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九
私が、自分は野暮な人間であるにも拘わらず、趣味としてハイカラを好み、万事につけて西洋流を真似したことは、既に読者も御承知の筈です。若しも私に十分な金があって、気随気儘な事が出来たら、私は或は西洋に行って生活をし、西洋の女を妻にしたかも知れませんが、それは境遇が許さなかったので、日本人のうちではとにかく西洋人くさいナオミを妻としたような訳です。それにもう一つは、たとい私に金があったとしたところで、男振りに就いての自信がない。何しろ背が五尺二寸という小男で、色が黒くて、歯並びが悪くて、あの堂々たる体格の西洋人を女房に持とうなどとは、身の程を知らな過ぎる。矢張日本人には日本人同士がよく、ナオミのようなのが一番自分の注文に篏まっているのだと、そう考えて結局私は満足していたのです。
が、そうは云うものの、白皙人種の婦人に接近し得ることは、私に取って一つの喜び、―――いや、喜び以上の光栄でした。有体に云うと、私は私の交際下手と語学の才の乏しいのに愛憎を尽かして、そんな機会は一生廻って来ないものとあきらめを附け、たまに外人団のオペラを見るとか、活動写真の女優の顔に馴染むとかして、わずかに彼等の美しさを夢のように慕っていました。然るに図らずもダンスの稽古は、西洋の女―――おまけにそれも伯爵の夫人―――と接近する機会を作ったのです。ハリソン嬢のようなお婆さんは別として、私が西洋の婦人と握手する「光栄」に浴したのは、その時が生れて始めてでした。私はシュレムスカヤ夫人がその「白い手」を私の方へさし出したとき、覚えず胸をどきッとさせてそれを握っていいものかどうか、ちょっと躊躇したくらいでした。
ナオミの手だって、しなやかで艶があって、指が長々とほっそりしていて、勿論優雅でないことはない。が、その「白い手」はナオミのそれのようにきゃしゃ過ぎないで、掌が厚くたっぷりと肉を持ち、指もなよなよと伸びていながら、弱々しい薄ッぺらな感じがなく、「太い」と同時に「美しい」手だ。―――と、私はそんな印象をうけました。そこに篏めている眼玉のようにギラギラした大きな指環も、日本人ならきっと厭味になるでしょうに、却って指を繊麗に見せ、気品の高い、豪奢な趣を添えています。そして何よりもナオミと違っていたところは、その皮膚の色の異常な白さです。白い下にうすい紫の血管が、大理石の斑紋を想わせるように、ほんのり透いて見える凄艶さです。私は今までナオミの手をおもちゃにしながら、
「お前の手は実にきれいだ、まるで西洋人の手のように白いね」
と、よくそう云って褒めたものですが、こうして見ると、残念ながらやっぱり違います。白いようでもナオミの白さは冴えていない、いや、一旦この手を見たあとではどす黒くさえ思われます。それからもう一つ私の注意を惹いたのは、その爪でした。十本の指頭の悉くが、同じ貝殻を集めたように、どれも鮮かに小爪が揃って、桜色に光っていたばかりでなく、大方これが西洋の流行なのでもありましょうか、爪の先が三角形に、ぴんと尖らせて切ってあったのです。
ナオミは私と並んで立つと一寸ぐらい低かったことは、前に記した通りですが、夫人は西洋人としては小柄のように見えながら、それでも私よりは上背があり、踵の高い靴を穿いているせいか、一緒に踊るとちょうど私の頭とすれすれに、彼女の露わな胸がありました。夫人が始めて、
“Walk with me!”
と云いつつ、私の背中へ腕を廻してワン・ステップの歩み方を教えたとき、私はどんなにこの真っ黒な私の顔が彼女の肌に触れないように、遠慮したことでしょう。その滑かな清楚な皮膚は、私に取ってはただ遠くから眺めるだけで十分でした。握手してさえ済まないように思われたのに、その柔かな羅衣を隔てて彼女の胸に抱きかかえられてしまっては、私は全くしてはならないことをしたようで、自分の息が臭くはなかろうか、このにちゃにちゃした脂ッ手が不快を与えはしなかろうかと、そんな事ばかり気にかかって、たまたま彼女の髪の毛一と筋が落ちて来ても、ヒヤリとしないではいられませんでした。
それのみならず夫人の体には一種の甘い匂がありました。
「あの女アひでえ腋臭だ、とてもくせえや!」
と、例のマンドリン倶楽部の学生たちがそんな悪口を云っているのを、私は後で聞いたことがありますし、西洋人には腋臭が多いそうですから、夫人も多分そうだったに違いなく、それを消すために始終注意して香水をつけていたのでしょうが、しかし私にはその香水と腋臭との交った、甘酸ッぱいようなほのかな匂が、決して厭でなかったばかりか、常に云い知れぬ蠱惑でした。それは私に、まだ見たこともない海の彼方の国々や、世にも妙なる異国の花園を想い出させました。
「ああ、これが夫人の白い体から放たれる香気か」
と、私は恍惚となりながら、いつもその匂を貪るように嗅いだものです。
私のようなぶきッちょな、ダンスなどと云う花やかな空気には最も不適当であるべき男が、ナオミの為めとは云いながら、どうしてその後飽きもしないで、一と月も二た月も稽古に通う気になったか。―――私は敢て白状しますが、それは確かにシュレムスカヤ夫人と云うものがあったからです。毎月曜日と金曜日の午後、夫人の胸に抱かれて踊ること。そのほんの一時間が、いつの間にか私の何よりの楽しみとなっていたのです。私は夫人の前に出ると、全くナオミの存在を忘れました。その一時間はたとえば芳烈な酒のように、私を酔わせずには置きませんでした。
「譲治さんは思いの外熱心ね、直きイヤになるかと思ったら。―――」
「どうして?」
「だって、僕にダンスが出来るかなアなんて云ってたじゃないの」
ですから私は、そんな話が出るたびに、何だかナオミに済まないような気がしました。
「やれそうもないと思ったけれど、やって見ると愉快なもんだね。それにドクトルの云い草じゃないが、非常に体の運動になる」
「それ御覧なさいな、だから何でも考えていないで、やって見るもんだわ」
と、ナオミは私の心の秘密には気がつかないで、そう云って笑うのでした。
さて、大分稽古を積んだからもうそろそろよかろうと云うので、始めて私たちが銀座のカフエエ・エルドラドオへ出かけたのは、その年の冬のことでした。まだその時分、東京にはダンス・ホールがそう沢山なかったので、帝国ホテルや花月園を除いたら、そのカフエエがその頃漸くやり出したくらいのものだったでしょう。で、ホテルや花月園は外国人が主であって、服装や礼儀がやかましいそうだから、まず手初めにはエルドラドオがよかろう、と、そう云うことになったのでした。尤もそれはナオミが何処からか噂を聞いて来て「是非行って見よう」と発議したので、まだ私にはおおびらな場所で踊るだけの度胸はなかったのですが、
「駄目よ、譲治さんは!」
と、ナオミは私を睨みつけて、
「そんな気の弱いことを云っているから駄目なのよ。ダンスなんて云うものは、稽古ばかりじゃいくらやったって上手になりッこありゃしないわよ。人中へ出てずうずうしく踊っているうちに巧くなるものよ」
「そりゃあたしかにそうだろうけれども、僕にはその、ずうずうしさがないもんだから、………」
「じゃいいわよ、あたし独りでも出かけるから。………浜さんでもまアちゃんでも誘って行って、踊ってやるから」
「まアちゃんて云うのはこの間のマンドリン倶楽部の男だろう?」
「ええ、そうよ、あの人なんか一度も稽古しないくせに何処へでも出かけて行って相手構わず踊るもんだから、もうこの頃じゃすっかり巧くなっちゃったわ。譲治さんよりずっと上手だわ。だからずうずうしくしなけりゃ損よ。………ね、いらっしゃいよ、あたし譲治さんと踊って上げるわ。………ね、後生だから一緒に来て!………好い児、好い児、譲治さんはほんとに好い児!」
それで結局出かけることに話が極まると、今度は「何を着て行こう」でまた長いこと相談が始まりました。
「ちょっと譲治さん、どれがいいこと?」
と、彼女は出かける四五日も前から大騒ぎをして、有るだけのものを引っ張り出して、それに一々手を通して見るのです。
「ああ、それがいいだろう」
と、私もしまいには面倒になって好い加減な返辞をすると、
「そうかしら? これで可笑しかないかしら?」
と鏡の前をぐるぐる廻って、
「変だわ、何だか。あたしこんなのじゃ気に入らないわ」
と直ぐ脱ぎ捨てて、紙屑のように足で皺くちゃに蹴飛ばして、又次の奴を引っかけて見ます。が、あの着物もいや、この着物もいやで、
「ねえ、譲治さん、新しいのを拵えてよ!」
となるのでした。
「ダンスに行くにはもっと思いきり派手なのでなけりゃ、こんな着物じゃ引き立ちはしないわ。よう! 拵えてよう! どうせこれからちょいちょい出かけるんだから、衣裳がなけりゃ駄目じゃないの」
その時分、私の月々の収入はもはや到底彼女の贅沢には追いつかなくなっていました。元来私は金銭上の事にかけてはなかなか几帳面な方で、独身時代にはちゃんと毎月の小遣いを定め、残りはたとい僅かでも貯金するようにしていましたから、ナオミと家を持った当座は可なりの余裕があったものです。そして私はナオミの愛に溺れてはいましたけれど、会社の仕事は決して疎かにしたことはなく、依然として精励恪勤な模範的社員だったので、重役の信用も次第に厚くなり、月給の額も上って来て、半期々々のボーナスを加えれば、平均月に四百円になりました。だから普通に暮らすのなら二人で楽な訳であるのに、それがどうしても足りませんでした。細かいことを云うようですが、先ず月々の生活費が、いくら内輪に見積っても二百五十円以上、場合によっては三百円もかかります。このうち家賃が三十五円、―――これは二十円だったのが四年間に十五円上がりました。―――それから瓦斯代、電燈代、水道代、薪炭代、西洋洗濯代等の諸雑費を差し引き、残りの二百円内外から二百三四十円と云うものを、何に使ってしまうかと云うと、その大部分は喰い物でした。
それもその筈で、子供の頃には一品料理のビフテキで満足していたナオミでしたが、いつの間にやらだんだん口が奢って来て、三度の食事の度毎に「何がたべたい」「彼がたべたい」と、歳に似合わぬ贅沢を云います。おまけにそれも材料を仕入れて、自分で料理するなどと云う面倒臭いことは嫌いなので、大概近所の料理屋へ注文します。
「あーあ、何か旨い物がたべたいなア」
と、退屈するとナオミの云い草はきっとそれでした。そして以前は洋食ばかり好きでしたけれど、この頃ではそうでもなく、三度に一度は「何屋のお椀がたべて見たい」とか、「何処そこの刺身を取って見よう」とか、生意気なことを云います。
午は私は会社に居ますから、ナオミ一人でたべるのですが、却ってそう云う折の方がその贅沢は激しいのでした。夕方、会社から帰って来ると、台所の隅に仕出し屋のおかもちや、洋食屋の容物などが置いてあるのを、私はしばしば見ることがありました。
「ナオミちゃん、お前又何か取ったんだね! お前のようにてんや物ばかり喰べていた日にゃお金が懸って仕様がないよ。第一女一人でもってそんな真似をするなんて、少しは勿体ないと云う事を考えて御覧」
そう云われてもナオミは一向平気なもので、
「だって、一人だからあたし取ったんだわ、おかず拵えるのが面倒なんだもの」
と、わざとふてくされて、ソオファの上にふん反り返っているのです。
この調子だからたまったものではありません。おかずだけならまだしもですが、時には御飯を炊くのさえ億劫がって、飯まで仕出し屋から運ばせると云う始末でした。で、月末になると、鳥屋、牛肉屋、日本料理屋、西洋料理屋、鮨屋、鰻屋、菓子屋、果物屋と、方々から持って来る請求書の締め高が、よくもこんなに喰べられたものだと、驚くほど多額に上ったのです。
喰い物の次に嵩んだのは西洋洗濯の代でした。これはナオミが足袋一足でも決して自分で洗おうとせず、汚れ物は総べてクリーニングに出したからです。そしてたまたま叱言を云えば、二た言目には、
「あたし女中じゃないことよ」
と云います。
「そんな、洗濯なんかすりゃあ、指が太くなっちゃって、ピアノが弾けなくなるじゃないの、譲治さんはあたしの事を何と云って? 自分の宝物だって云ったじゃないの? だのにこの手が太くなったらどうするのよ」
と、そう云います。
最初のうちこそナオミは家事向きの用をしてくれ、勝手元の方を働きもしましたが、それが続いたのはほんの一年か半年ぐらいだったでしょう。ですから洗濯物などはまだいいとして、何より困ったのは家の中が日増しに乱雑に、不潔になって行くことでした。脱いだものは脱ぎッ放し、喰べた物は喰べッ放しと云う有様で、喰い荒した皿小鉢だの、飲みかけの茶碗や湯呑みだの、垢じみた肌着や湯文字だのが、いつ行って見てもそこらに放り出してある。床は勿論椅子でもテーブルでも埃が溜っていないことはなく、あの折角の印度更紗の窓かけも最早や昔日の俤を止めず煤けてしまい、あんなに晴れやかな「小鳥の籠」であった筈のお伽噺の家の気分は、すっかり趣を変えてしまって、部屋へ這入るとそう云う場所に特有な、むうッと鼻を衝くような臭いがする。私もこれには閉口して、
「さあさあ、僕が掃除をしてやるから、お前は庭へ出ておいで」
と、掃いたりハタいたりして見たこともありますけれど、ハタけばハタくほどごみが出て来るばかりでなく、余り散らかり過ぎているので、片附けたくとも手の附けようがないのでした。
これでは仕方がないと云うので、二三度女中を雇ったこともありましたが、来る女中も来る女中もみんな呆れて帰ってしまって、五日と辛抱しているものはありませんでした。第一初めからそう云う積りはなかったので、女中が来ても寝るところがありません。そこへ持って来て私たちの方でも不遠慮ないちゃつきが出来なくなって、ちょっと二人でふざけるのにも何だか窮屈な思いをする。ナオミは人手が殖えたとなると、いよいよ横着を発揮して、横のものを縦にもしないで、一々女中をコキ使います。そして相変らず「何屋へ行って何を注文して来い」と、却って前より便利になっただけ、余計贅沢を並べます。結局女中というものは非常に不経済でもあり、われわれの「遊び」の生活に取って邪魔でもあるので、向うも恐れをなしたでしょうが、此方も達て居て貰いたくはなかったのです。
そう云う訳で、月々の暮らしがそれだけは懸るとして、あとの百円から百五十円のうちから、月に十円か二十円ずつでも貯金をしたいと思ったのですが、ナオミの銭遣いが激しいので、そんな余裕はありませんでした。彼女は必ず一と月に一枚は着物を作ります。いくらめりんすや銘仙でも裏と表とを買って、しかも自分で縫う事はせず、仕立て賃をかけますから、五十円や六十円は消えてなくなる。そうして出来上った品物は、気に入らなければ押入れの奥へ突っ込んだまままるで着ないし、気に入ったとなると膝が抜けるまで着殺してしまう。ですから彼女の戸棚の中には、ぼろぼろになった古着が一杯詰まっていました。それから下駄の贅沢を云います。草履、駒下駄、足駄、日和下駄、両ぐり、余所行きの下駄、不断の下駄―――これ等が一足七八円から二三円どまりで、十日間に一遍ぐらいは買うのですから、積って見ると安いものではありません。
「こう下駄を穿いちゃたまらないから、靴にしたらいいじゃないか」
と云って見ても、昔は女学生らしく袴をつけて靴で歩くのを喜んだ癖に、もうこの頃では稽古に行くにも着流しのまましゃなりしゃなりと出かけると云う風で、
「あたしこう見えても江戸ッ児よ、なりはどうでも穿きものだけはチャンとしないじゃ気が済まないわ」
と、此方を田舎者扱いにします。
小遣いなども、音楽会だ、電車賃だ、教科書だ、雑誌だ、小説だと、三円五円ぐらいずつ三日に上げず持って行きます。この外に又英語と音楽の授業料が二十五円、これは毎月規則的に払わなければなりません、と、四百円の収入で以上の負担に堪えるのは容易でなく、貯金どころかあべこべに貯金を引き出すようになり、独身時代にいくらか用意して置いたものもチビチビ成し崩しに崩れて行きます。そして、金と云うものは手を付け出したら誠に早いものですから、この三四年間にすっかり蓄えを使い果して、今では一文もないのでした。
因果な事には私のような男の常として、借金の断りを云うのは不得手、従って勘定はキチンキチンと払わなければどうも落ち着いていられないので、晦日が来ると云うに云われない苦労をしました。「そう使っちゃ晦日が越せなくなるじゃないか」とたしなめても、
「越せなければ、待って貰えばいいわよ」
と、云います。
「―――三年も四年も一つ所に住んでいながら、晦日の勘定が延ばせないなんて法はないわよ、半期々々にはきっと払うからって云えば、何処でも待つにきまっているわ。譲治さんは気が小さくって融通が利かないからいけないのよ」
そう云った調子で、彼女は自分の買いたいものは総べて現金、月々の払いはボーナスが這入るまで後廻しと云うやり方。そのくせ矢張借金の言訳をするのは嫌いで、
「あたしそんなこと云うのは厭だわ、それは男の役目じゃないの」
と、月末になればフイと何処かへ飛び出して行きます。
ですから私は、ナオミのために自分の収入を全部捧げていたと云ってもいいのでした。彼女を少しでもよりよく身綺麗にさせて置くこと、不自由な思いや、ケチ臭いことはさせないで、のんびりと成長させてやること、―――それは素より私の本懐でしたから、困る困ると愚痴りながらも彼女の贅沢を許してしまいます。するとそれだけ他の方面を切り詰めなければならない訳で、幸い私は自分自身の交際費はちっとも懸りませんでしたが、それでもたまに会社関係の会合などがあった場合、義理を欠いても逃げられるだけ逃げるようにする。その外自分の小遣い、被服費、弁当代などを、思い切って節約する。毎日通う省線電車もナオミは二等の定期を買うのに、私は三等で我慢をする。飯を炊くのが面倒なので、てんや物を取られては大変だから、私が御飯を炊いてやり、おかずを拵えてやることもある。が、そう云う風になって来るとそれが又ナオミには気に入りません。
「男のくせに台所なんぞ働かなくってもいいことよ、見ッともないわよ」
と、そう云うのです。
「譲治さんはまあ、年が年中同じ服ばかり着ていないで、もう少し気の利いたなりをしたらどうなの? あたし、自分ばかり良くったって譲治さんがそんな風じゃあやっぱり厭だわ。それじゃ一緒に歩けやしないわ」
彼女と一緒に歩けなければ何の楽しみもありませんから、私にしても所謂「気の利いた」服の一つも拵えなければならなくなる。そして彼女と出かける時は電車も二等へ乗らなければならない。つまり彼女の虚栄心を傷けないようにするためには、彼女一人の贅沢では済まない結果になるのでした。
そんな事情で遣り繰りに困っていたところへ、この頃又シュレムスカヤ夫人の方へ四十円ずつ取られますから、この上ダンスの衣裳を買ってやったりしたらにっちもさっちも行かなくなります。けれどもそれを聴き分けるようなナオミではなく、ちょうど月末のことなので、私のふところに現金があったものですから、尚更それを出せといって承知しません。
「だってお前、今この金を出しちまったら、直ぐに晦日に差支えるのが分っていそうなもんじゃないか」
「差支えたってどうにかなるわよ」
「どうにかなるって、どうなるのさ。どうにもなりようはありゃしないよ」
「じゃあ何のためにダンスなんか習ったのよ。―――いいわ、そんなら、もう明日から何処にも行かないから」
そう云って彼女は、その大きな眼に露を湛えて、恨めしそうに私を睨んで、つんと黙ってしまうのでした。
「ナオミちゃん、お前怒っているのかい、………え、ナオミちゃん、ちょっと、………此方を向いておくれ」
その晩、私は床の中に這入ってから、背中を向けて寝たふりをしている彼女の肩を揺す振りながらそう云いました。
「よう、ナオミちゃん、ちょっと此方をお向きッてば。………」
そして優しく手をかけて、魚の骨つきを裏返すように、ぐるりと此方へ引っくり覆すと、抵抗のないしなやかな体は、うっすらと半眼を閉じたまま、素直に私の方を向きました。
「どうしたの? まだ怒ってるの?」
「………」
「え、おい、………怒らないでもいいじゃないか、どうにかするから、………」
「………」
「おい、眼をお開きよ、眼を………」
云いながら、睫毛がぶるぶる顫えている眼瞼の肉を吊りあげると、貝の実のように中からそっと覗いているむっくりとした眼の玉は、寝ているどころか真正面に私の顔を視ているのです。
「あの金で買って上げるよ、ね、いいだろう、………」
「だって、そうしたら困りやしない?………」
「困ってもいいよ、どうにかするから」
「じゃあ、どうする?」
「国へそう云って、金を送って貰うからいいよ」
「送ってくれる?」
「ああ、それあ送ってくれるとも。僕は今まで一度も国へ迷惑をかけたことはないんだし、二人で一軒持っていればいろいろ物が懸るだろうぐらいなことは、おふくろだって分っているに違いないから。………」
「そう? でもおかあさんに悪くはない?」
ナオミは気にしているような口ぶりでしたが、その実彼女の腹の中には、「田舎へ云ってやればいいのに」と、とうからそんな考があったことは、うすうす私にも読めていました。私がそれを云い出したのは彼女の思う壺だったのです。
「なあに、悪い事なんかなんにもないよ。けれども僕の主義として、そう云う事は厭だったからしなかったんだよ」
「じゃ、どう云う訳で主義を変えたの?」
「お前がさっき泣いたのを見たら可哀そうになっちゃったからさ」
「そう?」
と云って、波が寄せて来るような工合に胸をうねらせて、羞かしそうなほほ笑みを浮べながら、
「あたし、ほんとに泣いたかしら?」
「もうどッこへも行かないッて、眼に一杯涙をためていたじゃないか。いつまで立ってもお前はまるでだだッ児だね、大きなベビちゃん………」
「私のパパちゃん! 可愛いパパちゃん!」
ナオミはいきなり私の頸にしがみつき、その唇の朱の捺印を繁忙な郵便局のスタンプ掛りが捺すように、額や、鼻や、眼瞼の上や、耳朶の裏や、私の顔のあらゆる部分へ、寸分の隙間もなくぺたぺたと捺しました。それは私に、何か、椿の花のような、どっしりと重い、そして露けく軟かい無数の花びらが降って来るような快さを感じさせ、その花びらの薫りの中に、自分の首がすっかり埋まってしまったような夢見心地を覚えさせました。
「どうしたの、ナオミちゃん、お前はまるで気違いのようだね」
「ああ、気違いよ。………あたし今夜は気違いになるほど譲治さんが可愛いんだもの。………それともうるさい?」
「うるさいことなんかあるものか、僕も嬉しいよ、気違いになるほど嬉しいよ、お前のためならどんな犠牲を払ったって構やしないよ。………おや、どうしたの? 又泣いてるの?」
「ありがとよ、パパさん、あたしパパさんに感謝してるのよ、だからひとりでに涙が出るの。………ね、分った? 泣いちゃいけない? いけなけりゃ拭いて頂戴」
ナオミは懐から紙を出して、自分では拭かずに、それを私の手の中へ握らせましたが、瞳はじーッと私の方へ注がれたまま、今拭いて貰うその前に、一層涙を滾々と睫毛の縁まで溢れさせているのでした。ああ何と云う潤いを持った、綺麗な眼だろう。この美しい涙の玉をそうッとこのまま結晶させて、取って置く訳には行かないものかと思いながら、私は最初に彼女の頬を拭いてやり、その円々と盛り上った涙の玉に触れないように眼窩の周りを拭うてやると、皮がたるんだり引っ張れたりする度毎に、玉はいろいろな形に揉まれて、凸面レンズのようになったり、凹面レンズのようになったり、しまいにははらはらと崩れて折角拭いた頬の上に再び光の糸を曳きながら流れて行きます。すると私はもう一度その頬を拭いてやり、まだいくらか濡れている眼玉の上を撫でてやり、それからその紙で、かすかな嗚咽をつづけている彼女の鼻の孔をおさえ、
「さ、鼻をおかみ」
と、そう云うと、彼女は「チーン」と鼻を鳴らして、幾度も私に洟をかませました。
その明くる日、ナオミは私から二百円貰って、一人で三越へ行き、私は会社で午の休みに、母親へ宛てて始めて無心状を書いたものです。
「………何分この頃は物価高く、二三年前とは驚くほどの相違にて、さしたる贅沢を致さざるにも不拘、月々の経費に追われ、都会生活もなかなか容易に無之、………」
と、そう書いたのを覚えていますが、親に向ってこんな上手な嘘を云うほど、それほど自分が大胆になってしまったかと思うと、私は我ながら恐ろしい気がしました。が、母は私を信じている上に、悴の大事な嫁としてナオミに対しても慈愛を持っていたことは、二三日してから手許に届いた返辞を見ても分りました。手紙の中には「なをみに着物でも買っておやり」と私が云ってやったよりも百円余計為替が封入してあったのです。
十
エルドラドオのダンスの当夜は土曜日の晩でした。午後の七時半からと云うので、五時頃会社から帰って来ると、ナオミは既に湯上りの肌を脱ぎながら、せっせと顔を作っていました。
「あ、譲治さん、出来て来たわよ」
と、鏡の中から私の姿を見るなり云って、片手をうしろの方へ伸ばして、彼女が指し示すソオファの上には、三越へ頼んで大急ぎで作らせた着物と丸帯とが、包みを解かれて長々と並べてあります。着物は口綿の這入っている比翼の袷で、金紗ちりめんと云うのでしょうか、黒みがかった朱のような地色には、花を黄色く葉を緑に、点々と散らした総模様があり、帯には銀糸で縫いを施した二たすじ三すじの波がゆらめき、ところどころに、御座船のような古風な船が浮かんでいます。
「どう? あたしの見立ては巧いでしょう?」
ナオミは両手にお白粉を溶き、まだ湯煙の立っている肉づきのいい肩から項を、その手のひらで右左からヤケにぴたぴた叩きながら云いました。
が、正直のところ、肩の厚い、臀の大きい、胸のつき出た彼女の体には、その水のように柔かい地質が、あまり似合いませんでした。めりんすや銘仙を着ていると、混血児の娘のような、エキゾティックな美しさがあるのですけれど、不思議な事にこう云う真面目な衣裳を纏うと、却って彼女は下品に見え、模様が派手であればあるだけ、横浜あたりのチャブ屋か何かの女のような、粗野な感じがするばかりでした。私は彼女が一人で得意になっているので、強いて反対はしませんでしたが、この毒々しい装いの女と一緒に、電車へ乗ったりダンス・ホールへ現れたりするのは、身が竦むような気がしました。
ナオミは衣裳をつけてしまうと、
「さ、譲治さん、あなたは紺の背広を着るのよ」
と、珍しくも私の服を出して来てくれ、埃を払ったり火熨斗をかけたりしてくれました。
「僕は紺より茶の方がいいがな」
「馬鹿ねえ! 譲治さんは!」
と、彼女は例の、叱るような口調で一と睨み睨んで、
「夜の宴会は紺の背広かタキシードに極まっているもんよ。そうしてカラーもソフトをしないでスティッフのを着けるもんよ。それがエティケットなんだから、これから覚えてお置きなさい」
「へえ、そう云うもんかね」
「そう云うもんよ、ハイカラがっている癖にそれを知らないでどうするのよ。この紺背広は随分汚れているけれど、でも洋服はぴんと皺が伸びていて、型が崩れていなけりゃいいのよ。さ、あたしがちゃんとして上げたから、今夜はこれを着ていらっしゃい。そして近いうちにタキシードを拵えなけりゃいけないわ。でなけりゃあたし踊って上げないわ」
それからネクタイは紺か黒無地で、蝶結びにするのがいいこと、靴はエナメルにすべきだけれど、それがなければ普通の黒の短靴にすること、赤皮は正式に外れていること、靴下もほんとうは絹がいいのだが、そうでなくても色は黒無地を選ぶべきこと。―――何処から聞いて来たものか、ナオミはそんな講釈をして、自分の服装ばかりでなく、私のことにも一つ一つ嘴を入れ、いよいよ家を出かけるまでにはなかなか手間が懸りました。
向うへ着いたのは七時半を過ぎていたので、ダンスは既に始まっていました。騒々しいジャズ・バンドの音を聞きながら梯子段を上って行くと、食堂の椅子を取り払ったダンス・ホールの入口に、“Special Dance ― Admission : Ladies Free, Gentlemen \3.00”と記した貼紙があり、ボーイが一人番をしていて、会費を取ります。勿論カフエエのことですから、ホールと云ってもそんなに立派なものではなく、見わたしたところ、踊っているのは十組ぐらいもあったでしょうが、もうそれだけの人数でも可なりガヤガヤ賑っていました。部屋の一方にテーブルと椅子と二列にならべた席があって、切符を買って入場した者は各その席を占領し、ときどきそこで休みながら、他人の踊るのを見物するような仕組になっているのでしょう。そこには見知らない男や女が彼方に一団、此方に一団とかたまりながらしゃべっています。そしてナオミが這入って来ると、彼等は互に何かコソコソ囁き合って、こう云う所でなければ見られない、一種異様な、半ば敵意を含んだような、半ば軽蔑したような胡散な眼つきで、ケバケバしい彼女の姿を捜るように眺めるのでした。
「おい、おい、あすこにあんな女が来たぞ」
「あの連れの男は何者だろう!」
と、私は彼等に云われているような気がしました。彼等の視線が、ナオミばかりか、彼女のうしろに小さくなって立っている私の上にも注がれていることを、はっきりと感じました。私の耳にはオーケストラの音楽がガンガン鳴り響き、私の眼の前には踊りの群衆が、………みんな私より遥に巧そうな群衆が、大きな一つの環を作ってぐるぐると廻っています。同時に私は、自分がたった五尺二寸の小男であること、色が土人のように黒くて乱杭歯であること、二年も前に拵えた甚だ振わない紺の背広を着ていることなどを考えたので、顔がカッカッと火照って来て、体中に胴ぶるいが来て、「もうこんなところへ来るもんじゃない」と思わないではいられませんでした。
「こんな所に立っていたって仕様がないわ。………何処か彼方の………テーブルの方へ行こうじゃないの」
ナオミもさすがに気怯れがしたのか、私の耳へ口をつけて、小さな声でそう云うのでした。
「でも何かしら、この踊っている連中の間を突ッ切ってもいいのかしら?」
「いいのよ、きっと、………」
「だってお前、衝きあたったら悪いじゃないか」
「衝きあたらないように行けばいいのよ、………ほら、御覧なさい、あの人だって彼処を突ッ切って行ったじゃないの。だからいいのよ、行って見ましょうよ」
私はナオミのあとに附いて広場の群衆を横切って行きましたが、足が顫えている上に床がつるつる滑りそうなので、無事に向うへ渡り着くまでが一と苦労でした。そして一遍ガタンと転びそうになり、
「チョッ」
と、ナオミに睨みつけられ、しかめッ面をされたことを覚えています。
「あ、あすこが一つ空いているようだわ、あのテーブルにしようじゃないの」
と、ナオミはそれでも私よりは臆面がなく、ジロジロ見られている中をすうッと済まして通り越して、とあるテーブルへ就きました。が、あれ程ダンスを楽しみにしていたくせに、すぐ踊ろうとは云い出さないで、何だかこう、ちょっとの間落ち着かないように、手提げ袋から鏡を出してこっそり顔を直したりして、
「ネクタイが左へ曲っているわよ」
と、内証で私に注意しながら、広場の方を見守っているのでした。
「ナオミちゃん、浜田君が来ているじゃないか」
「ナオミちゃんなんて云うもんじゃないわよ、さんて仰っしゃいよ」
そう云ってナオミは、又むずかしいしかめッ面をして、
「浜さんも来てるし、まアちゃんも来ているのよ」
「どれ、何処に?」
「ほら、あすこに………」
そして慌てて声を落して、「指さしをしちゃ失礼だわよ」と、そっと私をたしなめてから、
「ほら、あすこにあの、ピンク色の洋服を着たお嬢さんと一緒に踊っているでしょう、あれがまアちゃんよ」
「やあ」
と、云いながら、その時まアちゃんはわれわれの方へ寄って来て、相手の女の肩越しににやにや笑って見せました。ピンク色の洋服は、せいの高い、肉感的な長い両腕をムキ出しにした太った女で、豊かなと云うよりは鬱陶しいほど沢山ある、真っ黒な髪を肩の辺りでザクリと切って、そいつをぼやぼやと縮らせた上に、リボンの鉢巻をしているのですが、顔はと云うと、頬っぺたが赤く、眼が大きく、唇が厚く、そして何処までも純日本式の、浮世絵にでもありそうな細長い鼻つきをした瓜実顔の輪廓でした。私も随分女の顔には気をつけている方ですけれど、こんな不思議な、不調和な顔はまだ見たことがありません。思うにこの女は、自分の顔があまり日本人過ぎるのをこの上もなく不幸に感じて、成るたけ西洋臭くしようと苦心惨憺しているらしく、よくよく見ると、凡そ外部へ露出している肌と云う肌には粉が吹いたようにお白粉が塗ってあり、眼の周りにはペンキのようにぎらぎら光る緑青色の絵の具がぼかしてあるのです。あの頬ッぺたの真っ赤なのも、疑いもなく頬紅をつけているので、おまけにそんなリボンの鉢巻をした恰好は、気の毒ながらどう考えても化け物としか思われません。
「おい、ナオミちゃん、………」
うっかり私はそう云ってしまって、急いでさんと云い直してから、
「あの女はあれでもお嬢さんなのかね?」
「ええ、そうよ、まるで淫売みたいだけれど、………」
「お前あの女を知ってるのかい?」
「知っているんじゃないけれど、よくまアちゃんから話を聞いたわ。ほら、頭へリボンを巻いてるでしょう。あのお嬢さんは眉毛が額のうんと上の方にあるので、それを隠すために鉢巻をして、別に眉毛を下の方へ画いてるんだって。ね、見て御覧なさいよ、あの眉毛は贋物なのよ」
「だけど顔だちはそんなに悪かないじゃないか。赤いものだの青いものだの、あんなにゴチャゴチャ塗り立ててるから可笑しいんだよ」
「つまり馬鹿よ」
ナオミはだんだん自信を恢復して来たらしく、己惚れの強い平素の口調で、云ってのけて、
「顔だちだって、いい事なんかありゃしないわ。あんな女を譲治さんは美人だと思うの?」
「美人と云うほどじゃないけれども、鼻も高いし、体つきも悪くはないし、普通に作ったら見られるだろうが」
「まあ厭だ! 何が見られるもんじゃない! あんな顔ならいくらだってざらにあるわよ。おまけにどうでしょう、西洋人臭く見せようと思って、いろんな細工をしているところはいいけれど、それがちっとも西洋人に見えないんだから、お慰みじゃないの。まるで猿だわ」
「ところで浜田君と踊っているのは、何処かで見たような女じゃないか」
「そりゃ見た筈だわ、あれは帝劇の春野綺羅子よ」
「へえ、浜田君は綺羅子を知っているのかい?」
「ええ知っているのよ、あの人はダンスが巧いもんだから、方々で女優と友達になるの」
浜田は茶っぽい背広を着て、チョコレート色のボックスの靴にスパットを穿いて、群集の中でも一と際目立つ巧者な足取で踊っています。そして甚だ怪しからんことには、或はこう云う踊り方があるのかも知れませんが、相手の女とぺったり顔を着け合っています。きゃしゃな、象牙のような指を持った、ぎゅっと抱きしめたら撓って折れてしまいそうな小柄な綺羅子は、舞台で見るよりは遥に美人で、その名の如く綺羅を極めたあでやかな衣裳に、緞子と云うのか朱珍と云うのか、黒地に金糸と濃い緑とで竜を描いた丸帯を締めているのでした。女の方がせいが低いので、浜田はあたかも髪の毛の匂を嗅ぎでもするように、頭をぐっと斜めにかしげて、耳のあたりを綺羅子の横鬢に喰っ着けている。綺羅子は綺羅子で、眼尻に皺が寄るほど強く男の頬ッぺたへ額をあてている。二つの顔は四つの眼玉をパチクリさせながら、体は離れることがあっても、首と首とはいっかな離れずに踊って行きます。
「譲治さん、あの踊り方を知っている?」
「何だか知らないが、あんまり見っともいいもんじゃないね」
「ほんとうよ、実際下品よ」
ナオミはペッペッと唾を吐くような口つきをして、
「あれはチーク・ダンスって云って、真面目な場所でやれるものじゃないんだって。アメリカあたりであれをやったら、退場して下さいって云われるんだって。浜さんもいいけれど、全く気障よ」
「だが女の方も女の方だね」
「そりゃそうよ、どうせ女優なんて者はあんな者よ、全体此処へ女優を入れるのが悪いんだわ、そんなことをしたらほんとうのレディーは来なくなるわ」
「男にしたって、お前はひどくやかましいことを云ったけれど、紺の背広を着ている者は少いじゃないか。浜田君だってあんななりをしているし、………」
これは私が最初から気がついていた事でした。知ったか振りをしたがるナオミは、所謂エティケットなるものを聞きかじって来て、無理に私に紺の背広を着せましたけれど、さて来て見ると、そんな服装をしている者は二三人ぐらいで、タキシードなどは一人もなく、あとは大概変り色の、凝ったスーツを着ているのです。
「そりゃそうだけれど、あれは浜さんが間違ってるのよ、紺を着るのが正式なのよ」
「そう云ったって………ほら、あの西洋人を御覧、あれもホームスパンじゃないか。だから何だっていいんだろう」
「そうじゃないわよ、人はどうでも自分だけは正式ななりをして来るもんよ。西洋人がああ云うなりをして来るのは、日本人が悪いからなのよ。それに何だわ、浜さんのように場数を蹈んでいて、踊りが巧い人なら格別、譲治さんなんかなりでもキチンとしていなけりゃ見ッともないわよ」
広場の方のダンスの流れが一時に停まって、盛んな拍手が起りました。オーケストラが止んだので、彼等はみんな少しでも長く踊りたそうに、熱心なのは口笛を吹き、地団太を蹈んで、アンコールをしているのです。すると音楽が又始まる、停まっていた流れが再びぐるぐると動き出す。一としきり立つと又止んでしまう、又アンコール、………二度も三度も繰り返して、とうとういくら手を叩いても聴かれなくなると、踊った男は相手の女の後に従ってお供のように護衛しながら、一同ぞろぞろとテーブルの方へ帰って来ます。浜田とまアちゃんは綺羅子とピンク色の洋服をめいめいのテーブルへ送り届けて、椅子にかけさせて、女の前で丁寧にお辞儀をしてから、やがて揃って私たちの方へやって来ました。
「やあ、今晩は。大分御ゆっくりでしたね」
そう云ったのは浜田でした。
「どうしたんだい、踊らねえのかい?」
まアちゃんは例のぞんざいな口調で、ナオミのうしろに突っ立ったまま、眩い彼女の盛装を上からしげしげと見おろして、
「約束がなけりゃあ、この次に己と踊ろうか?」
「いやだよ、まアちゃんは、下手くそだもの!」
「馬鹿云いねえ、月謝は出さねえが、これでもちゃんと踊れるから不思議だ」
と、大きな団子ッ鼻の孔をひろげて、唇を「へ」の字なりに、えへらえへら笑って見せて、
「根が御器用でいらっしゃるからね」
「ふん、威張るなよ! あのピンク色の洋服と踊ってる恰好なんざあ、あんまりいい図じゃなかったよ」
驚いたことには、ナオミはこの男に向うと、忽ちこんな乱暴な言葉を使うのでした。
「や、此奴アいけねえ」
と、まアちゃんは首をちぢめて頭を掻いて、ちらりと遠くのテーブルにいるピンク色の方を振り返りながら、
「己もずうずうしい方じゃ退けを取らねえ積りだけれど、あの女には敵わねえや、あの洋服で此処へ押し出して来ようてんだから」
「何だいありゃあ、まるで猿だよ」
「あははは、猿か、猿たあうめえことを云ったな、全く猿にちげえねえや」
「巧く云ってらあ、自分が連れて来たんじゃないか。―――ほんとうにまアちゃん、見っともないから注意しておやりよ。西洋人臭く見せようとしたって、あの御面相じゃ無理だわよ。どだい顔の造作が、ニッポンもニッポンも、純ニッポンと来てるんだから」
「要するに悲しき努力だね」
「あははは、そうよほんとに、要するに猿の悲しき努力よ。和服を着たって、西洋人臭く見える人は見えるんだからね」
「つまりお前のようにかね」
ナオミは「ふん」と鼻を高くして、得意のせせら笑いをしながら、
「そうさ、まだあたしの方が混血児のように見えるわよ」
「熊谷君」
と、浜田は私に気がねするらしく、もじもじしている様子でしたが、その名でまアちゃんを呼びかけました。
「そう云えば君は、河合さんとは始めてなんじゃなかったかしら?」
「ああ、お顔はたびたび見たことがあるがね、―――」
「熊谷」と呼ばれたまアちゃんは矢張ナオミの背中越しに、椅子のうしろに衝っ立ったまま、私の方へジロリと厭味な視線を投げました。
「僕は熊谷政太郎と云うもんです。―――自己紹介をして置きます、どうか何分―――」
「本名を熊谷政太郎、一名をまアちゃんと申します。―――」
ナオミは下から熊谷の顔を見上げて、
「ねえ、まアちゃん、ついでにも少し自己紹介をしたらどうなの?」
「いいや、いけねえ、あんまり云うとボロが出るから。―――委しいことはナオミさんから御聞きを願います」
「アラ、いやだ、委しい事なんかあたしが何を知っているのよ」
「あははは」
この連中に取り巻かれるのは不愉快だとは思いながら、ナオミが機嫌よくはしゃぎ出したので、私も仕方なく笑って云いました。
「さ、いかがです。浜田君も熊谷君も、これへお掛けになりませんか」
「譲治さん、あたし喉が渇いたから、何か飲む物を云って頂戴。浜さん、あんた何がいい? レモン・スクォッシュ?」
「え、僕は何でも結構だけれど、………」
「まアちゃん、あんたは?」
「どうせ御馳走になるのなら、ウイスキー・タンサンに願いたいね」
「まあ、呆れた、あたし酒飲みは大嫌いさ、口が臭くって!」
「臭くってもいいよ、臭い所が捨てられないッて云うんだから」
「あの猿がかい?」
「あ、いけねえ、そいつを云われると詫まるよ」
「あははは」
と、ナオミは辺り憚らず、体を前後に揺す振りながら、
「じゃ、譲治さん、ボーイを呼んで頂戴、―――ウイスキー・タンサンが一つ、それからレモン・スクォッシュが三つ。………あ、待って、待って! レモン・スクォッシュは止めにするわ、フルーツ・カクテルの方がいいわ」
「フルーツ・カクテル?」
私は聞いたこともないそんな飲み物を、どうしてナオミが知っているのか不思議でした。
「カクテルならばお酒じゃないか」
「うそよ、譲治さんは知らないのよ、―――まあ、浜ちゃんもまアちゃんも聞いて頂戴、この人はこの通り野暮なんだから」
ナオミは「この人」と云う時に人差指で私の肩を軽く叩いて、
「だからほんとに、ダンスに来たってこの人と二人じゃ間が抜けていて仕様がないわ。ぼんやりしているもんだから、さっきも滑って転びそうになったのよ」
「床がつるつるしてますからね」
と、浜田は私を弁護するように、
「初めのうちは誰でも間が抜けるもんですよ、馴れると追い追い板につくようになりますけれど、………」
「じゃ、あたしはどう? あたしもやっぱり板につかない?」
「いや、君は別さ、ナオミ君は度胸がいいから、………まあ社交術の天才だね」
「浜さんだって天才でない方でもないわ」
「へえ、僕が?」
「そうさ、春野綺羅子といつの間にかお友達になったりして! ねえ、まアちゃん、そう思わない?」
「うん、うん」
と、熊谷は下唇を突き出して、頤をしゃくって頷いて見せます。
「浜田、お前綺羅子にモーションをかけたのかい?」
「ふざけちゃいかんよ、僕あそんなことをするもんかよ」
「でも浜さんは真っ赤になって云い訳するだけ可愛いわ。何処か正直な所があるわ。―――ねえ、浜さん、綺羅子さんを此処へ呼んで来ない? よう! 呼んでらッしゃいよ! あたしに紹介して頂戴」
「なんかんて、又冷やかそうッて云うんだろう? 君の毒舌に懸った日にゃ敵わんからなア」
「大丈夫よ、冷やかさないから呼んでらッしゃいよ、賑やかな方がいいじゃないの」
「じゃあ、己もあの猿を呼んで来るかな」
「あ、それがいい、それがいい」
と、ナオミは熊谷を振り返って、
「まアちゃんも猿を呼んどいでよ、みんな一緒になろうじゃないの」
「うん、よかろう、だがもうダンスが始まったぜ、一つお前と踊ってからにしようじゃないか」
「あたしまアちゃんじゃ厭だけれど、仕方がない、踊ってやろうか」
「云うな云うな、習いたての癖にしやがって」
「じゃ譲治さん、あたし一遍踊って来るから見てらッしゃい。後であなたと踊って上げるから」
私は定めし悲しそうな、変な表情をしていたろうと思いますが、ナオミはフイと立ち上って、熊谷と腕を組みながら、再び盛んに動き出した群集の流れの中へ這入って行ってしまいました。
「や、今度は七番のフォックス・トロットか、―――」
と、浜田も私と二人になると何となく話題に困るらしく、ポケットからプログラムを出して見て、こそこそ臀を持ち上げました。
「あの、僕ちょっと失礼します、今度の番は綺羅子さんと約束がありますから。―――」
「さあ、どうぞ、お構いなく、―――」
私は独り、三人が消えてなくなった跡へボーイが持って来たウイスキー・タンサンと、所謂「フルーツ・カクテル」なるものと、四つのコップを前にして、茫然と広場の景気を眺めていなければなりませんでした。が、もともと私は自分が踊りたいのではなく、こう云う場所でナオミがどれほど引き立つか、どう云う踊りッ振りをするか、それを見たいのが主でしたから、結局この方が気楽でした。で、ほっと解放されたような心地で、人波の間に見え隠れするナオミの姿を、熱心な眼で追っ懸けていました。
「ウム、なかなかよく踊る!………あれなら見っともない事はない………ああ云う事をやらせるとやっぱりあの児は器用なものだ。………」
可愛いダンスの草履を穿いた白足袋の足を爪立てて、くるりくるりと身を飜すと、華やかな長い袂がひらひらと舞います。一歩を蹈み出す度毎に、着物の上ん前の裾が、蝶々のようにハタハタと跳ね上ります。芸者が撥を持つ時のような手つきで熊谷の肩を摘まんでいる真っ白な指、重くどっしり胴体を締めつけた絢爛な帯地、一茎の花のように、この群集の中に目立っている項、横顔、正面、後の襟足、―――こうして見ると、成る程和服も捨てたものではありません、のみならず、あのピンク色の洋服を始め突飛な意匠の婦人たちが居るせいか、私が密かに心配していた彼女のケバケバしい好みも、決してそんなに卑しくはありません。
「ああ、暑、暑! どうだった、譲治さん、あたしの踊るのを見ていた?」
踊りが済むと彼女はテーブルへ戻って来て、急いでフルーツ・カクテルのコップを前へ引き寄せました。
「ああ、見ていたよ、あれならどうして、とても始めてとは思えないよ」
「そう! じゃ今度、ワン・ステップの時に譲治さんと踊って上げるわ、ね、いいでしょう?………ワン・ステップなら易しいから」
「あの連中はどうしたんだい、浜田君と熊谷君は?」
「え、今来るわよ、綺羅子と猿を引っ張って。―――フルーツ・カクテルをもう二つ云ったらいいわ」
「そう云えば何だね、今ピンク色は西洋人と踊っていたようだね」
「ええ、そうなのよ、それが滑稽じゃあないの、―――」
と、ナオミはコップの底を視つめ、ゴクゴクと喉を鳴らして、渇いた口を湿おしながら、
「あの西洋人は友達でも何でもないのよ、それがいきなり猿の所へやって来て、踊って下さいッて云ったんだって。つまり此方を馬鹿にしているのよ、紹介もなしにそんな事を云うなんて、きっと淫売か何かと間違えたのよ」
「じゃ、断ればよかったじゃないか」
「だからさ、それが滑稽じゃないの。あの猿が又、相手が西洋人だもんだから、断り切れないで踊ったところが! ほんとうにいい馬鹿だわ、耻ッ晒しな!」
「だけどお前、そうツケツケと悪口を云うもんじゃないよ。傍で聞いていてハラハラするから」
「大丈夫よ、あたしにはあたしで考があるわよ。―――なあに、あんな女にはそのくらいのことを云ってやった方がいいのよ、でないと此方まで迷惑するから。まアちゃんだって、あれじゃ困るから注意してやるって云っていたわ」
「そりゃ、男が云うのはいいだろうけれど、………」
「ちょいと! 浜ちゃんが綺羅子を連れて来たわよ、レディーが来たら直ぐに椅子から立つもんよ。―――」
「あの、御紹介します、―――」
と、浜田は私たち二人の前に、兵士の「気をつけ」のような姿勢で立ち止まりました。
「これが春野綺羅子嬢です。―――」
こう云う場合、「この女はナオミに比べて優っているか、劣っているか」と、私は自然、ナオミの美しさを標準にしてしまうのですが、今浜田の後から、しとやかなしなを作って、その口もとに悠然と自信のあるほほ笑みを浮かべながら、一と足そこへ歩み出た綺羅子は、ナオミより一つか二つ歳かさでもありましょうか。が、生き生きとした、娘々した点に於いては、小柄なせいもあるでしょうが、少しもナオミと変りなく、そして衣裳の豪華なことは寧ろナオミを圧倒するものがありました。
「初めまして、………」
と、慎ましやかな態度で云って、悧巧そうな、小さく円く、パッチリとした眸を伏せて、こころもち胸を引くようにして挨拶する、その身のこなしには、さすがは女優だけあってナオミのようなガサツな所がありません。
ナオミは為る事成す事が活溌の域を通り越して、乱暴過ぎます。口の利き方もつんけんしていて女としての優しみに欠け、ややともすると下品になります。要するに彼女は野生の獣で、これに比べると綺羅子の方は、物の言いよう、眼の使いよう、頸のひねりよう、手の挙げよう、総べてが洗煉されていて、注意深く、神経質に、人工の極致を尽して研きをかけられた貴重品の感がありました。たとえば彼女が、テーブルに就いてカクテルのコップを握った時の、掌から手頸を見ると、実に細い。そのしっとりと垂れている袂の重みにも得堪えぬほどに、しなしなと細い。きめのこまやかさと色つやのなまめかしさは、ナオミと孰れ劣らずで、私は幾度卓上に置かれた四枚の掌を、代る代る打ち眺めたか知れませんけれど、しかし二人の顔の趣は大変に違う。ナオミがメリー・ピクフォードで、ヤンキー・ガールであるとするなら、此方はどうしても伊太利か仏蘭西あたりの、しとやかなうちに仄かなる媚びを湛えた幽艶な美人です。同じ花でもナオミは野に咲き、綺羅子は室に咲いたものです。その引き締まった円顔の中にある小さな鼻は、まあ何と云う肉の薄い、透き徹るような鼻でしょう! 余程の名工が拵えた人形か何かでない限り、赤ん坊の鼻だってよもやこんなに繊細ではありますまい。そして最後に気がついたことは、ナオミが日頃自慢している見事な歯並び、それと全く同じ物の真珠の粒が、真赤な瓜を割いたような綺羅子の可愛い口腔の中に、その種子のように生え揃っていたことです。
私が引け目を感ずると同時に、ナオミも引け目を感じたに違いありません。綺羅子が席へ交ってから、ナオミはさっきの傲慢にも似ず、冷やかすどころか俄かにしんと黙ってしまって、一座はしらけ渡りました。が、それでなくても負け惜しみの強い彼女は、自分が「綺羅子を呼んで来い」と云った言葉の手前、やがていつもの腕白気分を盛り返したらしく、
「浜さん、黙っていないで何か仰っしゃいよ。―――あの、綺羅子さんは何ですか、いつから浜さんとお友達におなりになって?」
と、そんな風にぼつぼつ始めました。
「わたくし?」
と綺羅子は云って、冴えた瞳をぱっと明るくして、
「ついこの間からですの」
「あたくし」
と、ナオミも相手の「わたくし」口調に釣り込まれながら、
「今拝見しておりましたけれど、随分お上手でいらっしゃいますのね、よっぽどお習いになりましたの?」
「いいえ、わたくし、やる事はあの、前からやっておりますけれど、ちっとも上手になりませんのよ、不器用だものですから、………」
「あら、そんなことはありませんわ。ねえ浜さん、あんたどう思う?」
「そりゃ巧い筈ですよ、綺羅子さんのは女優養成所で、本式に稽古したんだから」
「まあ、あんなことを仰っしゃって」
と、綺羅子はぽうッとはにかんだような素振りを見せて、俯向いてしまいます。
「でもほんとうにお上手よ、見わたしたところ、男で一番巧いのは浜さん、女では綺羅子さん………」
「まあ」
「何だい、ダンスの品評会かい? 男で一番うめえのは何と云っても己じゃねえか。―――」
と、そこへ熊谷がピンク色の洋服を連れて割り込んで来ました。
このピンク色は、熊谷の紹介に依ると青山の方に住んでいる実業家のお嬢さんで、井上菊子と云うのでした。もはや婚期を過ぎかけている二十五六の歳頃で、―――これは後で聞いたのですが、二三年前或る所へ嫁いだのに、あまりダンスが好きなので近頃離婚になったのだそうです。―――わざとそう云う夜会服の下に肩から腕を露わにした装いは、大方豊艶なる肉体美を売り物にしているのでしょうが、さてこうやって向い合った様子では、豊艶と云わんより脂ぎった大年増と云う形でした。尤も貧弱な体格よりはこのくらいな肉づきの方が、洋服には似合う訳ですけれど、何を云うにも困ったのはその顔だちです。西洋人形へ京人形の首をつけたような、洋服とは甚だ縁の遠い目鼻立ち、―――それもそのままにして置けばいいのに、成るべく縁を近くしようと骨を折って、彼方此方へ余計な手入れをして、折角の器量をダイナシにしてしまっている。見ると成る程、本物の眉毛は鉢巻の下に隠されているに違いなく、その眼の上に引いてあるのは明かに作り物なのです。それから眼の縁の青い隈取り、頬紅、入れぼくろ、唇の線、鼻筋の線、と、殆ど顔のあらゆる部分が不自然に作ってあります。
「まアちゃん、あんた猿は嫌い?」
と、突然ナオミがそんな事を云いました。
「猿?―――」
そう云って熊谷は、ぷっと吹き出したくなるのを我慢しながら、
「何でえ、妙なことを聞くじゃねえか」
「あたしの家に猿が二匹飼ってあるのよ、だからまアちゃんが好きだったら、一匹分けて上げようと思うの。どう? まアちゃんは猿が好きじゃない?」
「あら、猿を飼っていらっしゃいますの?」
と真顔になって、菊子がそれを尋ねたので、ナオミはいよいよ図に乗りながらいたずら好きの眼を光らして、
「ええ、飼っておりますの、菊子さんは猿がお好き?」
「わたくし、動物は何でも好きでございますわ、犬でも猫でも―――」
「そうして猿でも?」
「ええ、猿でも」
その問答があまり可笑しいので、熊谷は側方を向いて腹を抱える、浜田はハンケチを口へあててクスクス笑う、綺羅子もそれと感づいたらしくニヤニヤしている。が、菊子は案外人の好い女だと見えて、自分が嘲弄されているとは気がつきません。
「ふん、あの女はよっぽど馬鹿だよ、少し血の循りが悪いんじゃないかね」
やがて八番目のワン・ステップが始まって、熊谷と菊子が踊り場の方へ行ってしまうと、ナオミは綺羅子の居る前をも憚らず、口汚い調子で云うのでした。
「ねえ、綺羅子さん、あなたそうお思いにならなかった?」
「まあ、何でございますか、………」
「いいえ、あの方が猿みたいな感じがするでしょ、だからあたし、わざと猿々ッて云ってやったんですよ」
「まあ」
「みんながあんなに笑っているのに、気が付かないなんてよっぽど馬鹿だわ」
綺羅子は半ば呆れたように、半ば蔑むような眼つきでナオミの顔を偸み視ながら、何処までも「まあ」の一点張りでした。