痴人の愛 谷崎潤一郎

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痴人の愛
谷崎潤一郎
 
 

 
 
 
 一
 
私はこれから、あまり世間に類例がないだろうと思われる私達夫婦の間柄に就いて、出来るだけ正直に、ざっくばらんに、有りのままの事実を書いて見ようと思います。それは私自身に取って忘れがたない貴い記録であると同時に、恐らくは読者諸君に取っても、きっと何かの参考資料となるに違いない。ことにこの頃のように日本もだんだん国際的に顔が広くなって来て、内地人と外国人とが盛んに交際する、いろんな主義やら思想やらが這入はいって来る、男は勿論もちろん女もどしどしハイカラになる、とうような時勢になって来ると、今まではあまり類例のなかった私たちのごとき夫婦関係も、追い追い諸方に生じるだろうと思われますから。
考えて見ると、私たち夫婦は既にその成り立ちから変っていました。私が始めて現在の私の妻に会ったのは、ちょうど足かけ八年前のことになります。もっとも何月の何日だったか、くわしいことは覚えていませんが、とにかくその時分、彼女は浅草の雷門の近くにあるカフエエ・ダイヤモンドと云う店の、給仕女をしていたのです。彼女のとしはやっと数え歳の十五でした。だから私が知った時はまだそのカフエエへ奉公に来たばかりの、ほんの新米だったので、一人前の女給ではなく、それの見習い、―――まあ云って見れば、ウエイトレスの卵に過ぎなかったのです。
そんな子供をもうその時は二十八にもなっていた私が何で眼をつけたかと云うと、それは自分でもハッキリとは分りませんが、多分最初は、そのの名前が気に入ったからなのでしょう。彼女はみんなから「直ちゃん」と呼ばれていましたけれど、るとき私が聞いて見ると、本名は奈緒美なおみと云うのでした。この「奈緒美」という名前が、大変私の好奇心に投じました。「奈緒美」は素敵だ、NAOMI と書くとまるで西洋人のようだ、と、そう思ったのが始まりで、それから次第に彼女に注意し出したのです。不思議なもので名前がハイカラだとなると、顔だちなども何処どこか西洋人臭く、そうして大そう悧巧りこうそうに見え、「こんな所の女給にして置くのは惜しいもんだ」と考えるようになったのです。
実際ナオミの顔だちは、(断って置きますが、私はこれから彼女の名前を片仮名で書くことにします。どうもそうしないと感じが出ないのです)活動女優のメリー・ピクフォードに似たところがあって、確かに西洋人じみていました。これは決して私のひいき眼ではありません。私の妻となっている現在でも多くの人がそう云うのですから、事実に違いないのです。そして顔だちばかりでなく、彼女を素っ裸にして見ると、その体つきが一層西洋人臭いのですが、それは勿論後になってから分ったことで、その時分には私もそこまでは知りませんでした。ただおぼろげに、きっとああ云うスタイルなら手足の恰好かっこうも悪くはなかろうと、着物の着こなし工合から想像していただけでした。
一体十五六の少女の気持と云うものは、肉親の親か姉妹ででもなければ、なかなか分りにくいものです。だからカフエエにいた頃のナオミの性質がどんなだったかと云われると、どうも私には明瞭めいりょうな答えが出来ません。恐らくナオミ自身にしたって、あの頃はただ何事も夢中で過したと云うだけでしょう。が、ハタから見た感じを云えば、孰方どっちかと云うと、陰鬱いんうつな、無口な児のように思えました。顔色なども少し青みを帯びていて、たとえばこう、無色透明な板ガラスを何枚も重ねたような、深く沈んだ色合をしていて、健康そうではありませんでした。これは一つにはまだ奉公に来たてだったので、外の女給のようにお白粉しろいもつけず、お客や朋輩ほうばいにも馴染なじみがうすく、隅の方に小さくなって黙ってチョコチョコ働いていたものだから、そんな風に見えたのでしょう。そして彼女が悧巧そうに感ぜられたのも、やっぱりそのせいだったかも知れません。
ここで私は、私自身の経歴を説明して置く必要がありますが、私は当時月給百五十円をもらっている、或る電気会社の技師でした。私の生れは栃木県の宇都宮在で、国の中学校を卒業すると東京へ来て蔵前くらまえの高等工業へ這入り、そこを出てから間もなく技師になったのです。そして日曜を除く外は、毎日芝口の下宿屋から大井町の会社へ通っていました。
一人で下宿住居ずまいをしていて、百五十円の月給を貰っていたのですから、私の生活は可成り楽でした。それに私は、総領息子ではありましたけれども、郷里の方の親やきょうだいへ仕送りをする義務はありませんでした。と云うのは、実家は相当に大きく農業を営んでいて、もう父親は居ませんでしたが、年老いた母親と、忠実な叔父夫婦とが、万事を切り盛りしていてくれたので、私は全く自由な境涯にあったのです。が、さればと云って道楽をするのでもありませんでした。ず模範的なサラリー・マン、―――質素で、真面目まじめで、あんまり曲がなさ過ぎるほど凡庸で、何の不平も不満もなく日々の仕事を勤めている、―――当時の私は大方そんな風だったでしょう。「河合譲治君」と云えば、会社の中でも「君子くんし」という評判があったくらいですから。
それで私の娯楽と云ったら、夕方から活動写真を見に行くとか、銀座通りを散歩するとか、たまたま奮発して帝劇へ出かけるとか、せいぜいそんなものだったのです。尤も私も結婚前の青年でしたから、若い女性に接触することは無論嫌いではありませんでした。元来が田舎育ちの無骨者ぶこつものなので、人づきあいがまずく、従って異性との交際などは一つもなく、まあそのために「君子」にさせられた形だったでもありましょうが、しかし表面が君子であるだけ、心の中はなかなか油断なく、往来を歩く時でも毎朝電車に乗る時でも、女に対しては絶えず注意を配っていました。あたかもそう云う時期にいて、たまたまナオミと云う者が私の眼の前に現れて来たのです。
けれど私は、その当時、ナオミ以上の美人はないときめていた訳では決してありません。電車の中や、帝劇の廊下や、銀座通りや、そう云う場所で擦れ違う令嬢のうちには、云うまでもなくナオミ以上に美しい人が沢山あった。ナオミの器量がよくなるかどうかは将来の問題で、十五やそこらの小娘ではこれから先が楽しみでもあり、心配でもあった。ですから最初の私の計画は、とにかくこの児を引き取って世話をしてやろう。そして望みがありそうなら、大いに教育してやって、自分の妻に貰い受けても差支さしつかえない。―――と、云うくらいな程度だったのです。これは一面から云うと、彼女に同情した結果なのですが、他の一面には私自身のあまりに平凡な、あまりに単調なその日暮らしに、多少の変化を与えて見たかったからでもあるのです。正直のところ、私は長年の下宿住居に飽きていたので、何とかして、この殺風景な生活に一点の色彩を添え、温かみを加えて見たいと思っていました。それにはたとい小さくとも一軒の家を構え、部屋を飾るとか、花を植えるとか、日あたりのいいヴェランダに小鳥のかごるすとかして、台所の用事や、き掃除をさせるために女中の一人も置いたらどうだろう。そしてナオミが来てくれたらば、彼女は女中の役もしてくれ、小鳥の代りにもなってくれよう。と、大体そんな考でした。
そのくらいなら、なぜ相当な所から嫁を迎えて、正式な家庭を作ろうとしなかったのか?―――と云うと、要するに私はまだ結婚をするだけの勇気がなかったのでした。これに就いては少し委しく話さなければなりませんが、一体私は常識的な人間で、突飛なことは嫌いな方だし、出来もしなかったのですけれど、しかし不思議に、結婚に対しては可なり進んだ、ハイカラな意見を持っていました。「結婚」と云うと世間の人は大そう事を堅苦しく、儀式張らせる傾向がある。先ず第一に橋渡しと云うものがあって、それとなく双方の考をあたって見る。次には「見合い」という事をする。さてその上で双方に不服がなければ改めて媒人なこうどを立て、結納を取り交し、五とか、七荷とか、十三荷とか、花嫁の荷物を婚家へ運ぶ。それから輿入こしいれ、新婚旅行、里帰り、………と随分面倒な手続きをみますが、そう云うことがどうも私は嫌いでした。結婚するならもっと簡単な、自由な形式でしたいものだと考えていました。
あの時分、しも私が結婚したいなら候補者は大勢あったでしょう。田舎者ではありますけれども、体格は頑丈だし、品行は方正だし、そう云っては可笑おかしいが男前も普通であるし、会社の信用もあったのですから、誰でも喜んで世話をしてくれたでしょう。が、実のところ、この「世話をされる」と云う事がイヤなのだから、仕方がありませんでした。たとい如何いかなる美人があっても、一度や二度の見合いでもって、お互の意気や性質が分るはずはない。「まあ、あれならば」とか、「ちょっときれいだ」とか云うくらいな、ほんの一時の心持で一生の伴侶はんりょを定めるなんて、そんな馬鹿ばかなことが出来るものじゃない。それから思えばナオミのような少女を家に引き取って、おもむろにその成長を見届けてから、気に入ったらば妻に貰うと云う方法が一番いい。何も私は財産家の娘だの、教育のある偉い女が欲しい訳ではないのですから、それで沢山なのでした。
のみならず、一人の少女を友達にして、朝夕彼女の発育のさまを眺めながら、明るく晴れやかに、云わば遊びのような気分で、一軒の家に住むと云うことは、正式の家庭を作るのとは違った、又格別な興味があるように思えました。つまり私とナオミでたわいのないままごとをする。「世帯を持つ」と云うようなシチ面倒臭い意味でなしに、呑気のんきなシンプル・ライフを送る。―――これが私の望みでした。実際今の日本の「家庭」は、やれ箪笥たんすだとか、長火鉢だとか、座布団ざぶとんだとか云う物が、あるべき所に必ずなければいけなかったり、主人と細君と下女との仕事がいやにキチンと分れていたり、近所隣りや親類同士の附き合いがうるさかったりするので、そのめに余計な入費も懸るし、簡単に済ませることが煩雑はんざつになり、窮屈になるし、年の若いサラリー・マンには決して愉快なことでもなく、いいことでもありません。その点に於いて私の計画は、たしかに一種の思いつきだと信じました。
私がナオミにこのことを話したのは、始めて彼女を知ってから二た月ぐらい立った時分だったでしょう。その間、私は始終、暇さえあればカフエエ・ダイヤモンドへ行って、出来るだけ彼女に親しむ機会を作ったものでした。ナオミは大変活動写真が好きでしたから、公休日には私と一緒に公園の館をのぞきに行ったり、その帰りにはちょっとした洋食屋だの、蕎麦屋そばやだのへ寄ったりしました。無口な彼女はそんな場合にもいたって言葉数が少い方で、うれしいのだかつまらないのだか、いつも大概はむっつりとしています。そのくせ私が誘うときは、決して「いや」とは云いませんでした。「ええ、行ってもいいわ」と、素直に答えて、何処へでも附いて行くのでした。
一体私をどう云う人間と思っているのか、どう云うつもりで附いて来るのか、それは分りませんでしたが、まだほんとうの子供なので、彼女は「男」と云う者に疑いの眼を向けようとしない。この「伯父さん」は好きな活動へ連れて行って、ときどき御馳走ちそうをしてくれるから、一緒に遊びに行くのだと云うだけの、極く単純な、無邪気な心持でいるのだろうと、私は想像していました。私にしたって、全く子供のお相手になり、優しい親切な「伯父さん」となる以上のことは、当時の彼女に望みもしなければ、素振りにも見せはしなかったのです。あの時分の、淡い、夢のような月日のことを考え出すと、お伽噺とぎばなしの世界にでも住んでいたようで、もう一度ああ云う罪のない二人になって見たいと、今でも私はそう思わずにはいられません。
「どうだね、ナオミちゃん、よく見えるかね?」
と、活動小屋が満員で、空いた席がない時など、うしろの方に並んで立ちながら、私はよくそんな風に云ったものです。するとナオミは、
「いいえ、ちっとも見えないわ」
と云いながら一生懸命に背伸びをして、前のお客の首と首の間から覗こうとする。
「そんなにしたって見えやしないよ。この木の上へ乗っかって、私の肩につかまって御覧」
そう云って私は、彼女を下から押し上げてやって、高い手すりの横木の上へ腰をかけさせる。彼女は両足をぶらんぶらんさせながら、片手を私の肩にあてがって、やっと満足したように、息を凝らして絵の方をつめる。
「面白いかい?」
えば、
「面白いわ」
と云うだけで、手をたたいて愉快がったり、跳び上って喜んだりするようなことはないのですが、賢い犬が遠い物音を聞き澄ましているように、黙って、悧巧そうな眼をパッチリ開いて見物している顔つきは、余程写真が好きなのだとうなずかれました。
「ナオミちゃん、お前おなかが減ってやしないか?」
そう云っても、
「いいえ、なんにもべたくない」
と云うこともありますが、減っている時は遠慮なく「ええ」と云うのが常でした。そして洋食なら洋食、お蕎麦ならお蕎麦と、尋ねられればハッキリと喰べたい物を答えました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 二
 
「ナオミちゃん、お前の顔はメリー・ピクフォードに似ているね」
と、いつのことでしたか、ちょうどその女優の映画を見てから、帰りにとある洋食屋へ寄った晩に、それが話題に上ったことがありました。
「そう」
と云って、彼女は別にうれしそうな表情もしないで、突然そんなことを云い出した私の顔を不思議そうに見ただけでしたが、
「お前はそうは思わないかね」
と、重ねて聞くと、
「似ているかどうか分らないけれど、でもみんなが私のことを混血児あいのこみたいだってそう云うわよ」
と、彼女は済まして答えるのです。
「そりゃそうだろう、第一お前の名前からして変っているもの、ナオミなんてハイカラな名前を、誰がつけたんだね」
「誰がつけたか知らないわ」
「おとっつぁんかねおッさんかね、―――」
「誰だか、―――」
「じゃあ、ナオミちゃんのお父つぁんは何の商売をしてるんだい」
「お父つぁんはもう居ないの」
「おッ母さんは?」
「おッ母さんは居るけれど、―――」
「じゃ、兄弟は?」
「兄弟は大勢あるわ、兄さんだの、姉さんだの、妹だの、―――」
それから後もこんな話はたびたび出たことがありますけれど、いつも彼女は、自分の家庭の事情を聞かれると、ちょっと不愉快な顔つきをして、言葉を濁してしまうのでした。で、一緒に遊びに行くときは大概前の日に約束をして、きめた時間に公園のベンチとか、観音様のお堂の前とかで待ち合わせることにしたものですが、彼女は決して時間を違えたり、約束をすっぽかしたりしたことはありませんでした。何かの都合で私の方が遅れたりして、「あんまり待たせ過ぎたから、もう帰ってしまったかな」と、案じながら行って見ると、矢張キチンと其処そこに待っています。そして私の姿に気が付くと、ふいと立ち上ってつかつか此方こっちへ歩いて来るのです。
「御免よ、ナオミちゃん、大分長いこと待っただろう」
私がそう云うと、
「ええ、待ったわ」
と云うだけで、別に不平そうな様子もなく、怒っているらしくもないのでした。或る時などはベンチに待っている約束だったのが、急に雨が降り出したので、どうしているかと思いながら出かけて行くと、あの、池のそばにある何様だかの小さいほこらの軒下にしゃがんで、それでもちゃんと待っていたのには、ひどくいじらしい気がしたことがありました。
そう云う折の彼女の服装は、多分姉さんのお譲りらしい古ぼけた銘仙の衣類を着て、めりんす友禅の帯をしめて、髪も日本風の桃割れに結い、うすくお白粉しろいを塗っていました。そしていつでも、継ぎはあたっていましたけれど、小さな足にピッチリとまった、恰好かっこうのいい白足袋を穿いていました。どういう訳で休みの日だけ日本髪にするのかと聞いて見ても「内でそうしろと云うもんだから」と、彼女は相変らずくわしい説明はしませんでした。
「今夜はおそくなったから、家の前まで送って上げよう」
私は再々、そう云ったこともありましたが、
「いいわ、直き近所だから独りで帰れるわ」
と云って、花屋敷の角まで来ると、きっとナオミは「左様なら」と云い捨てながら、千束せんぞく町の横丁の方へバタバタ駆け込んでしまうのでした。
そうです、―――あの頃のことを余りくどくど記す必要はありませんが、一度私は、やや打ち解けて、彼女とゆっくり話をした折がありましたっけ。
それは何でもしとしとと春雨の降る、生暖い四月の末の宵だったでしょう。ちょうどその晩はカフエエが暇で、大そう静かだったので、私は長いことテーブルに構えて、ちびちび酒を飲んでいました。―――こう云うとひどく酒飲みのようですけれど、実は私は甚だ下戸げこの方なので、時間つぶしに、女の飲むような甘いコクテルをこしらえてもらって、それをホンの一と口ずつ、めるようにすすっていたのに過ぎないのですが、そこへ彼女が料理を運んで来てくれたので、
「ナオミちゃん、まあちょっと此処ここへおかけ」
と、いくらか酔った勢でそう云いました。
「なあに」
と云って、ナオミは大人しく私の側へ腰をおろし、私がポケットから敷島を出すと、すぐにマッチを擦ってくれました。
「まあ、いいだろう、此処で少うししゃべって行っても。―――今夜はあまり忙しくもなさそうだから」
「ええ、こんなことはめったにありはしないのよ」
「いつもそんなに忙しいかい?」
「忙しいわ、朝から晩まで、―――本を読む暇もありゃしないわ」
「じゃあナオミちゃんは、本を読むのが好きなんだね」
「ええ、好きだわ」
「一体どんな物を読むのさ」
「いろいろな雑誌を見るわ、読む物なら何でもいいの」
「そりゃ感心だ、そんなに本が読みたかったら、女学校へでも行けばいいのに」
私はわざとそう云って、ナオミの顔を覗き込むと、彼女はしゃくに触ったのか、つんと済まして、あらぬ方角をじっと視つめているようでしたが、その眼の中には、明かに悲しいような、ないような色が浮かんでいるのでした。
「どうだね、ナオミちゃん、ほんとうにお前、学問をしたい気があるかね。あるなら僕が習わせて上げてもいいけれど」
それでも彼女が黙っていますから、私は今度は慰めるような口調で云いました。
「え? ナオミちゃん、黙っていないで何とかお云いよ。お前は何をやりたいんだい。何が習って見たいんだい?」
「あたし、英語が習いたいわ」
「ふん、英語と、―――それだけ?」
「それから音楽もやってみたいの」
「じゃ、僕が月謝を出してやるから、習いに行ったらいいじゃないか」
「だって女学校へ上るのには遅過ぎるわ。もう十五なんですもの」
「なあに、男と違って女は十五でも遅くはないさ。それとも英語と音楽だけなら、女学校へ行かないだって、別に教師を頼んだらいいさ。どうだい、お前真面目まじめにやる気があるかい?」
「あるにはあるけれど、―――じゃ、ほんとうにやらしてくれる?」
そう云ってナオミは、私の眼の中をにわかにハッキリ見据えました。
「ああ、ほんとうとも。だがナオミちゃん、もしそうなれば此処に奉公している訳には行かなくなるが、お前の方はそれで差支さしつかえないのかね。お前が奉公をめていいなら、僕はお前を引取って世話をしてみてもいいんだけれど、………そうして何処どこまでも責任をもって、立派な女に仕立ててやりたいと思うんだけれど」
「ええ、いいわ、そうしてくれれば」
何の躊躇ちゅうちょするところもなく、言下に答えたキッパリとした彼女の返辞に、私は多少の驚きを感じないではいられませんでした。
「じゃ、奉公を止めると云うのかい?」
「ええ、止めるわ」
「だけどナオミちゃん、お前はそれでいいにしたって、おッ母さんや兄さんが何と云うか、家の都合を聞いて見なけりゃならないだろうが」
「家の都合なんか、聞いて見ないでも大丈夫だわ。誰も何とも云う者はありゃしないの」
と、口ではそう云っていたものの、その実彼女がそれを案外気にしていたことは確かでした。つまり彼女のいつもの癖で、自分の家庭の内幕を私に知られるのが嫌さに、わざと何でもないような素振りを見せていたのです。私もそんなに嫌がるものを無理に知りたくはないのでしたが、しかし彼女の希望を実現させるめには、矢張どうしても家庭を訪れて彼女の母なり兄なりにとくと相談をしなければならない。で、二人の間にその後だんだん話が進行するに従い、「一遍お前の身内の人に会わしてくれろ」と、何度もそう云ったのですけれど、彼女は不思議に喜ばないで、
「いいのよ、会ってくれないでも。あたし自分で話をするわ」
と、そう云うのがまり文句でした。
私はここで、今では私の妻となっている彼女の為めに、「河合夫人」の名誉の為めに、いて彼女の不機嫌を買ってまで、当時のナオミの身許みもと素性すじょうを洗い立てる必要はありませんから、成るべくそれには触れないことにして置きましょう。後で自然と分って来る時もありましょうし、そうでないまでも彼女の家が千束町にあったこと、十五のとしにカフエエの女給に出されていたこと、そして決して自分の住居を人に知らせようとしなかったことなどを考えれば、大凡おおよそどんな家庭であったかは誰にも想像がつくはずですから。いや、そればかりではありません、私は結局彼女を説き落して母だの兄だのに会ったのですが、彼等はほとんど自分の娘や妹の貞操と云うことに就いては、問題にしていないのでした。私が彼等に持ちかけた相談と云うのは、折角当人も学問が好きだと云うし、あんな所に長く奉公させて置くのも惜しいのように思うから、其方そちらでお差支えがないのなら、どうか私に身柄を預けては下さるまいか。どうせ私も十分な事は出来まいけれど、女中が一人欲しいと思っていた際でもあるし、まあ台所やき掃除の用事ぐらいはして貰って、そのあい間に一と通りの教育はさせて上げますが、と、勿論もちろん私の境遇だのまだ独身であることなどをすっかり打ち明けて頼んで見ると、「そうしていただければ誠に当人も仕合わせでして、………」と云うような、何だか張合いがなさ過ぎるくらいな挨拶あいさつでした。全くこれではナオミの云う通り、会う程のことはなかったのです。
世の中には随分無責任な親や兄弟もあるものだと、私は、その時つくづくと感じましたが、それだけ一層ナオミがいじらしく、哀れに思えてなりませんでした。何でも母親の言葉にると、彼等はナオミを持て扱っていたらしいので、「実はこの児は芸者にする筈でございましたのを、当人の気が進みませんものですから、そういつまでも遊ばせて置く訳にも参らず、んどころなくカフエエへやって置きましたので」と、そんな口上でしたから、誰かが彼女を引き取って成人させてくれさえすれば、まあともかくも一と安心だと云うような次第だったのです。ああ成る程、それで彼女は家にいるのが嫌だものだから、公休日にはいつも戸外へ遊びに出て、活動写真を見に行ったりしたんだなと、事情を聞いてやっと私もそのなぞが解けたのでした。
が、ナオミの家庭がそう云う風であったことは、ナオミに取っても私に取っても非常に幸だった訳で、話が極まると直きに彼女はカフエエから暇を貰い、毎日々々私と二人で適当な借家を捜しに歩きました。私の勤め先が大井町でしたから、成るべくそれに便利な所を選ぼうと云うので、日曜日には朝早くから新橋の駅に落ち合い、そうでない日はちょうど会社の退けた時刻に大井町で待ち合わせて、蒲田かまた、大森、品川、目黒、主としてあの辺の郊外から、市中では高輪たかなわや田町や三田あたりを廻って見て、さて帰りには何処かで一緒に晩飯をたべ、時間があれば例のごとく活動写真をのぞいたり、銀座通りをぶらついたりして、彼女は千束町の家へ、私は芝口の下宿へ戻る。たしかその頃は借家が払底ふっていな時でしたから、手頃な家がなかなかオイソレと見つからないで、私たちは半月あまりこうして暮らしたものでした。
もしもあの時分、うららかな五月の日曜日の朝などに、大森あたりの青葉の多い郊外のみちを、肩を並べて歩いている会社員らしい一人の男と、桃割れに結った見すぼらしい小娘の様子を、誰かが注意していたとしたら、まあどんな風に思えたでしょうか? 男の方は小娘を「ナオミちゃん」と呼び、小娘の方は男を「河合さん」と呼びながら、主従ともつかず、兄妹ともつかず、さればとって夫婦とも友達ともつかぬ恰好で、互に少し遠慮しいしい語り合ったり、番地を尋ねたり、附近の景色を眺めたり、ところどころの生垣や、やしきの庭や、路端などに咲いている花の色香を振り返ったりして、晩春の長い一日を彼方此方あっちこっちと幸福そうに歩いていたこの二人は、定めし不思議な取り合わせだったに違いありません。花の話でおもい出すのは、彼女が大変西洋花を愛していて、私などにはよく分らないいろいろな花の名前―――それも面倒な英語の名前を沢山知っていたことでした。カフエエに奉公していた時分に、花瓶の花を始終扱いつけていたので自然に覚えたのだそうですが、通りすがりの門の中なぞに、たまたま温室があったりすると、彼女は眼敏めざとくもぐ立ち止まって、
「まあ、綺麗きれいな花!」
と、さもうれしそうに叫んだものです。
「じゃ、ナオミちゃんは何の花が一番好きだね」
と、尋ねてみたとき、
「あたし、チューリップが一番好きよ」
と、彼女はそう云ったことがあります。
浅草の千束町のような、あんなゴミゴミした路次の中に育ったので、かえってナオミは反動的にひろびろとした田園を慕い、花を愛する習慣になったのでありましょうか。すみれ、たんぽぽ、げんげ、桜草、―――そんな物でも畑のあぜや田舎道などに生えていると、たちまちチョコチョコと駆けて行って摘もうとする。そして終日歩いているうちに彼女の手には摘まれた花が一杯になり、幾つとも知れない花束が出来、それを大事に帰りみちまで持って来ます。
「もうその花はみんなしぼんでしまったじゃないか、い加減に捨てておしまい」
そう云っても彼女はなかなか承知しないで、
「大丈夫よ、水をやったら又直ぐ生きッ返るから、河合さんの机の上へ置いたらいいわ」
と、別れるときにその花束をいつも私にくれるのでした。
こうして方々捜し廻っても容易にいい家が見つからないで、散々迷い抜いた揚句、結局私たちが借りることになったのは、大森の駅から十二三町行ったところの省線電車の線路に近い、とある一軒の甚だお粗末な洋館でした。所謂いわゆる「文化住宅」と云うやつ、―――まだあの時分はそれがそんなに流行はやってはいませんでしたが、近頃の言葉で云えばさしずめそう云ったものだったでしょう。勾配こうばいの急な、全体の高さの半分以上もあるかと思われる、赤いスレートでいた屋根。マッチの箱のように白い壁で包んだ外側。ところどころに切ってある長方形のガラス窓。そして正面のポーチの前に、庭と云うよりはむしろちょっとした空地がある。と、先ずそんな風な恰好かっこうで、中に住むよりは絵にいた方が面白そうな見つきでした。もっともそれはその筈なので、もとこの家は何とか云う絵かきが建てて、モデル女を細君にして二人で住んでいたのだそうです。従って部屋の取り方などは随分不便に出来ていました。いやにだだッ広いアトリエと、ほんのささやかな玄関と、台所と、階下にはたったそれだけしかなく、あとは二階に三畳と四畳半とがありましたけれど、それとて屋根裏の物置小屋のようなもので、使える部屋ではありませんでした。その屋根裏へ通うのにはアトリエの室内に梯子段はしごだんがついていて、そこを上ると手すりをめぐらした廊下があり、あたかも芝居の桟敷さじきのように、その手すりからアトリエを見おろせるようになっていました。
ナオミは最初この家の「風景」を見ると、
「まあ、ハイカラだこと! あたしこう云う家がいいわ」
と、大そう気に入った様子でした。そして私も、彼女がそんなに喜んだので直ぐ借りることに賛成したのです。
多分ナオミは、その子供らしい考で、間取りの工合など実用的でなくっても、お伽噺とぎばなしの挿絵のような、一風変った様式に好奇心を感じたのでしょう。たしかにそれは呑気のんきな青年と少女とが、成るたけ世帯じみないように、遊びの心持で住まおうと云うにはいい家でした。前の絵かきとモデル女もそう云うつもりで此処ここに暮らしていたのでしょうが、実際たった二人でいるなら、あのアトリエの一と間だけでも、寝たり起きたり食ったりするには十分用が足りたのです。
 
 
 
 
 
 

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