卍(まんじ) 谷崎潤一郎

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 その十四
 
「どないしなはってん?」いうてるうちに見る見る顔が青なって来て、「姉ちゃん、姉ちゃん、はよ便所い連れてエな」いいなさるのんで、どないな事になるのやらこっちもあわてて、畳の上い廻るようにしてはるのん抱き起すと、はあはあいいながら肩にりかかって歩きやはるのんがやっとですねん。私は便所の外に立って、「どうだんねん、どうだんねん」いうてましたが、うなりごえが段々しんどそうになって、「うーん、くるしいッ、姉ちゃん! 姉ちゃん!」いいますよって、夢中で中いけ込んで、「しッかりしなはれ! しッかりしなはれ!」と、肩でたげて、「なんぞもんでもしたんかいな」いうと、黙って首振って、「あて、もう死ぬ、死ぬ、……助けてほしい」と、ほんまに消えてしまいそうな虫の息で、「姉ちゃあん、……」と一と声大きく呼びながら、両手で私の手頸てくびにしがみ着きますねん。「こんなぐらいな事で何で死んだりするかいな、光ちゃん、光ちゃん」いうて力つけたげても、もう眼エ見えんようにどろんとなったひとみ上げて、「姉ちゃんあて堪忍してくれるわなあ。あてこないして姉ちゃんのそばで死ぬのんやったら本望やけど、……」と、そないにいうのんがちょっとぐらい狂言としたかって、握ってる手エ次第にめとなって来るような気イしますし、そうかて「お医者はん呼んだげよか」いうても「姉ちゃんに迷惑かかるよって呼んだらいかん、死ぬのんやったらこんなり死なして」いいますし、……孰方道どっちみちそんなりにしとかれしませんので、女子衆おなごしゅに手ッてもろて二階の寝室に運びましてん。なんせ、咄嗟とっさの場合ですよって布団敷いてるアもあれしませんし、寝室い入れるのんはどや知らん思たんですけど、下はみんな見透みとおされる夏座敷ですし、しよことなしにそないしたのんですが、ようよう寝台いさしてしもてから、直きに夫とお梅どんとこい電話かけに行ことしますと、「姉ちゃん何処どこも行ったらいかん」いうて、たもとぎゅッと握ったままちょっとの間も放しなされしません。もっともそないしてるうちに幾分か落ち着いて来たらしゅう、もうさっきのように苦しがらんようになりはったのんで、まあこの分ならお医者はん呼ばいでもよかった思うと、その時だけはほんまにほっとして助かったような気イしましてん。
 そんな工合で私は傍離れること出来しませんよって、「お便所よごれてるさかい直ぐ掃除そうじしといて」いうて女子衆下いやってしもてから、何ぞ薬でも思いましてんけど、「いらん、いらん」と、イヤイヤしなさって、「姉ちゃん帯ゆるめてエな」いいなさるのんで、帯ほどいたげたり、血イの附いた足袋たび脱がしたげたり、アルコールと脱脂綿持って来て手エや足いたげたりしましたのんですが、そのうちにまた発作起って、「くるしいッ、くるしいッ、水、水、……」いいながらシーツやまくら手あたり次第にきむしって、体をえびのように曲げてもだえなさるのんです。私はコップに水んで来て、えらいあばれてて飲まされしませんのんを無理におさえつけながら口移しに飲ましたげると、おいしそうにのどぐいぐいいわしながら、飲んでしまうとまた、「くるしい、くるしい」いうて、「姉ちゃん、後生ごしょうやよってにあての背中の上い載ってぎゅッと押してエな」いうたり、何処をんでほしい、彼処かしこでてほしいいうのんで、いわれる通り揉んだりさすったりするのんですけど、ちょっと直ったか思うとまた直ぐ「痛い、痛い」いうて、なかなか治まりそうもあれしません。そんで暫くでも楽になったあいだには、「ああ、ああ、こんな苦しい目エに遇うのんもみんな姉ちゃんのばちやなあ。……これで死んだら姉ちゃんかってもう堪忍してくれるか知らん」と、独りごとのようにいうてさめざめ涙流すのんです。そいからまたしてもいとなり出して、今度は前よりもっと苦しそうにのた打ち廻って、何や血のかたまりみたいなもんが出たらしいいうたりするのんですが、何遍も何遍も「出た、出た」いうたんびに調べてみたかて、ちょっともそないなエあれしません。「神経でそんな気イするねんわ、なんにも出てへんやないかいな。」「出てくれへなんだらあてもう死ぬわ。姉ちゃんはあてが死んだらええ思てんねんやろなあ。」「なんでそんなこというのん?」「そうかて、あてにこんな地獄みたいな苦しみさしとかんと、はよ楽にしてくれたらええのに、――姉ちゃんやったらお医者はんよりよう知ってるくせに、……」そないいい出したいうのんは、いつや私が「ほんちょっとした器具さいあったら何でもない」いうたことあったよってですけど、もう私にはさっきの「出る出る」いう騒ぎの時分から、今日のことがみんな狂言やいうことが分ってましたのんで、……ほんまいうたら、実はその前からだんだん気イ付いて来てながら、知ってだまされてたのんで、光子さんかて私が欺されてる振りしてるのん見抜いてながら、何処までもずうずうしゅう芝居してはりましてん。そんで、そいから先はお互が自分で自分あざむき合うて、……もうそんなこと、先生はよう分ってはりますやろけど、結局私は、見す見す光子さんの仕掛けたわない自分を落し込んでしまいましてん。……はあ、その赤いのんは何を使つこたのんか聞かんとしまいましたんで、今でもときどき不思議に思いますのんですが、何ぞ芝居に使う血糊ちのりのようなもん隠しといたのんと違いますやろか。……「姉ちゃん、そんならもうこないだのことちょっとも怒ってへんわなあ、きっと堪忍してくれるわなあ?」「今度こそ欺したらあてあんたを殺してやるわ。」「あてかてさっきみたいな薄情なことしられたんやったら、生かしとけへん。」――ほん一時間ぐらいのあいだにすっくり元のれ馴れしさに戻ってしまいましたのんですが、そうなると私は、急に夫の帰って来るのがこおうなって来ましてん。一旦ああいう訳になったのんが、よりが戻ってみましたら、その恋しさは前より増して、もうちょっとの間も離れとないのんに、さしあたり、これから先、どないしたら毎日会えるねんやろか。「ああ、ああ、どないしょう。光ちゃん明日も来てくれるわなあ?」「此処のうちい来てもええの?」「ええか、わるいか、もうそんなことあてに分らん。」「そんなら一緒に大阪い行けへん? 明日姉ちゃんのええ頃に電話かけるわ。」「あての方からも電話かけるわ。」そないいうてる間にッきに夕方になってしもたのんで、「今日はもう帰るわなあ、ハズさんが戻って来やはるさかい、……」と、身支度しょうとしなさるのんを、「もうちょっと、もうちょっと」いうて何遍も引き留めましてんけど、「まあ、やんちゃやなあ、そんな分らんこというたらいかん、明日きっと知らしたげるさかい大人おとなしいして待ってなはれや」と、今ではあべこべに私の方がたしなめられて、五時頃に帰って行きゃはりましてん。
 夫はその時分大概帰りが六時頃でしたけど、その日イはいくらか心配してはよ帰るか知らん思てましたのんに、やっぱりこないだじゅうからの事件が引き続いてると見えて、そいから一時間ぐらい立ってもまだ帰ってけえしません。私はそのあいだに部屋片附けたり、寝台綺麗きれいに直したりして、床の上にってた光子さんの足袋ひろて、――帰りしなに光子さんは私の足袋穿いて行きなさったのんです。――そのしみあとつめながら、まだ何や知らん夢みてるみたいにぼんやりしてましてん。夫にどないいい訳しょう。この部屋使つこたこといおか知らん。いわんとこか知らん。どないいうといたらこれから先会うのんに都合ええか知らん。……と、そんなこと考えてたら、にわかに「帰りはりましたで」と下から知らしますのんで、足袋箪笥たんす抽出ひきだしいしもて降りて行きますと、「どうしたんや、さっきの電話のことは?」と、出会いがしらにすぐそないいうのんです。「うちほんまに難儀したわ。あんた何でもっとはよ帰って来てくれへなんだん?」「僕かてそう思てたんやけど、生憎あいにくと用が片附かなんだのんで、……一体どないしたいうのんや?」「何でも彼でも直き病院まで来てくれいうねんけど、そんなことしてええか悪いか分れへんし、とにかく明日まで待っとくなはれいうたんやけど、……」「そんで光子さんにやはったんか。」「明日是非一緒に行ってくれいうて帰りはりましてん。」「お前があんな本貸すよって悪いのやないかいな。」「誰にも見せへんいやはったよってに貸したげたんやけど、ほんまにうち、えらい事してしもたわ。まあ何にしても明日見舞いに行てこう、中川の奥様から満更まんざら知らん仲と違うし、……」私はそないいうて、何はっといても早速明日の口実をこしらえましてん。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 その十五
 
 その晩わたしは夜の明けるのん待ちどしいて、八時に夫が出かけてしもたら、飛び着くように電話口い走って行きましてん。「姉ちゃん、えらい早いなあ、もう起きたん?」と、受話器通して聞えて来るのんが、昨日も聞いた声ですねんけど、眼エの前で聞くのんとはちごたなつかしさにわくわくしながら、「光ちゃんまだ寝てなはったんか?」「あて今電話で起されてんわ。」「あてもういつでも出られるわ、あんたも直き出てくれへんか?」「そんなんやったらあわててこしらえするよって、九時半に梅田の阪急い来てくれへんか?」「九時半に、きっとやなあ?」「きっとやとも」「今日は光ちゃん一日暇やねんわなあ? 帰りおそなってもかめへんやろ?」「かめへんとも。」「あてもそのつもりで行くさかい」いうて、ちょっきり約束の時間に行ってましたら、なかなか来なされしませんのんで、またいつもみたいにやつしてなさるのんか思たり、だまされたのん違うか思たり、自動電話かけてみよとして、その間に行んでしまいなさったら難儀や思てめてしもたり、ひとりでジリジリしてますと、やっと十時過ぎに、「姉ちゃん大分待ったん?」いうて、改札口から息せき切って走って来なさいましてん。「何処行こ?」「光ちゃん何処ぞええとこ知らん?――静かな、誰もいエへんようなとこで一日ゆっくりしてたいわ。」「そんなら奈良い行こやないか」いわれたのんで、ああ、そやそや、二人が始めて仲う遊びに行ったのんも奈良やった、あの思い出多い若草山のゆうがたの景色、……何で今まであの記念の土地忘れててんやろ。「ほんまにええとこ思いついたなあ、また若草山い登ろなあ」いうて、ほんまにその時のうれしさいうたら、……感激した時の私の癖でもうちゃんと涙ぐみながら、「はよ行こ、早行こ」とき立てて、大タクの案内人に手エ取られてタクシーい乗るまでは、足が土に着けしませんねん。「あてゆんべから何処にしょう思ていろいろ考えて、奈良が一番ええ思てんわ。」「あてかてゆんべまんじりともせえへんねけど、いったい何考えててんやろ。」「あれからハズさん直き帰って来やはったん?」「一時間ぐらいしてからやってん。」「どないいうてはったん?」「もうそんなこと聞かんといてエな、今日は一日家のこと忘れてたいわ。」――奈良い着いたら直きに大軌だいきの終点から乗合のりあいに乗って、若草山のふもとまで行って、何しろこの前の時とちごて薄曇った暑い日でしてんけど、びっしょりきながら頂辺てっぺんまで登って行って、そいから山の上にある茶店で休んでるうちに、前の時蜜柑みかんころこばしたりしたのん思い出して、ちょうど夏蜜柑売ってるのん買うて、二人でころころ転こばしましたら、下にいる鹿しかがビックリして逃げますねん。「光ちゃん、おなか減ってエへんか。」「減ってるけど、もうちょっと此処ここにいてたいわ。」「あてかていつまでも山の上にいてたい、なんぞお菓子ンでもたべて辛抱しとこう」いうて、昼御飯の代りに煮抜にぬきたべながら、大仏殿の屋根から生駒山いこまやまの方見てますと、「この前わらび土筆つくしたんと採ったわなあ、姉ちゃん」いうて、「もううしろの山い行ってもなんにもえてエへんやろか。」「そら、今頃たかてなんにもあれへん。」「そんでもこないだ行たとこい行てみたいわ」いいなさって、あれから後の山いつづく谷の方い下りて行きましたら、春でもあの辺はあんまり人の行かんとこですよって、夏はなおさら淋しいて、木や草ばっかり仰山ぎょうさんしげってて、なかなかそんなとこ、一人やったら来られへんような物凄ものすごい気イするのんですけど、二人は結局誰も見てる者ないのんええことにして、草のぼうぼう伸びてる蔭に、それこそほんまに、大空の雲よりほかに知ってる者のない隠れ場所見つけて、「光ちゃん、……」「姉ちゃん、……」「もうもう一生仲好うしょうなあ。」「あて姉ちゃんと此処で死にたい。」――と、お互にそないいうたなり、それから後は声も立てんと、どのくらいそこにいたのんやら、時間も、世の中も、何も彼も忘れて、私の世界にはただ永久にいとしい光子さんいう人があるばっかり。……そのうちに空がすっかり曇って、ひやこいものがポタリと顔に落ちましたので、「雨降って来たな。」「憎い雨やなあ。」「れたらしょうがない。本降りにならん間にはよ下りよ」いうて、あわてて山下りてしまいましたら、ほんのバラバラ落ちただけでもうちゃんと止んでしもてますねんがな。「こんなぐらいやったらもっといてたらよかったなあ。」「ほんまに、何ちゅう意地悪い雨やろ」いいましてんけど、下りてみたら俄かに二人共お腹減って来ましたのんで、「ちょうどお茶の時間やさかい、ホテルいでもてサンドウィッチたべよか」いいますと、光子さんが「あてええとこ知ってる」いいなさって、大軌の直ぐ傍にある新温泉い行って、――彼処あそこは私初めてですねんけど、宝塚と同じような家族温泉や何やあって、光子さんはちょいちょい行きなさると見えて、仲居なかいさんの名アやら、中の勝手やら、よう知ってなさるのんです。そんでその日一日遊んで、大阪に戻って来ましたのんは八時頃でしてんけど、そいでもまだ別れるのんがイヤでイヤで、何処まででも引っ着いて行きとうて、一緒に阪急で蘆屋川あしやがわまで送って行きながら、「ああ、また奈良い行きたいなあ。光ちゃん、明日出られへん?」「明日はもっと近いとこにせえへんか、久しぶりで宝塚はどやろ?」「そんならきっとやで」いうて別れて、帰って来ましたら十時近うになってるのんです。「あんまり遅いので、さっき病院い電話かけたとこや」いわれて、私ははっとしながら咄嗟とっさに巧いこと考えついて、「電話かけても分れへなんだやろ」いいますと、「ふん、中川いう人入院してへんいうのんで、何ぞ訳あって隠してるのんか思たのやけど。……」「それがなあ、行てみたら中川の奥さんやあれへん、光子さん自身のことやねんわ。そないいうと昨日来やはった時も何や様子けったいな思ててんけど、自分のことやいうたらうちが会えへんやろ思て、中川さんの名前借ったいうねんわ。」「そんならあの児が病院い這入はいってんのんか?」「病院なんか這入ってはれへん。こっちはそんな事とは知らんと、一緒に見舞いに行くつもりで誘いに行ったら、『まあちょっと上っとくなはれ』いうよって、上ったことは上ったけど、いつまでたっても出かけよとしやはれへんのんで、『はよ行こうな』いうたら、『実はあんたに頼むことあるねん』いい出して、『きんのもその話しょう思て行ったんやけど、……』いうて、――『どうもこの頃体の工合が普通ではない、妊娠したのんかも分れへんよって、そんな事にならんうちに、何ぞ智慧ちえ貸してくれへんか、あの本読んでみたけど、なんや英語で分れへんし、やりそこのうたら恐い思うし』いうねん。」「ふうん、あきれた児やなあ、そんだけの事に昨日みたいなうそつくやなんて、失敬やないか。」「うちもさんざん心配さされて、人馬鹿にしてる思てんけど、『何とも外に工夫つけへんのんで、あんなうそついてしもたんやさかい、どうぞわる思わんといて』いうて、お梅どんも出て来てあやまるよって、……」「それにしたかて外に何とかうそのつきようもあるやないか、あんまりやり方がエゲツない。」「ふん、ふん、そらそうに違いないねけど、昨日の電話も男の声やったし、きっとあの綿貫いう人なあ、あの人が蔭で指図さしずしたのんにきまってるわ。なんぼなんでも光子さんだけやったら、あんなややこしいうそつくはずあれへん。うちも腹立って腹立って、『そんな頼み聴く耳持ってエしません、これで失礼します』いうて帰ろとしたら、『まあそないいわんと、どうぞ助けて頂戴ちょうだい』いうて右と左からたもとおさえて、『こんな事から秘密親たちに知れでもしたら、どうぞして綿貫と一緒になりたい思てるのんがみんなあかんようになってしまう。そしたらあて生きてられへん』いうて光子さんは泣きやはるし、『どうぞどうぞとうちゃんの命助ける思て、どないぞ心配したげとくなはれ』いうてお梅どんは手エ合わして拝むし、そないしてもろたらどないしてええか分れへんようになってしもて、もうもう往生おうじょうしたわ。」「そんでどうした?」「そんでもうちめったなことせられへんよって、『私なんにもそんな方法知れしません。あの本貸したげただけでも悪い事した思てますのんに、そんな恐い事なんで出来ますかいな。誰ぞ知ってるお医者はん頼んだらよろしいがな』いうてんけど、そないしてる間ににわかに光子さん苦しみ出しやはって、えらい騒ぎになってん。……」そんな風に、しゃべってるうちにそばから傍からいろいろな作り事考え出して、昨日の出来事をええ工合に織りぜて、――光子さんはあの本の処方で昨夜の間にそうっと薬飲んだらしい、それがちょうどその時いて来てだんだん痛みようがつよなって、――と、そこは昨日見た通り詳しいに話して、そないなって来ると自分にも責任あるよって帰るに帰られへん、そんでとうとう今まで傍についたげてたんやと、うまいこといい抜けしましたのんです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 その十六
 
「今日もちょっと見舞いに行ってくるわ、放っといても気がかりやし、乗りかけた船やよってしょうがない。……」いうて、そいから五、六日のあいだというもの毎日のように何処ぞで会うてましてんけど、「何処ぞ人に見つけられへんとこで、毎日二、三時間ぐらい会えるとこあったらええのになあ」思てますと、「そんなんやったら大阪の市中の方がええし、……静かなとこよりかいって町中のゴタゴタしたとこの方が人目に附けへんし」いいなさって、「……いつや姉ちゃんに着物持って来てもろた家なあ? 彼処あっこやったら気分もよう分ってるし、安心やねんけど、……彼処にせえへんか?」いやはりますねん。あの笠屋町の宿屋いうたら、私に取ったら忘れられへん口惜くやしい口惜しい思い出あるとこですのんに、まるでこっちの感情も何も踏み付けにした話ですねんけど、そないにいわれても「ふん、そやなあ、なんやまり悪いけど、行てもええなあ」いうて、腹立てることも出来んとおめおめ引っ着いて行ったぐらい、すっかり足元見られてしもてましたのんです。それに極まり悪いいうても初めの日イだけで、れてみましたら女子衆おなごしゅやかいも心得てて、帰りがおそなった時やらは、家の方い電話かけて褄目つまめ合うようにしてくれますし、……そんな訳で、しまいには別々に出かけて行って彼処あそこから電話で呼び出したり、何ぞ急用出来た時にはお梅どんから知らしてもろたり、……ま、それもよろしいのんですけど、光子さんの家ではお梅どんだけやのうて、お母さんも、外の女子衆も、みんながそこの家の電話番号知ってるらしいて、ときどき私や光子さんにかかって来ることありますのんで、何ぞ家の方ええようにだましたあるに違いない思てたのんですが、或る日一人で先て待ってたあいだに、「へえ、そうだす、……へえ、いいえ、あのう、さっきから待っておりますけど、まだ来やはれしまへん。……へえ、へえ、そないいうときます。……いいえ、どうしまして、……私の方こそいつも奥様出やはりましてえらいお世話になりまして、……」と、電話口でそない仲居さんがいうてるのんが何や知らんけったいですのんで、「今の電話、徳光さんとこから違いますか?」いいましたら、「そうだす」いうてクスクスわろてるのんです。「あんた今、『いつも奥様が出やはりまして』いうてはりましたなあ? 一体あれ誰のつもりでいうてなはったん?」いうとまたクスクス笑て、「奥様知りゃはれしまへんのんか、奥様とこの女子衆のつもりでいうてますねん」いうやありませんか。そいからよう聞いてみましたら、そこの家が私ンとこの大阪の事務所やいうことにしたあるのんやそうですねん。「仲居さんがこれこれいうてたけど、ほんまかいな?」いうて、光子さんにンねましたら、「ふん、そやねん」と、平気な顔して、「姉ちゃんとこの事務所、今橋と南と二つあるいうて、此処の番号せたあるねん。姉ちゃんかって何ぞ家の方いそないいうといたらどやのん? 船場せんばの店の出店やいうてもええし、あての家でいかなんだら、ええ加減な名アいうといたらえやないかいな」いいなさるのんです。
 そないして、だんだん私は抜き差しならん深みいまって行きましてんけど、「こいではいかん」思たところで、もうそうなったらどないすることも出来しません。私は自分が光子さんに利用しられてることも、「姉ちゃん姉ちゃん」いわれながらその実馬鹿にしられてることも、感づいてましてん。――はあ、そら、いつや光子さんがいうてなさったのんに、「異性の人に崇拝しられるより同性の人に崇拝しられる時が、自分は一番誇り感じる。何でやいうたら、男の人が女の姿見て綺麗思うのん当り前や、女で女を迷わすこと出来る思うと、自分がそないまで綺麗のんかいなあいう気イして、うれしてたまらん」いうのんで、たしかにそういう虚栄心から、夫に対する私の愛を自分の方い奪いなさることに興味持ってなさったのんでしょうが、それにしたかって、光子さん自身の心は綿貫わたぬきの方へ吸い取られてたことは、よう分ってましてん。けどもう私は、どんな事あっても二度と別れるいうこと出来でけへん気持になってましたよって、分ってながら分らん風して、おなかの中ではなんぼ焼餅やきもち焼いてたかて、「綿貫」の「わ」の字も口い出さんと、そ知らん顔してましたのんで、そんな工合に弱点見抜かれてしもたら、姉ちゃんいうても私の方が妹みたいに機嫌取るようになってしもて、或る日いつもの家で会うてますと、「姉ちゃん、あんた一ぺん綿貫に会うてくれる気イないか」いいなさるのんです。「――あの人、姉ちゃんどう思てるか知らんけど、いつやあんなりになってしもてて、何や気持が済まんよって、是非姉ちゃんに会わしてほしいいうてんねん。ちょっとも悪い人違うし、会うたらきっと姉ちゃんかて気に入る思うねんけど、……」「ほんまに、そやなあ、あんなりいうのんもけったいなし、むこがそないいやはんねやったら、あても会うときたいなあ。光ちゃんの好きな人やったら、あてかってきっと好きになれる。」「ふん、そらきっとそや。そしたら今日でも会うてくれるか?」「いつでもかめへんけど、あの人何処にいてんの?」「さっきから此処ここの家い来てんねん。」――私も多分そんなこッちゃろ思てましたのんですが、「そんなら此処い呼ぼなあ」いいなさって、「あの人に来てもろて頂戴」いうと、直きに綿貫が這入はいって来ましてん。「やあお姉さんですか……」と、この前の時は「奥さん」いうたのに「お姉さん」いう言葉使つこて、私を見たら恐縮したみたいにズボンのひざそろえてかしこまって、「あの時はまことにえらい失礼しまして、……」いうて、――なんせいつやらは夜おそうもありましたし、それにあんな訳で人の着物借り着してましたし、その日イは明るい昼間ぴるまのことですのんで、紺の上衣うわぎに白セルのパンツ穿いてるのんが、ちごた人のような印象受けたんですけど、歳は二十七、八ぐらいで、この前の時の感じよりもっと顔の色白うて、やっぱり「美男子やなあ」とは思いましたけど、正直のところいうたら、表情が乏しいて、絵エにいたように綺麗なばっかりで、ちょっとも近代的なことあれしません。「この人岡田時彦おかだときひこに似てるやろ?」と、そない光子さんはいいなさるのんですが、時彦よりもっとずっと女性的で、眼エが細うて眼瞼まぶたれてて、まゆの間を神経質らしゅうピクピクさす癖あって、なんや知らん陰険らしいのんです。「栄ちゃん、何もそないかとならんかてええし、姉ちゃんちょっとも気イにかけてはれへんさかい――」いうて、光子さんは一所懸命しなさるのんですけど、私は私で、どうも虫の好かんッちゃ思たらどないしても打ち解けられしませんし、綿貫の方もそれ感づいたのんか、無愛想な顔ニッコリともささんと、いつまでたっても膝くずそうともせえしませんのに、光子さんだけは何や独りで面白そうに笑いなさって、「どないしたん? 栄ちゃん。あんたけったいな人やなあ」いいながら、むずかしい顔してる綿貫の方を意味ありそうに上眼うわめにらんで、「そんな顔してたら姉ちゃんに悪いやないか」いうて、指の先でべた突ついたりして、「あのなあ姉ちゃん、ほんまいうたら、この人焼餅焼いてんねんし、――」いやはりますねん。「※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそです、※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)です、そんな事あれしません、そら誤解や。」「※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)やあれへん、そんならさっきの事いおか?」「さっきどういうた?」「僕は男に生れたのんが口惜くやしい、姉ちゃんみたいな女に生れたらよかったいうたやないか。」「そらいうた、――そやけどそら焼餅やあれへん。」そないいい合いしてるのんが、私にお世辞使うためにちゃんと二人で相談しといていうてるのんか分れしませんし、相手になるだけ阿呆あほくさい思て黙ってますと、「まあ、まあ、姉ちゃんの前でそないに僕に恥かさんでもえやないか。」「そんならもっと機嫌ようしたらどやねん?」いうて、ずるずるべったりに焼餅喧嘩げんか止めてしもて、そいから帰りしなに三人で鶴屋食堂い行ったり、松竹見たりしましたけど、そいでも三人とも心からシックリとはしませなんだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 その十七
 
 そう、そう、そんで私、最前さいぜんいうのん忘れましてんけど、家の方いは光子さんのお父さんのてかけはんのとこやいうて、笠屋町の電話番号せときましてん、それいうたら、ほんまにおかしなことですねんけど、光子さんは「船場の支店やいうたらどやのん?」いいなさるのんですが、そんなとこい行てなさるいうのんけったいなし、いっそ病院い入院しなさったいうたらとも思たのんですが、病院やったらいつまでも退院せえへんいう訳に行かんし、それに夫が事務所の帰りにでも迎いに来たらき分るし、何処どこにしょうなあ思て難儀してますと、「こないしたらどうだす」いうて、お梅どんが考えつきましてん。尤もそれには光子さん妊娠しやはったいうことにせんと工合ぐあいわるいのんで、お薬飲んでも巧いこと行かんし、お医者はんも手術してくれへん、そのうちにだんだんおなか大きなって来るよってとうとうお母ちゃんに打ち明けてしもた、そいでお父さんのてかけはんの家い子供生れるまで引き取られてる。そのてかけはんの家いうのんは笠屋町の井筒いう宿屋で、電話番号は何番でと、ちゃんとほんまの名前教せといたら、電話帳見たかてその通りやし、迎いに来られても褄目つまめ合うし、「そしたらあて、姉ちゃんとこい遊びに行く時ふところい綿でも詰めて、お腹大きして行かんならんわなあ」いうて大笑いになりましてんけど、それやったら一番分る気づかいないいうのんでそないしましてん。「そうか、光子さん腹ぽてになったんか」いうて、夫はすっかり真アに受けて、さすがに気の毒そうな顔しますのんで、「そいでもあんた、そんな悪いことたらいかんいうたやろ。そやよってうちどない頼まれても教せたげへんなんでん。そいで子供出来るまでは一と足も外い出たらいかん、じっとすっ込んでなはれいわれて、押し込めみたいにされてるのんで、退屈で退屈でしょうがないさかい、毎日でも遊びに来とくなはれいやはるねんけど、どないしょう知らん?――うちかてきっと恨まれてるか分れへんで、放っといたら寝ざめ悪いしなあ。」「それもそやけど、また係り合いになったら難儀するぜ。」「ふん、ふん、うちもそない思うねんけど、今度ちゅう今度はいろいろ苦労したせいか大分人間変って来てはんねん。それにそないなったら、もうどないしても綿貫と一緒になるより外ないいうて、わりに落ち着いてはるし、家の方でも結局そないさすようになるらしいねんけど、何せ今のとこ誰一人ンねたげる人もないのんで、『頼りにするのん姉ちゃんだけや』いわれると、なんぼ自業自得じごうじとくや思ても可哀そうになって来るねん。『なあ姉ちゃん、あてやや出来たら、まさか姉ちゃんかて誤解されるはずないやろ? あてそのうちに綿貫と一緒に姉ちゃんの旦那さんとこいあやまりに行くさかい、これからほんまのきょうだいみたいに附き合うてくれへん?』――こないだもそないいうてたし、――」夫はそれでもまだ心から納得せえへん様子でしたが、「なるだけ気イ附けた方がええで」いいながらそんなり大目に見てしまいましたのんで、そいから後は「奥様いやはりますか」いうて笠屋町からおおびらに呼び出しかかって来る。こっちからも遠慮のうかけられる。晩御飯ごろまで遊んでると、「ええ加減に帰ってけえへんか」いうて夫からかかって来ることもある、――いう工合で、ほんまにお梅どん巧いこと考えてくれたおもてましてん。
 そいからさっきの綿貫のことは、そんな調子で、折角引き合わしてもろても何やお互に探り合いしててちょっとも気イ許せしませんのんで、その日イ一ぺん会うたなり、孰方どっちからも「お」いい出したことあれしませんし、光子さんも二人を仲好うさすことはあきらめてしもたらしいのんですが、なんでも三人で松竹いた、――あれから半月ぐらい後でしたやろか、ゆうがた、五時半ごろまで遊んでましたら、「姉ちゃん先んでくれへん? あてもうちょっと用あるよって」と、追い立てるようにしなさるのんで、常時じょうじのことですよって腹も立てんと、「そんなら先ぬわ」いうてその宿屋のろうじ出ましたら、小声で「お姉さん」と後から呼ぶもんあるのんで、振り向いて見たら綿貫ですねん。「お姉さん、今お帰りがけですか」いいますよって、「へえ、そうです、光ちゃん待ってはるさかいはよ行ったげなはれ」と、わざと皮肉にいいながら、私はタクシーつかまえるつもりであの通りを宗右衛門町の方い歩いて行きますと、「ちょっと、……ちょっと、……」いうて引っ附いて来て、「僕、実はお姉さんに聞いてもらいたいことあるのんですが、差支さしつかいなかったら、一時間ぐらいこの辺散歩してくれませんか。」いうのんです。「そら、どんなお話か聞かしてもろてもよろしですが、さっきからあんた待ってなさるで。」「ナニ、それやったら何処ぞから電話かけときます」いうて、二人で彼処あそこの「梅園」い這入はいってぜんざいたべながら電話借って、そいから太左衛門橋筋を北の方い歩き歩き話しましてん。「僕今電話で、急な用事が出来たのんでここ一時間ほどおそなるかも知れへんいうて置いたのんですが、お姉さんとお目にかかったこと内証にしといてもらえまへんやろか? それ約束してくれはらんと、お話すること出来んのですけど。」「私は人にしゃべるないわれたらどんなことあってもしゃべれしません。けど自分だけ正直に約束守ってると、ときどき人にめられて馬鹿な目に遭うことあるのんで、……」そないいうてやりましたら、「ああ、お姉さんは、なんでもかんでも光ちゃんのした事僕のがねや、僕があやつってるのんやとお思いですやろ? そら、そう思われてもしょうがない訳あるいうことはよう分ってます」いうて、下向いてためいきついて、「お話したいいうのんも実はそのことなんですが、いったいお姉さんは、僕とお姉さんと孰方どっちが余計愛されてる思います。お姉さんとしたら何や僕らに馬鹿にしられてる、利用しられてるとお思いですやろけど、僕かてやっぱりそんな気イしてるのんです。僕はほんまに嫉妬しっと感じてるのんです。そら光ちゃんにいわしたら、姉ちゃんいてた方が家の方胡麻化ごまかすのに都合ええさかい、あの人道具に使うてるのんやいいますけど、もう今になって人を道具に使う必要ありますやろか? そんなもんあったらかいって邪魔になれしませんやろか? ほんまに僕を愛してるのんなら、そないしてるアに結婚してくれたらええやありませんか。」――私はちょっとも油断せんと聞いてましたけど、態度がえらい真剣らしいて、いうことも一と通りもっとものように思われますねん。「そいでも結婚出来でけへんいうのんは、何ぞ光ちゃんの家の方に反対あるのん違いますやろか? いつも私には、自分ははよ結婚したいいうてはりますで。」「そら、口ではそないいうてます。家で反対するいうこともほんまには違いないのんです。けどそれにしたかて自分が真面目まじめにその気イになったら、何とかして親たち説き伏せる方法ないことないやろ思います。まして今ではただの体と違うのんに何処い行くこと出来ますか知らん?」――はあ、そないいいますのんで、そしたらやっぱり光子さんはほんまに妊娠してはるのんやろか、けったいなこというなあ思いながら聞いてますと、「――内の娘は百万円以上の資産家の所でないとやられん、一文なしのすかぴんの男みたいなんにやる訳に行かん、子供生れたら何処いなとやってしまうというて、お父さんかんかんになって怒ってるいうのんですが、そんな無茶な話ありますやろか。第一子供が可哀そうで、人道問題やありませんか。お姉さんどう思われます?」いいますさかい、「それより私、光ちゃんに子供出来たいうこと初耳ですけど、なんぞそんなエでもあったんですか」いいますと、「へえ? 初耳?――」いうて、疑がい深そうに私の顔モジモジとあなくほどつめてますねん。「へえ、初耳です、そんなこと光ちゃん私にいうたことあれしません。」「そうかて、――そしたらいつやお姉さんのとこい避妊の方法聞きに行ったことあれしませんか?」「そらありましたけど、妊娠したなんていうのん根エも葉アもないウソばっかりで、私に近寄るためにそんな口実こしらえて来たのんと違いますやろか。尤も私の家の方いは、光子さん妊娠してはる、そいでちょいちょい見舞いに行くのんやいうたあるのんですけど。」すると綿貫は、「ふうん、そうですか」いうたなり、いつの間にやら血走った眼エして、くちびるの色まで変えてるのんです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 その十八
 
「なあ、お姉さん、何でそないに妊娠したいうこと隠すのんでしょう? ことにお姉さんにまでウソつかいでもよろしいやありませんか? ほんまにお姉さん知りやはれしませんのんか?」いうて、何や疑うてる様子で、何遍でも念押すのんですけど、ほんまのとこ私は聞いたことあれしません。綿貫の話ではもうちゃんと三月みつきぐらいになってて、お医者はんにも見てもろたいうのんですが、それやったら、いつや出血騒ぎの時にもそやったはずですねんけど、三月やそこらでは素人しろとに分れしませんし、それにその後で「自分は子供出来るはずない」いうことを、たしかに光子さん自身の口から聞いてますし、あの時のことは芝居打ってたに違いない思てましたのんに、綿貫のいう通りやとしたら、やっぱり私に気がねしてはったんのんか知らん?「何で子供出来るはずないいいましたか、あの本の通りを実行してるいうのんですか、そやなかったらそんな体質やいうんですか」と、綿貫はせえだい聞くのんですが、そら私かて、光子さんの前では出来るだけ綿貫のことにさわらんようにしてましたよって、そないくわしゅう問うたことあれしませんし、……そやけど、こないだもてんごに「姉ちゃんの家い行く時はおなかに綿でも詰めて行かんならん」いうてはったぐらいやし、妊娠してはるとは思えしませなんだいいますと、光子さんは真面目で結婚しょういう気イないのんや、そいでもしも子供出来たいうこと分ったらどないしても一緒にさされる、それがイヤやよって隠されるだけ隠してる、「僕はそうに違いない思います」いいますねん。綿貫の考では、光子さんちゅう人は異性の愛より同性のの方が好きで、綿貫より私の方がずっと愛されてて、そのために結婚したがれへん。――子供出来たり、結婚したりしたら、私が逃げてしまうかも分れへん思て、一日延ばしに延ばしといて、そのうちにお腹の児ええようにするとか、綿貫にイヤ気おこさすとか、どないぞしよう思てる。――私はひがんでるせえか、どないしても自分の方がそない愛されてる思えしませんのに、「いや、そうです、たしかにそうです、お姉さんは仕合わせです」いうて、「ああ、ああ、それに引きかえて僕は何ちゅう不幸な運命の下に生れたのんでしょう」と、芝居のセリフみたいに節つけていいながら、泣きそうな顔するのんです。それが、始めて会うた時から女みたいな男やと思てましてんけど、そないいうて話してみますと、表情や物のいいようまで女の腐ったんみたいにねちねちしてて、何やうるさいほど執拗ひつこうて、横眼でジロジロ邪推深そうに人の顔色うかごうたりして、なるほどこれやったら、光子さんかてそない好きと違うんかなあいう気イしますねん。そいからいつや笠屋町で着物取られた時にしたかて、綿貫は私呼ぶのんに反対やった。もうあないになってんやったら度胸きめて、仲居さんの着物借って帰ったらええ、そんで「こないこないの訳で深う約束した男あります」いうたら、出来たことしょうがないよってかいってはよ結婚出来る、出来なんだらけ落ちする覚悟きめたら、ちょっともこわいことあれへんのに、あんな時に何も知らんお姉さん呼ぶやなんて、そんな厚かましいこと出来るもんか、第一呼んだかて来てくれへんにきまってるいうてんけど、光子さんは「着物なかったら今晩家いなれへん」いうてどないしても聴きはれへなんだ。「それやったら、いっその事こいから何処ぞい逃げよやないか」いうても、「そんな事したら後のために悪いさかい、あてが巧アいこというて姉ちゃん呼んで見せる。あてがいうたら、あの人『イヤや』いうこといわれへん。ちょっとぐらい怒られたかてどないなと胡麻化ごまかしてやる」いうて、自分で電話かけに行きやはった。「そんでもあの時、誰ぞもう一人電話口に立っててコソコソ相談してたみたいでしたがなあ」いいましたら、「そら僕かて心配やさかい、傍に附いてたんです」いいますねん。
 そんなこといろいろはなしもって知らん間に三休橋さんきゅうばし渡って、本町筋ほんまちすじまで来てしまいましてんけど、私も綿貫も「もうちょっと話しまひょなあ」いうて、電車道越えて北浜きたはまの方い行きましてん。何せ私は今まで光子さんちゅう人を通してばっかり想像してて、何かにつけてただもう男が悪いのんや思てましたが、さっきからの様子見てましたら、そないウソつきみたいとも違いますし、女性的なとこや疑がい深いとこあるのんも、生れつきにもるとしたかて、光子さんの態度がそないさしてしもたのんかも分れへんし、……私にしたかて今まで大分だまされたお蔭でひがんでるとこあるねんし、……それ考えたら無理もないとこもあるのんで、まあちょっとぐらい邪推じゃすい交ってるとしたかて、とにかく本気で私に同情求めてるみたいに思われますねん。尤も自分より私の方が愛されてるいうのんは、どないしても私には信じられしませんのんで、「そら違いますやろ、そら綿貫さん、あんまり気イ廻し過ぎますで」いうて慰めたげたのんですが、「いやいや、僕かてそない思いたいのんですけど、絶対にそんなことあれしません。お姉さんはまだほんまの光ちゃんの性質知りゃはれしませんのんです」いうて、――光子さんは私に対しては綿貫を愛してるみたいに見せかけ、綿貫に対しては私を愛してるみたいに見せかけてる、そんなことするのん好きなたちなんや。けど孰方どっちやいうたら、私の方余計愛してるのんで、そやなかったらあんなり絶交したみたいになってたのんに、わざわざ病院の名前かたったりして会いに行く訳ないやないか。「いったいあの時、光ちゃんはお姉さんとこい行てどんな工合にいうたのんですか、どんな事からより戻ったのんですか、僕は後から聞いたのんで委しいことは知らんのんですが」いいますよって、あの出血騒ぎの一件みんな話して聞かしますと、「ふうん、ふうん」いうて一と言一と言ビックリしながら、「そんな騒動したいうこと、僕は夢にも知りません。そら、おなか大きかったのんはほんまです。しかし僕は子供出来るのんやったら出来た方がええいう意見で、薬飲んだり不自然な手段取ったりしたらいかんいうてたのんに、自分勝手にお姉さんのとこい相談しに行ったいうのんで、後で怒ったぐらいですねん。そやけど、僕に内証で薬飲んだことあったにしたかて、そない苦しんだり出血したりしたいうことウソに違いあれしません。いったい、その血イみたいなもん何ですやろ」いうて、そないまでして仲うなりたいいうのんは、私愛してるのんでないと出来んことやいうのんです。なるほどそれもそうですけど、そんなら何で綿貫と会うてはるねんやろ? ほんまに私好きやったら、もうとうに綿貫放ってしまうのん当り前やないか? それがおかしいいいましたら、光子さんいうたら自分がどない「好きやなあ」思てもその弱点見せんようにして、むこが自分をしとうて来るように仕向けたがる。自分は絶世の美人やよって、いつも高う止まってて、誰ぞに崇拝ささんと淋しい。自分の方からいい寄ったりしたら値打ち下る思い込んでる。そやさかい私に嫉妬しっと起さして、自分が優越な地位にいるために綿貫いうもん利用してるのんや。「それに一つは、別れるやなんていい出したら僕が何するか分れへん思て、恐がってるのんです。今更そんなこといえる関係やあれしませんのんに、もしもそないなったら、僕は名誉と生命をけてあらゆる復讐ふくしゅうしてやります」いうて、へびみたいな眼エで人の顔ジロジロにらむのんです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 その十九
 
「どうです、お姉さん、まだちょっとおよろしいですか?」「ええ、ええ、私やったらかめしません。」「そしたらまたもとの方い戻りまひょか」いうて北浜の通りから南の方い今歩いて来た道帰りながら、「結局僕とお姉さんとはかたき同士にさされてるのんですが、僕が負けるのんにきまってます」いいますよって、「私はそない思えしません。光ちゃんと私とはなんぼ熱烈に愛し合うてたかて自然にそむいてるさかい、もし孰方どっちぞが捨てられるいうことになったら私の方が捨てられます。光ちゃんの家の方にしたかて、あんたには同情しやはりますやろけど、私に同情してくれる人誰もあれしません」いいますと、「けどお姉さんのは、その不自然という点に強味あると思います。何でやいうたら、異性の相手さがそ思たら僕以外にもなんぼでもあるけど、同性の相手やったらお姉さんの代りになる人外にちょっとあれしません。そやさかい僕はいつでも捨てられるけどお姉さんは捨てること出来ません」いうて、――あ、そうそう、そればっかりやあれへん、同性の愛やったらどんな男と結婚したかて、続けて行かれる。夫が何人変ったかてちょっとも影響せえへん、そしたらお姉さんと光ちゃんの愛は夫婦の愛よりも永久不変やいうて、「ああ、ああ、僕は何ちゅう不仕合わせな男でしょう」と、またしても例のセリフ繰り返すのんです。そいからしばらく考えてて、「なあ、お姉さん」いうて、「僕、お姉さんに正直なとこ聞かしてもらいたいのんですが、光ちゃんが僕を夫に持つのんと、外の男持つのんと、孰方の方をお姉さんは望まれますか」いいますよって、そら私かてどうせ光子さん結婚しやはるのんやったら、前から事情知っててくれる綿貫と一緒になりやはる方が都合ええのんにきまってますさかい、そないいいますと、「そしたら僕とお姉さんとは敵同士になる理由あれしませんやないか」いうて、もうこれからは同盟しょう、そして焼餅みたいなん焼くのん止めて、お互に助け合うて馬鹿な目エにわされんようにしょう。――なんせ今までは二人離れてたために光子さんの思うままに利用しられた。そやさかいこれからはちょいちょいそうッと会うようにして連絡取って行こやないか。尤もそないするのんには二人が完全に諒解りょうかいし合うて、互の立ち場認めんといかん。光子さんのいいぐさ真似まねシするのんやないけど、同性の愛と異性の愛とはまるきりたちが違う思たらなんにも嫉妬することあれへん。ぜんたいあんな綺麗な人たった一人で愛そいうのんが間違うてる。五人も十人も崇拝する人あったかて当り前やのんに、二人で占領するいうのん勿体もったいない。それも男やったら自分一人や、女やったら私だけやいう工合に考えたら、世の中に自分らほど幸福なもんあれへんやないか。二人ともそない思て、その幸福いつまででも自分らだけが握ってて外の人に取られんようにしたらええのんやいうて、「どないです、お姉さん」いいますよって、「あんたさいその気イなら、私かて約束守ります」いいましてん。「僕、お姉さん味方になってくれなんだら、ぱっと世間に知れ渡るようにして、自分もあかんようになる代り、お姉さんかてあかんようにしたげよ思てたのんですけど、それ聞いてほんまに安心しました。光ちゃんのお姉さんやったら僕に取ってもお姉さんです。僕女きょうだい一人もないのんで、お姉さん親身の姉や思て大事にしますさかい、お姉さんもどうぞほんまの弟や思て、何でも思い余ることあったら遠慮のう打ち明けて下さいませんか。僕ちゅう人間は、敵になったらどんな恐いことでもする代り、味方になったら命投げ出してもお姉さんのために尽します。お姉さんのお蔭で光ちゃん嫁に持つこと出来たら、夫婦のことやかい後廻あとまわしにしてもお姉さんのためはかります。」「きっと、きっと、そないしてくれはる?」「きっとですとも、僕かて男です。一生お姉さんの御恩忘れるようなことせえしません。」――そんでとうとう、また「梅園」の前まで歩いて来てしもたのんで、そしたら今度、いつでも必要なこと出来たら「梅園」で待ち合いしまひょいうて、堅い握手して別れましてん。
 私は一人で帰って来る途々みちみち何や知らん胸がわくわくするぐらい嬉しいて、光子さんはそない私を愛しててくれる? 私の方が綿貫よりずっと愛されてる? まあ、そんなこと、夢やないのんか?――つい昨日までは二人のために玩具おもちゃにしられてる思い込んでたのんに、急に形成変ってしもて、まるきりきつねにつままれたみたいな気イしましてんけど、そいでも綿貫のいうたこといろいろ考えてみましたら、好きとちごたらあんな騒動するはずないいうのんもほんまやし、そやなかったらちゃんとした人ありながら私と会ういう訳ないし、――それに、今になってから初めごろのことだんだん思い出してみますと、あの観音様のモデルのことでやかましいうわさ立った時分、光子さんかて私がどんな気持でいたか大方素振そぶりでも察しついてたですやろし、道ですれちごた時やかいに「この人うちに気イあるねんなあ」思て、今に誘惑してやろと待ち設けてなさったのんかも分れしませんねん。そないいうたら二人が始めて物いうたのんも、いい出したのんは私ですけど、いつでも済ましてなさるのんにニッコリ笑いなさったのんで、つい釣り込まれて口きいたのんやし、裸体の姿見た時にしたかて、見せてくれいうたのんは私ですけど、そないいわすように持ちかけなさったのんやし、――ぜんたい私、なんぼ光子さん崇拝するいうたかて、どんなことから今みたいな仲になってしもたのんか、それにはいろいろ夫に対して不満あったとこい、学校であんなうわさ立てられたのんが反動的に作用したこともありますやろが、私にそんな可能性あること見抜いて、知らん間アに暗示かけてなさったのんかも分れしませんし、それ考えたらあのM家との縁談の事にしたかて口実みたいに思われますし、――なんせ自分の仕掛けたわない私おとしいれながら、うわべはいつでも私の方から手エ出した形にさされてたいう気イしますねん。そら綿貫のいうたことかて一から十まで信用出来でけしませんし、あの着物取られた晩でもたしかに綿貫が指図さしずしたのんと違うかしらん。SK病院から電話かかった時にしたかて、あの男の声綿貫でのうたら外にそんな事頼まれる人あるかしらんいう工合に、疑がい出したらに落ちんこともあるのんですけど、――第一子供生れるいうこと、なんで私に隠してなさるのんか、あんな心配さしときながら、そんな水臭いことするやなんて、やっぱり私の方があなどられてること知れたある、ひょッとしたらあないに秘密打ち明けて私と光子さんとの仲い水さそいう気やないのんか? そうか今のうちは邪魔されんように味方につけといて、結婚したらってしまうつもりやないのんか?――そない思たら、だんだん疑がいも濃うなって来るのんですけど、そいから四、五日たった或る日、またろうじの外で待ち受けてて「ちょっと、ちょっと、……」いうて、「僕今日お姉さんに相談したいことあるのんですが、『梅園』まで来てくれませんか」いいますよって、一緒に附いて行きましたら、二階の座敷い上って行って、「ただ口でばっかりきょうだいの約束するいうても、お姉さんかてなかなか僕を信じるいう訳に行きますまいし、僕かてやっぱり何や心配ですさかい、お互に疑念残らんように誓約書かわそうやありませんか。実はそのつもりでこんなもん書いて来たのんですけど」いいながら、ふところから二通の証文みたいなもん取り出すのんです。……あ、そう、そう、ちょっとこれ見て下さいませ、これがその時の誓約書ですねん。(作者註。彼女が示した誓約書の内容は話の順序としてここに紹介する必要があるばかりでなく、この文案を作製した綿貫なる男の性格を想像せしむるに足るから、はんいとわず原文のままを左に掲載するであろう。――)
 
 

     誓約書
 
現住所  兵庫県西宮市香櫨園××弁護士法学士 柿内孝太郎妻

柿内園子
明治卅七年五月八日生

現住所 大阪市東区淡路町五丁目××番地会社員 綿貫長三郎次男

綿貫栄次郎
明治卅四年十月廿一日生

右柿内園子ト綿貫栄次郎トハソノ各々ガ徳光光子ニ対シテ有スル緊密ナル利害関係ヲ考慮シ昭和某年七月十八日以降左ノ条件ノ下ニ骨肉ト変リナキ兄弟ノ交リヲていスベキコトヲ誓約シタリ

一、柿内園子ヲもっテ姉トシ、綿貫栄次郎ヲ以テ弟トス、栄次郎ハ年長ナレドモ園子ノ妹ノ夫タルベキ者ナレバナリ
二、姉ハ弟ガ徳光光子ノ恋人タルノ地位ヲ確認シ弟ハ姉ト徳光光子トノ姉妹愛ヲ確認シタリ
三、姉ト弟トハ徳光光子ノ愛情ガ第三者ニ移ルコトナキヨウ常ニ結束シテ防禦ぼうぎょシ、姉ハ弟ト光子トヲ正式ニ結婚セシムルタメニ努力シ、弟ハタトイ結婚後トイエドモ姉ト光子トノ既ニ確立セラレタル関係ニ対シ何ラ異議ヲ申シ立ツルコトナシ
四、モシ両人ノイズレカガ光子ニ捨テラレタル場合ハ他ノ一人モソレト進退ヲ共ニスベシ、即チ弟ガ捨テラレタル時ハ姉ハ光子ト交リヲ絶チ、姉ガ捨テラレタル時ハ弟ハ光子トノ婚約ヲ破棄シ、結婚後ニオイテハ離別スベシ
五、両人ハ他ノ一方ノ承諾ヲ経ズシテ無断ニ光子ト逃亡シ、所在ヲくらマシ、モシクハ情死スル等ノ行為ヲナサズ
六、両人ガコノ誓約ヲナセルコトハ光子ノ反感ヲ挑発スルコトアルベキヲ以テ発表ノ必要ニ迫ラルルマデハ絶対ニ秘密ヲ厳守スベシ、モシ両人ノイズレカガ光子ニ対シ、アルイハ他ノ何人なんぴとカニ対シ発表セント欲スル時ハあらかじメ他ノ一方ト協議スベキ義務アルモノトス
七、モシ両人ノ一方ガコノ誓約ニ違背スル時ハ他ノ一方ヨリアラユル迫害ヲ受クルコトアルベキヲ覚悟スベシ
八、コノ誓約ハイズレカガ任意ニ徳光光子トノ関係ヲ放棄セザル限リ有効トス

以上

昭和某年七月拾八日

姉 柿内園子 印
弟 綿貫栄次郎 印

 
(これだけの文句がかんぜよりじた二枚の改良半紙へ、すこぶる丹念な毛筆の細字で、せせこましい字配りで、一点一画の消しもなく書かれているのである。二枚の半紙の四分の一以上も余白が残っているのを見ると、こんなに細かく書く必要はないのであるが、けだし平素からこういうコセコセした字を書く癖があるのであろう。書体は毛筆を使いれない現時の青年の筆蹟としては決してまずくないけれども、何処どこかに商店の番頭の字のような品の悪い達者さがある。最後の二人の署名だけは、梅園の二階で万年筆で記したものだが、これも柿内未亡人の署名の方が不釣合いに字体が大きい。そして何より無気味なのは、署名の下に小さな花弁を押したようにひろがっている茶褐色ちゃかっしょく斑点はんてんであって、同じものが半紙の綴じ目の割り印をすべき所にも二つぽたぽたとにじんでいる。それが何であるかは未亡人自らが語るであろう。――)「どうです、お姉さん、この条件でよろしいですか? よろしかったら此処ここい名ア書いて判おしてくれませんか? それとも何ぞ足らんとこあるお思いになったら、遠慮のういうてみて下さい」いいますよって、「これだけちゃんときめたあったら結構ですけど、そいでも子供生れた場合に、あんたも光ちゃんも家庭が大事やいう気イになりませんやろか。なんとか其処そこのとこもうちょっと考えて欲しい」いいましたら、「それは第三に規定したある通り、『弟ハタトイ結婚後トイエドモ姉ト光子トノ既ニ確立セラレタル関係ニ対シ何ラ異議ヲ申シ立ツルコトナシ』やさかい、家庭のためにお姉さん犠牲にするようなこと絶対にあれしませんけど、子供生れるいうことそない心配やったら、どうでもお姉さんの気イ済むように此処い書き加えときますが、どないしたらええのんです?」いいますのんで、「今光ちゃんのおなかにある子は結婚するのんに必要やさかい、それはしょうがないとして、結婚してからは子供生まんようにして頂戴」いいましてん。そしたらしばらく考えてて、「よろしいです、そないしましょう」いうて、「どんな工合ぐあいに書いときましょか、こないこないの場合もありますし、こないこないの場合もありますし」と、いろいろ私の気イつかなんだことまで考えてくれて、――その、二枚目の紙の裏のとこいペンで書いたあるのん見て下さいませ、それがその時の書き入れですねん。(作者註。前掲の誓約書の最終の紙面に、「追加条項」として下の文句が附記されている。――「弟ハ徳光光子ト結婚後ニオイテハ常ニ光子ヲ妊娠セシメザルヨウニ注意ス、モシいささカニテモ妊娠ノ疑イアル時ハソノ処置ニ関シ姉ノ指揮ヲ受クルモノトス、」――この文句を記したあとでまた思いついたものらしく、更に次の二箇条が規定してある。――「結婚前ノ妊娠トイエドモ、ソノ妊娠中ニ結婚シ、結婚後ナオ避妊ガ可能ナル時ハシ得ル限リノ手段ヲ取ルベシ、」「弟ハ妻ガ協力シテコノ追加条項ヲ忠実ニ履行スル保証ヲ得ルニアラザレバ、光子ト結婚スルコトヲ得ズ、」――そうして此処にも茶褐色ちゃかっしょくしみが点々とされているのである。)――それ書いてしまうと、「こいだけめといたら安心です、これ読んでみたらお姉さんの方が僕よりよっぽど有利なくらいです、これで僕の誠意のあるとこお分りになったでしょ」いうて、「さあ、サインして下さい」いいますねん。そんで私、「サインするのはしてもええけど、判持ってエしません」いいましたら「きょうだいの約束するのんに普通の判では役に立てしません、お気の毒ですけど、ちょっとばかり痛いのん辛抱してくれませんか」いうて、ニヤニヤ笑いながらたもとの中から何か出すのんです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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