卍(まんじ) 谷崎潤一郎

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 その二十
 
「どうぞ此処のとこ出して下さい、痛いいうてもほんちょっとの間です」いうてるうちにもうシッカリ手エ握ってて、指の先か思てましたら、肩の方までそでまくり上げて、二の腕の上と下とをハンカチでくくろとするのんで、「判おすのんにそんなことせえでもええやあれしませんか」いいましたら、「判おすだけと違います。きょうだいの約束するんです」いうで、自分も同じように腕まくって、私の腕と一緒にそろえて、「よろしですか、お姉さん、声出したらいけませんで。……あれいう間に済んでしまいますよって、眼エつぶってなさい」いいますねん。「イヤや」いうたらどんな目に遇うか分れしませんし、逃げよ思ても手頸てくび握られてますし、光る物見たら気が顛倒てんとうしてしもて、眼エつぶってる間に、咽喉のどでもどないぞしられるのんやないかと生きてる心地ここちせえしませなんだけど、殺されたら殺された時思てあきらめてますと、ひじの上のとこスルスルと鋭利な感覚がした思たら、ぞうッとして脳貧血起しそうになりましたが、「しっかりしなさい、しっかりしなさい」いうて、自分の腕出して、「さあ、お姉さんから先イ飲んで下さい」いうのんです。そいから、「此処と、此処と、此処い判おすのんです」いいながら自分で私の指つかんでペタペタおしてしまいましてん。
 私は綿貫いう男がつくづく恐い気イしましたので、正直に約束守るつもりで、その誓約書は大事に箪笥たんす抽出ひきだしいかぎかけてしもといて、光子さんには済まん思いながら素振りにも悟られんようにしてましてんけど、そいでも隠し事してると何処ぞオドオドした様子出るのんか、明くる日不思議そうに私の顔見てなさって、「姉ちゃん何で、ここのとこ傷したのん?」いいなさるのんです。「ああ、これどないして出来たのんか、ゆんべあんまりアにわれて、夢中できむしッたのんか知らん」いいますと、「おかしいなあ、栄ちゃんもちょうどそれと同じもん出来てるねんわ」と、そないいわれたら、ああ、悪い事出来んもんやなあ思うて急に私の顔色変って来ましたのんで、「姉ちゃん何ぞあてに隠してるのんと違う? それどないして出来たのんか、ほんまのこというて頂戴」いいなさって、「隠したかて大概分ってる、姉ちゃんはあてに内証で何ぞ栄ちゃんと約束したことあるねんなあ?」――そら、光子さんいうたらそういうことには早う気イ廻るのんで、そない図星ずぼし刺されたらもうとぼけること出来でけしませんけど、そいでも真っ青になりながら黙ってますと、「きっとそうに違いないやろ? なんでそれいうてくれへん」いうて、――だんだん聞いてみましたら、きのう綿貫はあれから帰りに、腕の傷コッソリ光子さんに見られてしもてて、その時から何ぞ訳あるのんやなあと思てた、そないに二人同じ日に同じとこへ傷出来るはずあれへんいいなさって、「姉ちゃんはあてと栄ちゃんと孰方どっちが大事や」とか、「隠す以上はあてに知れたらいかんことあるねんやろ」とか、しまいには私と綿貫との間にイヤなことでもあったように「それ聞かんうちはどないしても帰せへん」いいなさるのんですが、そんな時にも光子さんは一杯涙ためたなりじっと落ち着いてなさって、恨めしそうににらんでなさるだけですねんけど、その眼エえらい妖艶ようえんで、何ともいえんなまめかしい風情ふぜいあって、「なあ姉ちゃん」いいながら甘えるようにその眼エ使われたら、なかなか魅力に逆らういうこと出来しません。それにそこまで感づかれたらいずれ一と騒ぎ持ち上ることまってますし、隠すだけ疑がわれること分ってますねんけど、綿貫に相談せんうちはウッカリいう訳に行きませんので、「どうぞ明日まで待って頂戴」いいますと、明日いわれることが何で今日いわれへん、人に相談していうぐらいやったら聞かいでもええ、自分にだけそうッとせてくれたら迷惑かかるようなことせえへんいうて、どないしても聴きなされしませんさかい、「光ちゃんそないいうけど、あんたかってあてに隠してることあるやろ」いうてやりますと、「あてが何隠してる? 何でも正直にいうたげるよって、そない思うことあったら聞いて頂戴」いいなさいますねん。「ふうん、きっと隠してることないなあ?」「きっとあれへん。そら隠すつもりやのうて、いわなんだことあるかも知れんけど。」「あんたあてに、何んぞ体のことについて隠してることあるやろ?――」「何いうてるのん、姉ちゃん?」「あのなあ、いつやあんた家い来て苦しがったわなあ、あの時ほんまにおなかの中に子供あったん?」「ああ、あの時のこと」いうて、さすがに極まり悪そうにあかい顔しなさって、「そらあの時は姉ちゃんに会いとうてわざとあんな真似まねしてん。……」「あてそんなこと聞いてるのんやあれへん。あの時はほんまに子供出来てたのんかどうか、それ知りたいねん。」「そら、出来てえへんなんだ。」「そんなら今でも出来てえへんの?」「そんなこと極まってるやないか、なんでまたそれ疑ごうてるのん?」「なんでいうことないねんけど、疑がうだけの訳あるねん。」「ああ、姉ちゃん」と、その時光子さんは「もう分ってる」いう顔しなさって、「姉ちゃんきっと、あて妊娠してるいうこと栄ちゃんにいわれたのんやろなあ? あの人きっとそんなこというねん、ほんまいうたら子供生ます能力もないくせに、――」と、そないいいなさるか思たら、一所懸命歯ア喰いしばって、眼エに一杯たまってた涙が急にポトポトべたつとてるのんです。
 私はビックリして、「何やて、光ちゃん?」いいながら自分の耳疑ごうてますと、そのあいだにもうさめざめ泣いてなさって、実は今まで、自分のことについては何一つ隠してえへんけど、綿貫には人にいわれん秘密あって、それ知られたら自分も恥かしいし、あの人も気の毒な思ていわんといた。けど姉ちゃんに蔭でいろいろな中傷したりするのんやったら、もうあんな人、可哀そうなことも何もあれへん、自分が今みたいになってしもたのんも元はいうたらあの人や、自分の不仕合わせはみんなあの人の仕業しわざやいうて、またえらい泣きなさって、そいから綿貫ちゅうもん知った時のことから始めてくわしいに話しなさって、なんでも二年前の夏、浜寺はまでらの別荘いてた時分、お互に物いうようになって、或る晩散歩に誘い出されて、海岸に置いたある漁船の蔭に連れて行かれた。そいで夏過ぎてからも、大阪の家が近いとこにあったさかい常時孰方どっちぞから呼び出してはうてたら、或る時女学校時代のお友達から綿貫のことについて妙なうわさあるのん聞いた。そのお友達いうのんは、いつや二人が宝塚歩いてるとこ見たことあるのんで、そののち朝日会館の映画のゆうべの時やったかに、光子さんが一人で屋上庭園に出てなさったら、「徳光さん」いうて後から肩たたいて、「こないだあんた綿貫さんと歩いてたなあ」いうのんで、「あんた綿貫さん知ってるのん?」いうたら、「うち直接には知らんけど、あの人えらいシャンやいわれて、みんなが騒ぐのんやてなあ、あんたみたいに綺麗かったら一緒に歩いててもちょうどええけど」いうて意味ありげにわろてるさかい、そないに深い関係やない、あの時ちょっと歩いただけやといい訳しなさったら、「そない弁解せんかて、あの人やったら誰も疑がうはずあれへん、あんたあの人の仇名あだな知ってる?」いいますよって、「知らん」いいなさると、『百%安全なるステッキ・ボーイ』いうねんし」いうてクスクス笑てるのんやそうです。それが光子さんには何の事やらさっぱり分れしませんので、根エ掘り葉ア掘り聞いてみましたら、綿貫いう人は無能力者で、中性の人間やいう噂ある、しかもそれにはちゃんとした証人あるのんやいいますねん。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 その二十一
 
 なんでもそれ分ったいうのんは、その光子さんのお友達の知ってる人が綿貫と相愛の仲になってて、人頼んで結婚申し込んだところが、何や向うの親たちがええ加減なこというてちょっともハッキリせえへんのんで、本人同士は真面目まじめに結婚望んでるさかい是非承知して下さいいうたら、栄次郎は実は訳あって一生嫁持たさんつもりですいうのんで、だんだん調べたら、子供の時分にお多福風たふくかぜにかかったのんが元で睾丸炎こうがんえんになった、――私、そんなことよう知りませんけど、お医者はんに聞きましたら、お多福風から睾丸炎になるいうことかてあるもんやそうですなあ? 尤もそないいうてるだけで、ほんまは極道ごくどうしたのんかも分れしませんけど、とにかくそいからその娘さんえらい綿貫憎んでて、――そら考えたら可哀そうでもありますねんけど、そんなんやったら人に交際求めたりイヤらしい手紙くれたりせなんだらええのんに、「あんたは理想の妻や」とか何とか巧いこというてたばっかりやない、散歩いうたらきっと暗いとこい連れて行ったりしたのんは、今から思たら自分がそんな体やさかいそないな事で満足してたのんで、つまりいうたら恋愛の仮面かぶって人玩具おもちゃにしてたのんや。けど綿貫はそういう時に、「僕は結婚せん先に肉体的の関係結ぶいうのん罪悪や思います」いうのんで、しッかりした人や思て感心してたのんがなお腹立つ。そいでその娘さん「どうぞ秘密にしてやって下さい」いわれてましてんけど、口惜くやしまぎれにいろいろな人にしゃべったところが、外にもそんな目エにうた人たあんとあるいうこと分って来て、それが綿貫は、自分がええ男で異性に好かれるいうことよう知ってますさかい、何処いでも女の集りそうなとこいずうずうしいに出て行くのんで、誰でも一ぺんは引っかかりますねん。そやけどプラトニック・ラヴやいうてどない熱烈に愛されても純潔守ってるのんで、大概のものは人格者やいうてなお崇拝して、何処まででも釣られて行って、きわどいとこまで引っ張られてからまってぽんと捨てられてしまう。「ふーん、あんたかってそうやったのん?」「ふん、ふん、うちもそやってん」と、そないいう人方々から出て来て、誰に聞いてみても同じように、或る程度以上になったら妙にコソコソ逃げてしもて、そないいうたらその様子が何や知らんけったいやった、ほんまのプラトニック・ラヴやったら接吻せっぷんするのんかて矛盾してるのんに、あれやったらなにも純潔なことあれへん。みんな欺されてたあいだはそれに気イつきませなんだけど、分ってしもたら、誰も彼もそないいい出して、その人らの捨てられたいうのんが型にまったように、結婚申し込んだら、何やすうッと消えるように逃げられてしもた」いいますねん。そいで中には同情する人もありましてんけど、本人はそない仰山ぎょうさんに自分の秘密知られてる思わんと、そいから後も次から次い処女もてあそんでて、知らん人は今でも常時じょうじ引っかけられてますのんで、「またステッキさん、あんな人つかまえてるし、……」「あのステッキ・ボーイやったら誰もうらやましいことないなあ」いうて、知ってるもんはええ笑い草にしてる。「うちこないだ、徳光さんきっとまだ知らんのやなあ思て、いつぞいうたげよ思ててんし。うそや思うのんやったら誰それさんにかて誰それさんにかて聞いて御覧。」「へーえ、そんなけったいな人! うちまだ接吻しられたことないねんけど、そしたらもう直きしられるやろか」と、光子さんはわざと空惚そらとぼけて、その場アそいで済ましてしもてから、「今日友達にこないこないいわれてんけど、ほんまやろか?」いうて、家い行んでからお梅どんに話しますと、「ほんまかうそとうちゃん知りゃはれしまへんのか?」いうて、あべこべにお梅どんからンねられた。――そらお梅どんにしたら、もしもそんなことあったらそれ光子さん知らんといた訳ない思うのんでしょうけど、光子さんは異性に接触するいうこと始めての経験ですし、「子供生れたらいきませんから」いうてるのんで、別に不審にもせんといた、そやさかい友達にそないいわれてもほんまかうそか自分には分らんいうのんで、お梅どんも始めてビックリして、「とうちゃんとあのお方はんとやったらあんまりそろい過ぎておひなさんみたいやさかい、水さそ思てそんな悪口いうのん違いますやろか。誰ぞに調べてもらう訳に行きまへんか」いうて、そいから内証で秘密探偵に調べさしたら、性的に欠陥あるのんはやっぱり事実に違いないいうて来たのんですねんて。もっともお多福風の結果かどうか分りませんねんけど、とにかく子供の時分からそうやったらしいて、それがどないして探偵に知れたいうたら、光子さんとそないなる前南地なんちで隠れ遊びしてたいうこと突き止めて、その方面調べてみたら、くろとの女でも一ぺん綿貫に引っかかったら大概なもん夢中になる、なんぼ男前ええとしたかてあんまりおかしい、何ぞ秘伝でもあるのんやないかいうて、一時はえらい評判になって、関係あった女たちに聞いてみても、誰も絶対に秘密しゃべらん、そいで噂ひろがって行って、いろいろな方法で詮索せんさくするもん出来て来て、分ったとこでは、初めごろ綿貫は自分に欠陥あるいうこと隠して遊んでましてんけど、そのうちに或る女が秘密ぎつけたいうのんは、その女もやっぱり同性愛の習慣あったのんで、一人前の男やのうても女に愛されるいうこと綿貫にせ込んだらしい。そいから綿貫のこと「男女おとこおんな」やとか「女男おんなおとこ」やとかいうようになったのんやそうですが、そないいわれる時分にはぷッつり遊び止めてしもて、何処のお茶屋いも姿見せんようになった。――私、その探偵の報告書あとで見せてもらいましたら、ずいぶん細かいとこまでも行き届いて調べられてて、そんなこと委しいに書いてありましてん。
 そいで隠れ遊びしてる間に、「自分かて何も悲観することない」いう自信ついて、今度はしろとの女捜してるとこい光子さんが網に引っかかりなさった。――これは想像ですねんけど、きっとそうに違いないやろいうのんで、そんな人間の玩具になった思たら、もうもう生きていられん気イして、ほんまにその時光子さんは死んでしまおか思いなさったそうですが、死ぬのんやったら恨みいうてから死んでやろいう覚悟しなさって、正式に結婚してくれへんか、あんたさいよかったらこっちはちゃんと親の許し得たあるねんし、と、そないいうたら何ちゅうか思ていいなさると、「僕かて望むとこですけど今は都合悪い」とか、「もう一、二年たってから」とか、何の彼のいうて胡麻化ごまかすのんで、「あんたほんまは、何年たっても結婚出来へんのんやろ」いうてやりなさった。そしたら急に顔の色かえて「何でです?」いうよって、「何でや知らんこないこないのうわさありますねんけど」いいなさって、こうなったらうちもあんた捨てる訳に行かんよって、一緒に死んで頂戴いいなさったら、そいでもまだ「そんな噂うそや」いうてましてんけど、探偵の報告書出して見せなさったのんで、その時いうたらなんともいえん顔つきして、「悪かったです、堪忍して下さい」いうて、「一緒に死にます」いいましてんと。けどなかなか死ぬ訳に行けしませんし、さんざん恨みいうてしもたらまた可哀そうになって来て、ついぐずぐずに会うてなさった。それいうのんが、光子さんかて心の底ではやっぱり綿貫のこと忘れること出来んと、一日も長う一緒にいてたいいう気イあったのんですやろが、綿貫の方でもそれ見て取って、自分は今まで、自分の体の秘密知れたら、どない愛してくれてる人でもきっと自分を捨てるやろ思て隠してた、自分に欠陥あるいうこと承知して愛してくれるのんやったら、自分かて何で隠すもんか、自分はこんな体になったのん不仕合わせやとは思うけど、そない重大な欠点やとは思てえへん、それで男子の資格ないいうたら、男子いうもんのほんまの価値何処にあるのんや、男子ちゅうたら外に現われた恰好かっこばっかりできめるのんか、そんなんやったら男子でのうてもちょっともかめへん、深草ふかくさ元政上人げんせいしょうにんは男子の男子たるしるしあったら邪魔になるのんで、やいとすえたいうやないか、男子の中で一番えらい精神的な仕事した人は、お釈迦しゃかさんでもキリストでも中性に近かった人やないか、そやさかい自分みたいなんは理想的人間や、そないいうたらギリシャの彫刻かて男性でも女性でもない中性の美現わしてあるのんやし、観音さんや勢至菩薩せいしぼさつの姿かてそうやし、それ考えても人間の中で一番気高いのん中性やいうこと分ってる、自分はただ愛する人に逃げられるのん心配して隠してたんや、ほんまいうたら、恋愛にしたかて子供生んだりするのん動物の愛で、精神的恋愛楽しむ人にはそないなことやかい問題やあれへん。……
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 その二十二
 
 ……はあ、そらもう綿貫ちゅうたら、そんな工合ぐあいに議論し出したらなんぼでも都合のええ理窟りくつならべて、つべこべつべこべ果てしないのんです。そいでいいますのんに、光子さん死にやはるのんやったら、自分かて一緒に死ぬのん躊躇ちゅうちょせえへんねんけど、自分は死ぬだけの理由見つかれへん、ここで死んだら、ふん、あの男、不具者やいうこと悲観して死によったいわれるのん口惜くやしい。自分はこれぐらいのことで死ぬような意気地いくじなしやあれへん、なんぼでも生きてて、立派な仕事して、普通の人間よりずっと偉大な超人やいうこと見せてやりたい、光子さんかて死ぬぐらいな決心するのんやったら、自分と結婚してくれたらええやないか、今もいう通り、自分みたいなもん夫にするのん恥や思うのん間違うてるし、一層高尚な精神的結婚やいうように考えたら、――もっともそないいうたとこで世間の奴らは理窟分らんと、いろいろな妨害するやろさかい、自分がこんな人間やいうこと無理にこっちから広告して歩かいでもええ、一人や二人噂するもんあったにしたかて、誰もちゃんとした証拠握ってるもんないねんよって、もしもそんなことンねるもんあったら、完全に一人前の男やいうてて欲しい、――それが考えたらほんまに矛盾してますのんで、「ちょっとも悲観することない、超人や」いうぐらいやったら、何にもそないに秘密にせんかて大手振って歩いたらええのんに、何はいても邪魔這入はいらんうちに無事に結婚してしまお、それが第一の目的やさかいその目的果たすためには世間だますいうこともやむをえん、自分らは誰にも退け取らんいうことおなかの中でさい承知してたら差し支いないいいますねん。けど、世間はどうでも親たちまでそないあんじょう欺す訳に行けへんいいなさったら、自分の親は承知で嫁に来てくれる人あったら、どんなに結構や思うか分れへん、反対するのんは光子さんの方の親たちだけやよって、事情打ち明けても許してくれへんことまってるのんなら、やっぱり隠しとかんといかん、光子さんさいその気イになったら隠しとかれへんいうことあれへん。「そんなことして分った時どないするのん?」「分ったら分った時のことやあれしませんか、そないなったら堂々と正義の立ち場説いて聴かして、絶対に外の人とは結婚せんいうて、それでも許してくれなんだら、その時こそ二人で姿隠しても一緒に死んでもええことあれしませんか。」それが本人は、自分の秘密仰山の人に知られてて、仇名あだなまで附けられてるいう風に思えしませんのんで、くろとの女別としたら感づいてるもんちょびッとよりないやろ思てますさかい、巧いこと隠し通せる思てるらしいのんですが、そない都合よう親欺して結婚するいうこと、実際にはなかなか出来しません。綿貫の方には親いうてもお母さんと、後見こうけんしてる叔父おじさんとがあるだけやさかい、一ぺん光子さんが会うてくれて、「こないこないの訳ですよって、いずれ家から表向きに申し込んで来たら黙って承知して下さい」いうたら、お母さんはよう分ってくれる、叔父さんかて、わざわざ人の欠点あばいて折角の縁談ワヤにするようなことせえへんいうのんですけど、光子さんの考えでは、結婚申し込む先に身元調べるに違いないよって、どないしたかて知れる、そんなことして平地に波瀾はらん起すより当分内証で会うてる方ええやないか、ぜんたい綿貫の方には別に結婚せんならん理由ないのんで、そんな体で無理な相談やいうこと自分かて分ってますねんけど、光子さんの方がそないいつまででも一人でいられるはずないさかい、こんなりでいたらもうつい逃げられへんやろか、それが心配で仕方あれしませんねん。それに口でいうのんとお腹の中とはまるきり反対で、出来るもんなら一人前の男と同じに奥様持って暮らして行きたい、世間欺すばっかりやのうて、自分の心まで欺して、ちょっとも外の男とちごたとこないように思てたいいう気イあるばっかりか、光子さんみたいな人一倍綺麗な奥様持って、世間の奴らアッといわしてやりたいいう虚栄心まであるのんで、せえだいあせってて「そんな一時のがれいうて、ええ縁談あったら行くつもりやろ」いうようなイヤ味いいますねん。そいで光子さんは、どない親にいわれてもきっと余所よそい嫁に行けへん、今のとこ差し迫った縁談あるのんでもなし、そのうち自分も二十五になったら自由結婚出来るようになるし、きっとええ折あるやろさかいまあまあもうちょっと辛抱してて、……そやなかったら死ぬより外に道ないいうて、ようよう納得さしましてんと。
 光子さんのその頃の気持、「ほんまのとこ自分にも分らん」いうてなさるのんですが、初めのうちはそないいうてなだめといて、どないぞして切れてしまいたい思てなさったのんは確かですねん。会うたあとではいつでも後悔しなさって、ああ、ああ、自分は仰山の女の中でも人にうらやましがられる器量持ってながら、あんな男に見込まれるやなんて何ちゅうなさけない身の上やろ、もうもう止めてしまいたい思いなさるのんですけど、そら不思議と、また二、三日も立つうちに自分の方から跡追い廻すようになってしまう。そうかいうて、それほど綿貫恋しいのんかいうたら、精神的にはええ思うとこ一つもない、顔見るのんさいムカムカするような気イして、いやしいッちゃ、見下げ果てた奴ッちゃ、いう風に、おなかの中では常時激しいに軽蔑けいべつしてる。そいで毎日のように会うてることは会うてるけど、二人の気持シックリすることめったにのうて、いつでも喧嘩けんかばっかりしてて、その喧嘩いうのんが、自分の秘密人にしゃべったやろとか、いつまで待たす気イやとか、例のキマリ文句で、愚にもつかんようなこと取り上げては疑がい深いにちゃにちゃした口調でいいますのんで、……光子さんかて、そないいやがること用もないのんに人に話したら綿貫だけの恥やあれしませんし、そんなくらいなこといわれいでも分ってましてんけど、そうかてお梅どんだけにはいわんちゅう訳に行かんのでいいなさったのんを、「何で女子衆みたいなもんにしゃべった」いうて、その時ばっかりはえらい喧嘩になって、光子さんもちょっとも負けてんと、「あんたは偽善者や、いうこととすることとまるきり違てるうそつきや。あてらのしてる事にほんまの恋愛らしいとここんだけもあれへん。」と、思い切りいうてやりなさったら、とうとう文句に詰まってしもて、血相変えて「殺す」いいますのんで、「殺すのんやったら殺したらええ、あてはとうから死ぬ覚悟きめてる」いいなさってじっと眼エつぶったなり、動こともしなされしませなんだ。そしたら綿貫の方が気イまれてしもて、「悪かったよって堪忍して下さい」いいますのんで、「あてあんたみたいな恥知らず違うよって、こんなこと世間に知れたら、あんたよりあての方がどない難儀するか分れへん、もうもういつでもそんないい係りいわんといて頂戴」いいなさって、ぎゅうぎゅういう目に遇わしなさった。そいから綿貫だんだん頭上らんようになりましてんけど、それだけかいって陰険になって、蔭では一層疑がいぶこなりましてん。
 ところがちょうどそないなってる時にM家との縁談持ち上った。――その時分光子さんがあの技芸学校い行ってなさったいうのんは、綿貫と会う機会作るためやったのんですが、私との間に同性愛やいう噂立ったのんは実は誰の仕業しわざでもない、光子さん自身がそないいい触らしなさって、匿名とくめいのハガキ投書しなさったのんですねんて。何でそんなことしなさったいうたら、縁談のこと聞いてからいうもん綿貫の焼餅が激しいて、そんなことあったらただでは置かん、今までの関係一切合財いっさいがっさい新聞い抜いてやるいうて脅迫しますし、それでのうても競争の形になってる市会議員の家の方で手エ廻して、光子さんのアラ捜しして、こっちの縁談滅茶々々にしょうとかかってるのんで、自分はもちろんM家い行こいう気イないさかい競争に負けるのんかめへんけど、そんなことから綿貫との秘密探り出されて、ぱっと知れ渡るようになったら、それが何より恐い。そいでつまるとこ、ほんまのこと知れんように、わざと同性愛の噂立てた。まあいうてみたら、私ちゅうもん利用して世間の眼エくらましなさった。光子さんとしたら、「ステッキ」やとか、「男女」やとかいわれてるもんと噂立つより、同性愛やいわれる方が辛抱出来る、人に後指うしろゆびさされたり物笑いの種にならんと済む思いなさいましてん。そんな工合で初めはただ、私が光子さんモデルにして絵エ書いてるいうこと聞きなさったり、道でちごた時の素振そぶりや何かから、ふっと思いつきなさっただけですねんけど、私の方があんまり真剣で熱烈でしたさかい、だんだん利用する心持からほんまの愛情に変って行きなさった。そら私かて全然純真なとこばっかりやあれしませんけど、そいでも綿貫とは比べ物にならんほど精神的な気持ありましたよって、知らん間にそれにほだされなさって、――それと一つには、綿貫みたいな誰にも相手にしられんような人間の慰め物にしられるのんと、同性の人から観音様の絵にまでかれて崇拝しられるのんとはえらい違いですよって、私というもん出来てから持ち前の優越な感じ、――自尊心戻って来て、始めて世の中があこなったような気イしたいいなさいますねん。そいで綿貫にはこないこないの噂あるのん幸いにこないな人道具に使つこてる、そないした方が家けるのんにも工合ええさかいいうてなさったのんですが、それをそんなりに受けるような綿貫と違いますよって、うわべは「そうですか、そらその方がええでしょう」いいながら心の中では嫉妬しっとやいばぎすましてて、何ぞ事さいあったら私との仲いてやろ思てたのんに違いないいうのんは、あの笠屋町で着物盗まれた事件にしたかて、今考えたらどうも怪しい、あの時別の座敷で博奕ばくち打ってるもんあったとか、刑事乗り込んで来たとかいうのんはみんな根エも葉アもないことで、彼処あそこの家の人に頼んで不意に光子さんビックリさして、逃げてる間に着物すっくり隠すように初めから段取りめといた。――それが、あの日の昼、私のとこい来なさる前に三越みつこしい買い物に行きなさったら偶然綿貫に会いなさったのんで、こいから柿内の姉さんとこ行て帰りにずっと笠屋町い廻るさかい待ってて欲しいうて別れなさった。そいで綿貫は揃いの着物着てなさったこと知ってましたよって、こりゃええ機会や、あの着物ないようにしてやったらどうしても私のとこい電話かけるようになる、そしたら私かて愛憎あいそ尽かすやろいうように考えて待ってる間にあの家のもん買収してこないこないせえいうといた。――綿貫やったらそのくらいのことたくらまんとも限らんし、企らむだけの時間もあった。そやなかったら何ぼ何でも人の着物着て警察い連れて行かれるいうことあんまりおかしいし、光子さんとこいも綿貫とこいも、そんなり警察からなんにもいうて来なんだいう訳あることない。けどその時はまさか計略にかかったとは思いなされしませんさかい、どないしてええのんか顛倒てんとうしてしもてると、「こないなったら、柿内さんとこい電話かけて揃いの着物取り寄せるよりしょうがないでしょ」と、綿貫の方からいい出した。――綿貫の話とはそこえらいちごてて、光子さんはもう取られたのんが揃いの着物やったいうことさい忘れてたくらいあわててなさって、なかなかそんなこと考え出せるどころやなかった。綿貫にそないいわれてからも「姉ちゃんに頼める義理やない」いいなさいましてんけど、「それいややったら僕と一緒に逃げてくれますか、それとも電話かけますか」いわれて、絶体絶命の場合になって、こんな男の道連れになるのん死ぬよりイヤや思いなさったら、後先あとさき分別ふんべつもないよになって夢中で電話口い走って行った。そいでもあの時、近所のカフェエい来てもらうとか、綿貫先帰してしまうとか、あんなとこ私に見せんかて何とかもうちょっとええ工夫あったやろのんに、うろたえてたらそんなこと思いつけしませんし、そこが綿貫のねらいどこですよって「はよしなさい、早しなさい」いうてきたてますし、そのうちに私に来られてしもて「合わす顔ない」いいなさったら「僕ええようにいいますさかい隠れてなさい」いうて、いかにも自分は光子さんの恋人やいう顔つきして、いろいろなこと私にカマかけて聞いてしもた。「ふん、そやねんし。ほんまいうたら、あの人あの時まで姉ちゃんとのことそないよう知ってエへんなんでん」いいなさいますねん。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 その二十三
 
「へーえ、そしたらあの時カマかけられてたのん?『そら光子さんの奥様に対する気持いうたら、全く真剣でしてなあ』いうて冷やかしたりして、人馬鹿にしてる思ててんけど。」「ふん、ふん、わざとそんなこというて、なるだけ姉ちゃんに腹立たそとしててんし。あてふすまの蔭で聞いてて、まあ何ちゅううそつきやろ思てんけど、あんな時に弁解したかてなかなか信用してもらわれへんしなあ。……」そいで光子さんは、計略にかかったいうことに気イつきなさったら、ま忌ましいてならんとこい、それからちゅうもんもう邪魔なもんないようになったのんでなおのことひつこうに附きまとて、何ぞいうたら「あんたこそうそつきや、巧いこというて僕だましてたやないか」いうて、私とのこといつまででも根エに持って、「きっとあんなことぐらいで絶交するはずあれへん、今でも何処ぞで会うてんとは限らん」いうて、自分で会わさんようにしといたくせに、何処までも疑がわんといられん性質やのんか、それともわざと空惚そらとぼけてそんな嫌がらしいうのんか、「あんたも男らしいもない、済んでしもた事そないくどくどいわいでもええ」いいなさっても、「いやいや、済んでしもたことやない、きっとあの人に僕の秘密知らしたあるやろ」いうて、ほんまのとこはそれ一番こわがってて、私に知れたら復讐的にどんな妨害するか分れへんいいますのんで、「邪推もええ加減にして欲しい。あんたちゅうもんあることさい隠してたのんに、なんでそんなことしゃべるひまあるやろ。あんた姉ちゃんに会うたんやったら大概様子で分ったやろのんに。」「いや、その様子に怪しいとこあった」いうて、自分がカマかけたりしますさかい人の態度まで疑ごうて、――それが、ただの嫌がらしとちごて、綿貫にしたら疑がう訳あるいうのんは、自分かて光子さんと私との仲感づいてたように、私にしたかて綿貫と光子さんとの仲知らんといたいうはずがない、知って今まで焼餅も焼かんといたのんは、「あの男は不具な人間や」いうこと聞かされて安心してたのんやろ、そやなかったらまさか黙ってる訳あれへん、そない思て、それがおなかにありますのんで、私を笠屋町の宿屋に呼んだいうのんも、自分はしょっちゅうこんなとこで光子さんと会うてるぐらいで、性的欠陥のある男やないいうこと見せつけるつもりもあったのんです。光子さんかて、「どうぞ姉ちゃんと別れて下さい」と正面から手エついて頼まれなさったら、「イヤ」とはいえん義理ですのんに、あんじょうペテンにかけられた上にそないエゲツのう疑がわれたら、意地でもはかりごとの裏かいてやりとうなりなさるし、あんな心にもないことして仲悪なかわるなった思いなさったら、なおのこと未練残って、どないぞして仲直りしたい、せめて一ト眼だけでも会いたい思いなさいましてんけど、ンねて行ってもたやすうは会うてもらえんやろし、会えたところでどないいうていい訳しょう、今更何いうたにしても気持直してもらえへんやろと、いろいろ考えなさった末あの本のこと思い出しなさって、……あれはほんまに光子さんには用のない本で、やっぱり中川の奥様に貸しなさったのんやそうですが、あの時のことは、ふっとそれからヒント得なさったのんで、SK病院の名前かたってこない電話かけよ、こんな時にはこないしょういう工合ぐあいに、何日もかかって一所懸命考え抜きなさった。もちろん誰にも相談せんと、自分ひとりであんだけの段取り工夫しなさって、ただ電話かけるのんに女の声やったらいかん思て、お梅どんにわけ話して出入りの洗い張り屋の男頼んだ。「あてかてあの時姉ちゃんを取り戻そいう一心で有るだけの智慧ちえ絞ってんし。今考えたらあんなえらい騒動して、眼エり上げて見せるやなんて、役者でもないのんにようあんなことしたなあ」いいなさって、そら、あの時のことは確かに私を計略にかけた。だましたいわれても仕方ないけど、それも自分がどんな気持でしたかいうこと直きに分ってもらえるやろ、そしたら私かて可哀そうなとこそ思えきっと憎いとは思えへんやろと、そない考えてたいいなさいますねん。
 ところが私と仲直りしたいうことそれから間ものう綿貫に知れた。光子さんかてもともと綿貫のたくらんだことあべこべに引っくりかえして見せつけてやろいう気イあるのんで、別に隠そともしなされへんばっかりか、知れたらどんな顔するやろ思て待ち構えてなさったとこですさかい、「あんたこの頃、またあの人とより戻ったんやろ、空惚そらとぼけててもちゃんと分ってる。」「ふん、そんな事ちょっとも惚けてエへん」と、落ち着きはろてなさって「会わんといたかてどうせ疑がわれるぐらいなら、会うた方がしや思てん。」「何で僕に内証でそんなことした?」「内証やあれへん、あてどない邪推しられたかて、せエへんことはせエへんいうけど、したことはしたいうし。」「そうかて今日まで黙ってたやないか。」「そらいうまでもない思たさかい黙ってた、何も一々自分のしたこと報告せんならん思てエへんもん。」「こんな大事なこと報告せんちゅう法あるもんか。」「そやさかい、したことはしたいうてるやないか。」「ただ『した』だけでは分らん、孰方どっちから仲直りしたのんかちゃんとはっきりいうて見なさい。」「あての方からンねて行って、悪かったいうて堪忍してもろてん。」「何やて! なんであやまりに行くことある?」「何でいうて、こんなとこいあんな時間に呼び出しといて、着物借ったりお金借ったりして、放っとくいう法あるかいな。そんな義理の悪いこと、あんたは出来てもあてはようせん。」「借った物はあの明くる日、僕が郵便で返してやった。あんなけがらわしい女にそれ以上礼いう必要あるもんか。」「ふーん、そしたらあの時姉ちゃんの前で何ちゅうた、『僕の一身はどないなっても、この場アさい無事に済んだら御恩は一生忘れしません』いうて、その汚らわしい人に頭下げて、手エ合わして拝んだやないか。そやのんに今頃ようそんなこといえるなあ。第一借ったもん郵便で返すやなんて、もし旦那さんの手エにでも渡ったらどない迷惑しなさるか、汚れてたかていエへんかて世話になったもんは世話になったもんやのんに、何ちゅう恩知らずやろ。あんたそんなこというたら、あの晩のことかて手妻てづまたね見えるような気イするし。…」そないいうてやりなさったら、ぎょッとした顔して、「手妻の種て何のこっちゃ」いいますのんで、「何のこっちゃ知らんけど、何もあれから絶交したともいエへんのんに、あんた独りで絶交したもんとめてるいうのんけったいやないか。そない自分の思うつぼまる思たら間違まちごてるし。」「何や一体、あんたのいうてること僕には分らん。」「あのなあ、あの時の着物あんなり警察から戻って来エへんのん何でやろ?」「今そんなこと問題にしてエへん。」そないいいながら、チクリと痛いとこ刺されたのんで、「何をいうのんか今日はあんた興奮してるで。まあまあ、その話ゆっくり聞こ」いうて、照れ隠しにニヤニヤ笑て胡麻化ごまかしてしもた。けどそんなりで放っとくようなあっさりした男違いますよって、二、三日したら直きまた持ち出して、今度は下手したてに出て光子さんの機嫌取りながら、「あの奥様よっぽど怒ってたはずやのんにどんなこというて丸めたのんか、後学のために聞かして欲しい」とか、「そんな優しい顔しててあんたはえらい手管てくだ上手や」とか、「くろとも及ばん凄腕すごうでや」とか、いろいろなこというておだてたり皮肉いうたりしますのんで、ええ加減なとこで妥協しといた方がええ思いなさって、実はこないこないの計略で仲直りしたいうこと話してやりなさった。「あんたそんな狂言書いて人欺すこといつの間アに覚えてん?」「そらあんたにせてもうてん。」「阿呆あほいいなさい、僕にもちょいちょいその手エ使てるねんやろ。」「ほらまた邪推始まった。あてこんな人の悪いことしたん今度だけやわ。」「そないまでしてあの奥様ときょうだいになりたいいうのん、僕には分れへん。」「けどあんたかてこないだ姉ちゃんに『僕はちょっともかめしません、これから三人仲好うしましょ』いうてんやないか。」「そらあの時あの人怒らしてしもたら難儀やさかい、あないいうといてん。」「うそいうてるわ。あんた姉ちゃんにカマかけたんやないか。あの晩の細工ちゃんとあてに分ってるし。」「そんなこと僕一向知らん。」「あんたよう聞いて頂戴や、一寸の虫にも五分の魂いうことあるよって、蔭い廻ってけったいな事しられた思たら、誰かってそんなりにしとけへんさかいになあ。」「僕がけったいな事したやなんて、何ぞ証拠でもあるかいな。あんたこそ邪推してるやないか。」「邪推なら邪推にしといたらええ。けどあんたかってそないいうのんやったら、ちゃんと、約束した通り姉ちゃんと附き合うたらええやないか。あんたは疑ごうてるか知らんけど、あてかてあんたのイヤがるようなこと決して姉ちゃんにいエへんし。……」そこで光子さんは即座に気転かしなさって、私のとこいあんなこというて来たのんも一つは綿貫のイヤがってること何処までも隠して、一人前の人間やいうこと私に信じさすためやった、自分はそないまでして綿貫の名誉守ってるねんさかい、綿貫さいもうちょっと寛大な気持になったら、この先三人が仲好うして行かれへんいうはずないやないか――と、一方では綿貫の痛いとこおさえてて、かしたり威嚇おどしたりしなさって、「あんたと此処ここで会うてる以上は、姉ちゃんにも来てもらう」いいなさって、私との交際には絶対にくちばし入れんといてほしい、ぐずぐずいうのやったら綿貫捨てても私捨てへんいう覚悟見せなさったのんで、とうどう泣き寝入りになってしまいましてん。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 その二十四
 
「……なあ、姉ちゃん、なんぼ親しい間柄あいだがらかてこんなこというたら自分の恥やし、愛憎あいそつかされるかも分れへん思てじっと辛抱しんぼしててんけど、もうもう今日は何も彼もいうてしもてんし。あてぐらい不仕合せなもん世の中にあるやろか。」――そないいいながら私のひざの上い打つ伏しなさって、涙でそこがびしょびしょれるぐらい激しいに泣きなさるのんで、あんまりのことに何ちゅうて慰めたげたらええのんやら、――なんせ私の知ってる今日までの光子さんいうたら、花やかで、勝ち気で、いつもプライドにちた眼エ耀かがやかしてなさって、そんなつらい思いしてなさったとはちょっとも見えしませんのに、その高慢な、女王みたいにエラそにしてなさった人が、プライドも何にも放ってしもて泣き崩れてなさる様子だけでも、ほんまに思いの外ですねん。光子さんにいわしたら、自分は強情張りやよってどない苦しいことあっても人に見透みすかされんように努めて来てんけど、そいでも姉ちゃんいうもんなかったらもっと陰気になってたやろのんに、姉ちゃんのお蔭で暗い運命に打ちつだけの勇気出た、いつでも姉ちゃんの顔さい見てたら気が晴れ晴れして一切のこと忘れてたけど、今日ちゅう今日はどういう訳か悲しい思い込み上げて来て、意地にも辛抱出来んようになって、長いあいだこらえてた涙のせきが一ぺんに切れた。「なあ、姉ちゃん、どうぞどうぞ、……頼りにするのん姉ちゃんばっかりやさかい、こんな話聞いても愛憎あいそ尽かさんといてエな。」「なんで愛憎尽かすもんか。いいにくいことよういうてくれたなあ。あてかてそない頼りにされたらどない嬉しいか分れへん。」そしたら光子さん気イゆるみなさったのんか、一層止めどものう泣きなさって、自分の一生は綿貫のお蔭で滅茶々々にしられた。もう行末に何の望みも光明もない、生涯うもで暮らすばっかりやいいなさって、自分は死んでもあんな男と結婚せエへん、どうぞ助ける思てあの男と手エ切れるようにしてくれへんか、何ぞええ工夫あったらせて頂戴いいなさるのんで、「こないなったらあてかて正直なこというけど。ほんまいうたらあて栄ちゃんと兄弟の約束してしもて、こないこないの書付かきつけまでかわしてんし」と、昨日の出来事みんな話したげたら、大方そんなことやろ思てた、綿貫の奴、何処まで行っても知られてエへんかいうこと疑ごうてて、わざとそないなこというて姉ちゃんためしてみといてから、自分捨てられたら姉ちゃんも一緒に抱き込んでやろいう気イや。……そないいうとなるほど、「光ちゃんに子供出来たいうこと初耳です」いうたとき、「へえ? 初耳?」いうて血走った眼エして、「何で子供出来るはずないいいましたか、そんな体質やいうのんですか」と唇の色まで変えてたのんが、あの時にもけったいな人やなあいう感じしましたし、それに思い当るのんは、話の中途でためいきついては、「ああ、ああ、僕は何ちゅう不幸な運命の下に生れたのんでしょう」と、二へんも三べんも芝居のセリフみたいな節つけて繰り返したあの言葉、――あの時はなんや、人の同情求めるためにわざとあんなセンチメンタルな声出してる思いましてんけど、それがやっぱり、なんぼずうずうしい男にしたかておなかの中では自分の不仕合わせ嘆いてるのんで、人にいわれん淋しい気持が自然と外に現われたのんかも分れしません。けど「何でそないに妊娠したいうこと隠すのんでしょう? お姉さんにまでウソつかないでもええやありませんか」とか、「子供生れたら何処いなとやってしまういうて、光ちゃんのお父さんかんかんになって怒ってる」とか、巧いこというて探り入れて、――それもええけど、「これ読んでみたらお姉さんの方が僕より得してる、僕の誠意のあることこれでも分りましたやろ」いうやなんて、もともと起る気づかいないのんやったら、どんな条件かて書けるやあれしませんか。そんなありもせんこと種に使つこて、こっちの信用つないだりして、どないな気イやろ? どんな場合にあの約束役に立たすつもりやねんやろ? そらきっと「姉ハ弟ト光子ト正式ニ結婚セシムルタメニ努力シ」いうのんと、「弟ガ捨テラレタル時ハ姉ハ光子ト交リヲ絶チ」いうのんと、「両人ハ他ノ一方ノ承諾ヲ経ズシテ無断ニ光子ト逃亡シ、所在ヲくらマシ、モシクハ情死スル等ノ行為ヲナサズ」いうのんとが、――殊にこの一番しまいの条件が眼目がんもくやのんで、その外のことは勿体もったいらしいに見せかけるための附け足りやと、光子さんはいいなさいますけど、そいだけのことにわざわざこんなもっともらしい形式取り交して、あんな大騒ぎせいでもよさそうなもんですのんに、そんな法律くさい文句並べるのんがあの男の癖なんやそうで、そないいうたら、この頃光子さんの綿貫に対する態度だんだん焼けくそになって来なさって、どないなとなれいうような素振そぶり見せなさるもんですさかい、綿貫の方も近いうちにただでは済まんような事起るいう予覚感じてて、蔭い廻って何ぞ悪さするような様子見えてた。そいでこないだ三人で松竹座い行った時にしたかって、「あんたそないひがんでんと一ぺん姉ちゃんに会うて御覧、そしたら姉ちゃんどんな人やか、あんたの秘密知ってるかどうか、大概話しぶりでも分るやろ」いうて連れ出しなさって、そないしといたら、内証でけったいなこといわれたりする危険ないやろ思いなさったのんですけど、あんな工合ぐあいに妙にこじれて口も利かなんだのんですと。「そしたらあない空々しいしてて、蔭でそうッと手エ握ろいうことあの時から考えてたのんか知らんで」「そらどや知らんけど、あてがあの人ったらかして姉ちゃんと逃げるのんやないかいうで、常時じょうじ心配しててんし。」「きっとあてを道具に使て結婚さいしてしもたら、もうあんたみたいなもん用ないいうて放り出すつもりやってんなあ。」「結婚々々いうてるけど、それかて自分で自分欺くためやのんで、ほんまに結婚出来るとは思てエへんねん。あんまり無理なこというたら、あて生きてエへんこと分ってるし、姉ちゃんちゅうもんある方が外の男に取られる気づかいない思て、今のまま出来るだけ続けていてたいねんし。」……そいで光子さんは、今日も綿貫が待ってるねんけど、今日ばっかりはどないしても会うのんイヤやいいなさって、何ぞ工合ようなしてほしいいいなさるのんですが、今急にそんなこというても怪しまれるばっかりやし、後がかいって悪いさかい、そないいわんと今日のとこは何もこんな話せなんだことにしときなさい、そのうちにあてがきっときっと手エ切れるようにしたげる、あて死んでも光ちゃんの命助けんと置かん、まさかの時はあの男殺してやるいうて、私も一緒に泣きながら力づけたげて別れましてん。
 それが、……そう、そう、その誓約書の日附け見たら分るのんですが、……そうです、そうです、これが七月十八日ですよって、光子さんとそんな話しましたのんが多分明くる日の十九日のことで、ちょうどその時分夫の方は忙しかった事件やっと片附いたのんで、何処ぞい避暑に行こやないか、ことしは軽井沢いでも行ってみよかいいましてんけど、私はなかなかそれどこやあれしませんさかい、光子さん毎日々々淋しがってて、こんな体で自分何処いも出られへんのんに、あんたほんまにうらやましいなあいうてなさるし、行くのんならもうちょっと涼しいになってから箱根いでも連れて行って欲しいいうて、夫が何や物足らん顔してるのんにも頓着とんちゃくせんと、そいから半月ほどいうもんはいッつもいッつも夫の出かけるのん待ちかねて笠屋町い飛んで行きましてん。何しろ私にしましたら、あれからこっち光子さんが別人みたいにしおらしいに見えて、今までは美しい悪魔みたいに思われてたのんが、今度は急にわしねらわれてるはとみたいに思われて来て尚更なおさらいとしさ増したとこい、会うたんびに心配そうな様子してなさって前のような花やかな笑顔えがお見せなさること一日もないのんで、まさかとは思てても短気なことでもしなさったらえらいこッちゃ思たら、気が気やあれしません。そいで私、「光ちゃん、あんた栄ちゃんの前ではせめてもうちょっと浮き浮きしてなさいや、そやなかったらまた感づかれてどんなこといい出すか分れへん」いうて、「きっと、きっと、世間に顔向けならんようにたたきつけてやるさかい、死ぬほどつらいことあってもちょっとの間辛抱してなさい」いいましてんけど、さてどないしたら綿貫叩きつけること出来るか、人欺したりおとしいれたりする計略はむこの方が上手ですさかい、なかなかええ考出てえしませなんだ。私はそないいうてるうちにも、また綿貫がろうじの外で待ったりしてたらどないいい抜けしたらええのんやら、あんな誓約書の条件守らんかてちょっともやましいことあれしませんけど、そいでも約束破ってるのんがやっぱり何や済まんような気イしてて、いつもろうじ出て来るとき、またあのぞっとするような声が後ろから「お姉さん」いエへんかとビクビクしてたのんですが、ええあんばいにあんなりになってますのんで、あんな男のこッちゃさかい、誓約書さい交してしもたら兄弟もくそもあったもんやない思てるねんやろ、結局その方がこっちも助かる思てましてん。そうこうしてるうちに光子さんは毎日々々「姉ちゃんどないぞしてくれへんか、もう一日も辛抱出来へん」いいなさいますし、自分は最後の手段として、わざと綿貫誘い出しておちしようか思てる、その時は何処い逃げるいうこと前に私にせとくさかい、新聞に出されたりしてえらいことになった時分に、もうええ頃や思たらつかまえに来てほし、そないしたらなんぼ綿貫かて二度と寄り附くこと出来んやさかい、自分の名誉もきずつけること覚悟の上でやってみせる、「こっちで相談してることうすうすぎつけたらしいよって、やるのんなら早い方がええ」いいなさるのんで、嗅ぎつけたらあの誓約書たてに取ってあてに何とかいうて来るやろ、まあ、まあ、そんな非常手段最後まで取っときなさい」いうて、――ほんまにあの時分、よっぽど思案に余ってしもて、先生のとこい智慧ちえ貸してもらいに上ろか思たぐらいですねんけど、そんな厚かましいことようせえしませんし、お梅どんに聞いてみてもええ考ないいいますし、いっそのこと夫の力借ろかしらん、うそついてたこと或る程度までは白状して、ただ綿貫の迫害免れるような法律的の手段ないもんか知らん、話しようにったら夫かて光子さんに同情寄せんこともないやろと、困った揚句あげくそんなことまで考えましてん。ところがその夫が、或る日突然、ちょうど私が行ってる時に電話も何もかけんといて笠屋町の宿屋いンねて来たやありませんか。それが事務所の帰りしな、四時半ごろのことで、二階で光子さんと話してましたら、「奥さん奥さん」いうてあわてて仲居なかいさんがけ上って来て、「今奥さんの旦那さんがお見えになって、お二人さんに会いたいいうたはります。どないしまひょ」いいますのんで、「何でやって来たんやろ」とぎょッとしながら顔見合わしましてんけど、「とにかくあて会うて来るわ、光ちゃんそこにすッ込んでや」いうて、玄関い降りて行きましてん。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 その二十五
 
「やあ、えろう分りにくいとこやなあ」と、夫は格子こうしのとこに立ってて、実は今さっき、伊勢の四日市よっかいちい帰る人あって湊町みなとまちの駅まで送って行って、戻りしなに心斎橋筋散歩してたら、光子さんのいなさるとこ確かこの辺やったなあ、きっとお前も来てるやろ思たのんで、急にンねる気イになった。別に用事あるのんと違うけど、いつもお前がお邪魔に上って厄介やっかいになるのんに、近所まで来て顔出しせんのも悪いような気イするし、それに光子さんどないしてなさるか、お見舞いかたがた是非お目にかかって御礼いいたい、差支いなかったら何処ぞで晩の御飯御馳走ごちそうしたい思うねんけど、ちょっとも外い出なさること出来でけへんのんやろかと、何気ない風していうのんですが、どうもそれだけやないみたいな気イして、「この頃は大分目立つようになってなさるよって誰にも会わんようにしてなさるし、なかなか外い出るどこやあれへん」いいましてんけど、「そやったらまあ、会うだけでも会うて行きたい」いいますのんで、それでもいかんいう訳に行けしませんさかい、「どないいいなさるか聞いて来るわ」いうて、「光ちゃん、こないこないいうねんけどどないしょう。」「どないしょう、ほんまに。姉ちゃんどないいうたん?」「大分目立つようになってるよって誰にも会いなされへん云うてんけど、是非ちょっとでもいうてるねん。」「何ぞ訳でもあるねんやろか。」「さあ、あてもそない思うねんし。」「あていっそ会うわ、そんなんやったら。……今お春どんと相談したら、帯上げおなかの上へ締めてその上から着物着なさったらええやろいうよって、そないするわ。ほんまにふところい綿詰めるようになってしもたなあ」いいなさって、そのお春どんいう仲居さんに帯上げ借って、「お客さん階下したの部屋い通して待っててもろて」いうて、その間に私が手ッうて身ごしらいしてましたら、またお春どん上って来て、「そない申しましたけど、一分か二分でええさかい玄関でお目に。かかるいやはって、上りゃはれしません」いいますのんで、そやったらはよせんならんいうて大慌てに慌てて二人がかりで着せましたもんの、冬やったらどないなと胡麻化ごまかせるのんですが、肌襦袢はだじゅばんの上に明石あかし単衣ひとえもん着てなさるだけやのんで、どないしても妊娠のように見えしません。「姉ちゃんあてのこと何カ月やいうといたん?」「何カ月いうたか忘れてしもたけど、人眼につくいうたぐらいやし、六カ月か七カ月になってんと工合悪いなあ。」「これぐらいやったら六カ月に見えるやろか。」「もっと全体が円うにふくれてなんだらいかんし。」そんなこというて三人ともクスクス笑い出しながら、「なんぞもうちょっと持って来まひょ」と、またお春どんがタオルやら何やら持って来ましたのんで、「あんたも一ぺん下い行って、とうちゃん誰ぞに見られたらいかんいいなさって、めったに玄関いも出て来なされしませんさかい、とにかくお上り下さいいうて、なるべく暗いあんまり見えんような部屋い入れといて頂戴ちょうだい」いうて、かれこれ三十分も待たしといてから、やっとどうにか六カ月のお腹拵こしらえて行きましてん。「そんなりでかめへんいうたんやけど、浴衣ゆかたがけでは失礼やいいなさって、着物着かえてなさったのんで、……」と、そないいいながら夫の様子うかごうてますと、かばん傍に置いて、キチンと洋服のひざがしらそろえてすわって、「かいって御迷惑か思いましたけど、あんなり御無沙汰ごぶさたしてますし、一ぺんお見舞いに上らんならん思てたとこいちょうどこの前通りかかりましたさかい」いうて、気のせえか光子さんのお腹の辺ジロジロ見てるみたいですねん。光子さんは「いいえ、うちこそいッつも姉ちゃんにままばっかりいいまして」――と、自分のために避暑に行くのん止めてしまいなさったのん気の毒やとか、姉ちゃんのお蔭で淋しい思い慰めてもろて、大層有難い思てるとか、あんまり口数きなさらんと殊勝しゅしょうらしい聞えるようにあんじょういいなさって、団扇うちわで帯の上のとこ隠すようにしてなさるのんですが、お春どんが気イ利かしてくれたと見えて、昼間でも電気ともさんならんような薄暗い部屋の一番すみの方にすわってなさって、なんせ風通しの悪い上にお腹にいろいろなもん詰めてなさるよって、ずくずくに汗かいてはあはあ息してなさる恰好かっこいうたら、いかにも本物らしいて、「巧いこと芝居してなさるなあ」思いましてん。
 夫は直きに座ア立って、「えらいお邪魔しました、どうぞまたお出かけになれるようになったら遊びに来て下さい」いうて、「もうおそいさかいお前も一緒に帰ったらええ」いいますのんで、「何ぞ訳あるに違いないよって今日はこれで帰る。明日きっと待ってて頂戴」と光子さんにそうッというといて、しぶしぶ連れられて出て来ましたら、「バスに乗って行こ」いうてばしの停留場い出て、そいから阪神で家い帰るまで、夫は不機嫌に黙ってしもて、何いうてもなま返事しかせえしません。家い這入はいると洋服も脱がんと、「ちょっと二階いおいで」いうてどんどん上って行きますのんで、こっちもあらかた覚悟きめて附いて行きますと、寝室のドーアぱたんと締めて、「まあそこいおかけ」と差向いに椅子いすにかけさして、しばらくは物もいわんと、ほっと息ついて考え込んでるのんです。「あんた、今日、何で突然あんなとこい来たん?」と、重苦しい空気破るために私の方からそないいうてやりましたら、「うむ、……」いうてまた考えてて、「お前に見てもらいたいもんあるねん」いいながらポケットから事務所用の封筒に這入はいったもん出して、テーブルの上にひろげたのん見ましたら、そんなり私は真っ青になってしまいましてん。どないして手エに這入ったのんか、「ここに署名してあるのん確かにお前に違いないか」いうて夫はあの誓約書眼エの前い突きつけるのんです。「ことわっとくが、僕はお前の心持次第では決して事を荒立たそう思てエへん。これが僕の手エに這入った径路についても聞きたいのんやったら聞かしてやる。けど第一に、事実お前が署名したもんか、それともこれはニセ物やのんか、その点ハッキリさしときたい。」……ああ、綿貫に先越された! 私の持ってる書付の方は箪笥たんすかぎかけて隠したありましたから、これは綿貫のんに違いないのんで、こんなことするためにこの誓約書書かしたのんか! ほんまに私は、こないだから夫に口利いてもらお思てて、光子さんのことも打ち明けた方が得なことは話してしまお思てたのんに、さっき不意討ちに笠屋町いンねて来られて、あないなったら妊娠してなさるのんうそやいうこと今更いい出しかねて、うその上塗りしてしもてんけど、こんなことになるのんやったらあの時白状しといたらよかった! 「おい、黙ってたら分らん、返辞したらえやないか」と、夫は出来るだけ腹の虫おさえて、やさしい、静かな声出して、「黙ってるとこみたら、これお前書いたと認めてもええねんなあ?」いうて、そいからだんだん話し出すのん聞いてますと、五、六日前に今橋の事務所の方い突然綿貫がンねて来て面会求めた。そいでどんな用事か思て応接間い通して会うてみたら、「今日お訪ンねしたのんは、実は折入ってお願いしたいことあるのんです」いうて、「多分あんたも御承知でしょうが、僕と徳光光子とは結婚の約束したあるばかりでなく、既に光子は僕の種までも宿してますのんに、こっちの奥さんが中に這入っていろいろ邪魔しなさるのんで、光子の仕打ちこの頃日増しに冷淡になって、今の工合ぐあいではいつ結婚してくれるのんか分らんような状態にある。いてはあんたから奥様に意見して下さいませんか」いうよって、「僕の家内が何で邪魔するのんですか。くわしいことは知りませんけど、家内はあんたがたの恋愛に同情してて、一日も早う結婚しなさるのん祈ってるように聞いてましたが」いうたところが、「あんたは奥様と光子との関係がどんなことになってるか、ほんまの事情御存知ないのんです」いうて、今でも前のようやいうことそれとなしにほのめかした。けど初対面の男の話をそのまま信用する気イもなかったし、現にその男の種宿してるもんが別に同性の人とそんな風になってるというのんもけったいなし、何やこの男気イ触れてるのんと違うか知らん思てたら、「お疑がいになるのんももっともですが、ここに確かな証拠あります」いうてこの書付出して見せた。夫はそれ読んだとき、自分の妻がいまだに自分あざむいてたことにも不愉快感じましたけど、それよりもなお不愉快やったのんは、妻と見ず知らずの男とが自分の知らん間に兄弟の約束してるいうことやった。第一ひとの女房とこんなもん取りかわしといて、その女房の亭主の前いれいれいしいに見せつけながら、それに対する一言のいい訳もせんと、まるで刑事が犯罪の証拠つかんだみたいに得意そうにニヤニヤしてるこの男の気イ知れん思たら、一層むかむかして来たとこい、「あんたは此処に署名したあるのん、あんたの奥様の手エやいうことお認めになりますやろなあ」いいますのんで、「なるほど、見たとこではたしかに家内の手エのようですが、それより先に伺いたいのんは、ここに署名してる男は何処の人です」いうてやったら、「それは僕です、僕が綿貫自身です」いうて、まだその皮肉さとらんみたいに平気な顔してる。「この署名の下にしてあるもん何ですか」いうたら、それはこないこないの訳でと臆面ものうその時のこと細こうに話し出すのんで、みんなまで聞かんうちに腹立って来て、「これ読んで見ると、あんたと、光子さんと、園子との関係は委しいに規定してあるが、園子の夫である私については何の考慮も払われておらん。私ちゅうもんは全然眼中に置かれてん。あんたも此処ここに署名しておられる以上当然責任分たれるもんと考えるのんで、一往あんたの立場からその弁明求めたい。まして今のお話のようやと、この誓約書は園子の意志から出たんやのうて、半ば強制的に結ばれたように思われるが」いうてやった、そしたら恐縮するかと思いのほか相変らずニヤニヤ笑てて、「その書付にもある通り僕と園子さんとは徳光光子にって結ばれてるのんで、その関係は園子さんの夫であられるあんたの利害とは始めから衝突してます。もし園子さんがあんた眼中に置かれたら、光子とあないな間柄になることもなかったやろし、こんなもん交すまでもないし、それこそ僕の何より望むとこですけど、妻たる人が自ら進んでしなさるもんを他人の僕がどないすることも出来しません。僕にいわしたらこの書付のような関係認めることが、既に園子さんに対して非常な譲歩してるのんです」いうて、あべこべに夫の監督の不行き届きうらむような口ぶりで、兄弟の約束したいうのんは密通したのんと訳が違う、そやから自分は不道徳なことしたとは思てエへんいうのんです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 その二十六
 
 そんで夫は、そんな書付手エに触れるのんも汚らわしい思いましてんけど、何せ相手が非常識な人間のことやさかい、この男にこんなもん持たしといたら何するか分らん、これはどないぞして取ってしもた方がええ思て、「お話はよう分りました、あんたの仰っしゃる通りやとしたら、頼まれいでも夫たるもんの責任として放っとけません。けど僕としても、あんたとは今日始めてお目にかかったばっかりやし、一往家内のいうことも聞いてみんことには片手落ちになる。いてはこの書付しばらく貸しといてもらえませんか。これ眼の前い突き付けてやったらきっと白状しますやろけれど、そうでもなかったら、なかなか強情な奴ですさかい」いいましたら、貸すとも貸さんともいわんといて、急に大事そうにそれひざの上に置いて、「しかしあんたは、もし園子さんが白状しなさったらどういう処置お取りになるのんです」いいますのんで、「どういう処置取ろと、その時の都合次第やさかい、今から明言する訳に行かん。僕はあんたに頼まれたから家内を詰問きつもんするのんやない。僕はあんたの利害のために動くのんやのうて、僕自身の面目、自分の家庭の幸福のために動くのんやいうことを承知して下さい」いうたところが、何やいやアな顔して、「僕かて何も、自分のために働いて欲しいいうのんやあれしませんが、今度の事は、あんたの利害と僕の利害とが偶然一致してる思たのんで、伺うたのんです。あんたかてそれは認めなさるやろ」いいますよって、「そんなこと僕は考える余裕もなし、また考えとうもありません。失礼ながら、僕はあんたと、ぐるになってそんな事件の中いき込まれとうないのんです。僕は自分の自由意志で自分の妻を処分するだけです」いうてやった。すると「ああ、そうですか、そんなら仕方ありませんが」いうて、「ほんまいうたら、僕かてあんたには縁もゆかりもないのんですから、こんなこと頼みに来られる義理やないのんですけど、そいでも僕、もし園子さんが光子と一緒に逃げるようなことあったら、困るのんは自分ばかりやない、それ知ってながら黙ってたらあんたに対しても不親切や思て来たのんですが」いいながら、ジロジロ人の顔のぞき込んで、「そないなったら、あんたかていやでもおうでも事件の中い捲き込まれてしまいますで」いいますのんで、「いや、御好意は分りました。御親切に対しては感謝します」いうてやりますと、「ただ感謝するいわれただけでは困るのんです。一体あんたは、まさか園子さんに逃げられるようなヘマな事しなさらんやろ思いますが、そいでも万一逃げられた場合にはどないなさいますか、逃げたもんには未練ないいうてアキラメておしまいになりますか、それとも何処まででも追いかけて行って取り戻そいうおつもりですか、そこのとこをハッキリきめといて下さい」いいますよって、「僕は自分の行動について、その時になって見んと分らんこと今から他人に約束したり、それに掣肘せいちゅうしられたりするのんイヤやのんです。まして夫婦のあいだのことはあくまで夫婦のあいだだけで解決つけます」いいましたら、「しかしあんたは、どんな事あってもよもや園子さんを離縁なさるようなことありますまいな」いうのんですて。そのいい方が変に厚かましいて、ひつこうにねちねちからみ着いて来ますのんで、自分の妻離縁しようとしまいと、余計なお世話やないか、何もあんたがそんな心配する必要ありますまいいうてやりましたら、「いや、そいでもあんたは園子さんの実家に恩義あるはずや」とか、「ちょっとやそっとの不都合があったからいうて、園子さん追い出したら義理が済まんやろ」とか、多分光子さんから聞いたのんですやろが、そんな内輪の事情までちゃんと知ってて、「あんたも立派な紳士やよって、まさかそんな不徳義なことしなされへんやろ思います」いうたりするのんで、夫もしまいには腹に据えかねて、「あんたは一体何しに来たのんや。何のためにそんな関係もないこといつまでもべちゃべちゃしゃべってるのんや、あんたに注意してもらわんかて僕は僕で紳士の道守りますけど、それがあんたの利害と一致するかどうかは保証する訳に行けしませんから、どうぞそのつもりでいて下さい」いうたら、「ふん、そうですか、そんなら折角ですがこの書付お貸しすること出来ません」いうて、膝の上い置いてあったのん丁寧に封筒い入れて、内ぼところいしまうのんやそうです。夫はそれが欲しかったことは欲しかったけど、そんな行きがかりになってしもたらもうしょうがない、かいって弱味見せたらあかん思て、「ええ、ええ、僕もいて拝借しようとは思いませんから、御自由にお持ち帰り下さい。但し一言いちごんお断りしておきますが、あんたがそれを、僕の手エ経て僕の家内に示すことを拒まれる以上は、家内が事実を否定した場合に、僕としてもその書付に信を置くこと出来んかも知れない。僕は当然、初対面のあんたより家内の方を信じますから」いうてやった。そしたら独りごとのように「とかく夫が細君に甘いのが間違いの起るもとやのんですな」いうて、「なあに、この書付と同じもんが園子さんのとこいも行ってますよって、何処ぞ捜しなさったらきっと出て来ますで。尤もそんなことしなさらんかて、腕を出さして見なさったら証拠が残ってるはずです。」――と、そないな憎まれ口いうて、「お忙しいとこえらいお邪魔しました」と、わざと落ち着いて挨拶あいさつして出て行きますのんで、それを廊下まで送って行って、あきれた奴や思いながら部屋に戻ってほっとしてますと、ものの五分ぐらいした時分、またコツコツとドーアをノックして、「やあ、只今ただいまは失礼しましたが、ちょっと、あのうもう一遍お邪魔さしてもらいます」いうて、何と思たのんか、今度は妙にニコニコとあいそ笑いしながら、そのほん五分ぐらいのあいだにまるで人間変ったみたいな表情して這入はいって来ましてん。それが夫にはまた気味わるうて、ぎょっとしながら黙って見てましたら、テーブルの前い来て、お辞儀して、「おかけなさい」ともいわんうちに今腰かけてた椅子にかけて、「さっきは僕が悪かったです。僕は今、命にかけてもと思う人を取るか取られるか、大事な瀬戸際にあるもんですから、自分のことにばっかり眼エくらんで、あんたの感情尊重する余裕失うてました。何も悪意あってあんなこというたんやありませんから、さっきのことは水に流して下さい」いいますよって、「それをわざわざいいに来なさったんですか」いいますと、「はあ、そうです、外い出てから考えてみたら、自分が悪かったいうこと分りましたのんで、何や知らん気イ済まんもんですからあやまりに来ました」いうて、「それは御丁寧なことです」いうてやっても、「はあ、……」いうたなり、まだモジモジと腰かけて、けったいな作り笑いして、「実はあのう、こうしてこんなことをお願いに来たりおびに上ったりしますのんも、よくよく苦しい立場に置かれて思案に余った結果やのんですが、どうぞ僕のこの、せつない、る瀬ない、泣くに泣けん胸の中を推量して下さい。それさい察してもらえたらさっきの書付お貸ししてもよろしいのんです」いいますのんで、「察してくれいうて、どんな工合に察したらええのんですか」いいましたら、「正直なとこ、僕は何より、あんたが園子さんを離縁しなさるようになるのんを恐れるのんです。そないなったら園子さんヤケ起してますます邪魔するさかい、光子と僕が結婚する望みなおのことないようになってしまう。僕かてあんたがめったにそんなことしなされへん思いますけど、どない考えても心配やのんは、園子さんが光子連れ出して逃げる場合です、何遍も何遍もくどいようですが、よっぽど監督厳重にして下さらんと、きっと近いうちに逃げるにきまってますのんで、一遍そんなことあったら、たといあんたが心のうちでは園子さんゆるしてやろ思いなさっても、世間の手前そうも出来んようになるかも分らん。それ考えたら僕は危険がもう眼の前い迫ってる気イして、夜もおちおち寝られへんのんです。」――そないいうて、「どうぞ、どうぞ、お願いします」と、額をテーブルいこすりつけるようにして、「そういう訳ですから、自分の都合のええことばっかりいう勝手な奴やとお思いになりますやろけど、僕の窮境察して下さって、これから後、どんな事あっても園子さん逃がさんように責任持って監督する、そいでもまさかくくり着けとく訳にも行けしませんさかい、逃げられることないとは限りませんけど、そないなっても追いかけて行ってきっと家い引き戻すいうこと約束して下さい。それさい『うん』いうて下さったらこの書付お預けします」いうて、「今更こんなこと念押さんかて、あんたは園子さん非常に愛してなさる、決して離縁しなさらんことはよう分ってるのんですが、それを一と言あんた御自身の口から聞かして欲しいのんです。あんたかて僕を哀れんで下さったら、おなかの中でちゃんときまってるこというて下さってもええやありませんか。」――夫はそれ聞いてるうちに、つくづくこの男イヤ味なッちゃ、初めからもっと素直に、人の感情害さんようにいえるもんを、わざとほじくり返すような余計なこというて、顔色見い見い態度いろいろに変えたりして、何ちゅうけったいな男やろう、これなら女に好かれるはずないよって、光子さんかていやになんなさったかも知れん、よっぽど損な性質に生れついた人間や。そない思たら今度はほんまに可哀そうになって来て、「そしたらあんたも、この書付将来明るみい出すようなことせんいうて誓うてくれますか、そして僕が必要と認めるあいだ保管さしといてくれますか、それ承知なら、僕もあんたの条件容れてもよろしいです」いうたら、「この書付は、そこにも書いてある通り双方合意の上でないと人に見せられんようになってるのんですが、既に園子さんの方に背信行為あったと認めますのんで、僕があんた方困らしてやろいう気イあったら、これ種にしてどんな事でも出来んことあれしません。けど僕そんな卑怯ひきょう真似まねする人間でないことは、これわざわざあんたのとこい持って来てお預けするのでも分るやありませんか。なあに、相手に誠意なかったら何ぼこんなもん書かしても反古ほうぐと同じですよって、お役に立つのんならどうぞ持って行って使つこて下さい。僕の方はただ、さっきの二カ条さい約束して下されば満足やのんです」いいますさかい、そんならそれと、何で初めからいわんのんやろ思いながら、「そいでは確かにお預りします」いうて受け取ろとしますと、「ちょっと待って下さい」いうて、「はなはだ恐縮ですが、後日のために一と筆預かり証文書いてもらえませんやろか」いうのんやそうです。それも承知しましたいうて、「右まさニ御預リ致候也」と書いてやりましたら、「その後いもう一と筆書き足して下さい」いうのんで、「何を書くのんです」いうたら、「下名ハ右証書ヲ保管中左ノ条件ヲ遵守じゅんしゅスルコトヲ誓ウ、一、下名ハ下名ノ妻ガ妻タル者ノ行為ニもとルコトナキヨウ責任ヲ持ッテ監督ス、二、下名ハ如何ナル場合ニオイテモ決シテ妻ヲ離縁セズ、三、下名ハ所有主ヨリ請求サレタル時ハ何時ニテモ保管中ノ証書ヲ提示シ、モシクハ返却スベキ義務アルモノトス、四、下名ガ保管中ノ証書ヲ紛失シタルトキハ、何ラカ他ニ所有主ヲ満足セシムル保証ヲ与エザル限リ、第一条及ビ第二条ニ規定シタル義務ヨリ解除セラルルコトナシ、――」それを一遍にすらすらいうのんとちごて、一つ書いてしまうとまた考えて、「あ、もう一と筆願います」いうて、だんだんそんな工合ぐあいに書き足さすのんで、何や、馬鹿々々しい、三百代言だいげんみたいなこという奴や思て、面白半分に好きなようなこといわして、その通り書いてやって、「ではこの後いただきを一つ入れますで。――但シ、下名ノ保管スル証書ガ虚構ノ事実ニもとづケルモノナル時ハベテノ約束ヲ無効トス、――なあ、こない書いといても差支いあれしませんやろ?」いうて、はっとしたらしゅうどぎまぎしてる様子でしてんけど、さっさと構わんと書いてしもて渡してやったら、急にまた未練出たようにぐずぐずしながら、そいでも仕方なしに書付置いて行きましてんと。夫はそこまで一と息に話して来て、「どうや、この書付お前書いたのんに違いないのんか。お前の方にもこれと同じもん行ってるのんなら出して見なさい」いいながら、じっと返答待ってますのんで、私は黙って立ち上って、鍵のかかってる抽出ひきだけて、そこに隠してあったもう一通の方持って来て、無言のままテーブルの上い置きましてん。
 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