痴人の愛 谷崎潤一郎

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 二十五
 
「誰?」
「あたしよ」
云うと同時にバタンと戸が開いて、黒い、大きな、くまのような物体が戸外のやみから部屋へ闖入ちんにゅうして来ましたが、たちまちぱッとその黒い物を脱ぎ捨てると、今度はきつねのように白い肩だの腕だのをあらわにした、うすい水色の仏蘭西フランスちりめんのドレスを纏った、一人の見馴みなれない若い西洋の婦人でした。肉づきのいいうなじにはにじのようにギラギラ光る水晶の頸飾くびかざりをして、眼深まぶかに被った黒天鵞絨びろうどの帽子の下には、一種神秘な感じがするほど恐ろしく白い鼻の尖端せんたんあごの先が見え、生々しい朱の色をした唇が際立きわだっていました。
「今晩はア」
と、そう云う声がして、その西洋人が帽子を取った時、私は始めて「おや、この女は?―――」とそう思い、それからしみじみ顔を眺めているうちに、ようやく彼女がナオミであることに気がつきました。こう云うと不思議なようですけれども、事実それほどナオミの姿はいつもと変っていたのです。いや、姿だけならいくら変っても見違えるはずはありませんが、何よりもず私のひとみあざむいたものはその顔でした。どう云う魔法を施したものか、顔がすっかり、皮膚の色から、眼の表情から、輪廓りんかくまでが変っているので、私はその声を聞かなかったら、帽子を脱いだ今になっても、まだこの女は何処かの知らない西洋人だと思っていたかも分りません。次には前にも云う通り、その肌の色の恐ろしい白さです。洋服の外へはみ出している豊かな肉体のあらゆる部分が、林檎りんごの実のように白いことです。ナオミも日本の女としては黒い方ではありませんでしたが、しかしこんなに白い筈はない。現にほとんど肩の方まで露出している両腕を見ると、それがどうしても日本人の腕とは信じられない。いつぞや帝劇でバンドマンのオペラがあった時、私は若い西洋の女優の腕の白さに見惚みほれたことがありましたっけが、ちょうどこの腕があれに似ている、いや、あれよりも白いくらいな感じでした。
するとナオミは、その水色の柔かい衣と頸飾りとをゆらりとさせて、かかとの高い、新ダイヤの石を飾ったパテントレザー靴の爪先つまさきでチョコチョコと歩いて、―――ああ、これがこの間浜田の話したシンデレラの靴なんだなと、私はその時思いました。―――片手を腰にあてて、ひじを張って、さも得意そうに胴をひねって奇妙なしなを作りながら、唖然あぜんとしている私の鼻先へ、いきなり無遠慮に寄って来たものです。
「譲治さん、あたし荷物を取りに来たのよ」
「お前が取りに来ないでもいい、使を寄越せと云ったじゃないか」
「だってあたし、使を頼む人がなかったんだもの」
そう云う間も、ナオミは始終、体をじっとしてはいませんでした。顔はむずかしく、真面目まじめ腐った風をしながら、脚をぴたりと喰っ着けて立って見るとか、片足を一歩蹈み出して見るとか、踵でコツンと床板をたたいて見るとか、その度毎たびごとに手の位置を換え、肩をそびやかし、全身の筋肉を針線はりがねのように緊張させ、べての部分に運動神経を働かせていました。すると私の視覚神経もそれに従って緊張し出して、彼女の一挙手、一投足、その体中の一寸々々を、残るくまなくて取らないではいられませんでしたが、よくよくその顔に注意すると、成るほど面変りをしたのも道理、彼女は生え際の髪の毛を、二三寸ぐらいに短く切って、一本々々毛の先を綺麗きれいそろえて、支那しなの少女がするように、額の方へ暖簾のれんごとく垂れ下げているのです。そして残りの毛髪を一つに纏めて、円く、平に、顱頂部ろちょうぶから耳朶じだの上へ被らせているのが、大黒様の帽子のようです。これは彼女の今までにない結髪法で、顔の輪廓が別人のようになっているのは、このせいに違いありません。それからなお気を付けて見ると、まゆ恰好かっこうが又いつもとは異っています。彼女の眉毛は生れつき太く、クッキリとして濃い方であるのに、それが今夜は、細長い、ぼうッとかすんだ弧を描いて、その弧の周囲は青々とってあるのです。これだけの細工がしてあることは直ぐと私に分りましたが、魔法の種が分らないのは、その眼と、唇と、肌の色でした。眼玉がこんなに西洋人臭く見えているのは、眉毛のせいもあろうけれども、まだその外にも何か仕掛けがしてあるらしい。それは大方眼瞼まぶた睫毛まつげだ、あすこに何か秘密があるのだ、と、そうは思っても、それがどう云う仕掛けであるか判然しません。唇なども、上唇の真ん中のところが、ちょうど桜の花弁のように、いやにカッキリと二つに割れていて、しかもそのあかさは、普通の口紅をさしたのとは違った、生き生きとした自然のつやがある。肌の白さに至っては、いくら視詰みつめても全く生地の皮膚のようで、お白粉しろいらしいあとがありません。それに白いのは顔ばかりでなく、肩から、腕から、指の先までがそうなのですから、もしお白粉を塗ったとすれば全身へ塗っていなければならない。で、この不可解なえたいの分らぬあやしい少女、―――それはナオミであると云うよりも、ナオミの魂が何かの作用で、或る理想的な美しさを持つ幽霊になったのじゃないかしらん? と、私はそんな気さえしました。
「ねえ、いいでしょう、二階へ荷物を取りに行っても?―――」
と、ナオミの幽霊はそう云いました、が、その声を聞くと矢張いつものナオミであって、確かに幽霊ではありません。
「うん、それはいい、………それはいいが、………」
と、私は明かにあわてていたので、少し上ずった口調で云いました。
「………お前、どうして表の戸を開けたんだ?」
「どうしてッて、鍵で開けたわ」
「鍵はこの前、此処へ置いて行ったじゃないか」
「鍵なんかあたし、幾つもあるわよ、一つッきりじゃないことよ」
その時始めて、彼女の紅い唇が突然微笑を浮かべたかと思うと、びるような、あざけるような眼つきをしました。
「あたし、今だから云うけれど、合鍵を沢山こしらえて置いたの、だから一つぐらい取られたって困りゃしないわ」
「けれども己の方が困るよ、そう度々やって来られちゃ」
「大丈夫よ、荷物さえすっかり運んでしまえば、来いと云ったって来やしないわよ」
そして彼女は、踵でクルリと身をひるがえして、トン、トン、トンと階段を昇って、屋根裏の部屋へけ込みました。………
………それから一体、何分ぐらい立ったでしょうか? 私がアトリエのソオファにもたれて、彼女が二階から降りて来るのをぼんやり待っていた間、………それは五分とは立たない程の間だったか、あるいは半時間、一時間ぐらいもそうしていたのか?………私にはどうもこの間の「時の長さ」と云うものがハッキリしません。私の胸にはただ今夜のナオミの姿が、或る美しい音楽を聴いた後のように、恍惚こうこつとした快感となって尾をいているだけでした。その音楽は非常に高い、非常にきよらかな、この世の外の聖なる境から響いて来るようなソプラノのうたです。もうそうなると情慾じょうよくもなく恋愛もありません、………私の心に感じたものは、そう云うものとはおよそ最も縁の遠い漂渺ひょうびょうとした陶酔でした。私は幾度も考えて見ましたが、今夜のナオミは、あの汚らわしい淫婦いんぷのナオミ、多くの男にヒドイ仇名あだなを附けられている売春婦にも等しいナオミとは、全く両立し難いところの、そして私のような男はただその前にひざまずき、崇拝するより以上のことは出来ないところの、貴いあこがれの的でした。もしも彼女の、あの真白な指の先がちょっとでも私に触れたとしたら、私はそれを喜ぶどころかむし戦慄せんりつするでしょう。この心持は何にたとえたら読者に了解してもらえるか、―――まあ云って見れば、田舎の親父おやじが東京へ出て、る日偶然、幼い折に家出をした自分の娘と往来でう。が、娘は立派な都会の婦人になってしまって、きたない田舎の百姓を見ても自分の親だとは気が付かず、親父の方ではそれと気が付いても、今では身分が違うためにそばへも寄れない、これが自分の娘だったかと驚きあきれて、はずかしさの余りコソコソ逃げて行ってしまう。―――その時の親父の、さびしいような、有難いような心持。それでなければ許嫁いいなずけの女に捨てられた男が、五年も十年も立ってから、或る日横浜の埠頭ふとうに立つと、そこに一そうの商船が着いて、帰朝者の群が降りて来る。そして図らずもその群の中から彼女を見出みいだす。さては彼女は洋行をして帰って来たのかとそう思っても、男は最早や彼女に近づく勇気もない。自分は昔に変らない一介の貧書生、女はと見れば野暮臭い娘時代のおもかげはなく、巴里パリの生活、紐育ニューヨーク贅沢ぜいたくに馴れたハイカラな婦人、二人の間には既に千里の差が出来ている。―――その時の書生の、捨てられた自分を我と我が身でさげすむような、思いの外な彼女の出世をせめても己れの喜びとする心持。―――こう云ってみても、矢張十分に説き尽してはいませんけれども、いて譬えればそう云ったようなものでしょうか。とにかく今までのナオミには、いくらぬぐっても拭いきれない過去の汚点がその肉体にみ着いていた。しかるに今夜のナオミを見るとそれらの汚点は天使のような純白な肌に消されてしまって、思い出すさえまわしいような気がしたものが、今はあべこべに、その指先に触れるだけでも勿体もったいないような感じがする。―――これは一体夢でしょうか? そうでなければナオミはどうして、何処どこからそんな魔法を授かり、妖術ようじゅつを覚えて来たのでしょうか? 二三日前にはあの薄汚い銘仙の着物を着ていた彼女が、………
トン、トン、トンと、再び威勢よく階段を降りる足音がして、その新ダイヤの靴の爪先が私の眼の前で止まりました。
「譲治さん、二三日うちに又来るわよ」
と、彼女は云うのです。………眼の前に立ってはいますけれども、顔と顔とは三尺ほどの間隔を保ち、風のように軽い衣のすそをも決して私に触れようとはしないで、………
「今夜はちょっと本を二三冊取りに来ただけなの。まさかあたしが、大きな荷物を一度に背負って行かれやしないわ。おまけにこんななりをしていて」
私の鼻は、その時何処かでいだことのあるほのかなにおいを感じました。ああこの匂、………海の彼方かなたの国々や、世にもたえなる異国の花園をおもい出させるような匂、………これはいつぞや、ダンスの教授のシュレムスカヤ伯爵はくしゃく夫人、………あの人の肌から匂った匂だ。ナオミはあれと同じ香水を着けているのだ。………
私はナオミが何と云っても、ただ「うんうん」とうなずいただけでした。彼女の姿が再び夜の闇に消えてしまっても、まだ部屋の中に漂いつつ次第にうすれて行く匂を、幻をうように鋭い嗅覚きゅうかくで趁いかけながら。………
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 二十六
 
読者諸君、諸君は既に前回までのいきさつのうちに、私とナオミとが間もなくりを戻すようになることを、―――それが不思議でも何でもない、当然の成り行きであることを、予想されたでありましょう。そうして事実、結果は諸君の予想通りになったのですが、しかしそうなってしまうまでには思いの外に手数が懸って、私はいろいろ馬鹿ばかな目を見たり、無駄な骨折りをしたりしました。
私とナオミとは、あれから直きに馴れ馴れしく口をくようにはなりました。とうのは、あの明くる晩も、その次の晩も、あれからずっと、ナオミは毎晩何かしら荷物を取りに来ないことはなかったからです。来れば必ず二階へ上って、包みを拵えて降りて来ますが、それもほんの申訳の、縮緬ちりめん帛紗ふくさへ包まるくらいな細々こまごました物で、
「今夜は何を取りに来たんだい?」
と尋ねて見ても、
「これ? これは何でもないの、ちょっとした物なの」
と、曖昧あいまいに答えて、
「あたし、のどが渇いているんだけれど、お茶を一杯飲ましてくれない?」
などと云いながら、私の傍へ腰かけて、二三十分しゃべって行くと云う風でした。
「お前は何処かこの近所にいるのかね?」
と、私は或る晩、彼女とテーブルに向い合って、紅茶を飲みながらそう云ったことがありました。
「なぜそんな事を聞きたがるの?」
「聞いたって差支さしつかえないじゃないか」
「だけども、なぜよ。………聞いてどうする積りなのよ」
「どうすると云う積りはないさ、好奇心から聞いて見たのさ。―――え、何処にいるんだよ? おれに云ったっていいじゃないか」
「いや、云わないわ」
「なぜ云わない?」
「あたしは何も、譲治さんの好奇心を満足させる義務はないわよ。それほど知りたけりゃあたしの跡をつけていらっしゃい、秘密探偵は譲治さんのお得意だから」
「まさかそれほどにしたくはないがね、―――しかしお前のいる所が何処か近所に違いないとは思っているんだ」
「へえ、どうして?」
「だって、毎晩やって来て荷物を運んで行くじゃないか」
「毎晩来るから近所にいると限りゃしないわ、電車もあれば自動車もあるわよ」
「じゃ、わざわざ遠くから出て来るのかい?」
「さあ、どうかしら、―――」
そう云って彼女はハグラカシてしまって、
「―――毎晩来ちゃあ悪いッて云うの?」
と、巧妙に話頭を転じました。
「悪いと云う訳じゃあないが、………来るなと云っても構わず押しかけて来るんだから、今更どうも仕方がないが、………」
「そりゃあそうよ、あたしは意地が悪いから、来るなと云えば尚来るわよ。―――それとも来られるのが恐ろしいの?」
「うん、そりゃ、………いくらか恐ろしくないこともない。………」
すると彼女は、仰向きになって真っ白なあごを見せ、紅い口を一杯に開けて、にわかにきゃッきゃッと笑いこけました。
「でも大丈夫よ、そんな悪い事はしやしないわよ。それよりかもあたし、昔のことは忘れてしまって、これから後もただのお友達として、譲治さんと附き合いたいの。ねえ、いいでしょ? それならちっとも差支えないでしょ?」
「それも何だか、妙なもんだよ」
「何が妙なの? 昔夫婦でいた者が、友達になるのがなぜ可笑おかしいの? それこそ旧式な、時勢後れの考じゃなくって?―――ほんとうにあたし、以前のことなんかこれッぱかしも思っていないのよ。そりゃ今だって、し譲治さんを誘惑する気なら、此処ここぐにもそうしてしまうのは訳なしだけれど、あたし誓って、そんな事はきっとしないわ。折角譲治さんが決心したのに、それをグラツカせちゃ気の毒だから。………」
「じゃ、気の毒だと思ってあわれんでやるから、友達になれと云う訳かね?」
「何もそう云う意味じゃないわ。譲治さんだって憐れまれたりしないように、シッカリしていればいいじゃないの」
「ところがそれが怪しいんだよ、今シッカリしている積りだが、お前と附き合うとだんだんグラツキ出すかも知れんよ」
「馬鹿ね、譲治さんは。―――それじゃ友達になるのはいや?」
「ああ、まあいやだね」
「いやならあたし、誘惑するわよ。―――譲治さんの決心をにじって、滅茶苦茶にしてやるわよ」
ナオミはそう云って、冗談ともつかず、真面目まじめともつかず、変な眼つきでニヤニヤしました。
「友達として清く附き合うのと、誘惑されて又ヒドイ目に遭わされるのと、孰方どっちがよくって?―――あたし今夜は譲治さんを脅迫するのよ」
一体この女は、どんな積りで己と友達になろうと云うのかと、私はその時考えました。彼女が毎晩訪ねて来るのは、単に私をからかうだけの興味ではなく、まだ何かしらもくろみがあるに違いありません。ず友達になって置いて、それから次第に丸め込んで、自分の方から降参をする形式でなく再び夫婦になろうと云うのか? 彼女の真意がそうであるなら、そんな面倒な策略をろうしてくれないでも、私は訳なく同意したでしょう。なぜなら私の胸の中には、彼女と夫婦になれるのであったら決して「いや」とは云えない気持が、もういつの間にかムラムラと燃えていたのですから。
「ねえ、ナオミや、ただの友達になったって無意味じゃないか。そのくらいならいっそ元通り夫婦になってくれないかね」
と、私は時と場合にっては、自分の方からそう切り出してもいいのでした。けれども今夜のナオミの様子では、私が真面目に心を打ち明けて頼んだところで、手軽に「うん」とは云いそうもない。
「そんなことは真っ平御免よ、ただの友達でなければいやよ」
と、此方こちらの腹が見えたとなると、いよいよ図に乗って茶化すかも知れない。私の折角の心持がそんな扱いを受けるようではつまらないし、それに第一、ナオミの真意が夫婦になると云うのではなく、自分は何処までも自由の立場にいて、いろいろの男を手玉に取ろう、そして私を手玉の一つに加えてやろうと、そう云う魂胆だとすれば、尚更なおさら迂闊うかつなことは云えない。現に彼女はその住所をさえハッキリ云わないくらいだから、今でも誰か男があると思わなければならないし、それをそのままずるずるべったりに妻に持ったら、私は又してもき目を見るのだ。
そこで私は咄嗟とっさの間に思案をめぐらして、
「では友達になってもいいよ、脅迫されちゃたまらないから」
と、此方もニヤニヤ笑いながらそう云いました。と云うのは、友達として附き合っていれば、追い追い彼女の真意が分って来るだろう。そして彼女にまだ少しでも真面目なところが残っていたら、その時始めて此方の胸を打ち明けて、夫婦になるようにと説きつける機会もあるだろうし、今より有利な条件で妻にすることが出来るでもあろうと、私は私で腹に一物あったからです。
「じゃあ承知してくれたのね?」
ナオミはそう云って、くすぐったそうに私の顔をのぞき込んで、
「だけど譲治さん、ほんとうにただの友達よ」
「ああ、勿論もちろんさ」
「イヤらしいことなんか、もうお互に考えないのよ」
「分っているとも。―――それでなけりゃ己も困るよ」
「ふん」
と云って、ナオミは例の鼻の先で笑いました。
こんな事があってから後、彼女はますます足繁あししげく出入するようになりました。夕方会社から帰って来ると、
「譲治さん」
と、いきなり彼女がつばめのように飛び込んで来て、
「今夜晩飯を御馳走ちそうしない? 友達ならばそのくらいの事はしてもいいでしょ」
と、西洋料理をおごらせて、たらふくべて帰ったり、そうかと思うと雨の降る晩に遅くやって来て、寝室の戸をトントンとたたいて、
「今晩は、もう寝ちまったの?―――寝ちまったらば起きないでもいいわ。あたし今夜は泊る積りでやって来たのよ」
と、勝手に隣りの部屋へ這入はいって、床を敷いて寝てしまったり、る時などは朝起きて見ると、彼女がちゃんと泊り込んでいて、ぐうぐう眠っていたりすることもありました。そして彼女は二た言目には、「友達だから仕方がないわよ」と云うのでした。
私はその時分、彼女をつくづく天稟てんぴん淫婦いんぷであると感じたことがありましたが、それはどう云う点かと云うと、彼女はもともと多情な性質で、多くの男に肌を見せるのをとも思わない女でありながら、それだけ又、平素は非常にその肌を秘密にすることを知っていて、たといわずかな部分をでも、決して無意味に男の眼には触れさせないようにしていたことです。誰にでも許す肌であるものを、不断は秘し隠しに隠そうとする、―――これは私に云わせると、確かに淫婦が本能的に自己を保護する心理なのです。なぜなら淫婦の肌と云うものは、彼女に取って何より大切な「売り物」であり、「商品」であるから、場合に依っては貞女が肌を守るよりも、一層厳重にそれを守らねばならない訳で、そうしなければ、「売り物」の値打ちはだんだん下落してしまいます。ナオミは実にこの間の機微を心得ていて、かつて彼女の夫であった私の前では、尚更その肌を押し包むようにするのでした。が、では絶対に慎しみ深くするのかと云うと、それが必ずしもそうではなく、私がいるとわざと着物を着換えたり、着換える拍子にずるり襦袢じゅばんを滑り落して、
「あら」
いながら、両手で裸体の肩を隠して隣りの部屋へ逃げ込んだり、一と風呂ふろ浴びて帰って来て、鏡台の前で肌を脱ぎかけ、そして始めて気が付いたように、
「あら、譲治さん、そんな所にいちゃいけないわ、彼方あっちへ行ってらっしゃいよ」
と、私を追い立てたりするのでした。
こう云う風にして見せるともなく折々ちらと見せられるナオミの肌の僅かな部分は、たとえばくびの周りとか、ひじとか、はぎとか、かかととか云う程の、ほんのちょっとした片鱗へんりんだけではありましたけれども、彼女の体が前よりも尚つややかに、憎いくらいに美しさを増していることは、私の眼には決して見逃せませんでした。私はしばしば想像の世界で、彼女の全身の衣をぎ取り、その曲線を飽かずに眺め入ることを余儀なくされました。
「譲治さん、何をそんなに見ているの?」
と、彼女は或る時、私の方へ背中を向けて着換えながら云いました。
「お前の体つきを見ているんだよ、何だかこう、せんより水々しくなったようだね」
「まあ、いやだ、―――レディーの体を見るもんじゃないわよ」
「見やしないけれど、着物の上からでも大概分るさ。先からちりだったけれど、この頃は又膨れて来たね」
「ええ、膨れたわ、だんだんおしりが大きくなるわ。だけども脚はすっきりして、大根のようじゃなくってよ」
「うん、脚は子供の時分から真っ直ぐだったね。立つとピタリと喰っ着いたけれど、今でもそうかね」
「ええ、喰っ着くわ」
そう云って彼女は、着物で体を囲いながらピンと立って見て、
「ほら、ちゃんと着くわよ」
その時私の頭の中には、何かの写真で覚えのあるロダンの彫刻が浮かびました。
「譲治さん、あなたあたしの体が見たいの?」
「見たければ見せてくれるのかい?」
「そんな訳には行かないわよ、あなたとあたしは友達じゃないの。―――さ、着換えてしまうまでちょいと彼方へ行ってらっしゃい」
そして彼女は、私の背中へ叩きつけるようにぴしゃんとドーアを締めました。
こんな調子で、ナオミはいつも私の情慾じょうよくを募らせるようにばかり仕向ける、そしてきわどい所までおびき寄せて置きながら、それから先へは厳重な関を設けて、一歩も這入らせないのです。私とナオミとの間にはガラスの壁が立っていて、どんなに接近したように見えても、実は到底えることの出来ない隔たりがある。ウッカリ手出しをしようものなら必ずその壁に突き当って、いくられても彼女の肌には触れる訳に行かないのです。時にはナオミはヒョイとその壁をけそうにするので、「おや、いいのかな」と思ったりしますが、近寄って行けば矢張元通り締まってしまいます。
「譲治さん、あなたね、一つ接吻せっぷんして上げるわ」
と、彼女はからかい半分によくそんなことを云ったものです。からかわれるとは知っていながら、彼女が唇を向けて来るので私もそれを吸うようにすると、アワヤと云う時その唇は逃げてしまって、はッと二三寸離れた所から私の口へ息を吹っかけ、
「これが友達の接吻よ」
と、そう云って彼女はニヤリと笑います。
この「友達の接吻」と云う風変りな挨拶あいさつの仕方、―――女の唇を吸う代りに、息を吸うだけで満足しなければならないところの不思議な接吻、―――これはその後習慣のようになってしまって、別れ際などに、
「じゃ左様なら、又来るわよ」
と、彼女が唇をさし向けると、私はその前へ顔を突き出して、あたかも吸入器に向ったようにポカンと口を開きます。その口の中へ彼女がはッと息を吹き込む、私がそれをすうッと深く、眼をつぶって、おいしそうに胸の底にみ下します。彼女の息は湿り気を帯びて生温かく、人間の肺から出たとは思えない、甘い花のようなかおりがします。―――彼女は私を迷わせるように、そっと唇へ香水を塗っていたのだそうですが、そう云う仕掛けがしてあることを無論その頃は知りませんでした。―――私はこう、彼女のような妖婦ようふになると、内臓までも普通の女と違っているのじゃないか知らん、だから彼女の体内を通って、その口腔こうこうに含まれた空気は、こんななまめかしいにおいがするのじゃないか知らん、と、よくそう思い思いしました。
私の頭はこうして次第に惑乱され、彼女の思う存分に※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしられて行きました。私は今では、正式な結婚でなければいやだの、手玉に取られるだけでは困るのと、もうそんなことを云っている余裕はなくなりました。いや、正直を云うとこうなることは始めから分っていたはずなので、しほんとうに彼女の誘惑を恐れるなら、附き合わなければいいものを、彼女の真意を探るためだとか、有利な機会をうかがうためだとか云ったのは、自分で自分をあざむこうとする口実に過ぎなかったのです。私は誘惑がこわい恐いと云いながら、本音を吐けばその誘惑を心待ちにしていたのです。ところが彼女はいつまで立ってもそのつまらない友達ごッこを繰り返すばかりで、決してそれ以上は誘惑しません。これは彼女がいやが上にも私を懊らす計略だろう、懊らして懊らし抜いて、「時分はよし」と見た頃に突然「友達」の仮面を脱ぎ、得意の魔の手を伸ばすであろう、今に彼女はきっと手を出す、出さないで済ます女ではない、此方はせいぜい彼女の計略に載せられてやって「ちんちん」と云えば「ちんちん」をする、「お預け」と云えば「お預け」をする、何でも彼女の注文通りに芸当をやっていれば、しまいには獲物に有りつけるだろうと、毎日々々、鼻をうごめかしていましたが、私の予想は容易に実現されそうもなく、今日はいよいよ仮面を脱ぐか、明日は魔の手が飛び出すかと思っても、その日になると危機一髪と云うところでスルリと逃げられてしまうのです。
そうなると私は、今度はほんとうに懊れ出しました。「おれはこの通り待ちかねているんだ、誘惑するなら早くしてくれ」と云わぬばかりに、体中にすきを見せたり、弱点をさらけ出したりして、果ては此方からあべこべに誘いかけたりしました。しかし彼女は一向取り上げてくれないで、
「何よ譲治さん! それじゃ約束が違うじゃないの」
と、子供をたしなめるような眼つきで、私をしかりつけるのです。
「約束なんかどうだっていい、己はもう………」
「駄目、駄目! あたしたちはお友達よ!」
「ねえ、ナオミ、………そんなことを云わないで、………お願いだから、………」
「まあ、うるさいわね! 駄目だったら!………さ、その代りキッスして上げるわ」
そして彼女は、例のはッと云う息を浴びせて、
「ね、いいでしょ? これで我慢しなけりゃ駄目よ、これだけだって友達以上かも知れないけれど、譲治さんだから特別にして上げるんだわ」
が、この「特別」な愛撫あいぶの手段は、かえって私の神経を異常に刺戟しげきする力はあっても、決して静めてはくれません。
「畜生! 今日も駄目だったか」
と、私はますます苛立いらだって来ます。彼女がふいと風のように出て行ってしまうと、しばらくの間は何事も手にかず、自分で自分に腹を立てて、おりに入れられた猛獣のごとく部屋の中をウロウロしながら、そこらじゅうの物を八つあたりに叩きつけたり、破いたりします。
私は実に、この気違いじみた、男のヒステリーとも云うべき発作に悩まされたものですが、彼女の来るのが毎日であるので、発作の方もまって一日に一遍ずつは起るのでした。おまけに私のヒステリーは普通のそれと性質が違い、発作がんでしまっても、後でケロリと気が軽くなりはしませんでした。むしろ気分が落ち着いて来ると、今度は前よりも一層明瞭めいりょうに、一層執拗しつように、ナオミの肉体の細々こまごました部分がじーッと思い出されました。着換えをした時にちょいと着物のすそかられた足であるとか、息を吹っかけてくれた時につい二三寸傍まで寄って来た唇であるとか、そう云うものがそれらを実際に見せられた時より、却って後になってしおまざまざと眼の前に浮かび、その唇や足の線を伝わって次第に空想をひろげて行くと、不思議や実際には見えなかった部分までも、あたかも種板を現像するようにだんだん見え出して、ついには全く大理石のヴィナスの像にも似たものが、心のやみの底に忽然こつぜんと姿を現わすのです。私の頭は天鵞絨びろうどとばりで囲まれた舞台であって、そこに「ナオミ」と云う一人の女優が登場します。八方から注がれる舞台の照明は真暗な中に揺らいでいる彼女の白い体だけを、カッキリと強い円光をもって包みます。私が一心に視詰みつめていると、彼女の肌に燃える光りはいよいよ明るさを増して来る、時には私のまゆきそうに迫って来る。活動写真の「大映し」のように、部分々々が非常に鮮やかに拡大される、………その幻影が実感を以て私の官能を脅やかす程度は、本物と少しも変りはなく、物足りないのは手で触れることが出来ないと云う一点だけで、その他の点では本物以上に生き生きとしている。あんまりそれを視詰めると、私はしまいにグラグラと眩暈めまいがするような心地を覚えて、体中の血が一度にかあッと顔の方へ上って来て、ひとりでに動悸どうきが激しくなります。すると再びヒステリーの発作が起って、椅子いす蹴飛けとばしたり、カーテンを引きちぎったり、花瓶をこわしたりします。
私の妄想は日増しに狂暴になって行き、眼を潰りさえすればいつでも暗い眼瞼まぶたかげにナオミがいました。私はよく、彼女のかぐわしい息の匂をおもい出して、虚空こくうに向って口を開け、はッとその辺の空気を吸いました。往来を歩いている時でも、部屋に蟄居ちっきょしている時でも、彼女の唇が恋しくなると、私はいきなり天を仰いで、はッはッとやりました。私の眼にはいたる所にナオミのあかい唇が見え、そこらじゅうにある空気と云う空気が、みんなナオミのいぶきであるかと思われました。つまりナオミは天地の間に充満して、私を取り巻き、私を苦しめ、私のうめきを聞きながら、それを笑って眺めている悪霊あくりょうのようなものでした。
「譲治さんはこの頃変よ、少うしどうかしているわよ」
と、ナオミは或る晩やって来て、そう云いました。
「そりゃあどうかしているだろうさ、こんなにお前に懊らされりゃあ、………」
「ふん、………」
「何がふんだい?」
「あたし、約束は厳重に守る積りよ」
「いつまで守る積りなんだい?」
「永久に」
「冗談じゃない、こうしていると己はだんだん気が変になるよ」
「じゃ、いいことを教えて上げるわ、水道の水を頭からザッと打っかけるといいわ」
「おい、ほんとうにお前………」
「又始まった! 譲治さんがそんな眼つきをするから、あたし尚更なおさらからかってやりたくなるんだわ。そんなに傍へ寄って来ないで、もっと離れていらっしゃいよ、指一本でも触らないようにして頂戴ちょうだいよ」
「じゃあ仕方がない、友達のキッスでもしておくれよ」
「大人しくしていればして上げるわ、だけども後で気が変になりやしなくって?」
「なってもいいよ、もうそんな事を構ってなんかいられないんだ」
 
 
 
 
 
 

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