痴人の愛 谷崎潤一郎

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 二十七
 
その晩ナオミは、「指一本でも触らないように」私をテーブルの向う側にかけさせ、ヤキモキしている私の顔を面白そうに眺めながら、夜遅くまで無駄口をたたいていましたが、十二時が鳴ると、
「譲治さん、今夜は泊めてもらうわよ」
と、又しても人をからかうような口調で云いました。
「ああ、お泊り、明日は日曜で己も一日内にいるから」
「だけども何よ。泊ったからって、譲治さんの注文通りにはならないわよ」
「いや、御念には及ばないよ、注文通りになるような女でもないからな」
「なれば都合が好いと思っているんじゃないの」
そう云って彼女は、クスクスと鼻を鳴らして、
「さ、あなたから先へお休みなさい、寝語ねごとを云わないようにして」
と、私を二階へ追い立てて置いて、それから隣りの部屋へ這入はいって、ガチンとかぎをかけました。
私は勿論もちろん、隣りの部屋が気にかかって容易に寝つかれませんでした。以前、夫婦でいた時分にはこんな馬鹿ばかなことはなかったんだ、己がこうして寝ている傍に彼女もいたんだ、そう思うと、私は無上に口惜くやしくてなりませんでした。壁一重の向うでは、ナオミがしきりに、―――あるいはわざとそうするのか、―――ドタンバタンと、床に地響きをさせながら、布団ふとんを敷いたり、まくらを出したり、寝支度をしています。あ、今髪を解かしているな、着物を脱いで寝間着に着換えているところだなと、それらの様子が手に取るように分ります。それからぱッと夜具をまくったけはいがして、続いてどしんと、彼女の体が布団の上へ打っ倒れる音が聞えました。
「えらい音をさせるなあ」
と、私は半ば独り言のように、半ば彼女に聞えるようにいました。
「まだ起きているの? 寝られないの?」
と、壁の向うからぐとナオミが応じました。
「ああ、なかなか寝られそうもないよ、―――己はいろいろ考え事をしているんだ」
「うふふふ、譲治さんの考え事なら、聞かないでも大概分っているわ」
「だけども、実に妙なもんだよ。現在お前がこの壁の向うに寝ているのに、どうすることも出来ないなんて」
「ちっとも妙なことはないわよ。ずっと昔はそうだったじゃないの、あたしが始めて譲治さんの所へ来た時分は。―――あの時分には今夜のようにして寝たじゃないの」
私はナオミにそう云われると、ああそうだったか、そんな時代もあったんだっけ、あの時分にはお互に純なものだったのにと、ホロリとするような気になりましたが、これは少しも今の私の愛慾あいよくを静めてはくれませんでした。却って私は、二人がいかに深い因縁で結び着けられているかを思い、到底彼女と離れられない心持を、痛切に感じるばかりでした。
「あの時分にはお前は無邪気なもんだったがね」
「今だってあたしは至極無邪気よ、有邪気なのは譲治さんだわ」
「何とでも勝手に云うがいいさ、己はお前を何処どこまでも追っけ廻す積りだから」
「うふふふ」
「おい!」
私はそう云って、壁をどんと打ちました。
「あら、何をするのよ、此処ここは野中の一軒家じゃあないことよ。何卒どうぞお静かに願います」
「この壁が邪魔だ、この壁を打っ壊してやりたいもんだ」
「まあ騒々しい。今夜はひどくねずみが暴れる」
「そりゃ暴れるとも。この鼠はヒステリーになっているんだ」
「あたしはそんなおじいさんの鼠は嫌いよ」
「馬鹿を云え、己はじじいじゃないぞ、まだやっと三十二だぞ」
「あたしは十九よ、十九から見れば三十二の人はお爺さんよ。悪いことは云わないから、外に奥さんをお貰いなさいよ、そうしたらヒステリーが直るかも知れないから」
ナオミは私が何を云っても、しまいにはもう、うふうふ笑うだけでした。そして間もなく、
「もう寝るわよ」
と、ぐうぐう空鼾そらいびきをかき出しましたが、やがてほんとうに寝入ったようでした。
明くる日の朝、眼を覚まして見ると、ナオミはしどけない寝間着姿で、私の枕もとにすわっています。
「どうした? 譲治さん、昨夜は大変だったわね」
「うん、この頃己は、時々あんな風にヒステリーを起すんだよ。恐かったかい?」
「面白かったわ、又あんな風にさして見たいわ」
「もう大丈夫だ、今朝はすっかり治まっちまった。―――ああ、今日はい天気だなあ」
「好い天気だから起きたらどう? もう十時過ぎよ。あたし一時間も前に起きて、今朝湯あさゆに行って来たの」
私はそう云われて、寝ながら彼女の湯上り姿を見上げました。一体女の「湯上り姿」と云うものは、―――それの真の美しさは、風呂ふろから上ったばかりの時よりも、十五分なり二十分なり、多少時間を置いてからがいい。風呂に漬かるとどんなに皮膚の綺麗きれいな女でも、一時は肌がゆだり過ぎて、指の先などが赤くふやけるものですが、やがて体が適当な温度に冷やされると、始めてろうが固まったように透きとおって来る。ナオミは今しも、風呂の帰りに戸外の風に吹かれて来たので、湯上り姿の最も美しい瞬間にいました。その脆弱ぜいじゃくな、うすい皮膚は、まだ水蒸気を含みながらも真っ白にえ、着物のえりに隠れている胸のあたりには、水彩画の絵の具のような紫色の影があります。顔はつやつやと、ゼラチンの膜を張ったかの如く光沢を帯び、ただ眉毛だけがじっとりとれていて、その上にはカラリと晴れた冬の空が、窓を透してほんのり青く映っています。
「どうしたんだい、朝ッぱらから湯になんぞ這入って」
「どうしたって大きなお世話よ。―――ああ、いい気持だった」
と、彼女は鼻の両側を平手でハタハタと軽く叩いて、それからぬうッと、顔を私の眼の前へ突き出しました。
「ちょいと! よく見て頂戴、ひげが生えてる?」
「ああ、生えてるよ」
「ついでにあたし、床屋へ寄って顔をって来ればよかったっけ」
「だってお前は剃るのが嫌いだったじゃないか。西洋の女は決して顔を剃らないと云って。―――」
「だけどこの頃は、亜米利加アメリカなんかじゃ顔を剃るのが流行はやっているのよ。ね、あたしの眉毛を御覧なさい、亜米利加の女はこんな工合にみんな眉毛を剃っているから」
「ははあ、そうか、お前の顔がこの間から面変りがして、眉の形まで違っちまったのは、そこをそんな風に剃っているせいか」
「ええ、そうよ、今頃になって気が付くなんて、時勢後れね」
ナオミはそう云って、何か別な事を考えている様子でしたが、
「譲治さん、もうヒステリーはほんとうに直って?」
と、ふいとそんなことを尋ねました。
「うん、直ったよ。なぜ?」
「直ったら譲治さんにお願いがあるの。―――これから床屋へ出かけて行くのは大儀だから、あたしの顔を剃ってくれない?」
「そんな事を云って、又ヒステリーを起させようッて気なんだろう」
「あら、そうじゃないわよ、ほんとに真面目まじめで頼むんだから、そのくらいな親切があってもいいでしょ? もっともヒステリーを起されて、怪我けがでもさせられちゃ大変だけれど」
「安全剃刀かみそりを貸してやるから、自分で剃ったらいいじゃないか」
「ところがそうは行かないの。顔だけならいいけれど、くびの周りから、ずうッと肩のうしろの方まで剃るんだから」
「へえ、どうしてそんな所まで剃るんだ?」
「だってそうでしょ、夜会服を着れば肩の方まですっかり出るでしょ。―――」
そしてわざわざ、肩の肉をちょっとばかり出して見せて、
「ほら、ここいらまで剃るのよ、だから自分じゃ出来やしないわ」
そう云ってから、彼女はあわてて又その肩をスポリと引っ込めてしまいましたが、毎度してやられる手ではありながら、それが私には矢張抵抗し難いところの誘惑でした。ナオミのやつ、顔が剃りたいのでも何でもないんだ、おれ飜弄ほんろうするつもりで湯にまで這入って来やがったんだ。―――と、そう分ってはいましたけれども、とにかく肌を剃らせると云うのは、今までにない一つの新しい挑戦でした。今日こそうんと近くへ寄って、あの皮膚をしみじみと見られる、もちろん触ってみることも出来る。そう考えただけでも私は、とても彼女の申出もうしいでを断る勇気はありませんでした。
ナオミは私が、彼女のために瓦斯焜炉ガスこんろで湯を沸かしたり、それを金盥かなだらいへ取ってやったり、ジレットの刃を附け換えたり、いろいろ支度をしてやっている間に、窓のところへ机を持ち出してその上に小さな鏡を立て、両足の間へしりぴたんこに落して据わって、次には白い大きなタオルを襟の周りへ巻き着けました。が、私が彼女のうしろへ廻って、コールゲートのシャボンの棒を水に塗らして、いよいよ剃ろうとするとたんに、
「譲治さん、剃ってくれるのはいいけれど、一つの条件があることよ」
と、云い出しました。
「条件?」
「ええ、そう。別にむずかしい事じゃないの」
「どんな事さ?」
「剃るなんて云ってゴマカして、指で方々摘まんだりしちゃいやだわよ、ちっとも肌に触らないようにして、剃ってくれなけりゃ」
「だってお前、―――」
「何が『だって』よ、触らないように剃れるじゃないの、シャボンはブラシで塗ればいいんだし、剃刀はジレットを使うんだし、………床屋へ行っても上手な職人は触りゃしないわ」
「床屋の職人と一緒にされちゃあり切れないな」
「生意気云ってらあ、実は剃らして貰いたい癖に!―――それがイヤなら、何も無理には頼まないわよ」
「イヤじゃあないよ。そう云わないで剃らしておくれよ、折角支度までしちゃったんだから」
私はナオミの、抜き衣紋えもんにした長い襟足を視詰みつめると、そう云うより外はありませんでした。
「じゃ、条件通りにする?」
「うん、する」
「絶対に触っちゃいけないわよ」
「うん、触らない」
「もしちょっとでも触ったら、その時直ぐにめにするわよ。その左の手をちゃんとひざの上に載せていらっしゃい」
私は云われる通りにしました。そして右の方の手だけを使って、彼女の口の周りから剃って行きました。
彼女はうっとりと、剃刀の刃ででられて行く快感を味わっているかのように、ひとみを鏡の前に据えて、大人しく私に剃らせていました。私の耳には、すうすうと引くねむいような呼吸が聞え、私の眼には、そのあごの下でピクピクしている頸動脈けいどうみゃくが見えています。私は今や、睫毛まつげの先で刺されるくらい彼女の顔に接近しました。窓の外には乾燥し切った空気の中に、朝の光が朗かに照り、一つ一つの毛孔けあなが数えられるほど明るい。私はこんな明るい所で、こんなにいつまでも、そしてこんなにも精細に、自分の愛する女の目鼻を凝視したことはありません。こうして見るとその美しさは巨人のような偉大さを持ち、容積を持って迫って来ます。その恐ろしく長く切れた眼、立派な建築物のようにひいでた鼻、鼻から口へつながっている突兀とっこつとした二本の線、その線の下に、たっぷり深く刻まれたあかい唇。ああ、これが「ナオミの顔」と云う一つの霊妙な物質なのか、この物質が己の煩悩ぼんのうの種となるのか。………そう考えると実に不思議になって来ます。私は思わずブラシを取って、その物質の表面へ、ヤケにシャボンの泡を立てます。が、いくらブラシでき廻しても、それは静かに、無抵抗に、ただ柔かな弾力をもって動くのみです。………
………私の手にある剃刀は、銀色の虫が這うようにしてなだらかな肌を這い下り、そのうなじから肩の方へ移って行きました。かっぷくのいい彼女の背中が、真っ白な牛乳のように、広く、うずたかく、私の視野に這入って来ました。一体彼女は、自分の顔は見ているだろうが、背中がこんなに美しいことを知っているだろうか? 彼女自身は恐らくは知るまい。それを一番よく知っているのは私だ、私はかつてこの背中を、毎日湯に入れて流してやったのだ。あの時もちょうど今のようにシャボンの泡を掻き立てながら。………これは私の恋の古蹟こせきだ。私の手が、私の指が、この凄艶せいえんな雪の上に嬉々ききとしてたわむれ、此処を自由に、楽しくんだことがあるのだ。今でも何処かにあとが残っているかも知れない。………
「譲治さん、手がふるえるわよ、もっとシッカリやって頂戴ちょうだい。………」
突然ナオミの云う声がしました。私は頭がガンガンして、口の中が干涸ひからびて、奇態に体が顫えるのが自分でも分りました。はッと思って、「気が違ったな」と感じました。それを一生懸命に堪えると、急に顔が熱くなったり、冷めたくなったりしました。しかしナオミのいたずらは、まだこれだけでは止まないのでした。肩がすっかり剃れてしまうと、たもとをまくって、ひじを高くさし上げて、
「さ、今度はわきの下」
うのでした。
「え、腋の下?」
「ええ、そう、―――洋服を着るには腋の下を剃るもんよ、此処が見えたら失礼じゃないの」
「意地悪!」
「どうして意地悪よ、可笑おかしな人ね。―――あたし湯冷めがして来たから早くして頂戴」
その一刹那せつな、私はいきなり剃刀を捨てて、彼女の肘へ飛び着きました、―――飛び着くと云うよりはみ着きました。と、ナオミはちゃんとそれを予期していたかのごとく、ぐその肘で私をグンとね返しましたが、私の指はそれでも何処かに触ったと見え、シャボンでツルリと滑りました。彼女はもう一度、力一杯私を壁の方へ突きけるやいなや、
「何をするのよ!」
と、鋭く叫んで立ち上りました。見るとその顔は、―――私の顔が真っ青だったからでしょうが、彼女の顔も―――冗談ではなく、真っ青でした。
「ナオミ! ナオミ! もうからかうのはい加減にしてくれ! よ! 何でもお前の云うことは聴く!」
何を云ったか全く前後不覚でした、ただセッカチに、早口に、さながら熱に浮かされた如くしゃべりました。それをナオミは、黙って、まじまじと、棒のように突っ立ったまま、あきれ返ったと云う風ににらみつけているだけでした。
私は彼女の足下に身を投げ、ひざまずいて云いました。
「よ、なぜ黙っている! 何とか云ってくれ! いやなら己を殺してくれ!」
「気違い!」
「気違いで悪いか」
「誰がそんな気違いを、相手になんかしてやるもんか」
「じゃあ己を馬にしてくれ、いつかのように己の背中へ乗っかってくれ、どうしても否ならそれだけでもいい!」
私はそう云って、そこへ四つンいになりました。
一瞬間、ナオミは私が事実発狂したかと思ったようでした。彼女の顔はその時一層、どす黒いまでに真っ青になり、瞳を据えて私を見ている眼の中には、ほとんど恐怖に近いものがありました。が、たちまち彼女は猛然として、図太い、大胆な表情をたたえ、どしんと私の背中の上へまたがりながら、
「さ、これでいいか」
と、男のような口調で云いました。
「うん、それでいい」
「これから何でも云うことを聴くか」
「うん、聴く」
「あたしが要るだけ、いくらでもお金を出すか」
「出す」
「あたしに好きな事をさせるか、一々干渉なんかしないか」
「しない」
「あたしのことを『ナオミ』なんて呼びつけにしないで、『ナオミさん』と呼ぶか」
「呼ぶ」
「きっとか」
「きっと」
「よし、じゃあ馬でなく、人間扱いにして上げる、可哀かわいそうだから。―――」
そして私とナオミとは、シャボンだらけになりました。………
 
「………これでようやく夫婦になれた、もう今度こそ逃がさないよ」
と、私は云いました。
「あたしに逃げられてそんなに困った?」
「ああ、困ったよ、一時はとても帰って来てはくれないかと思ったよ」
「どう? あたしの恐ろしいことが分った?」
「分った、分り過ぎるほど分ったよ」
「じゃ、さっき云ったことは忘れないわね、何でも好きにさせてくれるわね。―――夫婦と云っても、堅ッ苦しい夫婦はイヤよ、でないとあたし、又逃げ出すわよ」
「これから又、『ナオミさん』に『譲治さん』で行くんだね」
「ときどきダンスに行かしてくれる?」
「うん」
「いろいろなお友達と附き合ってもいい? もうせんのように文句を云わない?」
「うん」
もっともあたし、まアちゃんとは絶交したのよ。―――」
「へえ、熊谷と絶交した?」
「ええ、した、あんなイヤなやつはありゃしないわ。―――これから成るべく西洋人と附き合うの、日本人より面白いわ」
「その横浜の、マッカネルと云う男かね?」
「西洋人のお友達なら大勢あるわ。マッカネルだって、別に怪しい訳じゃないのよ」
「ふん、どうだか、―――」
「それ、そう人を疑ぐるからいけないのよ、あたしがこうと云ったらば、ちゃんとそれをお信じなさい。よくって? さあ! 信じるか、信じないか?」
「信じる!」
「まだその外にも注文があるわよ、―――譲治さんは会社をめてどうする積り?」
「お前に捨てられちまったら、田舎へ引っ込もうと思ったんだが、もうこうなれば引っ込まないよ。田舎の財産を整理して、現金にして持ってくるよ」
「現金にしたらどのくらいある?」
「さあ、此方こっちへ持って来られるのは、二三十万はあるだろう」
「それッぽっち?」
「それだけあれば、お前とおれと二人ッきりなら沢山じゃないか」
贅沢ぜいたくをして遊んで行かれる?」
「そりゃ、遊んじゃあ行かれないよ。―――お前は遊んでもいいけれど、己は何か事務所でも開いて、独立して仕事をやる積りだ」
「仕事の方へみんなお金を注ぎ込んじまっちゃイヤだわよ、あたしに贅沢をさせるお金を、別にして置いてくれなけりゃ。いい?」
「ああ、いい」
「じゃ、半分別にして置いてくれる?―――三十万円なら十五万円、二十万円なら十万円、―――」
「大分細かく念を押すんだね」
「そりゃあそうよ、初めに条件をめて置くのよ。―――どう? 承知した? そんなにまでしてあたしを奥さんに持つのはイヤ?」
「イヤじゃないッたら、―――」
「イヤならイヤとっしゃいよ、今のうちならどうでもなるわよ」
「大丈夫だってば、―――承知したってば、―――」
「それからまだよ、―――もうそうなったらこんな家にはいられないから、もっと立派な、ハイカラな家へ引っ越して頂戴」
「無論そうする」
「あたし、西洋人のいる街で、西洋館に住まいたいの、綺麗きれいな寝室や食堂のある家へ這入ってコックだのボーイを使って、―――」
「そんな家が東京にあるかね?」
「東京にはないけれど、横浜にはあるわよ。横浜の山手にそう云う借家がちょうど一軒空いているのよ、この間ちゃんと見て置いたの」
私は始めて彼女に深いたくらみがあったのを知りました。ナオミは最初からそうする積りで、計画を立てて、私を釣っていたのでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 二十八
 
さて、話はこれから三四年の後のことになります。
私たちは、あれから横浜へ引き移って、かねてナオミの見つけて置いた山手の洋館を借りましたけれども、だんだん贅沢が身にみるに従い、やがてその家も手狭だと云うので、間もなく本牧ほんもくの、前に瑞西スイス人の家族が住んでいた家を、家具ぐるみ買って、そこへ這入るようになりました。あの大地震で山手の方は残らず焼けてしまいましたが、本牧は助かった所が多く、私の家も壁に亀裂きれつが出来たぐらいで、殆どこれと云う損害もなしに済んだのは、全く何が仕合わせになるか分りません。ですから私たちは、今でもずっとこの家に住んでいる訳なのです。
私はその後、計画通り大井町の会社の方は辞職をし、田舎の財産は整理してしまって、学校時代の二三の同窓と、電気機械の製作販売を目的とする合資会社を始めました。この会社は、私が一番の出資者である代りに、実際の仕事は友達がやってくれているので、毎日事務所へ出る必要はないのですが、どう云う訳か、私が一日家にいるのをナオミが好まないものですから、イヤイヤながら日に一遍は見廻ることにしてあります。私は朝の十一時頃に、横浜から東京に行き、京橋の事務所へ一二時間顔を出して、大概夕方の四時頃には帰って来ます。
昔は非常な勤勉家で、朝は早起きの方でしたけれども、この頃の私は、九時半か十時でなければ起きません。起きると直ぐに、寝間着のまま、そっと爪先つまさきで歩きながら、ナオミの寝室の前へ行って、静かに扉をノックします。しかしナオミは私以上に寝坊ですから、まだその時分は夢現ゆめうつつで、
「ふん」
と、かすかに答える時もあり、知らずに寝ている時もあります。答があれば私は部屋へ這入って行って挨拶あいさつをし、答がなければ扉の前から引き返して、そのまま事務所へ出かけるのです。
こうう風に、私たち夫婦はいつの間にか、別々の部屋に寝るようになっているのですが、もとはと云うと、これはナオミの発案でした。婦人の閨房けいぼうは神聖なものである、夫といえどもみだりに犯すことはならない、―――と、彼女は云って、広い方の部屋を自分が取り、その隣りにある狭い方のを私の部屋にあてがいました。そうして隣り同士とは云っても、二つの部屋は直接つながってはいないのでした。その間に夫婦専用の浴室と便所が挟まっている、つまりそれだけ、互に隔たっている訳で、一方の室から一方へ行くには、そこを通り抜けなければなりません。
ナオミは毎朝十一時過ぎまで、起きるでもなくねむるでもなく、寝床の中でうつらうつらと、煙草たばこを吸ったり新聞を読んだりしています。煙草はディミトリノの細巻、新聞は都新聞、それから雑誌のクラシックやヴォーグを読みます。いや読むのではなく、中の写真を、―――主に洋服の意匠や流行を、―――一枚々々丁寧に眺めています。その部屋は東と南が開いて、ヴェランダの下に直ぐ本牧の海を控え、朝は早くから明るくなります。ナオミの寝台は、日本間ならば二十畳も敷けるくらいな、広いへやの中央に据えてあるのですが、それも普通の安い寝台ではありません。る東京の大使館から売り物に出た、天蓋てんがいの附いた、白い、しゃのようなとばりの垂れている寝台で、これを買ってから、ナオミは一層寝心地がよいのか、前よりもなお床離れが悪くなりました。
彼女は顔を洗う前に、寝床で紅茶とミルクを飲みます。その間にアマが風呂場ふろばの用意をします。彼女は起きて、真っ先に風呂へ這入り、湯上りの体を又しばらく横たえながら、マッサージをさせます。それから髪を結い、つめみがき、七つ道具と云いますが中々七つどころではない、何十種とある薬や器具で顔じゅうをいじくり廻し、着物を着るのにあれかこれかと迷った上で、食堂へ出るのが大概一時半になります。
ひる飯をたべてしまってから、晩まで殆ど用はありません。晩にはお客に呼ばれるか、あるいは呼ぶか、それでなければホテルへダンスに出かけるか、何かしないことはないのですから、その時分になると、彼女はもう一度お化粧をし、着物を取り換えます。夜会がある時はことに大変で、風呂場へ行って、アマに手伝わせて、体じゅうへお白粉しろいを塗ります。
ナオミの友達はよく変りました。浜田や熊谷はあれからふッつり出入りをしなくなってしまって、一と頃は例のマッカネルがお気に入りのようでしたが、間もなく彼に代った者は、デュガンと云う男でした。デュガンの次には、ユスタスと云う友達が出来ました。このユスタスと云う男は、マッカネル以上に不愉快な奴で、ナオミの御機嫌を取ることが実に上手で、一度私は、腹立ち紛れに、舞蹈会ぶとうかいの時此奴こいつなぐったことがあります。すると大変な騒ぎになって、ナオミはユスタスの加勢をして「気違い!」と云って私をののしる。私はいよいよたけり狂って、ユスタスを追い廻す。みんなが私を抱き止めて「ジョージ! ジョージ!」と大声で叫ぶ。―――私の名前は譲治ですが、西洋人は George の積りで「ジョージ」「ジョージ」と呼ぶのです。―――そんなことから、結局ユスタスは私の家へ来ないようになりましたが、同時に私も、又ナオミから新しい条件を持ち出され、それに服従することになってしまいました。
ユスタスの後にも、第二第三のユスタスが出来たことは勿論もちろんですが、今では私は、我ながら不思議に思うくらい大人しいものです。人間と云うものは一遍恐ろしい目に会うと、それが強迫観念になって、いつまでも頭に残っていると見え、私はいまだに、かつてナオミに逃げられた時の、あの恐ろしい経験を忘れることが出来ないのです。「あたしの恐ろしいことが分ったか」と、そう云った彼女の言葉が、今でも耳にこびり着いているのです。彼女の浮気と我がままとは昔から分っていたことで、その欠点を取ってしまえば彼女の値打ちもなくなってしまう。浮気な奴だ、我が儘な奴だと思えば思うほど、一層可愛かわいさが増して来て、彼女のわなに陥ってしまう。ですから私は、怒れば尚更なおさら自分の負けになることを悟っているのです。
自信がなくなると仕方がないもので、目下の私は、英語などでも到底彼女には及びません。実地に附き合っているうちに自然と上達したのでしょうが、夜会の席で婦人や紳士に愛嬌あいきょうを振りまきながら、彼女がぺらぺらまくし立てるのを聞いていると、何しろ発音は昔からうまかったのですから、変に西洋人臭くって、私には聞きとれないことがよくあります。そうして彼女は、ときどき私を西洋流に「ジョージ」と呼びます。
これで私たち夫婦の記録は終りとします。これを読んで、馬鹿々々ばかばかしいと思う人は笑って下さい。教訓になると思う人は、いい見せしめにして下さい。私自身は、ナオミにれているのですから、どう思われても仕方がありません。
ナオミは今年二十三で私は三十六になります。
 
 
 

 
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 底本:「痴人の愛」新潮文庫、新潮社
   1947(昭和22)年11月10日発行
   2003(平成15)年6月10日116刷改版
   2011(平成23)年2月10日126刷
初出:「大阪朝日新聞」
   1924(大正13)年3月〜5月
   「女性」
   1924(大正13)年11月〜1925(大正14)年7月
※底本巻末の細江光氏による注解は省略しました。
入力:daikichi
校正:悠悠自炊
2017年6月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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