二十七
その晩ナオミは、「指一本でも触らないように」私をテーブルの向う側にかけさせ、ヤキモキしている私の顔を面白そうに眺めながら、夜遅くまで無駄口を
「譲治さん、今夜は泊めて
と、又しても人をからかうような口調で云いました。
「ああ、お泊り、明日は日曜で己も一日内にいるから」
「だけども何よ。泊ったからって、譲治さんの注文通りにはならないわよ」
「いや、御念には及ばないよ、注文通りになるような女でもないからな」
「なれば都合が好いと思っているんじゃないの」
そう云って彼女は、クスクスと鼻を鳴らして、
「さ、あなたから先へお休みなさい、
と、私を二階へ追い立てて置いて、それから隣りの部屋へ
私は
「えらい音をさせるなあ」
と、私は半ば独り言のように、半ば彼女に聞えるように
「まだ起きているの? 寝られないの?」
と、壁の向うから
「ああ、なかなか寝られそうもないよ、―――己はいろいろ考え事をしているんだ」
「うふふふ、譲治さんの考え事なら、聞かないでも大概分っているわ」
「だけども、実に妙なもんだよ。現在お前がこの壁の向うに寝ているのに、どうすることも出来ないなんて」
「ちっとも妙なことはないわよ。ずっと昔はそうだったじゃないの、あたしが始めて譲治さんの所へ来た時分は。―――あの時分には今夜のようにして寝たじゃないの」
私はナオミにそう云われると、ああそうだったか、そんな時代もあったんだっけ、あの時分にはお互に純なものだったのにと、ホロリとするような気になりましたが、これは少しも今の私の
「あの時分にはお前は無邪気なもんだったがね」
「今だってあたしは至極無邪気よ、有邪気なのは譲治さんだわ」
「何とでも勝手に云うがいいさ、己はお前を
「うふふふ」
「おい!」
私はそう云って、壁をどんと打ちました。
「あら、何をするのよ、
「この壁が邪魔だ、この壁を打っ壊してやりたいもんだ」
「まあ騒々しい。今夜はひどく
「そりゃ暴れるとも。この鼠はヒステリーになっているんだ」
「あたしはそんなお
「馬鹿を云え、己はじじいじゃないぞ、まだやっと三十二だぞ」
「あたしは十九よ、十九から見れば三十二の人はお爺さんよ。悪いことは云わないから、外に奥さんをお貰いなさいよ、そうしたらヒステリーが直るかも知れないから」
ナオミは私が何を云っても、しまいにはもう、うふうふ笑うだけでした。そして間もなく、
「もう寝るわよ」
と、ぐうぐう
明くる日の朝、眼を覚まして見ると、ナオミはしどけない寝間着姿で、私の枕もとに
「どうした? 譲治さん、昨夜は大変だったわね」
「うん、この頃己は、時々あんな風にヒステリーを起すんだよ。恐かったかい?」
「面白かったわ、又あんな風にさして見たいわ」
「もう大丈夫だ、今朝はすっかり治まっちまった。―――ああ、今日は
「好い天気だから起きたらどう? もう十時過ぎよ。あたし一時間も前に起きて、今
私はそう云われて、寝ながら彼女の湯上り姿を見上げました。一体女の「湯上り姿」と云うものは、―――それの真の美しさは、
「どうしたんだい、朝ッぱらから湯になんぞ這入って」
「どうしたって大きなお世話よ。―――ああ、いい気持だった」
と、彼女は鼻の両側を平手でハタハタと軽く叩いて、それからぬうッと、顔を私の眼の前へ突き出しました。
「ちょいと! よく見て頂戴、
「ああ、生えてるよ」
「ついでにあたし、床屋へ寄って顔を
「だってお前は剃るのが嫌いだったじゃないか。西洋の女は決して顔を剃らないと云って。―――」
「だけどこの頃は、
「ははあ、そうか、お前の顔がこの間から面変りがして、眉の形まで違っちまったのは、そこをそんな風に剃っているせいか」
「ええ、そうよ、今頃になって気が付くなんて、時勢後れね」
ナオミはそう云って、何か別な事を考えている様子でしたが、
「譲治さん、もうヒステリーはほんとうに直って?」
と、ふいとそんなことを尋ねました。
「うん、直ったよ。なぜ?」
「直ったら譲治さんにお願いがあるの。―――これから床屋へ出かけて行くのは大儀だから、あたしの顔を剃ってくれない?」
「そんな事を云って、又ヒステリーを起させようッて気なんだろう」
「あら、そうじゃないわよ、ほんとに
「安全
「ところがそうは行かないの。顔だけならいいけれど、
「へえ、どうしてそんな所まで剃るんだ?」
「だってそうでしょ、夜会服を着れば肩の方まですっかり出るでしょ。―――」
そしてわざわざ、肩の肉をちょっとばかり出して見せて、
「ほら、ここいらまで剃るのよ、だから自分じゃ出来やしないわ」
そう云ってから、彼女は
ナオミは私が、彼女のために
「譲治さん、剃ってくれるのはいいけれど、一つの条件があることよ」
と、云い出しました。
「条件?」
「ええ、そう。別にむずかしい事じゃないの」
「どんな事さ?」
「剃るなんて云ってゴマカして、指で方々摘まんだりしちゃ
「だってお前、―――」
「何が『だって』よ、触らないように剃れるじゃないの、シャボンはブラシで塗ればいいんだし、剃刀はジレットを使うんだし、………床屋へ行っても上手な職人は触りゃしないわ」
「床屋の職人と一緒にされちゃあ
「生意気云ってらあ、実は剃らして貰いたい癖に!―――それがイヤなら、何も無理には頼まないわよ」
「イヤじゃあないよ。そう云わないで剃らしておくれよ、折角支度までしちゃったんだから」
私はナオミの、抜き
「じゃ、条件通りにする?」
「うん、する」
「絶対に触っちゃいけないわよ」
「うん、触らない」
「もしちょっとでも触ったら、その時直ぐに
私は云われる通りにしました。そして右の方の手だけを使って、彼女の口の周りから剃って行きました。
彼女はうっとりと、剃刀の刃で
………私の手にある剃刀は、銀色の虫が這うようにしてなだらかな肌を這い下り、その
「譲治さん、手が
突然ナオミの云う声がしました。私は頭がガンガンして、口の中が
「さ、今度は
と
「え、腋の下?」
「ええ、そう、―――洋服を着るには腋の下を剃るもんよ、此処が見えたら失礼じゃないの」
「意地悪!」
「どうして意地悪よ、
その一
「何をするのよ!」
と、鋭く叫んで立ち上りました。見るとその顔は、―――私の顔が真っ青だったからでしょうが、彼女の顔も―――冗談ではなく、真っ青でした。
「ナオミ! ナオミ! もうからかうのは
何を云ったか全く前後不覚でした、ただセッカチに、早口に、さながら熱に浮かされた如くしゃべりました。それをナオミは、黙って、まじまじと、棒のように突っ立ったまま、
私は彼女の足下に身を投げ、
「よ、なぜ黙っている! 何とか云ってくれ!
「気違い!」
「気違いで悪いか」
「誰がそんな気違いを、相手になんかしてやるもんか」
「じゃあ己を馬にしてくれ、いつかのように己の背中へ乗っかってくれ、どうしても否ならそれだけでもいい!」
私はそう云って、そこへ四つン
一瞬間、ナオミは私が事実発狂したかと思ったようでした。彼女の顔はその時一層、どす黒いまでに真っ青になり、瞳を据えて私を見ている眼の中には、
「さ、これでいいか」
と、男のような口調で云いました。
「うん、それでいい」
「これから何でも云うことを聴くか」
「うん、聴く」
「あたしが要るだけ、いくらでもお金を出すか」
「出す」
「あたしに好きな事をさせるか、一々干渉なんかしないか」
「しない」
「あたしのことを『ナオミ』なんて呼びつけにしないで、『ナオミさん』と呼ぶか」
「呼ぶ」
「きっとか」
「きっと」
「よし、じゃあ馬でなく、人間扱いにして上げる、
そして私とナオミとは、シャボンだらけになりました。………
「………これで
と、私は云いました。
「あたしに逃げられてそんなに困った?」
「ああ、困ったよ、一時はとても帰って来てはくれないかと思ったよ」
「どう? あたしの恐ろしいことが分った?」
「分った、分り過ぎるほど分ったよ」
「じゃ、さっき云ったことは忘れないわね、何でも好きにさせてくれるわね。―――夫婦と云っても、堅ッ苦しい夫婦はイヤよ、でないとあたし、又逃げ出すわよ」
「これから又、『ナオミさん』に『譲治さん』で行くんだね」
「ときどきダンスに行かしてくれる?」
「うん」
「いろいろなお友達と附き合ってもいい? もう
「うん」
「
「へえ、熊谷と絶交した?」
「ええ、した、あんなイヤな
「その横浜の、マッカネルと云う男かね?」
「西洋人のお友達なら大勢あるわ。マッカネルだって、別に怪しい訳じゃないのよ」
「ふん、どうだか、―――」
「それ、そう人を疑ぐるからいけないのよ、あたしがこうと云ったらば、ちゃんとそれをお信じなさい。よくって? さあ! 信じるか、信じないか?」
「信じる!」
「まだその外にも注文があるわよ、―――譲治さんは会社を
「お前に捨てられちまったら、田舎へ引っ込もうと思ったんだが、もうこうなれば引っ込まないよ。田舎の財産を整理して、現金にして持ってくるよ」
「現金にしたらどのくらいある?」
「さあ、
「それッぽっち?」
「それだけあれば、お前と
「
「そりゃ、遊んじゃあ行かれないよ。―――お前は遊んでもいいけれど、己は何か事務所でも開いて、独立して仕事をやる積りだ」
「仕事の方へみんなお金を注ぎ込んじまっちゃイヤだわよ、あたしに贅沢をさせるお金を、別にして置いてくれなけりゃ。いい?」
「ああ、いい」
「じゃ、半分別にして置いてくれる?―――三十万円なら十五万円、二十万円なら十万円、―――」
「大分細かく念を押すんだね」
「そりゃあそうよ、初めに条件を
「イヤじゃないッたら、―――」
「イヤならイヤと
「大丈夫だってば、―――承知したってば、―――」
「それからまだよ、―――もうそうなったらこんな家にはいられないから、もっと立派な、ハイカラな家へ引っ越して頂戴」
「無論そうする」
「あたし、西洋人のいる街で、西洋館に住まいたいの、
「そんな家が東京にあるかね?」
「東京にはないけれど、横浜にはあるわよ。横浜の山手にそう云う借家がちょうど一軒空いているのよ、この間ちゃんと見て置いたの」
私は始めて彼女に深いたくらみがあったのを知りました。ナオミは最初からそうする積りで、計画を立てて、私を釣っていたのでした。
二十八
さて、話はこれから三四年の後のことになります。
私たちは、あれから横浜へ引き移って、かねてナオミの見つけて置いた山手の洋館を借りましたけれども、だんだん贅沢が身に
私はその後、計画通り大井町の会社の方は辞職をし、田舎の財産は整理してしまって、学校時代の二三の同窓と、電気機械の製作販売を目的とする合資会社を始めました。この会社は、私が一番の出資者である代りに、実際の仕事は友達がやってくれているので、毎日事務所へ出る必要はないのですが、どう云う訳か、私が一日家にいるのをナオミが好まないものですから、イヤイヤながら日に一遍は見廻ることにしてあります。私は朝の十一時頃に、横浜から東京に行き、京橋の事務所へ一二時間顔を出して、大概夕方の四時頃には帰って来ます。
昔は非常な勤勉家で、朝は早起きの方でしたけれども、この頃の私は、九時半か十時でなければ起きません。起きると直ぐに、寝間着のまま、そっと
「ふん」
と、
こう
ナオミは毎朝十一時過ぎまで、起きるでもなく
彼女は顔を洗う前に、寝床で紅茶とミルクを飲みます。その間にアマが
ナオミの友達はよく変りました。浜田や熊谷はあれからふッつり出入りをしなくなってしまって、一と頃は例のマッカネルがお気に入りのようでしたが、間もなく彼に代った者は、デュガンと云う男でした。デュガンの次には、ユスタスと云う友達が出来ました。このユスタスと云う男は、マッカネル以上に不愉快な奴で、ナオミの御機嫌を取ることが実に上手で、一度私は、腹立ち紛れに、
ユスタスの後にも、第二第三のユスタスが出来たことは
自信がなくなると仕方がないもので、目下の私は、英語などでも到底彼女には及びません。実地に附き合っているうちに自然と上達したのでしょうが、夜会の席で婦人や紳士に
これで私たち夫婦の記録は終りとします。これを読んで、
ナオミは今年二十三で私は三十六になります。
底本:「痴人の愛」新潮文庫、新潮社
1947(昭和22)年11月10日発行
2003(平成15)年6月10日116刷改版
2011(平成23)年2月10日126刷
初出:「大阪朝日新聞」
1924(大正13)年3月〜5月
「女性」
1924(大正13)年11月〜1925(大正14)年7月
※底本巻末の細江光氏による注解は省略しました。
入力:daikichi
校正:悠悠自炊
2017年6月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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