまた首振りました。「うち、自分のすること束縛されるのイヤやねん、絶対自由にしてほしいわ。」そういうて私は夫の方い背中向けてしまいました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 その九
 
 一旦破裂してしもたからにはもうこわいことあれへん。どないなったかて構うもんかと、反動的に一層光子さんが恋しなって、明くる日早速学校い飛んで行きますと、なんでやその日イ姿えしません。電話かけると今日は京都の親類い行きなさったいわれましたのんで、なおのこと会いとう思うにつけても昨夜の喧嘩けんかのこと胸一杯に込み上げて来て、夢中で手紙書いてしもたんですが、出してしもてから、あんなこと書いて光子さんどない思うかしらん? 姉ちゃんのハズさんに済まんさかいあて遠慮しようなあいい出しなされへんか思て、急にまた気がかりになりました。ところがその明くる日、運動場のプラタナスの蔭に待ってますと、人目も構わんと「姉ちゃん」いいながらけて来なさって、「あて今朝けさあの手紙読んでなあ、姉ちゃんの顔見るまでは心配で心配で、……」と、両手で肩にぶら下るようにしなさって、下からじっと私を見上げて、涙をためてなさるのんです。「ああ、光ちゃん、あんたかって口惜くやしやろなあ、うちの人にあんなこといわれて……」いうてるうちに私も涙をぼろぼろこぼして、「あんた気イわるしてんのん違う? そやったら堪忍なあ、あてあんなこと書かんといたらよかってんけど」いいますと、「あてそんなこと、いうてんのん違う。自分のことやったらどないいわれてもかめへんけど、姉ちゃんはハズさんにそないいわれたらきっとあてがイヤになれへん! なあ姉ちゃん、きっと、きっと、イヤになれへんか?」「あほらしいもない、そんなんやったら昨日もあんな手紙書いたり電話かけたりするかいな。あて、もうこうなったらどんな事あったかてあんたと別れるもんか。ぐずぐずいうたらあんな人ぐらいり出してやるわ。」「姉ちゃん今はそういうてるけど、今にだんだんイヤになって来て、やっぱりハズさんの方愛するのん違うかしらん? 夫婦いうたらみんな何処どこでもそういうもんやいうよって、……」「あてあんな人と夫婦やあれへん。あてはマドモワゼルやもん。光ちゃんさい承知やったら、もしもの時は二人で何処いでも逃げて行くわ。」「まあ、姉ちゃん! それほんまかいな? きっと、きっと、うそ違う?」「うそやないとも! あてもうちゃあんと覚悟してるわ。」「あてかって覚悟してるわ。姉ちゃんあてが死ぬいうたら一緒に死んでくれるなあ?」「死ぬわ、死ぬわ、光ちゃんかって死んでくれるなあ?」――そんな工合で二人の間はその喧嘩けんかがあったためになおのこと深刻になりましたけど、夫はさじ投げたんかそんなり何もいいませなんだのんで、こっちはいよいよ図に乗って大胆になるばかりでした。「もう、うちの人あきらめてしもてるわ、ちょっとも遠慮みたいなんすることあれへん。」――私がそういうもんですよって、光子さんもだんだんずうずうしなりなさって、二階にいる時夫が帰って来ましても「姉ちゃん階下したへ行ったらイヤや」いうて、自分はもちろん私さえ階下いおろそうとしなされしません。どやすると晩の十時十一時頃までも遊んでなさって、「姉ちゃん家い電話かけてほし」いうて、私からおあさんを電話口い呼び出して「今夜は家で晩御飯をたべなさって何時頃に帰りはりますよって」と、その時分にお梅いう女子衆おなごしゅに自動車で迎いに来てもらいます。御飯も二階で二人だけでたべたこともありましたけど、夫がひとり手持無沙汰てもちぶたさ[#ルビの「てもちぶたさ」はママ]にしてますのんで、「どやのん、あんたもお相伴しょうばんしやはれへんか」いいますと、「ふん、してもええ」いうて三人でたべること多いでしたが、もうそんな時に光子さんは平気で「姉ちゃん姉ちゃん」いいます。私と話しとうなると、よる夜中よなかでも電話りんりんかかって来ます。「何んやのん、今時分? あんたまだ起きてんのん?」「姉ちゃんもう寝たん?――」「そやかって二時過ぎやないかいな。――ねむたいわア、あて、――ええ気持ちで寝てたとこを――」「えらい済んまへんなあ、折角仲好うしてはったとこを、――」「あんた、そんなこといいにわざわざ電話かけたん?」「そらハズさんのある人はええやろけど、あてはひとりぼっちやよって、淋しいて淋しいて何時になったかって寝られへんわ。」「しょうむない人やなあ。――だだねんとはよ寝なはれ、あした遊んだげるさかいなあ。」「あて、あしたの朝起きがけに直ぐ姉ちゃんとこい行くさかい、ハズさんが遅うまで寝てはったら、はよ起してさっさと追い出してしもてエな。」「ふん、よッしャ、よッしャ、――」「きっとやなあ?」「ふん、ふん、分ってる、分ってる」いうて、そんなたわいないこと電話口で二、三十分もしゃべってます。手紙なども内証でり取りしてたのんだんだんおおびらになって、光子さんから来ましたのん読みさしのまま机の上などい放り出しときます。――もっとも夫は人の手紙をぬすみ読みするような人間と違いますよって、それは安心してましたけど、そいでも前には読んでしもたら急いで箪笥たんす抽出ひきだしい入れてかぎかけといたんですのんに。
 そないにして、夫の方もいずれまた一と波瀾はらん持ち上ること分ってましたが、さしあたり前より都合ようなったくらいですよって、私はますますのぼせてしもて、情熱の奴隷となってしもたのんですが、その最中に、私に取ってまるきり寝耳に水の事が、――もうもうほんまに、夢にも思いがけなんだ事起ったのんです。それいうのんがちょうど六月の三日のことでした。おひる頃に光子さんが来なさって、夕方五時ぐらいまで遊んで帰りなさったあと、夫と二人で晩御飯たべてしもたのん八時で、それから一時間ほどたって、九時ちょっと過ぎた時分に、女子衆が、「大阪から奥様おくさんに電話かかってます」いうのんで、「大阪の誰やねん?」いいますと、「誰ともいやはれへんけど、大急ぎで電話口までいうてはります」いうのんです。「もしもしどなたさんですか」いいますと、「姉ちゃん、あて――あてや」いうのんが、光子さんより外にそんないいようする人はないのんですけど、それが電話が遠いのんか、小声でいうてるのんか、聴き取れんぐらいかすかやのんで、何や誰ぞにわるさでもしられてるような気イして、「あんた誰ですねん? はっきり名前いうて頂戴ちょうだい、何番い電話かけなさったん?」と念押しますと、「あてやわ、姉ちゃん、あて西宮にしのみやの一二三四番へかけてんねんわ」と家の電話番号をいう声が、聞いてるとやっぱりまぎれものう光子さんで、「……あてなあ、今大阪の南の方にいるねんけど、えらい目にうてしもて、……着物盗まれてしもてん。」「なんやて、着物を?……あんた何してたん?」「あてお風呂い這入はいっててん。……此処ここなあ、南地なんちの料理屋で、内にお風呂あるよって。……」「ふうん、なんでまたそんなとこい行てたん?」「そらいろいろ訳あるねんけど、……こないだから是非ぜひ姉ちゃんに聞いてもらわんならん思ててんけど、……ま、その話あとでゆっくりいうよって、……あて今えらいえらい難儀してるよって、……どうぞ助ける思て、あのさっき着てたそろいの着物なあ、あれ大急ぎで届けて欲しいねん。」「そんならあんた、あれからずうッと大阪い廻ってたんか?」「ふん、そやねん。」「あんたそこに誰といるのん?」「そら姉ちゃんの知らん人やねん……あてどないしてもあの着物なかったら今晩家い帰られへんよって、どうぞどうぞ一生のお願いやさかい、あれ届けてもらわれへんかしらん?」――光子さんは泣き声出してなさるのんですが、私は私であんまり意外やったんで、胸がわくわくして、膝頭ひざがしらまでガタガタふるえが来ました。何処どこまで届けたらええのんかいいますと、南の太左衛門橋筋たざえもんばしすじの、笠屋町かさやまち井筒いづついう家やいいますねんけど、そんな料理屋聞いたことありません。そして着物の外に帯も、帯留も、帯上げも、幸いみんな揃いのものがあったんで、それ持って来てくれいうのんは分るのですが、けったいなんは腰帯やぼてや、伊達巻だてまきや、足袋たびまでも盗まれたいうのんで、「そんなら半襟はんえりは?」いいましたら、「襦袢じゅばんは助かってん」いうのんです。誰ぞたしかな人に持たして、今から一時間以内、おそても十時までにいいますけど、うかッとした者頼む訳に行きませんし、どないしても私が自分で自動車飛ばすより仕様があれしません。「あてが行ってもかめへんか」いいますと、誰ぞさっきからもう一人電話口に附き添うてるあんばいで、それがときどき光子さんに「こないせエ、あないせエ」と指図さしずしてるらしいて、「いっそこないなってしもたら姉ちゃんが来てくれたかってええし、……そうと違うかったら、お梅が今頃梅田の駅で待ってるはずやよって、あれに渡してくれたかってええけど、お梅は所知らんよって頼むのんやったらよう場所をせてほし。そんでこっちの名は鈴木いうてンねて来てほし。」――そこでまた何ぞこそこそ相談するらしいて、しばらくたってから、「あのなあ、姉ちゃん、……」と、えらいいいにくそうにして、「……あのう、えらい済まんけどなあ、も一人着物ないようにして困ってる人あるねんけど、もしどないぞなるねんやったら、あんたのハズさんの着物、洋服でも日本服でもかめへんよってなあ、……」いうて、「それからあのう、えらいえらい勝手ばっかりいうて申訳ないねんけど、……おあし二十円か三十円持って来てくれたらなおのこと有難いねんけどなあ」いうのんです。「おあしの方はどないぞなるけど、まあとにかく待ってなはれ」いうて電話切ってしもてから、直ぐに自動車いいつけて、夫には「うちちょっと大阪まで行て来ま。光子さんが急用やいやはるさかい」とたったそれだけいうて、二階い上って大急ぎで箪笥たんすの中からそろいの着物や何やかんやと、夫が余所行よそゆきの時着る絹セルの単衣ひとえと羽織としぼりの三尺とを出して、風呂敷に包んで、それ女子衆に持たして先いそッと玄関まで出さしましたが、「なんやいな今時分からそんな包持って?」と、さすがに夫は気になったらしゅう、自動車い乗ろとする時に奥から出て来ていうのんでした。多分私の様子があわててもいましたし、顔色も変ってたですやろし、不断着のまま髪も直さんと出て行ことするのんが、よっぽどけったいやったのんに違いないのんで、「なんやうちにもさっぱり様子分れへんねんけど、今夜急にこの揃いの着物なあ、――」と、私は知って風呂敷の結び目から着物のはし出して見せて、「――これどないしても着んならんことが出来たんで、大阪の店まで届けてほしいうてやんねえ。何ぞ素人しろと芝居でも始まったんかも分れへんけど、うち自動車待たしといて直ぐ帰って来るわ」いうて、もう時刻もおそなってしもてまして、九時二十五分ごろでしたよって、最初は真っ直ぐ南の井筒いう家い行こ思て出たのんですが、それよりもまあ梅田いてお梅どんつかまいて見よ、お梅どんに聞いたら何ぞこの訳分るかも知れへん思て、梅田の駅い行て見ますと、まん中の入り口のところに立って待ちどしそうにキョロキョロしてますよって、車の中から手招きして、「お梅どん」いうと、「やッ、奥様だしたんかいな」とびっくりして照れくさそうにウロウロしてますのんを、「あんた光ちゃん待ってんねんやろ。今えらい事件起って、光ちゃんから大急ぎで迎いに来てくれいう電話あってん、あんたもはよ乗んなさい」いうて、「えー、ほんまだっかいな」と何やに落ちんらしゅうぐずぐずしてるのんを無理に乗せて走らしながら、車の中で手短かにさっきの電話の話して「なあ、いったい誰やのん、その一緒に行てる男いうのんは? お梅どん知れへんのかいな?」――初めのうちは困ったような顔して、言葉に詰まってましたけど、「あんた知らんいうはずないやろ? こんなこと今日だけと違うやろ? うちどんなことあってもあんたに迷惑かかるようなことせえへんよって、いうてくれたらお礼は何ぼでもするよって、――」と、眼の前い十円札出して、紙に包んで、「いえ、いえ、いつもいつももろてばっかりしてまんのんに」と辞退するのんを、「そんなこというてる間に時間立ってしまうやんかいな」と帯の間い押し込んでやりますと、「わたし、奥様と一緒にそんなとこい迎いに行てもよろしおまんねんやろか。あとでとうちゃんにしかられしまへんやろか」いうのんです。「何でやのん? うちが行けへんかったらお梅どんに来てくれいうてやねんぐらいやもん。」「ほんまにそんな電話かかりましたんだっしゃろか? わたし何やこう心配で、……」それいうのんが、何ぞ私の計略に乗せられへんか思てるらしいのんで、「そんなことあるもんかいな、電話かからなんだらうち知ってるはずないやんか。」「そらそうでおますけど、わたし今までにちょっとも奥様気イついてやおまへなんだのんが、なんでだっしゃろ思て、空恐ろしいて仕方おまへんでしたのんで、……」「ふうん、そしたらいつからこんな事あったん?」「いつからいいまして、もうはよから……四月頃からでおましたやろか、それは私にもはっきり分れしめエなんだが、……」「誰やのん、相手の人は?」「それもよう分れしめへんねん。いッつもおあしくれはりまして、これで活動でも見て、何時頃梅田い来て待っててやいやはりますよって、何処い行きはりまんのんやさっぱり分らんと、こらきっと何処ぞで奥様と会うてはりまんねんやろ思てましてん。家いおそう帰りましても今日は今まで柿内さんとこで遊んでたようにいえいやはりまんのんで。……」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 その十
 
「そんなこと今までに何べんくらいあった?」「何べんいいましても、とても勘定しきれしめエん。今日はお茶のお稽古けいこや、今日は柿内さんとこやいやはりまして出かけはりまんのんで、そのつもりでお供して行きますと、あのなあ、あてちょっと用事あんねんいやはりまして、えらいそわそわしやはりまして、ひとりで何処ぞい行てしまやはりますねん。」「それほんまに違いないなあ?」「何で私が※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそいいまッしゃろ。――奥様ちょっとも気イおつきやあれしめエなんだんでっか? 何ぞ今までにけったいやなあお思いになりやしたことあれしめエんでしたか?」「そらもううち阿呆あほやよって、そない散々さんざん利用しられて、道具に使われて、踏みつけにしられながら、今の今まで此処ここから先も気イついたことあれへなんだ。それにしてもまあ何んちゅうことやろ。――」「ほんまに、わたいとこのとうちゃん恐ろしい人だすよってなあ。……私いつかて奥様の顔見るたんびにえらい済まんような気イして、お気の毒でお気の毒で、――」と、心から同情したようにいうてくれますのんで、そんなお梅どんみたいなもん相手にしたかってしょうむないのんですけど、あんまり口惜くやしいておなかの中引っくりがえるようになってましたよって、何でもんでも思うたことをいう気イになって、「なあ、お梅どん、あんたかって察してくれるやろ。うちそんなこと夢にも知らんと、こないだからうちの人と喧嘩してまで光ちゃんのために尽してるねん。うちかってこないにまでのぼってえへなんだら、なんぼ脳味噌のうみそ足らんいうたかって気イついてたに違いないわ。まあそれもええけど、今夜みたいな電話かけて来るなんて、いったい何ちゅう気イやろ? 人馬鹿にするのんもほどがあるし。」「ほんまに何ちゅう気イでいやはりまんねんやろなあ? よっぽど困りはりましたん違いまッしゃろか?」「なんぼ困ったいうたかって、好きな男と料理屋い行てるやのお風呂い這入はいったやのと、そんなこといえた義理かいな、あんたまあ考えてみて欲し!」「それもそうでおまッけど、着物盗まれてしまいはったんでは、裸で帰りはることも出来しめへんしなあ。……」「うちやったら裸で帰る。あんな恥知らずな電話かけるぐらいやったら、裸で帰る。」「こんな時に泥坊どろぼううなんぞ、悪いこと出来まへんもんだんなあ。」「やっぱりッちゃ。それもお金だけとちごて、二人とも素ッ裸にしられてしもて、腰帯から足袋までもないようになるなんぞ、……」「そうでおま、そうでおま、罰でおまッせ。」「ああ、ああ、こんな事に使つかお思て揃いの着物こしらえたん違うのんに、……うち何処まで馬鹿にしられてるねんやろか。」「とうちゃんはまた、今日あの着物着て行きはったいうのんはほんまに運がつよおまんなあ。奥様迎いに行ったげへん、どうなと勝手にせえおいやして構わんとお置きやしたら、どないなりましたやろか?」「うちかってよっぽどそないしたげよ思てんけど、最初はさっぱり何のこッちゃ様子分れへんし、電話口で泣き声出してはあはあいうてやよって、ただもうびッくりしてしもてん。それになんぼ憎たらし思てもやっぱり心から憎む気イになれへんさかい、裸でふるてやる姿眼エの前にチラついて、可哀かわいそうで可哀そうでいても立ってもいられへんようになって、……そらお梅どん、ハタから見たら阿呆あほらしやろけど、そんなもんやし。」「そらなあ、そうでおまッしゃろとも。……」「それにどうやろ、自分のもんばっかりか男のもんまで持って来いいうたり、電話口でこそこそ相談し合うたり、まるで人に見せつけるような真似まねシして、どんな顔してそんなこといえるのんやろか。人の前では『姉ちゃん姉ちゃん』いうて、『あて姉ちゃんより外に自分の肌見せたことない』いうてたくせに、二人裸にされてる恰好かっこ見てやりたいわ。」もうその時は無我夢中でいろんなことをしゃべってましたよって、何処を走ってたのんか分れしませなんだが、堺筋から清水町辺を西い曲ったらしいて、向うに心斎橋筋の大丸だいまるがちらちらしてたのん覚えてますけど、そこを大丸の前まで行かんと、太左衛門橋筋南い曲った思うとこで、「ここ笠屋町ですが何処い着けます」と運転手がいいますよって、「何処ぞこの辺に井筒いう料理屋あれへんかしらん?」いうて捜しましたけど分れしません。その辺の人にきいてみますと、「そら料理屋違いまッしゃろ、宿屋でっせ」いうのんで、「何処です」いいますと、「じっきこの先のろうじの奥だ。」――それがあのう、宗右衛門町そううえもんちょう[#ルビの「そううえもんちょう」はママ]や心斎橋筋のつい裏通りですのんに、わりに人通りのない暗い横丁なんでして、芸者のやかたやの、小料理屋やの、宿屋やのが多いのんですが、そういう家がみんなしもたやのようにひっそりとした間口の狭い地味な構えなんです。そんでせられたろうじの入り口い行てみますと、「御旅館井筒」とちいそうに書いた軒燈けんとうが出てますのんで、「お梅どん、あんた此処ここで待ってでわ」いうて私だけ這入はいって行て、旅館いうても何や曖昧あいまいなややこしい家らしいのんがろうじの突きあたりにあるのんで、格子こうしあけてしばらもじもじしてましたけど、台所の方で誰や一所懸命に電話かけてるらしいて、なんぼ呼んでも出てえしません。「今晩は」「今晩は」と大きな声でいうてるうちにやっとのことで仲居なかいさんが出て来まして、顔見るなりこっちがなんにもいわん先にちゃんと心得てる様子で、「どうぞお上り」いうて狭い段梯子だんばしごを二階い連れて行きまして、「迎いのお方はんがお越しになりました」いいながら座敷のふすまけるのんです。這入ってみますと三畳ぐらいな次の間やのんで、二十七、八の色の白い男の人がたった一人かしこまってすわってまして、「失礼ですが、光子さんの友達の奥さんですか」いいますよって、「そうです」いいますと、急にしゃちこ張ってぺたッと畳い頭こすりつけて、「今夜の事は何と申し上げたらよいか、おびのしようもないのんです。いずれこの事につきましては光子さんから申訳せんなりませんのんですが、何とも合わす顔ないいうておられますし、それに着物ありませんのんで、まことに申しかねますけどもとにかく着換え貸してもろて、その上でお目にかかりますよっていうのんです。その男いうのんが、いかにも光子さんの好きそうな輪郭の整うた女のような綺麗な人で、眉毛まゆげのうすいのんと眼の細いのんがこすそうな感じ与えますけど、私かって見た瞬間に「美男子やなあ」思たぐらいな顔だちで、この人も着物ないはずやのんに縞銘仙しまめいせん単衣ひとえを着てキチンとしてましたのんは、あとで聞きましたのんですが宿の男衆おとこしゅの着物を一時いっとき借ってましたんやそうです。「着換えは此処い持って来ました」いうて風呂敷包渡しますと、「大きに済みませんことです」と押しいただくようにして受け取って、部屋のすみの方の境のふすまあけて奥の座敷い包押し込むと、急いでまたそこ締めてしもたのんで、ちらッと枕屏風まくらびょうぶが見えただけでしたけど。……
 その晩のことそんなふうに一々くわしいにいいましたらえらい長うになりますのんですが、私はその場合届けるもんは届けてしもたし、それに男がいるのんやったら会うてもしょうがない思て、お金三十円紙に包んで、「先イ帰りますよってこれ光子さんに上げて下さい」いうたのんですが、「まあ何卒どうぞそないおいいにならんで待ってて下さい、今に出て来られますから」いうて、無理にその男が引き留めるのんです。そうして改まって私の前いすわり直しながら、「実はこの事は、ほんまは光子さんから申さんならんのんですが、僕は僕の立ち場として説明せんならん思いますのんで、一往いちおう聞いて下さいませんか」いうて、――つまり光子さんは自分でやといいにくいもんですよって、着物着換えてる間にその男が代って話するように、段取りがきまってたらしいのんです。そんでその男、――ああ、そうそう、男はその時「財布を取られてしもたのんで名刺ありませんけれど、僕は船場せんばの徳光さんの店の近所におります綿貫栄次郎わたぬきえいじろういうもんです」いいました。――その綿貫いう男の話聞いてみましたら、その人と光子さんとは、まだ光子さんが船場の方に住んでなさる時分、去年の暮頃から愛し合うようになって結婚の約束までしたいうのんです。ところが今年の春になってMの方との縁談が持ち上って来て、とても二人は結婚出来そうにもないようになったのんですが、それが同性愛のうわさのためにええあんばいに破談になった。――まあそういう意味のこというて、しかし決して自分たちは奥様を利用したんと違う、初めは利用したような形になったけど、光子さんはだんだん奥様の情熱に動かされて、自分を愛するよりももっと熱列に奥様愛するようになったよって、自分の方がどれぐらい嫉妬しっと感じたか分れへん、利用しられたとしたら自分の方がしられてるぐらいやいうのんです。そんで自分はお目にかかるのんは始めてですが、奥様のことはしょっちゅう光子さんから聞いてた。同じ恋愛でも同性の愛と異性の愛とはまるきり性質違うよって、奥様との仲は許してもらわんと、自分との仲も続けて行く訳にいかんように光子さんいいますのんで、自分も近頃は諒解りょうかいしてた。「あての姉ちゃんかって夫あるねんもん、あてもあんたと結婚することはするけど、夫婦の愛は夫婦の愛、同性の愛は同性の愛やよって、姉ちゃんのことは一生よう思い切らんさかいそのつもりでいてて頂戴。それがイヤやったら結婚せえへん」と、いつでも光子さんはそないいうてるいいまして、「そら光子さんの奥様に対する気持いうたら、全く真剣でしてなあ」いうたりして、大馬鹿にしてる思いましてんけど、その男のいいよういうたら実際上手で、五分のすきもないようなんです。そんで男は自分と光子さんとの関係をいつまでも私に隠しとくのんはええことない思て、自分も諒解してるねんよって私にも諒解してもらうよう光子さんに話してたのんですが、光子さんかって勿論もちろんその方がええこと分ってながら、今更私の顔見ると切り出しにくうなって「折があったら折があったら」思てるうちに、とうとう今夜のようなこと出来てしもた。そうしてさっきの電話では盗難にうたようにいうたけど、実はただの盗難ではない。着物を取ったんは泥坊と違うて博奕打ばくちうちやいうのんです、それがだんだん聞いてみますと、ほんまに悪いことは出来でけへんもんで、その晩その宿屋の別の座敷で博奕してるもんあって不意に手エが廻ったんやそうですが、刑事がどやどや踏み込んで来たのんで、二人はびっくりして夢中で部屋び出して、光子さんは長襦袢ながじゅばんのまま、男は寝間着ねまきのまま、屋根から隣りの家い逃げて物干ものほしの床の下いもぐり込んでた。博奕打ってた連中も我先われさきにバラバラ逃げ出して、大抵上手に逃げてしもたところが、その中に逃げおくれた夫婦者あって、廊下をうろうろしてるうちに光子さんの部屋が開いてたのんで、そこい逃げ込んでみたら、ちょうど二人が抜け出たあとやった。それでこれはしめた思て、今度はその夫婦もんが密会者みたいに装うてた。というのんは、同じ刑事でも博奕打検挙するのんと密会者検挙するのんとは係りがちごてるんやそうで、その人たちはそれを心得てたらしいのんです。けど刑事かってそれぐらいなこと分ってますよって、その夫婦もん怪しいとにらんで勾引こういんしたんやそうですが、その時枕もとの乱れかごに入れてあった光子さんと綿貫わたぬきの着物着て、そのまま警察い連れて行かれた。なんでかいうと、夫婦は宿屋の浴衣ゆかたを借って博奕打ってたところいそういう騒ぎになったのんで、自分らの着物は向うの部屋にありますねんけど、何処までも密会者で通そうとするのんで、枕もとにあるのん着て行かんならんかった。そんで光子さんたちはやっとのことでのがれたもんの、戻って来たら、着物がない、財布や手提てさげぐらいそうッと置いといてくれたらええのんにそれもない、宿屋の主人まで挙げられてしもてて誰に相談しようもないし、帰るにも帰られへんし、それにもう一つ心配なんは、光子さんの手提てさげの中には阪急の定期券が這入はいってましたし、男の方も名刺入れてあったんで、警察から家の方い電話かかったらえらいこッちやいうのんで、どうにもこうにも思案に暮れて私呼び出しましたんです。で、どうせ此処ここまで来てくれはる親切あるねんやったら、奥様かって光子さんのため思てくれはるねんやろよって、御迷惑でもこれから蘆屋あしやまで光子さん送って行ったげて、今夜一緒に映画でも見てたようにいうて、万一警察から電話がかかっても、そこを何ぞうまいこというといてくれなされへんかいうのんです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 その十一
 
「なあ奥様、今夜のことさぞかしお腹立ちですやろけど、どうぞどうぞお願いします。」そういうて男はまたぺたッと畳い頭こすりつけて、「僕の一身はどないなっても構いません、どうぞ光子さんを無事に送ったげて下さい。御恩は一生忘れません」いうてしまいには手エ合わして拝むんです。わたしいうたらそらもうほんまにお人好しですよって、そないしられてしもたら何ぼあんまりや思ても「イヤや」いう訳に行けしません。そいでも口惜くやしさが一杯でしたよって、しばらくのあいだ男がペコペコお辞儀するのんじいッと黙ってにらみつめてましたけど、とうど根負こんまけしてしもて、たッた一と言「よろしいです」いうてしまいました。すると男は「ああ」とさもさも感激のこもったような芝居じみた声出して、もう一ぺん頭こすりつけて、「ああ、承知して下さいますか、ほんまに有がとございます、これで僕も安心です」いうて、それから人の顔色うかがうように、「そしたら唯今ここい光子さん呼びますけど、それについても一つお願いして置きたいのんは、今夜のとこはいろいろのことでえらい興奮してはりますのんで、どうぞなんにもいわんといて欲しいんですが、どうですか、それちこてくれはりますか?」いうのんです。仕方ないのでそれもよろしいですいいますと、直ぐに「光子さん」と呼んで、「もう分ってくれはりましたよって出て来なさい」とふすま越しに声かけました。その襖の向うでは最前さいぜんこそこそ着物着換えてるらしい物音がしてましたのに、もうその時分にはしーんと静まり返ってしもてて、こっちの話に一所懸命耳を澄ましてるようでしたが、声かかってから二、三分もたった頃にやっと襖がごそッいうて、そこが少しずつ、一寸二寸ぐらいずつ開いて、眼エのまわいけに泣きらした光子さんが出て来ました。
 その時どんな顔してなさるか見てやりたい思たんですが、ちらッと視線つかるとあわてて俯向うつむいて、男の蔭に寄り添うように音もささんとすわってしまいなさったんで、脹れ上った眼瞼まぶたと、長い睫毛まつげと、高く通った鼻筋と、みしめてなさる下唇したくちびるとが見えるだけで、両手をこういう風にこう、――八つ口のところい突っ込んで、体をねじらして、前のはだけたのも直さんと身イ投げ出したようにしてなさるんです。そんで私は光子さんのそうしてなさる姿眺めてるうちに、ああこの着物が揃いの着物やってんなあ思うにつけても、それをこしらえた時分のことや、その着物着て一緒に写真ったりした事が考え出されて、またジリジリ腹立って来て、ええ、こんなもん、拵えんといたらよかった、いっそ飛び着いてずたずたに引き裂いてやろか知らんと、――ほんまに男がいエへんかったら、それぐらいなことしたかも分れしませんねん。男はその様子感づいたらしいて、二人がなんにもいわん先に「さあさあ」と追い立てるようにして、自分も着物着換えるやら、私からお金を受け取って宿屋の方では「いりまへん」いうのん無理に勘定かんじょう済ますやら、「あ、そういうと奥様、まことに恐れ入りますけど、今のうちに奥様のお宅と光子さんのお宅とい電話かけといて下さいますと、なお都合よろしいですがなあ」いうたりして、ちょっともすき与えんようにするのんでした。私は私で家の方が心配でしたよって、「うちッきに光子さん送ったげて帰るけどなあ、光子さんとこから別に何ともいうて来やはれへんかったか?」と女子衆おなごしゅ呼び出して聞いて見ますと、「はあ、さっき電話がおましたんで、どない申し上げてええのんか分れしまへなんだよって、何時頃とも申し上げんと、ただお二人さんで大阪い行っておいでですいうときました」いうんです。「そんで旦那はんもう寝やはったか?」「いいえ、まだ起きてはりまッせ。」「今すぐ帰りますさかいいうといてんか」いうて、光子さんの家の方へは「今夜松竹い行きましたんですけど、あんまりおなか減ってしもたんで、出てからちょっと鶴屋食堂い行きましてん。えらいおそなりましたよってこれから光子さん送って行きます」いいますと、お母様かあさんが出て来なさって「まあ、そうでおまッか、あんまり帰りがおそいのでたった今お宅様い電話したとこでしてんわ」いいなさる様子が、警察からなんにもいうて来てエへんこと確かでした。そんでそんならええ塩梅あんばいや、一刻もはよ自動車で帰ろいうことになったんですが、男は三十円のうち半分ばっかり残ったんをみんなそこの男衆や女子衆にやってしもて、どんな事あっても決して迷惑のかからんようにして欲しい、その筋からこれこれいう取り調べがあったらこれこれいうようにいえいうたりして、そないな時にもそらもうびっくりするほど細かい所い気イ廻るのんです。それからようよう、――私はそこい着きましたんが十時ちょっと過ぎた時分で、一時間ばっかりぐずぐずしてしまいましたよって、出たんは十一時過ぎでしたやろう。その時やっとお梅どん待たしたあッたん思い出して、「お梅どんお梅どん」いうて、ろうじを往ったり来たりしてるのんを車い乗せたのはよろしいが、「僕も其処そこまで送りましょう」いいながら、男も平気でその車い乗り込んで附いて来るのんです。光子さんと私とが奥の方い並んで、お梅どんと綿貫とがスペアシートい腰かけて、四人がむうッと向い合うたなり一と言も口をきかんと、車はどんどん走って行きました。武庫むこの大橋いかかったときに男が始めて、「どないします? やっぱり電車で帰ったようにせんと工合ぐあいわるい思いますが、……」と、ふっと考えついたようにいい出して、「なあ、光子さん、何処で自動車返したらええか知らん?」いうのんでした。それが光子さんの家いうのんは蘆屋川の停留所から川の西をもっと山の方い行って、あそこに汐見桜しおみざくらいう名高い桜あるついその近所なんでして、電車筋からほんの五、六丁ですねんけど、途中に淋しい松原などあるのんで、ようぎやの強姦ごうかんやのがあったりしてえらい物騒ですよって、いッつも晩おそう帰るときにはお梅どんが附いてるときでも停留所の前からくるまに乗って行きますさかい、あそこまで自動車着けたらええいうたり、いや、そらいかん、俥屋が顔知ってるよって何処ぞもっと手前の方で降りた方がええいうたり、そんなことからお梅どんもぼつぼつものいい出しましたけど、それでも光子さんだけはやっぱり一と言もいいなさらんと、ときどきさし向いに腰かけてる綿貫の方をジーッと見つめては、何やひそひそ眼エで物言うて溜息ためいきしてなさるようなんです。すると男が「ふん、そんなら国道の業平橋なりひらばしのとこで降りたらよろしいがな」と、同じように光子さんの顔見返しながらそういい出したいうのんは、私にはよう分ってるのんですが、あの橋のところから阪急の線まで出る路がまたえらい淋しいて、片ッぽ側が大きな松のたあんとえてる土手ですよって、あんなとこ女三人で歩けるはずあれしません。そんで綿貫はちょっとでも長いこと光子さんと一緒にいてたいのんで、自動車降りてからあの路を送って来たいのです。それにしても「船場の徳光さんの近所におります」いうてたのんにそんな橋の名アやあの辺の路知ってるいうのんは、もう今までに何遍も二人で此処らへん散歩したことがあるからなんです。私よっぽど「誰に見られても男の人が附いて来るのんが一番わるい、三人だけやったらどないでも言訳いいわけ立つよって、あんたええ加減に帰んなさい。私に預けるいうときながら、あんた帰ってくれはれへんねんやったら私帰ります」いうてやろか知らん思たんですが、お梅どんの方は「それがよろしおまんなあ」「そうしまよなあ」と何でも彼でも綿貫のいうことに調子合わして、「そんならお気の毒ですけど、阪急のとこまで送っていただけまッしゃろか」と、知って男の思うつぼまって行くのんです。考えてみるとお梅どんかってやっぱり光子さんや綿貫とぐるになってたん違いないのんで、やがて橋のとこで車降りて土手の下の真っ暗な路いかかりましたら、「なあ奥様、こんな闇夜やみよに男の人いててくれはれしまへなんだら、こおうて歩かれしまへんなあ」と、用もないのんに私つかまえて、こないだこの路で何処其処どこそことうちゃんがこんな目エにいはったいうような話休みなしにしかけて、なるだけあとの二人より離れて歩くようにするのんです。二人は五、六間うしろの方からまだ何や知らん相談しながら来るらしいて、「ふん」とか「はあ」とかいう光子さんの声がかすかに聞えてるのんでした。
 停留所の前で男が帰ってしまいますと、また三人は黙り込んで、あそこからくるまで光子さんの家まで行きました。「まあ、まあ、ほんまに、何でこないにおそおましてん」いいながらお母様が出て来なさって、「いつもいつもお邪魔に上りまして御厄介になりますばっかりで」と、えらい私に気の毒がっていろいろお礼いいなさるのんですが、こっちは私も光子さんもけったいな顔してますのんで、長いことしゃべってたらぼろ出る思て、自動車呼びましょういうてくれはりますのんを「いいえ、俥待たしてあります」と逃げるように出て来まして、また阪急で夙川しゅくがわまで後戻りして、あそこからタクシーで香櫨園こうろえんまで帰って来ましたら、ちょうど十二時になってました。「お帰りやす」いうて玄関い出て来た女子衆に「旦那はんどないした? もう寝やはったか?」いいますと、「ついさっきンまで起きていやはりましたけど、もうちょっと前お休みになりはりました」いいますのんで、まあよかった、なんにも知らんと寝ててくれたらええ思いながら、出来るだけそうッとドーアけて、忍び足で寝室い這入はいってみますと、寝台の傍のテーブルに白葡萄酒しろぶどうしゅびん置いたあって、夫は頭から布団ふとんかぶってすやすや寝てるらしいのんです。お酒には極く弱い方で、寝しなにそんなもん飲むいうことなんぞめったにあれしませんのんに、きっと心配の余り寝られへんのんで飲んでんやな思て、静かな寝息乱さんように恐る恐る横になりましたけど、なかなか寝られるどころやありません。考えれば考えるほど、口惜くやしさと腹立たしさとが何遍でもき上って来て、胸の中がきむしられるようになります。ええ、もうほんまに、どないして復讐ふくしゅうしてやろか、どんな事あってもきっとこのかたき取ってやる、と、思うと同時にかッとなって、夢中でテーブルい手エ伸ばしてグラスに半分ほど残ってた葡萄酒ぐうッと一と息に飲みしました。何しろその晩はさっきからの騒ぎでえらい疲れてましたところいさして、私かって不断ちょっとも飲んだことあれしませなんだよって、見てる間に酔い廻って来て、――それもええ心持にぽうッとなるのんとちごて、頭が破れるようにがんがんして、胸のあたりがむかついて来て、体じゅうの血イ一遍に髪の毛の方い上って来るような気イするのんで、はあはあ苦しい息吐きながら、「ようもようもみんなで大馬鹿にして、今にどうするか見てたらええ」と、口い出していわんばっかりに一途いちずにそのこと考えつめてますと、激しい動悸どうきが、たるの口から酒がこぼれるような音立ててどきんどきん鳴ってますのんが自分にもちゃんと分るのんですが、気イついてみますといつの間にやら夫の胸も同じようにどきんどきんいう音立てて、はあはあ熱い息吐いて、互の呼吸と動悸とが一緒に時を刻みながらだんだん強うなって行って、二人の心臓が一時に破裂せエへんか知らんと思われた途端に、いきなり私は夫の腕でぎゅうッと抱きしめられました。次の瞬間に夫のはあはあいう息が一層近よって、燃えるような唇が耳たぶに触れて、「お前、よう帰って来てくれたなあ」――と、そないいわれたはずみに、どうした加減か急に涙がこみ上げて来て、「くやしいッー」と、身イふるわして泣きながら、今度はこっちからしがみ着いて、「くやしいッ、くやしいッ、くやしいッ」と、夫の体きむしるようにりました。「何や、何でそない口惜しい?」夫は出来るだけ優しいに、「え? 何が口惜しいのかいうてみい、泣いてたら分れへんがな、え? どないしてん?」いうて手のひらで涙いてくれて、なだめたり、すかしたりしてくれますので、なお悲しゅうなって、あーあ、やっぱり夫は有難い、自分は罰中ばちあたったんや、もうもうあんな人のこと思い切って、一生この人の愛にすがろう、――と、一途いちずに後悔の念いて、「うち今夜のことみんないうてしまうさかい、きっと堪忍しとくなはれなあ」と、とうど夫に今までのことすっかり話してしまいました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 その十二
 
 私はすっかり心入れかえた気イになって、明くる朝は夫より二時間もはよ起きて、台所い出て行って朝御飯の用意したり、夫の洋服ちゃんとしといたり、いつもほったらかしたまま女子衆まかせにしときますのんを、自分が先い立ってせっせと働きました。「お前、今日は学校い行けへんのか」と、夫は出かける時間になって鏡の前でネクタイを締めながらいいましたけど、「うち、もう学校はめよおもてんねん」いうて、うしろから上衣うわぎ着せたげて、そのままそこに、脱ぎてた着物たとみながらすわってました。「なんでやねん、学校止めんでもええやないか?」「あんな学校行ったかってしょうむない。……会いともない人と顔合わすのんイヤやしなあ。……」「ふん、そうか、そんなんやったら止めてもええなあ」と、夫は感謝のこもった眼つきでそういうたもんの、またなんや知らん物足らんような、気の毒そうな恰好かっこで、「そやけど、なんにもあんな学校に限ったことあれへん、絵エ習いたかったら研究所いでも行ったらどやねん? 僕かって毎朝一緒に出かけた方がええしなあ」いうてくれますねん。そんでも「うちもうどっこも出とないわ、何処行たかてどうせロクなこと覚えへんねよって」いうて、自分ではその日から一廉ひとかどのハウスワイフになったつもりで、一日家の中で一所懸命仕事しました。夫の腹の中いいましたら、あないにままやった私がまるで生れ変ったみたいに態度改めましたのんが、どないうれしいか分れしません。いうてまた、二人で仲好う大阪いかよてた先度せんどごろの生活を取り返してみたいような気イもしますねん。そら私かってちょっとでも余計夫の傍に引っ着いてたい、離れたらその間に邪念妄想が起る、夫の顔さい見てたらあの人のこと忘れられるやろ思いますよって、一緒に着いて行きたいですけど、いや、そやない、もしひょっとしてみちであの人と会うたりしたら?……もうそんなことあったかて物いエへん気イやけど、そんでもばったり顔見合わしたらうちどうするやろ? 青なって、ぶるぶるふるて、一と足も出んようになって、かどで倒れてしまうかも分れへん思いましたら、外い出るのがこおうて、大阪どころやあれしません、つい電車路ぐらいまで行きましたかて、そやない人の影見てもはっと襲われたみたいに、あわてて家い飛んで逃げて、どきどきする胸おさえながら、いかん、いかん、ちょっとでも出たらいかん、ここしばらくは死んだ気イになってすッ込んでよ、水仕事でも掃除そうじでも何でも構わんと精一杯働いてよと、自分で自分にいうて聞かすのんです。あの箪笥たんす抽出ひきだしにしもてある手紙なんぞ焼いてしまお、それより一番さき観音さんの絵エの方どないぞしてしまおと、それも私には毎日ぐらい気イになって、今日こそ焼こ、今日こそ焼こと、箪笥の傍まで行きますけど、手エ取ってみたら中が見となるやろなあ思たら、やっぱり恐うてよう開けませんねん。一日じゅうそないして暮らして、ゆうがた夫帰って来ますと、「ほんまによかった」とほっと重荷イおろします。「うちこのごろ朝から晩まであんたのことばっかり思い詰めてて、ほかの事なんにも考エへんようにしてんねよって、あんたかってきっとそうしててくれるわなあ」と、私はぎゅッとくびのまわりに抱きついて、「うちの心にちょっとのすきも出来んように、いッつも、いッつも、可愛がりつづけに可愛がってくれなイヤやわ」と、今では夫の愛情だけがたった一つの頼りでした。「もっと可愛がって、もっと可愛がって……」と、私のいうのんはそればっかりでした。或る晩なんぞは、「まだ愛しかたが足らん」いうて、気違いみたいに興奮しましたのんで、「お前は極端から極端やなあ」と、夫はなだめるようにいうて、私のあんまりなのぼせかたに今度はかいって面喰めんくろてるぐらいでした。
 もしもその時分にひょっこりあの人がたずねて来たら、いやでも応でも物いわんならんようなハメになるよって、それが何より気がかりやったんですけど、なんぼ厚かましいいうてもさすがよう寄り附かんかして、ええあんばいにあんなり何もいうてえしません。私は心のうちに神様や仏様祈って、結局運命がそんな工合ぐあいになったのんを有難いことや思いました。ほんまに、あの晩のような出来事でもなかったら、なかなかこない綺麗さっぱりと切れるいう訳に行けしませんのに、これも神様の思召おぼしめしやろ、口惜しいことも悲しいことも済んでしもたことはみんな夢とあきらめよと、ようよう幾分か落ち着いて来ましたのんは、あれから半月も立った六月の下旬ごろのことで、――去年の夏は空入梅からつゆでしたよって、毎日々々日照りがつづいて、家の前の海岸に泳ぎに来る人がちょいちょい見えました。夫はいつも暇ですのんに、その時分珍しい頼まれた事件あって、もうちょっとしたら手エ抜けるさかい、そしたら何処ぞ避暑になと行こいうたりしてましたが、或る日私が台所で桜ん坊のジェリーこしらえてる時でした、「大阪のSK病院から奥様おくさんに電話だす」いいますのんで、虫が知らしたのんか、何やけったいに思いながら、「誰ぞ入院してんねやろ、も一ぺん聴いてみなはれ」いいますと、「いえ違います、病院が直接奥様に話したいいうたはります、男の人の声みたいだす」いうことで、「ふん、おかしいなあ」いうて電話口い出る時から、何でか知らん胸騒ぎして受話器を持つ手エ妙にふるてるのんです。彼方あっちでは「あんたは奥様ですか」と二へんも三べんも念押してからにわかに低い声になって、「突然はなはだ失礼ですが、あんたさんは英語の避妊法の本を中川さんの奥様にお貸しになったことありますか」とけったいなことンねます。「はあ、その本は私たしかに或る人に貸しましたけど、中川さんの奥様いう方はよう知りません。多分私から借った人が又貸またがししたんやろ思います。」そないいうと直ぐ、「はあ、はあ」とむこではうなずいて、「奥様がお貸しになったのは徳光光子さんでしょうな?」いうのんです。私実はもう最前さいぜんから予期してたもんの、その名アいわれた瞬間に何や電気みたいなものが体じゅうビリビリ伝わるような気イしました。はあ、その本といいますのんは、一と月ほど前光子さんに貸しましたのんで、光子さんのお友達の中川さんの奥様いう人が子供生むのんイヤやイヤやいうてはるいうような話から、「姉ちゃんはきっとうまい方法を実行してんねんやろなあ」いいますよって、「ほんまいうたら、あてええ本持ってんねん。亜米利加アメリカで出版しやはった本で、それ見たらそらもう何ぼ通りでも書いたあるわ」いうて、その時貸したげたまま忘れてしもてたんだした。ところが病院ではその本のことから或る重大な結果起ってえらい迷惑してる。電話ではそれ以上申し上げること出来んが、そのことについて中にはさまった徳光さんのお嬢様もいろいろと心配してはりまして、どうしても一ぺん奥様にお目にかかって秘密に相談せんならん思て、こないだから何遍でも手紙差し上げたそうですが、奥様の方から何とも返事してくれはらんいうて難儀してはる。そんでこの場合、是非とも徳光さんに会うてみて下さい。病院の者がかに伺うては面白おもしろない事情がある。病院は表面そ知らんていにして徳光さんと会うてくれはるのが一番よろしい。万一会うて下さらんと、病院はこの事件について奥様の方いどんな迷惑がかかっても一切責任負うこと出来んいうのんです。私はそれも光子さんや綿貫の仕組んだ計略で、なんぞまた人だますのんやないかと半信半疑でしたけど、何せその時分は堕胎だたい事件がやかましいて、何々博士がつかまえられた、何々病院がやられたと、ようそんな記事が新聞に出ましてん。そんで前にもいうたようにその本の中には薬剤にる方法やら、器具に依る方法やら、法律に触れるようなことまでたあんと書いたあるのんでして、中川の奥様いう人は何ぞへまなことしてえらい間違い引き起して、しろとの手エで収まり付かんようなったんで病院いかつぎ込まれたん違うやろかと、想像されるのんです。それに私は、光子さんから手紙が来てもきっと私に見せたらいかん、みんな焼いてしもてくれいうて、女子衆おなごしゅにいいつけてありましたもんでッさかい、そんな事件が起ってようとは今日までちょっとも知りませなんだ。病院の方ではえらいいてて、どうしても今日じゅうに会うてもらわないかんいいます。電話で夫に相談しましたら、「そういうこッちゃったら会わんいう訳に行かんやろ」と、夫もいいます。それでとうとう承知した旨答えますと、これから直ぐに伺うように病院から光子さんの方い知らすいうことになったのんです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 その十三
 
 ところがその電話のありましたのんが二時頃のことで、それから三十分もした時分にもう光子さんが来やはりましてん。私はまた、なんぼ病院がいてたかて、いッつも出る時には一時間も二時間もやつしやはるよって、どないしても来るのは夕方か晩ぐらいになるやろ、まさかこないに早いとは思いもよりませなんだのんに、門のベルがジイジイ鳴って、上り口のコンクリの上踏む草履ぞうりの音が、……玄関から奥の間まですっかり開け切ってありましたよってすうッと表から吹き込んで来る風と一緒に、なつかしいにおいが廊下つとて来ますねん。あいにく夫はまだ帰って来てませんし、立ち上ったまま何処ぞ逃げ道でも捜すみたいにうろうろしてますと、取次に出た女子衆がバタバタ走って来て、「奥様おくさん! 奥様!」いうたなり顔の色変えてるのんで、「分ってる、分ってる、光子さんやろ」いいながら自分で玄関い出て行ことして、「あの、ちょっと、ちょっと、……」と誰を呼ぶのか分らんこといいながら、「あの、……ちょっと待っとくなはれいうて、下の八畳い通しといて」といい附けといて、二階い上って寝室のベッドの上でしばらく動悸のしずまるのん待ってから、やっと起き上って、顔色隠すために頬紅ほおべに少し濃いめにつけて、白葡萄酒一杯飲んで、思い切って降りて行きましてん。
 わたしは仕切りのすだれの向うに派手な模様がチラチラして、ハンカチで汗をおさえながらすわってはるらしい姿見ると、もうまた胸がどきんどきんいうて来ましたが、光子さんの方でも簾越しにこっち見てなさって、這入はいって行くのん待ち構えたように、「今日は」いうてニコニコ笑いなさるのんです。「あて、姉ちゃんにあんまり御無沙汰してしもて、悪いとは思ててんけど、あれからあとにいろいろな事あったりして、……それに姉ちゃんあの晩の事どない思てはるねんやろ、きっと腹立ててはれへんやろか思たら、ついしきいたこなってしもて、……」と、遠慮しいしいこっちの顔色うかごうてはそないいいなさるのんが、やっぱりれ馴れしい昔の口調で、「なあ、姉ちゃん、あんた今でも怒ってなはんの?」と、私の眼エの中をのぞき込みなさるのんです。私は無理に「徳光さん」と改まって呼びかけて、「今日はそんなお話するつもりでお目にかかったんと違います」いうてやりましてん。「そうかて姉ちゃんがあの時のこと堪忍したげるいうてくれへなんだら、あてかて話出来でけへんもん。」「いいえ、いいえ、私は中川の奥さんのことについてSK病院から頼まれましたさかい、そのことだけ聞くように夫の許し得たあるのんです。そやよってに何卒どうぞその外の話はせんといて頂戴。それからあのう、先度せんどのことはみんな自分が阿呆あほだしてんよって、誰恨んだり怒ったりすることあれしませんけど、あんたも今更わたしのこと『姉ちゃん』やなんていわんといて頂戴。そうでないと、私ここにいられへんようになりますさかい。……」、そないにいうと今度はさすがにしおれ返って、うつむいたままなわのようにじくったハンカチをぐるぐる指に巻きつけながら、思わせぶりに涙ぐむような風して見せて、そんなり物をいいなされしませんねん。「あんたかって、めったにそんなはなししに来たんと違いますやろ? さあ、用件の方聞かして頂戴。」「あて、姉ちゃんにそないいわれたら、……」と、やっぱり光子さんは「姉ちゃん」いう言葉使て、「……いいたいことも胸につかえてしもてちょっとも出エへんねんけど、ほんまいうたら、さっきのあの電話のことなあ?……あれほんまは、中川の奥様と違いまんねん。」「ふーン、そんなら誰のことですねん?」――その時光子さんは眼エと眼エの間にしわを寄せてくすッとけったいな笑いようをしたと思たら、「あてのことやわ」いうのんです。「そしたら、病院に入院してるいうのんは、あんたの事だっか?」――まあ、この人は、……何処まで厚かましいねんやろ! 自分が綿貫のたね宿してどうにも始末に困ったのんで、またしてもうちを利用しに来るとは! さんざん人に苦水にがみず飲ましときながらまだ足らんのか。――私は体じゅうがふるて来るのんじっと押ししずめて出来るだけ空惚そらとぼけて聞いてやりました。「ふん、そやねんわ」と、光子さんはうなずいといてから、「入院さしてほしいいうてるねんけど、入院さす訳に行かんいわれてんわ」と、なんや褄目つまめの合わんこというて、それからぼつぼつ話し出すのん聞いてみますと、あの私から借った英語の本見て幾通りもの方法やってみたところがれもあんじょう行かんらしいので、ぐずぐずしてたら人目につくようになって来るし、気が気でのうて、綿貫の知ってる人に道修町どしょうまちの薬屋の番頭ばんとさんあるのん幸い、その本に書いたある処方に従うて、薬をもろて飲んだんやそうです。もっとも番頭さんには事情を明かしたんやのうて、ただ必要な薬品だけもろて、それをええ加減に調合したのんで、間違うてたんかどうか、よんべにわかにおなかいとなり出して、お医者さん呼んでる間にえらい出血した。そんでお医者さんに訳話して、どうぞ家の者に内証でどないぞして欲しいいうてお梅どんと二人で頼みますと、出入りのお医者さんでんねけど、「難儀ですなあ」いうてためいきつくばっかりで、「これはどうも私には困ります。きっと手術して出さんといかんでしょうが、何処ぞ専門の病院で心やすい所があったらそこい行って相談して御覧。私は応急の手あてだけしときます」いうてていよう逃げてしもたのんで、SK病院やったら院長さん知ってるからどないなとしてくれはるやろ思て、今朝けさになってから出かけて行って診察してもろたら、そこでも同じこというてなかなか聴いてくれはれへん。なんでもそこの院長さんいうのんは今の病院建てる時に徳光さんのお父さんからお金出してもらやはったんやそうで、光子さんとお梅どんとで手エ合わすようにして頼むと、「弱りましたなあ、弱りましたなあ」いうて、「前やったらこんなぐらいのことは何処の医者でも引き受けたのんですが、御承知の通りこの頃は世間がやかましいのんで迂濶うかつなことすると私一人やない、お宅の不名誉になるような事起らんとも限らんのんで、そうなったらお父様とうさんに対して申訳ありません。それにしても何で今まで放っといたんです、こないならんうちやったら、――せめて一と月も前やったらどないなとしたげたのに」いうのんですけど、そないしてるあいだも時々おなかいとなって出血するのんで、ここで何ぞの事でもあったら病院に嫌疑けんぎがかかりますし、そうかて苦しんでるもんを黙って見てるいう訳に行かんし、「いったい誰にせてもろてどんな薬飲んだんかいうて下さい。それ聞いたかて出来るだけ秘密にはしときますけど、万一問題になった場合にその人が証人にさいなってくれたら手術したげる」いうもんですさかい、私から本借ってこうこうしたいうこと話して、私がいッつもその本の方法実行して目的達してるもんですから、自分もあんじょう行くやろと思たいうようなことしゃべってしもた。そしたら院長さんしばらく考えてて、こないな事はお医者さんやのうても、経験のあるしろとの方がかいって手軽うにらちようやれる、西洋の女やらはこないこないして、人の手エ借らんと自分で始末してしまうのんが常識みたいになってるさかい、私が熟練してるのんならいっそ私にしてもろたらええのやけどいうたりして、とにかく事件がむずかしなっても私が責任負うてくれたら手術したげる、それがイヤやったら本貸したのんが災難やと思てどないぞしてくれたらどやろ。お医者さんとちごて私やったら知れる心配も少いし、知れたとこで大した問題になれへんやろ。――そないいわれたんやと、まあ光子さんはいうのんです。「なあ姉ちゃん、あて姉ちゃんにそんなことしてもらおとは思てエへんけど、こんなりにしといたら時々痛み出してたまらんし、恐い病気になったりすることもあるいわれたのんで、姉ちゃんが責任負ういうてくれたら手術してもらえるのんやけど、……」「責任負ういうたかって、どないしたらええのん?」と聞いてみましたら、病院い行て、院長さんの前で誰ぞ第三者に立ち会うてもろて約束するか、そうでないのんなら後日のためにちょっと一と筆書いて欲しいいうのんですが、そんなことうっかり出来しませんし、それに光子さんのいうことが何処までほんまか、よんべ出血したいう病人が別にやつれたふうものうて出歩いてるのんもおかしいし、さっきの電話は病院で医局の人にかけてもろたいうのんですけど、そんな人が中川の奥様の名アかたるはずもなし、何ぞまた訳でもあるような気イしてめったなこといわれへん思てるうちに、「ああいた、……またいとなって来た」いうておなかさすり出しなさったのんです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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