痴人の愛 谷崎潤一郎

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 二十一
 
最初私は、姉が彼女の意を含んで隠しているものと邪推したので、いろいろに云って頼んで見ましたが、だんだん聞くと、事実ナオミは此処ここへ来ていないらしいのです。
「おかしいな、どうも、………荷物も沢山持っていたんだし、あのまま何処どこへも行かれる筈はないんだけれど。………」
「へえ、荷物を持って?」
「バスケットだの、かばんだの、風呂敷ふろしき包みだの、大分持って行ったんですよ。実は昨日、つまらないことでちょっと喧嘩けんかしたもんですから、………」
「それで当人は、此処へ来ると云って出たんですか」
「当人じゃあない、僕がそう云ってやったんですよ、これから直ぐに浅草に帰って、人を寄越せッて。―――誰かあなた方が来て下されば話が分ると思ったもんですから」
「へえ、成る程、………だけどとにかく手前共へは参りませんのよ、そう云うことなら追っ付け来るかも知れませんけれど」
「だけどもおめえ、昨夜ッからなら分りゃしねえぜ」
と、そうこうするうちに兄貴も出て来て云うのでした。
「そりゃ何処か、お心当りがおあんなすったら外を捜して御覧なさい。もう今まで来ねえようじゃあ、此処へ帰っちゃ来ますまいよ」
「それにナオちゃんはさっぱり家へ寄り付かないんで、あれはこうッと、いつだったかしら?―――もう二た月も顔を見せたことはないんですよ」
「では済みませんが、もしも此方へ参りましたら、たとい当人が何と云おうと、早速どうか僕の所へ知らしていただきたいんですが」
「ええ、そりゃあもう、あッしの方じゃ今更あの児をどうするッて気はねえんですから、来れば直ぐにも知らせますがね」
あががまちへ腰をかけて、出された渋茶をすすりながら、私はしばらく途方に暮れていましたけれど、妹が家出をしたと聞いても別に心配をするのでもない姉や兄貴が相手では、ここで衷情を訴えたところでどうにも仕様がありません。で、私は重ねて、万一彼女が立ち廻ったら時を移さず、昼間だったら会社の方へ電話をかけてくれること。もっともこの頃は時々会社を休んでいるから、もしも会社に居なかった場合は直ぐ大森へ電報を打ってもらいたいこと。そうしたら私が迎いに来るから、それまで必ず何処へも出さずに置いてくれること。などをくどくど頼み込んで、それでも何だかこの連中のずべらなのがアテにならないような気がして、なお念のために会社の電話番号を教えたり、この様子では大森の家の番地なんぞも知らないのではないかと思って、それをくわしく書き止めたりして出て来ました。
「さて、どうしたらいいんだろう? 何処へ行っちまったんだろう?」
―――私は殆どべそかないばかりの気持で、―――いや、実際べそを掻いていたかも知れませんが、―――千束せんぞく町の路次を出ると、何とう目的もなく、公園の中をぶらぶら歩きながら考えました。実家へ帰らないところを見ると、事態は明かに予想したよりも重大なのです。
「これはきっと熊谷の所だ、彼奴あいつの所へ逃げて行ったんだ」―――そう気がつくと、ナオミが昨日出て行く時に、「だってあたし、それじゃ困るわ、今すぐいろいろ入用なものがあるんだから」とそう云ったのも、成る程思いあたるのでした。そうだ、やっぱりそうだったんだ、熊谷の所へ行く積りだから、あんなに荷物を持って行ったんだ。あるいは前から、こう云う時にはこうしようと、二人で打ち合わせがしてあったかも知れん。そうだとするとこれは中々むずかしいかも分らんぞ。第一おれは熊谷の家が何処にあるのかも知らない。それは調べれば分るとしても、まさか彼奴が両親の家へ彼女をかくまっては置けなかろう。彼奴は不良少年だけれど、親は相当な者らしいから、自分の息子にそんな不都合を働かしては置かないだろう。彼奴も家を飛び出して、二人で何処かに隠れていやしないか? 親の金でも引ッさらって、遊び歩いていやしないか? が、それならそれと、ハッキリ分ってくれればいい。そうすれば己は熊谷の親に談判して、厳しい干渉を加えて貰う。たとい彼奴が親の意見を聴かないにしたって、金が尽きれば二人で暮らせる訳がないから、結局彼奴は自分の家へ戻るだろうし、ナオミは此方へ帰って来る。トドの詰まりはそうなるだろうが、その間の己の苦労と云うものは?―――それが一と月で済むものやら、二た月、三月、或は半年もかかるものやら?―――いや、そうなったら大変だ。そんな事をしているうちにだんだん帰りそびれてしまって、又ひょっとすると第二第三の男が出来ないもんでもない。すると此奴こいつぐずぐずしているところじゃないんだ。こうして離れていればいるだけ彼女との縁が薄くなるんだ。刻一刻と彼女は遠くへ去りつつあるんだ。おのれやれ! 逃げようとしたって逃がすもんか! 己はどうしても引き戻してやるから! 苦しい時の神頼み、―――私はついぞ神信心をしたことなぞはなかったのですが、その時ふいと思い出して、観音様へお参りをしました。そして「ナオミの居所が一時も早く知れますように、明日にも帰ってくれますように」と、真心めて祈りました。それから何処をどう歩いたか、二三軒のバアへ寄って、ぐでんぐでんに酔っ払って、大森の家へ帰ったのは夜の十二時過ぎでした。が、酔ってはいてもナオミの事が始終頭の中にあって、寝ようとしても容易に寝つかれず、そのうちに酒がめてしまうと、又しても一つの事をくよくよと考える。どうしたら居所が突き止められるか、事実熊谷と逃げたかどうか、彼奴の家へ談判するにも其奴そいつを確かめた上でなければ軽率過ぎるし、そうかと云って秘密探偵でも頼まなければ、ちょっと確かめる方法はなし、………と、散々思案に余った揚句、ひょっこり考えついたのは例の浜田のことでした。そうそう、浜田と云う者が居たっけ、己はウッカリ忘れていたが、あの男なら己の味方になってくれよう。己は「松浅」で別れた時にあの男の住所を控えて置いた筈だから、明日にも早速手紙を出すかな。手紙なんかじゃれッたいから電報を打つか? そいつもちょっと大袈裟おおげさなようだが、多分電話があるだろうから、電話をかけて来て貰うか? いやいや、来て貰うには及ばないんだ。その暇があったら熊谷の方を探って貰う方がいいんだ。この際何より肝要なのは熊谷の動静を知ることにある。浜田だったら手蔓てづるがあるから直きに報告をもたらしてくれよう。目下のところ、己の苦しみを察してくれ、己を救ってくれる者はあの男より外にないんだ。これもやっぱり「苦しい時の神頼み」かも知れないんだが、………
明くる日の朝、私は七時に飛び起きて近所の自動電話へせ附け、電話帳を繰ると、塩梅あんばいに浜田の家が見つかりました。
「ああ、坊っちゃまでございますか、まだお休みでございますが、………」
女中が出て来てそう云うのを、
「誠に恐れ入りますが、急な用事でございますので、ちょっと何卒なにとぞお取次を、………」
と、押し返して頼むと、暫く立ってから電話口へ出て来た浜田は、
「あなたは河合さんですか、あの大森の?」
と、寝惚ねぼけた声で云うのでした。
「ええ、そうですよ、僕は大森の河合ですよ、どうもいつぞやは大へん御迷惑をかけてしまって、それに突然、こんな時刻に電話をかけて甚だ失礼なんですが、実はあの、ナオミが逃げてしまいましてね、―――」
この、「逃げてしまいましてね」と云う時、私は覚えず泣き声になりました。非常に寒い、もう冬のような朝のことで、寝間着の上にどてらを一枚引っ懸けたままあわてて出て来たものですから、私は受話器を握りながら、胴顫どうぶるいが止まりませんでした。
「ああ、ナオミさんが、―――矢っ張りそうだったんですか」
すると浜田は、意外にも、いやに落ち着いてそう云うのでした。
「それじゃあ、君はもう知っているんですか?」
「僕は昨夜いましたよ」
「えッ、ナオミに?………ナオミに昨夜遇ったんですか?」
今度は、私は前とは違った胴顫いで、体中がガクガクしました。あまり激しく顫えたので前歯をカチリと送話器の口にッつけました。
「昨夜僕はエルドラドオのダンスに行ったら、ナオミさんが来ていましたよ。別に事情を聞いた訳ではないんですけれど、どうも様子が変でしたから、大方そんな事なんだろうと思ったんです」
「誰と一緒に来ていましたか? 熊谷と一緒じゃないんですか?」
「熊谷ばかりじゃありません、いろんな男が五六人も一緒で、中には西洋人もいました」
「西洋人が?………」
「ええ、そうですよ、そうして大そう立派な洋服を着ていましたよ」
「家を出る時、洋服なんぞ持っていなかったんですが、………」
「それがとにかく、洋服でしたよ。しかも非常に堂々たる夜会服を着ていましたよ」
私はきつねにつままれたように、ポカンとしたきり、何を尋ねていいのやらかいくれ見当が付かなくなってしまいました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 二十二
 
「ああ、もし、もし、どうしたんですか、河合さん、………もし、………」
私があまり電話口で黙っているので、浜田はそう云って催促しました。
「ああ、もし、もし、………」
「ああ、………」
「河合さんですか、………」
「ああ、………」
「どうしたんですか、………」
「ああ、………どうしたらいいか分らないんです、………」
「しかし電話口で考えていたって、仕様がないじゃありませんか」
「仕様がないことは分ってるんだが、………しかし浜田君、僕は実に困ってるんですよ。どうしたものか途方に暮れているんですよ。彼奴がいなくなってから、夜もロクロク寝ないくらいに苦しんでいるんです。………」
ここで私は浜田の同情を求めるために精一杯の哀れみを籠めてつづけました。
「………浜田君、僕はこの場合、君より外に頼りにする人がないもんだから、飛んだ御迷惑をかけるんですけれど、僕は、僕は、………どうかしてナオミの居所を知りたいんです。熊谷の所にいるんだか、それとも誰か外の男の所にいるんだか、それをハッキリと突き止めたいんです。就いては誠に、勝手なお願いなんですが、君の御尽力でそれを調べて戴く訳には行かないでしょうか。………僕は自分で調べるよりも、君が調べて下さる方がいろいろ手蔓がおありになりはしないかと、そう思うもんですから、………」
「ええ、そりゃ、僕が調べれば直きに分るかも知れませんがね」
と、浜田は造作もなさそうに云って、
「ですが河合さん、あなたの方にも大凡おおよ何処どこと云う心当りはないんですか?」
「僕はテッキリ熊谷の所だと思っていたんです。実は君だからお話しますが、ナオミはいまだに僕に内証で、熊谷と関係していたんです。それがこの間バレたもんだから、とうとう僕と喧嘩になって、家を飛び出しちまったんです。………」
「ふむ、………」
「ところが君の話だと、西洋人だのいろんな男が一緒だと云うし、洋服なんか着ていると云うんで、僕には全く見当が付かなくなっちゃったんです。でも熊谷に会って下されば大概の様子は分るだろうと思うんですが、………」
「ああ、よござんす、よござんす」
と、浜田は私の愚痴ッぽい言葉を打ち切るように云うのでした。
「それじゃとにかく調べて見ますよ」
「それもどうか、成るべく至急にお願いしたいんですけれど、………し出来るなら今日のうちにでも結果を知らして下さると、非常に助かるんですけれど、………」
「ああ、そうですか、多分今日じゅうには分るでしょうが、分ったら何処へお知らせしましょう? あなたはこの頃、やっぱり大井町の会社ですか?」
「いや、この事件が起ってから、会社はずッと休んでいるんです。万一ナオミが帰って来ないもんでもないと、そんな気がするもんですから、成るたけ家を空けないようにしているんです。それで何とも勝手な話ですけれど、電話ではちょっと工合が悪いし、お目に懸れれば大変好都合なんですが、………どうでしょうか? 様子が知れたら大森の方へ来て戴くことは出来ないでしょうか?」
「ええ、構いません、どうせ遊んでいるんですから」
「ああ、有難う、そうして下さればほんとうに僕は有難いんです!」
さてそうなると、浜田の来るのが一刻千秋の思いなので、私はなおもセカセカしながら、
「じゃ、おいでになるのは大概何時頃になるでしょうか? おそくも二時か三時には分るでしょうか?」
「さあ、分るだろうとは思いますが、しかし此奴こいつは一往尋ねて見てからでなけりゃあハッキリしたことは云えませんねえ。最善の方法を取っては見ますが、場合にったら二三日かかるかも知れませんから、………」
「そ、そりゃ仕方がありません、明日になっても明後日になっても、僕は君が来て下さるまで、じっと内で待っていますよ」
「承知しました、くわしい事はいずれお目に懸ってからお話しましょう。―――じゃ左様なら。―――」
「あ、もし、もし」
電話が切れそうになった時、私は慌ててもう一度浜田を呼び出しました。
「もし、もし、………あのう、それから、………これはその時の事情次第でどうでもいいことなんですが、君が直接ナオミにお会いになるようだったら、そして話をする機会があったら、そう云っていただきたいんですがね。―――僕は決して彼女の罪を責めようとはしない、彼女が堕落したに就いては自分の方にも罪のあることがよく分った。それで自分の悪かったことは幾重にもあやまるし、どんな条件でも聴き入れるから、一切の過去は水に流して、是非もう一度帰って来てくれるように。それもいやなら、せめて一遍だけ僕に会ってくれるように。―――」
どんな条件でも聴き入れると云う文句の次に、もっと正直な気持を云うと、「彼女が土下座しろと云うなら、僕は喜んで土下座します。大地に額を擦りつけろと云うなら、大地に額を擦りつけます。どうにでもして詫まります」と、むしろそう云いたいくらいでしたが、さすがにそこまでは云いかねました。
「―――僕がそれほど彼女のことを思っていると云うことを、若し出来るなら伝えて戴きたいんですがね。………」
「ああ、そうですか、機会があったらそれも十分そう云って見ますよ」
「それから、あのう、………あるいはああ云う気象ですから、帰りたいには帰りたくっても、意地を突ッ張っているのじゃないかと思うんです。そんな風なら、僕が非常にショゲているからとそうっしゃって、無理にも当人を連れて来て下さると尚いいんですが、………」
「分りました、分りました、どうもそこまでは請け合いかねますが、出来るだけの事はやってみますよ」
余り私がしつッこいので、浜田もいささかウンザリしたような口調でしたが、私はそこの自動電話で、蟇口がまぐちの中の五銭銅貨がなくなるまで、三通話ほども立て続けにしゃべりました。恐らく私が泣き声を出したり、顫え声を出したりして、こんなに雄弁に、こんなにずうずうしくしゃべったことは、生れて始めてだったでしょう。が、電話が済むと、私はほッとするどころでなく、今度は浜田の来てくれるのが、無上に待ち遠になりました。多分今日じゅうにとはったけれども、若し今日じゅうに来ないようなら、どうしたらいいだろう?―――いや、どうしたらと云うよりも、自分はどうなってしまうだろう? 自分は今、一生懸命ナオミを恋い慕っているより外、何の仕事も持っていないのだ。どうすることも出来ずにいるのだ。寝ることも、食うことも、外へ出ることも出来ないで、家の中にじーッとこもって、あかの他人が自分のために奔走してくれ、る報道をもたらしてくれるのを、手をつかねて待っていなければならないのだ。実際人は、何もしないでいる程の苦痛はありませんが、私はその上に死ぬほどナオミが恋しいのです。その恋しさに身をらしながら、自分の運命を他人にゆだねて、時計の針を視詰みつめているということは、考えて見てもたまらないことです。ほんの一分の間にしても、「時」の歩みと云うものが驚くほど遅々として、無限に長く感ぜられます。その一分が六十回でやっと一時間、百二十回でやっと二時間、仮りに三時間待つものとしても、このしょざいない、どうにもこうにもしようのない「一分」を、セコンドの針がチクタク、チクタクと、円を一周する間を、百八十回こらえねばならない! それが三時間どころではなく、四時間になり、五時間になり、或は半日、一日になり、二日にも三日にもなったとしたら、待ち遠しさと恋しさの余り、私はきっと発狂するに違いないような気がしました。
が、いくら早くても浜田の来るのは夕方になるだろうと、覚悟をきめていたのでしたが、電話をかけてから四時間の後、十二時頃になって、表の呼鈴がけたたましく鳴り、続いて浜田の、
「今日は」
という意外な声が聞えた時には、私は覚えず、うれし紛れに飛び上って、急いでドーアを開けに行きました。そしてソワソワした口調で、
「ああ、今日は。今すぐ此処ここを開けますよ、かぎが懸っているもんですから」
と、そう云いながらも、「こんなに早く来てくれようとは思わなかったが、事に依ったら訳なくナオミに会えたんじゃないかな。会ったら直きに話が分って、一緒に彼女を連れて来てでもくれたんじゃないかな」と、ふとそんな風に考えると、尚更嬉しさが込み上げて来て、胸がドキドキするのでした。
ドーアを開けると、私は浜田のうしろの方に彼女が寄り添っているかと思って、辺りをキョロキョロ見廻しましたが、誰も居ません。浜田がひとりポーチに立っているだけでした。
「やあ、先刻さっきは失礼しました。どうでしたかしら? 分りましたか?」
私はいきなりみ着くような調子で尋ねると、浜田はイヤに落ち着き払って、私の顔をあわれむがごとく眺めながら、
「ええ、分ることは分りましたが、………しかし河合さん、もうあの人はとても駄目です、あきらめた方がよござんすよ」
と、キッパリ云い切って、首を振るのでした。
「そ、そ、そりゃあどう云う訳なんです?」
「どう云う訳ッて、全く話の外なんですから、―――僕はあなたのめを思って云うんですが、もうナオミさんのことなんぞは、忘れておしまいになったらどうです」
「そうすると君は、ナオミに会ってくれたんですか? 会って話はしてみたけれども、とても絶望だと云うんですか?」
「いや、ナオミさんには会やしません。僕は熊谷の所へ行って、すっかり様子を聞いて来たんです。そしてあんまりヒド過ぎるんで、実に驚いちまったんです」
「だけど浜田君、ナオミは何処に居るんです? 僕は第一にそれを聞かしてもらいたいんだ」
「それが何処と云って、まった所がある訳じゃなく、彼方此方あっちこっちを泊り歩いているんですよ」
「そんなに方々泊れる家はないでしょうがね」
「ナオミさんにはあなたの知らない男の友達が、幾人あるか知れやしません。もっとも最初、あなたと喧嘩けんかをした日には、熊谷の所へやって来たそうです。それもあらかじめ電話をかけて、コッソリ訪ねて来てくれるんならよかったんだが、荷物を積んで、自動車を飛ばして、いきなり玄関に乗り着けたんで、家じゅうの者が一体あれは何者だと云う騒ぎになったもんだから、『まあお上り』とも云う訳に行かず、さすがの熊谷も弱っちゃったと云っていました」
「ふうん、それから?」
「それで仕方がないもんだから、荷物だけを熊谷の部屋に隠して、二人でともかくも戸外へ出て、それから何でも怪しげな旅館へ行ったと云うんですが、しかもその旅館が、この大森のお宅の近所の何とか楼とか云う家で、その日の朝もそこで出会ってあなたに見付かった場所だと云うから、実に大胆じゃありませんか」
「それじゃ、あの日に又彼処あそこへ行ったんですか」
「ええ、そうだって云うんですよ。それを熊谷が得意そうに、のろけ交りにしゃべり散らすんで、僕は聞いていて不愉快でした」
「するとその晩は、二人で彼処へ泊ったんですね?」
「ところがそうじゃないんです。夕方までは其処そこにいたけれど、それから一緒に銀座を散歩して、尾張町の四つ角で別れたんだそうです」
「けれども、それはおかしいな。熊谷のやつうそをついているんじゃないかな、―――」
「いや、まあお聞きなさい、別れる時に熊谷が少し気の毒になったんで、『今夜は何処へ泊るんだい』ッてそう云うと、『泊る所なんか幾らもあるわよ。あたしこれから横浜へ行くわ』ッて、ちっともショゲてなんかいないで、そのままスタスタ新橋の方へ行くんだそうです。―――」
「横浜と云うのは、誰の所なんです?」
「そいつが奇妙なんですよ、いくらナオミさんが顔が広いッて、横浜なんかに泊る所はないだろうから、ああ云いながら多分大森へ帰ったんだろうと、そう熊谷が思っていると、明くる日の夕方電話が懸って、『エルドラドオで待っているからぐ来ないか』と云う訳なんです。それで行って見ると、ナオミさんが目の覚めるような夜会服を着て、孔雀くじゃくの羽根の扇を持って、頸飾くびかざりだの腕環うでわだのをギラギラさせて、西洋人だのいろんな男に囲まれながら、盛んにはしゃいでいるんだそうです」
浜田の話を聞いているとあたかもビックリ箱のようで、「おやッ」と思うような事実がピョンピョン跳び出して来るのです。つまりナオミは、最初の晩は西洋人の所へ泊ったらしいのですが、その西洋人はウィリアム・マッカネルとか云う名前で、いつぞや私が始めてナオミとエルドラドオへダンスに行った時、紹介もなしにそばへ寄って来て、無理に彼女と一緒に踊った、あのずうずうしい、お白粉しろいを塗った、にやけた男がそれだったのです。ところが更に驚くことには、―――これは熊谷の観察ですが、―――ナオミはあの晩泊りに行くまで、そのマッカネルと云う男とは何もそれほど懇意な仲ではなかったのだと云うのです。尤もナオミも、前から内々あの男におぼしがあったらしい。何しろちょっと女好きのする顔だちで、すっきりとした、役者のような所があって、ダンス仲間で「色魔の西洋人」と云ううわさがあったばかりでなく、ナオミ自身も、「あの西洋人は横顔がいいわね、何処かジョン・バリに似てるじゃないの」―――ジョン・バリと云うのは亜米利加アメリカの俳優で、活動写真でお馴染なじみのジョン・バリモーアのことなのです。―――と、そう云っていたくらいだから、確かにあれに眼を着けていたのだ。或はちょいちょい色眼ぐらいは使ったことがあるかも知れない。それでマッカネルの方でも、「此奴はおれに気がある」と見て、からかったことがあるんだろう。だから友達と云うのでもなく、ほんのそれだけの縁故でもって押しかけて行ったに違いないんだ。そして訪ねて行って見ると、マッカネルの方じゃ面白い鳥が飛び込んだと思って「あなた今晩私の家へ泊りませんか」「ええ、泊っても構わないわ」と云うようなことになったんだろう。―――
「何ぼ何でも、そいつは少し信じかねるな、始めての男の所へ行って、その晩すぐに泊るなんて。―――」
「だけど河合さん、ナオミさんはそう云うことは平気でやると思いますね、マッカネルもいくらか不思議に感じたと見えて、『このお嬢さんは一体何処の人ですか』ッて、昨夜熊谷に聞いたそうです」
「何処の人だか分らない女を、泊める方も泊める方だな」
「泊めるどころか洋服を着せてやったり、腕環や頸飾りを着けてやったりしているんだから、なおふるってるじゃありませんか。そうしてあなた、たった一と晩ですっかりれ馴れしくなっちまって、ナオミさんは其奴そいつのことを『ウイリー、ウイリー』ッて呼ぶんだそうです」
「じゃ、洋服や頸飾りも、その男に買わせたんでしょうか?」
「買わせたのもあるらしいし、西洋人のことだから、友達の女の衣裳いしょうか何かを借りて来て、そいつを一時に合わせたのもあるらしいッて云うことですよ。ナオミさんが『あたし洋服が着てみたいわ』ッて、甘ッたれたのが始まりで、とうとう男が御機嫌を取ることになっちまったんじゃないでしょうか。その洋服も出来合いのようなものじゃなくって、体にぴったりまっていて、靴なんかもフレンチ・ヒールのきゅッとかかとの高い奴で、総エナメルの爪先つまさきのところに、多分新ダイヤか何かでしょうが、細かい宝石が光ってるんです。まるで昨夜のナオミさんは、お伽噺とぎばなしのシンデレラと云う風でしたよ」
私は浜田にそう云われて、そのシンデレラのナオミの姿がどんなに美しかったかと思うと、はっと我知らず胸が躍って来るのでしたが、又その次の瞬間には、あまりな不行跡にあきれてしまって、浅ましいような、情ないような、口惜くやしいような、何とも云えないイヤな気持になるのでした。熊谷ならばまだしものこと、しょうの知れない西洋人の所へなんぞ出かけて行って、ずるずるべったりに泊り込んで、着物をこしらえて貰うなんて、それが昨日まで仮りにも亭主を持っていた女のすべき業だろうか? あの、己が長年同棲どうせいしていたナオミと云うのは、そんな汚れた、売春婦のような女だったのか? 己には彼女の正体が今の今まで分らないで、愚かな夢を見ていたのか? ああ、成るほど浜田の云うように、己はどんなに恋しくっても、もうあの女はあきらめなければならないのだ。己は見事にはじかされた、男のつらへ泥を塗られた。………
「浜田君、くどいようでももう一度念を押しますが、今の話は残らず事実なんですね? 熊谷が証明するばかりでなく、君も証明するんですね?」
浜田は私の眼の中に涙がいて来たのを見て、気の毒そうにうなずきながら、
「そう云われると僕はあなたのお心持をお察しして、云いづらくなって来るんですが、現に昨夜は僕もその場に居合わせたんだし、大体熊谷の云うことは本当だろうと思われるんです。まだこの外にもお話すればいろいろな事が出て来るので、成る程とお思いになるでしょうが、何卒どうぞそこまではお聞きにならずに、僕を信じて下さいませんか。僕が決して、面白半分に事実を誇張しているのではないと云うことを、―――」
「ああ、有難う、そこまで伺えばもういいんです、もうそれ以上聞く必要は………」
どうした加減か、こう云った拍子に私の言葉はのどに詰まって、急にパラパラ大粒の涙が落ちて来たので、「こりゃいけない」と思った私は、突然浜田にひしと抱き着き、その肩の上へ顔を突ッ伏してしまいました。そしてわあッと泣きながら、途轍とてつもない声で叫びました。
「浜田君! 僕は、僕は、………もうあの女をキレイサッパリあきらめたんです!」
御尤ごもっともです! そう仰っしゃるのは御尤もです!」
と、浜田も私に釣り込まれたのか、矢張濁声だみごえで云うのでした。
「僕は、ほんとうの事を云うと、ナオミさんには最早や望みがないと云うことを、今日はあなたに宣告する気で来たんですよ。そりゃあの人のことですから、又いつ何時、あなたの所へ平気な顔で現れるかも知れませんが、今では事実、誰も真面目まじめでナオミさんを相手にする者はありゃしないんです。熊谷なんぞに云わせると、まるでみんなが慰み物にしているんで、とても口に出来ないようなヒドイ仇名あだなさえ附いているんです。あなたは今まで、知らない間にどれほど耻を掻かされているか分りゃしません。………」
かつては私と同じように熱烈にナオミを恋した浜田、そして私と同じように彼女に背かれてしまった浜田、―――この少年の、悲憤にちた、心の底から私の為めを思ってくれる言葉の節々は、鋭いメスで腐った肉をえぐり取るような効果がありました。みんなが慰みものにしている、口には出来ないヒドイ仇名が付いている、―――この恐ろしいスッパ抜きはかえって気分をサバサバとさせ、私はおこりが取れたように一時に肩が軽くなって、涙さえ止まってしまいました。
 
 
 
 
 
 

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