痴人の愛 谷崎潤一郎

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 十九
 
ナオミがどうしても子供を生むのがいやだというなら、私の方には又もう一つ手段がありました。それは大森の「お伽噺とぎばなしの家」を畳んで、もっと真面目な、常識的な家庭を持つと云う一事です。全体私はシンプル・ライフと云う美名にあこがれて、こんな奇妙な、甚だ実用的でない絵かきのアトリエに住んだのですが、われわれの生活を自堕落にしたのはこの家のせいも確かにあるのです。こう云う家に若い夫婦が女中も置かずに住まっていれば、かえってお互に我がままが出て、シンプル・ライフがシンプルでなくなり、ふしだらになるのはむを得ない。それで私は、私の留守中ナオミを監視するためにも、小間使いを一人と飯焚めしたきを一人置くことにする。主人夫婦と女中が二人、これだけが住まえるような、所謂いわゆる「文化住宅」でない純日本式の、中流の紳士向きの家へ引き移る。今まで使っていた西洋家具を売り払って、総べてを日本風の家具に取り換え、ナオミのために特にピアノを一台買ってやる。こうすれば彼女の音楽の稽古も杉崎女史の出教授を頼めばよいことになり、英語の方もハリソン嬢に出向いてもらって、自然彼女が外出する機会がなくなる。この計画を実行するにはまとまった金が必要でしたが、それは国もとへそう云ってやり、すっかりお膳立ぜんだてが整うまではナオミに知らせない決心を以て、私は独りで借家捜しや家財道具の見積りなどに苦心していました。
国の方からは取りえずこれだけ送ると云って、千五百円の為替が来ました。それから私は女中の世話も頼んでやったのでしたが、「小間使いには大へん都合のいいのがある、内で使っていた仙太郎の娘がお花と云って、今年十五になっているから、あれならお前も気心が分って安心して置けるだろう。飯焚めしたきの方も心あたりを捜しているから、引っ越し先がまるまでには上京させる」と、為替と同封の母の手でそう云って来ました。
ナオミは私が内々何かたくらんでいるのをうすうす感づいていたのでしょうが、「まあ何をするか見ていてやれ」と云った調子で、初めのうちはすごいほど落ち着いていました。が、ちょうど母から手紙が届いて二三日過ぎた或る夜のこと、
「ねえ、譲治さん、あたし、洋服が欲しいんだけれど、こしらえてくれない?」
と、彼女は突然、甘ったれるような、そのくせ変に冷やかすような、猫撫ねこなで声でそう云いました。
「洋服?」
私はしばらあっけに取られて、彼女の顔を穴の開くほど視詰みつめながら、「ははあ、此奴、為替の来たのが分ったんだな、それで捜りを入れているんだな」と気がつきました。
「ねえ、いいじゃないの、洋服でなけりゃ和服でもいいわ。冬の余所よそ行きを拵えて頂戴」
「僕は当分そんな物は買ってやらんよ」
「どうしてなの?」
「着物は腐るほどあるじゃないか」
「腐るほどあったって、飽きちゃったから又欲しいんだわ」
「そんな贅沢ぜいたくはもう絶対に許さないんだ」
「へえ、じゃ、あのお金は何に使うの?」
とうとう来たな! 私はそう思って空惚そらとぼけながら、
「お金? 何処にそんなものがあるんだ?」
「譲治さん、あたし、あの本箱の下にあった書留の手紙見たのよ。譲治さんだって人の手紙勝手に見るから、そのくらいな事をあたしがしたっていいだろうと思って、―――」
これは私には意外でした。ナオミが金のことを云うのは、書留が来たから為替が這入はいっていたのだろうと見当をつけているだけなので、まさか私があの本箱の下に隠した手紙の中味を見ていようとは、全く予期していなかったのです。が、ナオミはどうかして私の秘密をぎ出そうと、手紙のありかを捜し廻ったに違いなく、あれを読まれてしまったとすると、為替の金額は勿論もちろんのこと、移転のことも女中のことも総べてを知られてしまったのです。
「あんなにお金が沢山あるのに、あたしに着物の一枚ぐらい拵えてくれてもいいと思うわ。―――ねえ、あなたはいつか何とって? お前のめならどんな狭苦しい家に住んでも、どんな不自由でも我慢をする。そうしてそのお金でお前に出来るだけ贅沢をさせるって、そう云ったのを忘れちまったの? まるであなたはあの時分とは違っているのね」
「僕がお前を愛する心に変りはないんだ、ただ愛し方が変っただけなんだ」
「じゃ、引越しのことはなぜあたしに隠していたの? 人には何も相談しないで、命令的にやる積りなの?」
「そりゃ、適当な家が見付かった上で、無論お前にも相談する積りでいたんだ。………」
そう云いかけて、私は調子を和げて、なだめるように説き聞かせました。
「ねえ、ナオミ、僕はほんとうの気持を云うと、今でもやっぱりお前に贅沢をさせたいんだよ。着物ばかりの贅沢でなく、家も相当の家に住まって、お前の生活全体を、もっと立派な奥さんらしく向上させてやりたいんだよ。だからなんにも不平を云うところはないじゃないか」
「そうお、そりゃどうも有りがと、………」
「何なら明日、僕と一緒に借家を捜しに行ったらどうだね。此処ここよりもっと間数があって、お前の気に入った家でさえありゃ何処どこでもいいんだ」
「それならあたし、西洋館にして頂戴ちょうだい、日本の家は真っ平御免よ。―――」
私が返辞に困っている間に、「それ見たことか」と云う顔つきで、ナオミはんで吐き出すように云うのでした。
「女中もあたし、浅草の家へ頼みますから、そんな田舎の山出しなんか断って頂戴、あたしが使う女中なんだから」
こう云ういさかいが度重なるに従って、二人の間の低気圧はだんだん濃くなって行きました。そして一日口をきかないようなことも※(二の字点、1-2-22)しばしばでしたが、それが最後に爆発したのは、ちょうど鎌倉を引き払ってから二箇月の後、十一月の初旬のことで、ナオミがいまだに熊谷と関係を断っていないと云う動かぬ証拠を、私が発見した時でした。
これを発見するまでのいきさつに就いては、別段ここにそうくわしく書く必要がありません。私はうから、引っ越しの準備に頭を使っている一方、直覚的にナオミを怪しいと睨んでいたので、例の探偵的行動を少しも緩めずにいた結果、る日彼女と熊谷とが、大胆にもつい大森の家の近所の曙楼あけぼのろうで密会した帰りを、とうとう抑えてしまったのです。
その日の朝、私はナオミの化粧の仕方がいつもより派手であるのに疑いを抱き、家を出るなりぐ引っ返して裏口にある物置小屋の炭俵のかげに隠れていたのです。(そう云う訳でその頃の私は、会社を休んでばかりいました)すると果して、九時頃になった時分、今日は稽古けいこに行く日でもないのに彼女はひどくめかし込んで出て来ましたが、停車場の方へは行かないで、反対の方へ、足を早めてさッさと歩いて行くのでした。私は彼女を五六間やり過してから大急ぎで家へ飛び込み、学生時代に使っていたマントと帽子を引きり出して洋服の上へそれをかぶり、素足に下駄穿げたばきで表へけ出すと、ナオミの跡を遠くの方から追って行きました。そして彼女が曙楼へ這入って行き、それから十分ぐらい後れて熊谷がそこへやって来たのを確かに見届けて置いてから、やがて彼等の出て来るのを待ち構えていたのです。
帰りもやはり別々で、今度は熊谷が居残ったらしく、一と足先きにナオミの姿が往来へ現れたのは、かれこれ十一時頃でした。―――私はほとんど一時間半も曙楼の近所をうろうろしていた訳です。―――彼女は来た時と同じように、そこから十丁余りある自分の家まで、傍目わきめもふらずに歩いて行きました。そして私も次第に歩調を早めて行ったので、彼女が裏口のドーアを開けて中へ這入る、すぐその跡から、五分とは立たずに私が這入って行ったのです。
這入った刹那せつなに私の見たものは、ひとみの据わった、一種凄惨せいさんな感じのこもったナオミの眼でした。彼女はそこに、棒のように突っ立ったまま、私の方を鋭くにらんでいるのでしたが、その足もとには私がさっき脱ぎ換えて行った帽子や、外套がいとうや、靴や、靴下があの時のまま散らばっていました。彼女はそれで一切を悟ってしまったのでしょう、うららかに晴れた秋の朝の、アトリエの明りを反射している彼女の顔は穏やかに青ざめ、総べてをあきらめてしまったような深い静けさがそこにありました。
「出て行け!」
たった一言、自分の耳ががんとする程怒鳴ったきり、私も二の句が継げなければナオミも何とも返辞をしません。二人はあたかも白刃はくじんを抜いて立ち向った者がピタリと青眼せいがんに構えたように、相手のすきねらっていました。その瞬間、私は実にナオミの顔を美しいと感じました。女の顔は男の憎しみがかかればかかる程美しくなるのを知りました。カルメンを殺したドン・ホセは、憎めば憎むほど一層彼女が美しくなるので殺したのだと、その心境が私にハッキリ分りました。ナオミがじいッと視線を据えて、顔面の筋肉は微動だもさせずに、血の気のせた唇をしっかり結んで立っている邪悪の化身けしんのような姿。―――ああ、それこそ淫婦いんぷ面魂つらだましいを遺憾なくあらわした形相ぎょうそうでした。
「出て行け!」
と、私はもう一度叫ぶやいなや、何とも知れない憎さと恐ろしさと美しさに駈り立てられつつ、夢中で彼女の肩をつかんで、出口の方へ突き飛ばしました。
「出て行け! さあ! 出て行けったら!」
堪忍かにして、………譲治さん! もう今度ッから、………」
ナオミの表情はにわかに変り、その声の調子は哀訴にふるえ、その眼の縁には涙をさめざめとたたえながら、ぺったりそこへひざまずいて歎願たんがんするように私の顔を仰ぎ視ました。
「譲治さん、悪かったから堪忍かにしてッてば!………堪忍して、堪忍して、………」
こんなにもろく彼女がゆるしをうだろうとは予期していなかったことなので、はっと不意打ちを喰った私は、そのためになお憤激しました。私は両手のこぶしを固めてつづけさまに彼女を殴りました。
「畜生! 犬! 人非人にんぴにん! もう貴様には用はないんだ! 出て行けったら出て行かんか!」
と、ナオミは咄嗟とっさに、「こりゃ失策しくじったな」と気がついたらしく、たちまち態度を改めてすうッと立ち上ったかと思うと、
「じゃあ出て行くわ」
と、まるで不断の通りの口調でそう云いました。
「よし! 直ぐに出て行け!」
「ええ、直ぐ行くわ、―――二階へ行って、着換えを持って行っちゃあいけない?」
「貴様はこれから直ぐに帰って、使いを寄越せ! 荷物はみんな渡してやるから!」
「だってあたし、それじゃ困るわ、今すぐいろいろ入用なものがあるんだから。―――」
「じゃ勝手にしろ、早くしないと承知しないぞ!」
私はナオミが今すぐ荷物を運ぶと云うのを一種の威嚇いかくと見て取ったので負けない気でそう云ってやると、彼女は二階へ上って行って、そこらじゅうをガタピシと引っき廻して、バスケットだの、風呂敷ふろしき包みだの、背負い切れないほどの荷造りをして、自分でとッとくるまを呼んで積み込みました。
「では御機嫌よう、どうも長々御厄介になりました。―――」
と、出て行くときにそう云った彼女の挨拶あいさつは、至極あっさりしたものでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 二十
 
彼女の俥が行ってしまうと、私はどう云う積りだったか直ぐに懐中時計を出して、時間を見ました。ちょうど午後零時三十六分、………ああそうか、さっき彼女が曙楼を出て来たのが十一時、それからあんな大喧嘩おおげんかをしてあッと云う間に形勢が変り、今まで此処に立っていた彼女がもう居なくなってしまったんだ。その間がわずかに一時間と三十六分。………人は屡※(二の字点、1-2-22)、看護していた病人が最後の息を引き取る時とか、又は大地震に出っくわした時とかに、覚えず知らず時計を見る癖があるものですが、私がその時ふいと時計を出して見たのも大方それに似たような気持だったでしょう。大正某年十一月某日午後零時三十六分、―――自分はこの日のこの時刻に、ついにナオミと別れてしまった。自分と彼女との関係は、この時をもっあるい終焉しゅうえんを告げるかも知れない。………
ほッとした! 重荷が下りた!」
何しろ私はこの間じゅうの暗闘に疲れ切っていた際だったので、そう思うと同時にぐったり椅子いすに腰かけたままぼんやりしてしまいました。咄嗟の感じは、「ああ有難い、やっとのことで解放された」と云うような、せいせいとした気分でした。それと云うのが私は単に精神的に疲労していたばかりでなく、生理的にも疲労していたので、一度ゆっくり休養したいと云うことは、むしろ私の肉体の方が痛切に要求していたのです。たとえばナオミと云うものは非常に強い酒であって、あまりその酒を飲み過ぎると体に毒だと知りながら、毎日々々、その芳醇ほうじゅんな香気をがされ、なみなみと盛った杯を見せられては、矢張私は飲まずにはいられない。飲むにしたがって次第に酒毒が体の節々へ及ぼして来て、ひだるく、ものうく、後頭部が鉛のようにどんより重く、ふいと立ち上ると眩暈めまいがしそうで、仰向けさまにうしろへっ倒れそうになる。そしていつでも二日酔いのような心地で、胃が悪く、記憶力が衰え、すべての事に興味がなくなり、病人か何ぞのように元気がない。頭のなかには奇妙なナオミの幻ばかりが浮かんで来て、それが時々おくびのように胸をむかつかせ、彼女のにおいや、汗や、あぶらが、始終むうッと鼻についている。で、「見れば眼の毒」のナオミが居なくなったことは、入梅の空が一時にからッと晴れたような工合でした。
が、今も云うようにそれは全く咄嗟の感じで、正直のところ、そのせいせいした心持が続いたのは、一時間ぐらいなものだったでしょう。まさか私の肉体がいくら頑健だからと云って、ほんの一時間やそこらの間に疲労が恢復かいふくし切った訳でもありますまいが、椅子に腰かけてほっと一と息ついたかと思うと、間もなく胸に浮かんで来たのは、さっきのナオミの、あの喧嘩をした時の異常にすご容貌ようぼうでした。「男の憎しみがかかればかかる程美しくなる」と云った、あの一刹那せつなの彼女の顔でした。それは私が刺し殺しても飽き足りないほど憎い憎い淫婦の相で、頭の中へ永久に焼きつけられてしまったまま、消そうとしてもいっかな消えずにいたのでしたが、どう云う訳か時間が立つに随っていよいよハッキリと眼の前に現れ、未だにじーいッと瞳を据えて私の方を睨んでいるように感ぜられ、しかもだんだんその憎らしさが底の知れない美しさに変って行くのでした。考えて見ると彼女の顔にあんな妖艶ようえんな表情があふれたところを、私は今日まで一度も見たことがありません。疑いもなくそれは「邪悪の化身」であって、そして同時に、彼女の体と魂とが持つことごとくの美が、最高潮の形にいて発揚された姿なのです。私はさっきも、あの喧嘩の真っ最中に覚えずその美にたれたのみならず、「ああ美しい」と心の中で叫んだのでありながら、どうしてあの時彼女の足下に跪いてしまわなかったか。いつも優柔で意気地なしの私が、いかに憤激していたとは云えあの恐ろしい女神に向って、どうしてあれほどの面罵めんばを浴びせ、手を振り上げることが出来たか。自分のどこからそんな無鉄砲な勇気が出たか。―――それが私には今更不思議なように思われ、その無鉄砲と勇気とを恨むような心持さえ、次第にき上って来るのでした。
「お前は馬鹿ばかだぞ、大変なことをしちまったんだぞ。ちっとやそっとの不都合があっても、それと『あの顔』と引き換えになると思っているのか。あれだけの美はこの後決して、二度と世間にありはしないぞ」
私は誰かにそう云われているような気がし始め、ああ、そうだった、自分は実につまらないことをしてしまった。彼女を怒らせないようにと、あんなに不断から用心していながら、こういう結末になったというのは魔がさしたのに違いないんだと、そんな考が何処からともなく頭をもたげて来るのでした。
たった一時間前まではあれほど彼女を荷厄介にし、その存在をのろった私が、今は反対に自分を呪い、その軽率を悔いるようになったと云うのは? あんなに憎らしかった女が、こんなにも恋しくなって来るとは? この急激な心の変化は私自身にも説明の出来ないことで、恐らく恋の神様ばかりが知っているなぞでありましょう。私はいつの間にか立ち上って、部屋をったり来たりしながら、どうしたらこの恋慕の情をやすことが出来るだろうかと、長い間考えました。と、どう考えても癒やす方法は見付からないで、ただただ彼女の美しかったことばかりがおもい出される。過去五年間の共同生活の場面々々が、ああ、あの時にはこう云った、あんな顔をした、あんな眼をしたと云う風に、後から後からと浮かんで来て、それが一々未練の種でないものはない。ことに私の忘れられないのは、彼女が十五六の娘の時分、毎晩私が西洋風呂へ入れてやって体を洗ってやったこと。それから私が馬になって彼女を背中へ乗せながら、「ハイハイ、ドウドウ」と部屋の中をい廻って遊んだこと。―――どうしてそんな下らない事がそんなにまでもなつかしいのか、実に馬鹿げていましたけれど、しも彼女がこの後もう一度私の所へ帰って来てくれたら、私は何より真っ先にあの時の遊戯をやって見よう。再び彼女を背中の上へまたがらせて、この部屋の中を這って見よう。それが出来たらおれはどんなにうれしいか知れないと、まるでその事をこの上もない幸福のように空想したりするのでした。いや、単に空想したばかりでなく、私は彼女が恋しさの余り、思わず床に四つ這いになって、今も彼女の体が背中へぐッとのしかかってでもいるかのように、部屋をグルグル廻ってみました。それから私は、―――此処ここに書くのもはずかしい事の限りですが、―――二階へ行って、彼女の古着を引っ張り出してそれを何枚も背中に載せ、彼女の足袋を両手にめて、又その部屋を四つン這いになって歩きました。
この物語を最初から読んでおられる読者は、多分覚えておられるでしょうが、私は「ナオミの成長」と題する一冊の記念帖きねんちょうを持っていました。それは私が彼女を風呂へ入れてやって、体を洗ってやっていた頃、彼女の四肢が日増しに発達する様を委しく記して置いたもので、つまり少女としてのナオミがだんだん大人になるところを、―――ただそればかりを専門のように書き止めて行った一種の日記帳でした。私はその日記のところどころに、当時のナオミのいろいろな表情、ありとあらゆる姿態の変化を写真に撮ってって置いたのを思い出し、せめて彼女をしのぶよすがに、長い間ほこりにまみれて突っ込んであったその帳面を、本箱の底からり出して順々にページをはぐって見ました。それらの写真は私以外の人間には絶対に見せるべきものではないので、自分で現像や焼き付けなどをしたのでしたが、大方水洗いが完全でなかったのでしょう。今ではポツポツそばかすのような斑点はんてんが出来、物によってはすっかり時代がついてしまって、まるで古めかしい画像のように朦朧もうろうとしたものもありましたけれど、そのためにかえって懐かしさは増すばかりで、もう十年も二十年もの昔のこと、………幼い頃の遠い夢をでも辿たどるような気がするのでした。そしてそこには、彼女があの時分好んでよそおったさまざまな衣裳いしょうなりかたちが、奇抜なものも、軽快なものも、贅沢ぜいたくなものも、滑稽こっけいなものも、ほとんあます所なく写されていました。るページには天鵞絨びろうどの背広服を着て男装した写真がある。次をめくると薄いコットン・ボイルの布を身にまとって、彫像のごと彳立てきりつしている姿がある。又その次にはきらきら光る繻子しゅすの羽織に繻子の着物、幅の狭い帯を胸高に締め、リボンの半襟はんえりを着けた様子が現れて来る。それから種々雑多な表情動作や活動女優の真似事まねごとの数々、―――メリー・ピクフォードの笑顔だの、グロリア・スワンソンのひとみだの、ポーラ・ネグリのたけり立ったところだの、ビーブ・ダニエルの乙に気取ったところだの、憤然たるもの、嫣然えんぜんたるもの、竦然しょうぜんたるもの、恍惚こうこつたるもの、見るに随って彼女の顔や体のこなしは一々変化し、いかに彼女がそううことに敏感であり、器用であり、怜悧れいりであったかを語らないものとてはないのでした。
「ああ飛んでもない! 己はほんとに大変な女を逃がしてしまった」
私は心も狂おしくなり、口惜くやしまぎれに地団太を蹈み、なおも日記を繰って行くと、まだまだ写真が幾色となく出て来ました。その撮り方はだんだん微に入り、細を穿うがって、部分々々を大映しにして、鼻の形、眼の形、唇の形、指の形、腕の曲線、肩の曲線、背筋の曲線、脚の曲線、手頸てくび、足頸、ひじ膝頭ひざがしら、足のうらまでも写してあり、さながら希臘ギリシャの彫刻か奈良の仏像か何かを扱うようにしてあるのです。ここに至ってナオミの体は全く芸術品となり、私の眼には実際奈良の仏像以上に完璧かんぺきなものであるかと思われ、それをしみじみ眺めていると、宗教的な感激さえが湧いて来るようになるのでした。ああ、私は一体どう云う積りでこんな精密な写真を撮って置いたのでしょうか? これがいつかは悲しい記念になると云うことを、予覚してでもいたのでしょうか?
私のナオミを恋うる心は加速度をもって進みました。もう日が暮れて窓の外にはゆうべの星がまたたき始め、うすら寒くさえなって来ましたが、私は朝の十一時から御飯もたべず、火も起さず、電気をつける気力もなく、暗くなって来る家の中を二階へ行ったり、階下へ降りたり、「馬鹿!」と云いながら自分で自分の頭を打ったり、空家のように森閑としたアトリエの壁に向いながら「ナオミ、ナオミ」と叫んでみたり、果ては彼女の名前を呼び続けつつ床に額を擦りつけたりしました。もうどうしても、どうあろうとも彼女を引き戻さなければならない。己は絶対無条件で彼女の前に降伏する。彼女の云うところ、欲するところ、べてに己は服従する。………が、それにしても今頃彼女は何しているだろう? あんなに荷物を持っていたから、東京駅からきっと自動車で行っただろう。そうだとすると浅草の家へ着いてから五六時間は立っているはずだ。彼女は実家の人々に対し、追い出されて来た理由を正直に話したろうか? それとも例の負けず嫌いで、一時のがれの出鱈目でたらめを云い、姉や兄貴を煙に巻いてでもいるだろうか? 千束町でいやしい稼業かぎょうをしている実家、そこの娘だと云われることをひどく嫌って、親兄弟を無智むちな人種のように扱い、めったに里へ帰ったことのない彼女。―――この不調和な一族の間に、今頃どんな善後策が講ぜられているだろう? 姉や兄貴は勿論もちろんあやまりに行けと云う、「あたしは決して詫まりになんか行くもんか。誰か荷物を取って来てくれろ」と、ナオミは何処どこまでも強気に出る。そして殆ど心配などはしていないように、平気な顔で冗談を云ったり、気焔きえんを吐いたり、英語交りにまくし立てたり、ハイカラな衣裳や持ち物などを見せびらかしたり、まるで貴族のお嬢様が貧民窟ひんみんくつを訪れたように、威張り散らしていやしないか。………
しかしナオミが何と云っても、とにかく事件が事件であるから、早速誰かが飛んで来なければならない筈だが、………若し当人が「詫まりになんか行かない」と云うなら、姉か兄貴が代りにやって来るところだが、………それともナオミの親兄弟は誰も親身にナオミのことを案じてなんぞいないのだろうか? ちょうどナオミが彼等に対して冷淡なように、彼等も昔からナオミに就いては何の責任も負わなかった。「あののことは一切お任せします」と、十五の娘を此方へ預けッ放しにして、どうでも勝手にしてくれと云う態度だった。だから今度もナオミのしたい放題にさせて、打ッちゃらかして置くのだろうか? それならそれで荷物だけでも受け取りに来そうなものではないか。「帰ったらぐに使を寄越せ、荷物はみんな渡してやるから」とそう云ってやったのに、いまだに誰も来ないと云うのはどうしたんだろう? 着換えの衣類や手周りの物は一と通り持って行ったけれど、彼女の「命から二番目」である晴れ着の衣裳はまだ幾通りも残っている。どうせ彼女はあのむさくろしい千束町に一日くすぶっている筈はないから、毎日々々、近所隣を驚かすような派手な風俗で出歩くだろう。そうだとすれば尚更なおさら衣裳が必要な訳だし、それがなくてはとても辛抱出来ないだろうに。………
けれどもその晩、待てど暮らせどナオミの使は来ませんでした。私はあたりが真っ暗になるまで電燈でんとうをつけずに置いたので、若しも空家と間違えられたら大変だと思って、あわてて家じゅうの部屋と云う部屋へ明りをともし、門の標札が落ちていやしないかと改めて見、戸口のところへ椅子いすを持って来て何時間となく戸外の足音を聞いていましたが、八時が九時になり、十時になり、十一時になっても、………とうとう朝からまる一日立ってしまっても、何の便りもありません。そして悲観のどん底に落ちた私の胸には、又いろいろな取り止めのない臆測おくそくが生じて来るのでした。ナオミが使を寄越さないのは、事にったら事件を軽く見ている証拠で、二三日したら解決がつくとたかくくっているんじゃないかな。「なに大丈夫だ、向うはあたしにれているんだ、あたしなしには一日も居られやしないんだから、迎いに来るにまっている」と、懸引をしているんじゃないかな。彼女にしたって今まで贅沢にれて来たのが、あんな社会の人間の中で暮らせないことは分っているんだ。そうかと云って外の男の所へ行っても、己ほど彼女を大事にしてやり、気随気儘きままをさせて置く者はありゃしないんだ。ナオミのやつはそんなことは百も承知で、口では強がりを云いながら、迎いに来るのを心待ちにしているんじゃないかな。それとも明日の朝あたりでも、姉か兄貴がいよいよ仲裁にやって来るかな。夜が忙しい商売だから、朝でなければ出られない事情があるかも知れない。何しろ使が来ないと云うのは却って一縷いちるの望みがあるんだ。明日になっても音沙汰おとさたがなければ、己は迎いに行ってやろう。もうこうなれば意地も外聞もあるもんじゃない、もともと己はその意地でもって失策しくじったんだ。実家の奴等に笑われようと、彼女に内兜うちかぶとを見透かされようと、出かけて行って平詫りに詫まって、姉や兄貴にも口添えを頼んで、「後生一生のお願いだから帰っておくれ」と、百万遍も繰り返す。そうすれば彼女も顔が立って、大手を振って戻って来られよう。
私は殆どまんじりともしないで一と夜を明かし、明くる日の午後六時頃まで待ちましたけれど、それでも何の沙汰もないので、もうたまりかねて家を飛び出し、急いで浅草へけ付けました。一刻も早く彼女に会いたい、顔さえ見れば安心する!―――恋いがれるとはその時の私を云うのでしょう、私の胸には「会いたい見たい」の願いより外何物もありませんでした。
花屋敷のうしろの方の、入り組んだ路次の中にある千束町の家へ着いたのは大方七時頃でしたろう。さすがに極まりが悪いので私はそっと格子こうしをあけ、
「あの、大森から来たんですが、ナオミは参っておりましょうか?」
と、土間に立ったまま小声で云いました。
「おや、河合さん」
と、姉は私の言葉を聞きつけて次の間の方から首を出しましたが、怪訝けげんそうな顔つきをして云うのでした。
「へえ、ナオミちゃんが?―――いいえ、参ってはおりませんが」
「そりゃ可笑おかしいな、来ていない筈はないんですがな、昨夜此方こちらへ伺うと云って出たんですから。………」
 
 
 
 
 
 

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