痴人の愛 谷崎潤一郎

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 三
 
私がいよいよナオミを引き取って、その「お伽噺の家」へ移ったのは、五月下旬のことでしたろう。這入はいって見ると思ったほどに不便でもなく、日あたりのいい屋根裏の部屋からは海が眺められ、南を向いた前の空地は花壇を造るのに都合がよく、家の近所をときどき省線の電車の通るのがきずでしたけれど、間にちょっとした田圃たんぼがあるのでそれもそんなにやかましくはなく、ずこれならば申し分のない住居すまいでした。のみならず、何分そう云う普通の人には不適当な家でしたから、思いの外に家賃が安く、一般に物価の安いあの頃のことではありましたが、敷金なしの月々二十円というので、それも私には気に入りました。
「ナオミちゃん、これからお前は私のことを『河合さん』と呼ばないで『譲治さん』とお呼び。そしてほんとに友達のように暮らそうじゃないか」
と、引越した日に私は彼女に云い聞かせました。勿論私の郷里の方へも、今度下宿を引払って一軒家を持ったこと、女中代りに十五になる少女を雇い入れたこと、などを知らせてやりましたけれど、彼女と「友達のように」暮らすとは云ってやりませんでした。国の方から身内の者が訪ねて来ることはめったにないのだし、いずれそのうち、知らせる必要が起った場合には知らせてやろうと、そう考えていたのです。
私たちはしばらくの間、この珍らしい新居にふさわしいいろいろの家具を買い求め、それらをそれぞれ配置したり飾りつけたりするために、忙しい、しかし楽しい月日を送りました。私は成るべく彼女の趣味を啓発するように、ちょっとした買物をするのにも自分一人ではめないで、彼女の意見を云わせるようにし、彼女の頭から出る考を出来るだけ採用したものですが、もともと箪笥たんすだの長火鉢だのと云うような、在り来たりの世帯道具は置き所のない家であるだけ、従って選択も自由であり、どうでも自分等の好きなように意匠を施せるのでした。私たちは印度更紗インドさらさの安物を見つけて来て、それをナオミが危ッかしい手つきで縫って窓かけに作り、芝口の西洋家具屋から古い籐椅子とういすだのソオファだの、安楽椅子だの、テーブルだのを捜して来てアトリエに並べ、壁にはメリー・ピクフォードを始め、亜米利加アメリカの活動女優の写真を二つ三つるしました。そして私は寝道具なども、出来ることなら西洋流にしたいと思ったのですけれど、ベッドを二つも買うとなると入費が懸るばかりでなく、夜具布団ぶとんなら田舎の家から送ってもらえる便宜があるので、とうとうそれはあきらめなければなりませんでした。が、ナオミの為めに田舎から送ってよこしたのは、女中を寝かす夜具でしたから、お約束の唐草模様の、ゴワゴワした木綿の煎餅せんべい布団でした。私は何だか可哀かわいそうな気がしたので、
「これではちょっとひど過ぎるね、僕の布団と一枚取換えて上げようか」
と、そう云いましたが、
「ううん、いいの、あたしこれで沢山」
と云って、彼女はそれを引っかぶって、独りさびしく屋根裏の三畳の部屋に寝ました。
私は彼女の隣りの部屋―――同じ屋根裏の、四畳半の方へ寝るのでしたが、毎朝々々、眼をさますと私たちは、向うの部屋と此方の部屋とで、布団の中にもぐりながら声を掛け合ったものでした。
「ナオミちゃん、もう起きたかい」
と、私が云います。
「ええ、起きてるわ、今もう何時?」
と、彼女が応じます。
「六時半だよ、―――今朝は僕がおまんまいてあげようか」
「そう? 昨日あたしが炊いたんだから、今日は譲治さんが炊いてもいいわ」
「じゃ仕方がない、炊いてやろうか。面倒だからそれともパンで済ましとこうか」
「ええ、いいわ、だけど譲治さんは随分ずるいわ」
そして私たちは、御飯がたべたければ小さな土鍋どなべで米をかしぎ、別におひつへ移すまでもなくテーブルの上へ持って来て、罐詰か何かを突ッつきながら食事をします。それもうるさくていやだと思えば、パンに牛乳にジャムでごまかしたり、西洋菓子を摘まんで置いたり、晩飯などはそばうどんで間に合わせたり、少し御馳走ちそうが欲しい時には二人で近所の洋食屋まで出かけて行きます。
「譲治さん、今日はビフテキをたべさせてよ」
などと彼女は、よくそんなことを云ったものです。
朝飯を済ませると、私はナオミを独り残して会社へ出かけます。彼女は午前中は花壇の草花をいじくったりして、午後になるとからッぽの家に錠をおろして、英語と音楽の稽古けいこに行きました。英語は寧ろ始めから西洋人に就いた方がよかろうと云うので、目黒に住んでいる亜米利加人の老嬢のミス・ハリソンと云う人の所へ、一日置きに会話とリーダーを習いに行って、足りないところは私が家でときどきさらってやることにしました。音楽の方は、これは全く私にはどうしたらいいか分りませんでしたが、二三年前に上野の音楽学校を卒業したる婦人が、自分の家でピアノと声楽を教えると云う話を聞き、この方は毎日芝の伊皿子いさらごまで一時間ずつ授業を受けに行くのでした。ナオミは銘仙の着物の上に紺のカシミヤのはかまをつけ、黒い靴下に可愛かわいい小さな半靴を穿き、すっかり女学生になりすまして、自分の理想がようようかなった嬉しさに胸をときめかせながら、せっせと通いました。おりおり帰り途などに彼女と往来でったりすると、もうどうしても千束町に育った娘で、カフエエの女給をしていた者とは思えませんでした。髪もその後は桃割れに結ったことは一度もなく、リボンで結んで、その先を編んで、お下げにして垂らしていました。
私は前に「小鳥を飼うような心持」と云いましたっけが、彼女は此方こっちへ引き取られてから顔色などもだんだん健康そうになり、性質も次第に変って来て、ほんとうに快活な、晴れやかな小鳥になったのでした。そしてそのだだッ広いアトリエの一と間は、彼女のためには大きな鳥籠とりかごだったのです。五月も暮れて明るい初夏の気候が来る。花壇の花は日増しに伸びて色彩を増して来る。私は会社から、彼女は稽古から、夕方家へ帰って来ると、印度更紗の窓かけをれる太陽は、真っ白な壁で塗られた部屋の四方を、いまだにカッキリと昼間のように照らしている。彼女はフランネルの単衣ひとえを着て、素足にスリッパを突ッかけて、とんとん床をみながら習って来たうたを歌ったり、私を相手に眼隠しだの鬼ごッこをして遊んだり、そんな時にはアトリエ中をぐるぐると走り廻ってテーブルの上を飛び越えたり、ソオファの下にもぐり込んだり、椅子を引っ繰りかえしたり、まだ足らないで梯子段を駆け上がっては、例の桟敷のような屋根裏の廊下を、ねずみごとくチョコチョコとったり来たりするのでした。一度は私が馬になって彼女を背中に乗せたまま、部屋の中を這って歩いたことがありました。
「ハイ、ハイ、ドウ、ドウ!」
と云いながら、ナオミは手拭てぬぐいを手綱にして、私にそれをくわえさせたりしたものです。矢張そう云う遊びの日の出来事でしたろう、―――ナオミがきゃっきゃっと笑いながら、あまり元気に梯子段を上ったり下りたりし過ぎたので、とうとう足を蹈み外して頂辺てっぺんから転げ落ち、急にしくしく泣き出したことがありましたのは。
「おい、どうしたの、―――何処どこを打ったんだか見せて御覧」
と、私がそう云って抱き起すと、彼女はそれでもまだしくしくと鼻を鳴らしつつ、たもとをまくって見せましたが、落ちる拍子にくぎか何かに触ったのでしょう、ちょうど右腕のひじのところの皮が破れて、血がにじみ出ているのでした。
「何だい、これッぽちの事で泣くなんて! さ、絆瘡膏ばんそうこうってやるから此方へおいで」
そして膏薬を貼ってやり、手拭を裂いて繃帯ほうたいをしてやる間も、ナオミは一杯涙をためて、ぽたぽたはならしながらしゃくり上げる顔つきが、まるで頑是ない子供のようでした。傷はそれから運悪くうみを持って、五六日直りませんでしたが、毎日繃帯を取り替えてやる度毎たびごとに、彼女はきっと泣かないことはなかったのです。
しかし、私は既にその頃ナオミを恋していたかどうか、それは自分にはよく分りません。そう、たしかに恋してはいたのでしょうが、自分自身のつもりでは寧ろ彼女を育ててやり、立派な婦人に仕込んでやるのが楽しみなので、ただそれだけでも満足出来るように思っていたのです。が、その年の夏、会社の方から二週間の休暇が出たので、毎年の例で私は帰省することになり、ナオミを浅草の実家へ預け、大森の家に戸締りをして、さて田舎へ行って見ると、その二週間とうものが、たまらなく私には単調で、淋しく感ぜられたものです。あのが居ないとこんなにもつまらないものか知らん、これが恋愛の初まりなのではないか知らん、と、その時始めて考えました。そして母親の前をい加減に云い繕って、予定を早めて東京へ着くと、もう夜の十時過ぎでしたけれど、いきなり上野の停車場からナオミの家までタクシーを走らせました。
「ナオミちゃん、帰って来たよ。角に自動車が待たしてあるから、これからぐに大森へ行こう」
「そう、じゃ今直ぐ行くわ」
と云って、彼女は私を格子こうしの外へ待たして置いて、やがて小さな風呂敷ふろしき包を提げながら出て来ました。それは大そう蒸し暑い晩のことでしたが、ナオミは白っぽい、ふわふわした、薄紫の葡萄ぶどうの模様のあるモスリンの単衣をまとって、幅のひろい、派手な鴇色ときいろのリボンで髪を結んでいました。そのモスリンは先達せんだってのお盆に買ってやったので、彼女はそれを留守の間に、自分の家で仕立てて貰って着ていたのです。
「ナオミちゃん、毎日何をしていたんだい?」
車がにぎやかな広小路の方へ走り出すと、私は彼女と並んで腰かけ、こころもち彼女の方へ顔をすり寄せるようにしながら云いました。
「あたし毎日活動写真を見に行ってたわ」
「じゃ、別に淋しくはなかったろうね」
「ええ、別に淋しいことなんかなかったけれど、………」
そう云って彼女はちょっと考えて、
「でも譲治さんは、思ったより早く帰って来たのね」
「田舎にいたってつまらないから、予定を切り上げて来ちまったんだよ。やっぱり東京が一番だなア」
私はそう云ってほっ溜息ためいきをつきながら、窓の外にちらちらしている都会の夜の花やかな灯影ほかげを、云いようのないなつかしい気持で眺めたものです。
「だけどあたし、夏は田舎もいいと思うわ」
「そりゃ田舎にもよりけりだよ、僕の家なんか草深い百姓家で、近所の景色は平凡だし、名所古蹟こせきがある訳じゃなし、真っ昼間から蚊だのはえだのがぶんぶんうなって、とても暑くってやり切れやしない」
「まあ、そんな所?」
「そんな所さ」
「あたし、何処か、海水浴へ行きたいなあ」
突然そう云ったナオミの口調には、だだッ児のような可愛らしさがありました。
「じゃ、近いうちに涼しいところへ連れて行こうか、鎌倉がいいかね、それとも箱根かね」
「温泉よりは海がいいわ、―――行きたいなア、ほんとうに」
その無邪気そうな声だけを聞いていると、矢張以前のナオミに違いないのでしたが、何だかほんの十日ばかり見なかった間に、急に身体からだが伸び伸びと育って来たようで、モスリンの単衣の下に息づいている円みを持った肩の形や乳房のあたりを、私はそっとぬすないではいられませんでした。
「この着物はよく似合うね、誰に縫って貰ったの?」
と、暫く立ってから私は云いました。
「おッさんが縫ってくれたの」
「内の評判はどうだったい、見立てが上手だと云わなかったかい」
「ええ、云ったわ、―――悪くはないけれど、あんまり柄がハイカラ過ぎるッて、―――」
「おッ母さんがそう云うのかい」
「ええ、そう、―――内の人たちにゃなんにも分りゃしないのよ」
そう云って彼女は、遠い所を視つめるような眼つきをしながら、
「みんながあたしを、すっかり変ったって云ってたわ」
「どんな風に変ったって?」
「恐ろしくハイカラになっちゃったって」
「そりゃそうだろう、僕が見たってそうだからなあ」
「そうかしら。―――一遍日本髪に結って御覧て云われたけれど、あたしイヤだから結わなかったわ」
「じゃあそのリボンは?」
「これ? これはあたしが仲店なかみせへ行って自分で買ったの。どう?」
と云って、くびをひねって、さらさらとした油気のない髪の毛を風に吹かせながら、そこにひらひら舞っている鴇色の布を私の方へ示しました。
「ああ、よく映るね、こうした方が日本髪よりいくらいいか知れやしない」
「ふん」
と、彼女は、その獅子ししぱなの先を、ちょいとしゃくって意を得たように笑いました。悪く云えば小生意気なこの鼻先の笑い方が彼女の癖ではありましたけれど、それがかえって私の眼には大へん悧巧りこうそうに見えたものです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 四
 
ナオミがしきりに「鎌倉へ連れてッてよう!」とねだるので、ほんの二三日の滞在のつもりで出かけたのは八月の初め頃でした。
「なぜ二三日でなけりゃいけないの? 行くなら十日か一週間ぐらい行っていなけりゃつまらないわ」
彼女はそう云って、出がけにちょっと不平そうな顔をしましたが、何分私は会社の方が忙がしいという口実の下に郷里を引き揚げて来たのですから、それがバレると母親の手前、少し工合が悪いのでした。が、そんなことをいうと却って彼女が肩身の狭い思いをするであろうと察して、
「ま、今年は二三日で我慢をしてお置き、来年は何処か変ったところへゆっくり連れて行って上げるから。―――ね、いいじゃないか」
「だって、たった二三日じゃあ」
「そりゃそうだけれども、泳ぎたけりゃ帰って来てから、大森の海岸で泳げばいいじゃないか」
「あんな汚い海で泳げはしないわ」
「そんな分らないことを云うもんじゃないよ、ね、いい児だからそうおし、その代り何か着物を買ってやるから。―――そう、そう、お前は洋服が欲しいと云っていたじゃないか、だから洋服をこしらえて上げよう」
その「洋服」というえさに釣られて、彼女はやっと納得が行ったのでした。
鎌倉では長谷はせの金波楼と云う、あまり立派でない海水旅館へ泊りました。それに就いて今から思うと可笑おかしな話があるのです。と云うのは、私のふところにはこの半期にもらったボーナスが大部分残っていましたから、本来ならば何も二三日滞在するのに倹約する必要はなかったのです。それに私は、彼女と始めて泊りがけの旅に出ると云うことが愉快でなりませんでしたから、なるべくならばその印象を美しいものにするために、あまりケチケチした真似まねはしないで、宿屋なども一流の所へ行きたいと、最初はそんな考でいました。ところがいよいよと云う日になって、横須賀行の二等室へ乗り込んだ時から、私たちは一種の気後れに襲われたのです。なぜかと云って、その汽車の中には逗子ずしや鎌倉へ出かける夫人や令嬢が沢山乗り合わしていて、ずらりときらびやかな列を作っていましたので、さてその中に割り込んで見ると、私はとにかく、ナオミの身なりがいかにも見すぼらしく思えたものでした。
勿論もちろん夏のことですから、その夫人達や令嬢達もそうゴテゴテと着飾っていたはずはありません、が、こうして彼等とナオミとを比べて見ると、社会の上層に生れた者とそうでない者との間には、争われない品格の相違があるような気がしたのです。ナオミもカフエエにいた頃とは別人のようになりはしたものの、うじや育ちの悪いものは矢張どうしても駄目なのじゃないかと、私もそう思い、彼女自身も一層強くそれを感じたに違いありません。そしていつもは彼女をハイカラに見せたところの、あのモスリンの葡萄の模様の単衣物が、まあその時はどんなに情なく見えたことでしょう。並居る婦人達の中にはあっさりとした浴衣ゆかたがけの人もいましたけれど、指に宝石を光らしているとか、持ち物にぜいを凝らしているとか、何かしら彼等の富貴を物語るものが示されているのに、ナオミの手にはその滑かな皮膚より外に、何一つとして誇るに足るものは輝いていなかったのです。私は今でもナオミがまり悪そうに自分のパラソルをたもとかげへ隠したことを覚えています。それもその筈で、そのパラソルは新調のものではありましたが、誰の目にも七八円の安物としか思われないような品でしたから。
で、私たちは三橋にしようか、思い切って海浜ホテルへ泊ろうかなどと、そんな空想を描いていたにかかわらず、その家の前まで行って見ると、ず門構えのいかめしいのに圧迫されて、長谷の通りを二度も三度もったり来たりした末に、とうとう土地では二流か三流の金波楼へ行くことになったのです。
宿には若い学生たちが大勢がやがや泊っていて、とても落ち着いてはいられないので、私たちは毎日浜でばかり暮らしました。お転婆てんばのナオミは海さえ見れば機嫌がよく、もう汽車の中でしょげたことは忘れてしまって、
「あたしどうしてもこの夏中に泳ぎを覚えてしまわなくっちゃ」
と、私の腕にしがみ着いて、盛んにぼちゃぼちゃ浅い所で暴れ廻る。私は彼女の胴体を両手で抱えて、腹這はらばいにさせて浮かしてやったり、シッカリ棒杭ぼうぐいつかませて置いて、その脚を持って足掻あがき方を教えてやったり、わざと突然手をつッ放して苦い潮水を飲ましてやったり、それに飽きると波乗の稽古けいこをしたり、浜辺にごろごろ寝ころびながら砂いたずらをしてみたり、夕方からは舟を借りて沖の方までいで行ったり、―――そして、そんな折には彼女はいつも海水着の上に大きなタオルをまとったまま、る時はともに腰かけ、或る時はふなべりまくらに青空を仰いで誰にはばかることもなく、その得意のナポリの船唄ふなうた、「サンタ・ルチア」を甲高い声でうたいました。

O dolce Napoli,
O soul beato,

と、伊太利イタリア語でうたう彼女のソプラノが、夕なぎの海に響き渡るのを聴きれながら、私はしずかにを漕いで行く。「もっと彼方あっちへ、もっと彼方へ」と彼女は無限になみの上を走りたがる。いつの間にやら日は暮れてしまって、星がチラチラと私等の船を空からおろし、あたりがぼんやり暗くなって、彼女の姿はただほの白いタオルに包まれ、その輪廓りんかくがぼやけてしまう。が、晴れやかな唄ごえはなかなかまずに、「サンタ・ルチア」は幾度となく繰り返され、それから「ローレライ」になり、「流浪るろうの民」になり、ミニヨンの一節になりして、ゆるやかな船の歩みと共にいろいろ唄をつづけて行きます。………
こういう経験は、若い時代には誰でも一度あることでしょうが、私に取っては実にその時が始めてでした。私は電気の技師であって、文学だとか芸術だとかうものには縁の薄い方でしたから、小説などを手にすることはめったになかったのですけれども、その時思い出したのはかつて読んだことのある夏目漱石の「草枕」です。そうです、たしかあの中に、「ヴェニスは沈みつつ、ヴェニスは沈みつつ」と云うところがあったと思いますが、ナオミと二人で船に揺られつつ、沖の方から夕靄ゆうもやとばりとおして陸の灯影を眺めると、不思議にあの文句が胸に浮んで来て、何だかこう、このまま彼女と果てしも知らぬ遠い世界へ押し流されて行きたいような、涙ぐましい、うッとりと酔った心地になるのでした。私のような武骨な男がそんな気分を味わうことが出来ただけでも、あの鎌倉の三日間は決して無駄ではなかったのです。
いや、そればかりではありません、実を云うとその三日間は更にもう一つ大切な発見を、私に与えてくれたのでした。私は今までナオミと一緒に住んでいながら、彼女がどんな体つきをしているか、露骨に云えばその素裸な肉体の姿を知り得る機会がなかったのに、それが今度はほんとうによく分ったのです。彼女が始めて由比ゆいはまの海水浴場へ出かけて行って、前の晩にわざわざ銀座で買って来た、濃い緑色の海水帽と海水服とを肌身に着けて現れたとき、正直なところ、私はどんなに彼女の四肢の整っていることを喜んだでしょう。そうです、私は全く喜んだのです。なぜかと云うに、私は先から着物の着こなし工合や何かで、きっとナオミの体の曲線はこうであろうと思っていたのが、想像通りあたったからです。
「ナオミよ、ナオミよ、私のメリー・ピクフォードよ、お前は何と云う釣合の取れた、いい体つきをしているのだ。お前のそのしなやかな腕はどうだ。その真っぐな、まるで男の子のようにすっきりとした脚はどうだ」
と、私は思わず心の中で叫びました。そして映画でお馴染なじみの、あの活溌かっぱつなマックセンネットのベージング・ガールたちをおもい出さずにはいられませんでした。
誰しも自分の女房の体のことなどを余りくわしく書き立てるのはいやでしょうが、私にしたって、後年私の妻となった彼女に就いて、そう云うことをれいれいしくしゃべったり、多くの人に知らしたりするのは決して愉快ではありません。けれどもそれを云わないとどうも話の都合が悪いし、そのくらいのことを遠慮しては、結局この記録を書き留める意義がなくなってしまう訳ですから、ナオミが十五のとしの八月、鎌倉の海辺に立った時に、どう云う風な体格だったか、一と通りはここに記して置かねばなりません。当時のナオミは、並んで立つと背の高さが私よりは一寸ぐらい低かったでしょう。―――断って置きますが、私は頑健岩のごと恰幅かっぷくではありましたけれども、身の丈は五尺二寸ばかりで、先ず小男の部だったのです。―――が、彼女の骨組の著しい特長として、胴が短く、脚の方が長かったので、少し離れて眺めると、実際よりは大へん高く思えました。そして、その短い胴体はSの字のように非常に深くくびれていて、くびれた最底部のところに、もう十分に女らしい円みを帯びたしりの隆起がありました。その時分私たちは、あの有名な水泳の達人ケラーマン嬢を主役にした、「水神の娘」とか云う人魚の映画を見たことがありましたので、
「ナオミちゃん、ちょいとケラーマンの真似をして御覧」
と、私が云うと、彼女は砂浜に突っ立って、両手を空にかざしながら、「飛び込み」の形をして見せたものですが、そんな場合に両腿りょうももをぴったり合わせると、脚と脚との間には寸分のすきもなく、腰から下が足頸を頂天にした一つの細長い三角形を描くのでした。彼女もそれには得意の様子で、
「どう? 譲治さん、あたしの脚は曲っていない?」
と云いながら、歩いて見たり、立ち止って見たり、砂の上へぐっと伸ばして見たりして、自分でもその恰好かっこううれしそうに眺めました。
それからもう一つナオミの体の特長は、頸から肩へかけての線でした。肩、………私はしばしば彼女の肩へ触れる機会があったのです。と云うのは、ナオミはいつも海水服を着るときに、「譲治さん、ちょいとこれをめて頂戴ちょうだい」と、私のそばにやって来て、肩についているボタンを篏めさせるのでしたから。で、ナオミのようにで肩で、頸が長いものは、着物を脱ぐとせているのが普通ですけれど、彼女はそれと反対で、思いの外に厚みのある、たっぷりとした立派な肩と、いかにも呼吸の強そうな胸を持っていました。ボタンを篏めてやる折に、彼女が深く息を吸ったり、腕を動かして背中の肉にもくもく波を打たせたりすると、それでなくてもハチ切れそうな海水服は、丘のように盛り上った肩のところに一杯に伸びて、ぴんとはじけてしまいそうになるのです。一と口に云えばそれは実に力のこもった、「若さ」と「美しさ」の感じのあふれた肩でした。私は内々そのあたりにいる多くの少女と比較して見ましたが、彼女のように健康な肩と優雅な頸とを兼ね備えているものは外にないような気がしました。
「ナオミちゃん、少うしじッとしておいでよ、そう動いちゃボタンが固くって篏まりゃしない」
と云いながら、私は海水服の端を摘まんで大きな物を袋の中へ詰めるように、無理にその肩を押し込んでやるのが常でした。
こう云う体格を持っていた彼女が、運動好きで、お転婆だったのは当り前だと云わなければなりません。実際ナオミは手足を使ってやることなら何事にらず器用でした。水泳などは鎌倉の三日を皮切りにして、あとは大森の海岸で毎日一生懸命に習って、その夏中にとうとう物にしてしまい、ボートを漕いだり、ヨットを操ったり、いろんな事が出来るようになりました。そして一日遊び抜いて、日が暮れるとガッカリ疲れて「ああ、くたびれた」と云いながら、ビッショリれた海水着を持って帰って来る。
「あーあ、おなかが減っちゃった」
と、ぐったり椅子いすに体を投げ出す。どうかすると、晩飯をくのが面倒なので、帰りみちに洋食屋へ寄って、まるで二人が競争のようにたらふく物をたべッくらする。ビフテキのあとで又ビフテキと、ビフテキの好きな彼女は訳なくペロリと三皿ぐらいお代りをするのでした。
あのとしの夏の、楽しかった思い出を書き記したら際限がありませんからこのくらいにして置きますが、最後に一つ書きらしてならないのは、その時分から私が彼女をお湯へ入れて、手だの足だの背中だのをゴムのスポンジで洗ってやる習慣がついたことです。これはナオミがねむがったりして銭湯へ行くのを大儀がったものですから、海の潮水を洗い落すのに台所で水を浴びたり、行水を使ったりしたのが始まりでした。
「さあ、ナオミちゃん、そのまんま寝ちまっちゃ身体からだべたべたして仕様がないよ。洗ってやるからこのたらいの中へお這入り」
と、そう云うと、彼女は云われるままになって大人しく私に洗わせていました。それがだんだん癖になって、すずしい秋の季節が来ても行水は止まず、もうしまいにはアトリエの隅に西洋風呂ぶろや、バス・マットを据えて、その周りを衝立ついたてで囲って、ずっと冬中洗ってやるようになったのです。
 
 
 
 
 
 

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