痴人の愛 谷崎潤一郎

.

 
 
 
 十三
 
当時、私のこんなふしだらな有様は、会社の者は誰も知らないはずでした。家に居る時と会社に居る時と、私の生活は劃然かくぜんと二分されていました。勿論もちろん事務を執っている際でも、頭の中にはナオミの姿が始終チラついていましたけれど、別段それが仕事の邪魔になるほどではなく、まして他人は気がつく訳もありません。で、同僚の眼には私は矢張君子に見えているのだろうと、そう思い込んでいたことでした。
ところがる日―――まだ梅雨が明けきれない頃で、鬱陶うっとうしい晩のことでしたが、同僚の一人の波川と云う技師が、今度会社から洋行を命ぜられ、その送別会が築地の精養軒で催されたことがありました。私は例にって義理一遍に出席したに過ぎませんから、会食が済み、デザート・コースの挨拶あいさつが終り、みんながぞろぞろ食堂から喫煙室へ流れ込んで、食後のリキウルを飲みながらガヤガヤ雑談をし始めた時分、もう帰ってもかろうと思って立ち上ると、
「おい、河合君、まあかけたまえ」
と、ニヤニヤ笑いながら呼び止めたのは、Sと云う男でした。Sはほんのり微醺びくんを帯びて、TやKやHなどと一つソオファを占領して、そのまん中へ私を無理に取り込めようとするのでした。
「まあ、そう逃げんでもいいじゃないか、これから何処どこかへお出かけかね、この雨の降るのに。―――」
と、Sはそう云って、孰方どっちつかずにっ立ったままの私の顔を見上げながら、もう一度ニヤニヤ笑いました。
「いや、そう云う訳じゃないけれど、………」
「じゃ、真っぐにお帰りかね」
そう云ったのはHでした。
「ああ、済まないけれど、失敬させてくれ給え。僕の所は大森だから、こんな天気にはみちが悪くって、早く帰らないとくるまがなくなっちまうんだよ」
「あははは、うまく云ってるぜ」
と、今度はTが云いました。
「おい、河合君、種はすっかり上ってるんだぜ」
「何が?………」
「種」とはどう云う意味なのか、Tの言葉を判じかねて、私は少し狼狽ろうばいしながら聞き返しました。
「驚いたなアどうも、君子とばかり思っていたのになア………」
と、次にはKが無闇むやみと感心したように首をひねって、
「河合君がダンスをするとうに至っちゃあ、何しろ時勢は進歩したもんだよ」
「おい、河合君」
と、Sはあたりに遠慮しながら、私の耳に口をつけるようにしました。
「その、君が連れて歩いている素晴らしい美人と云うのは何者かね? 一遍僕等にも紹介し給え」
「いや紹介するような女じゃないよ」
「だって、帝劇の女優だって云う話じゃないか。………え、そうじゃないのか、活動の女優だと云ううわさもあるし、混血児あいのこだと云う説もあるんだが、その女の巣を云い給え。云わなけりゃ帰さんよ」
私が明かに不愉快な顔をして、口をどもらしているのも気が付かず、Sは夢中で膝を乗り出して、ムキになって尋ねるのでした。
「え、君、その女はダンスでなけりゃあ呼べないのか?」
私はもう少しで「馬鹿ッ」と云ったかも知れませんでした。まだ会社では恐らく誰も気がつくまいと思っていたのに、豈図あにはからんやぎつけていたばかりでなく、道楽者の名を博しているSの口吻こうふんから察すると、奴等は私たちを夫婦であるとは信じないで、ナオミを何処へでも呼べる種類の女のように考えているのです。
「馬鹿ッ、人の細君をつかまえて『呼べるか』とは何だ! 失敬な事を云い給うな」
この堪え難い侮辱に対して、私は当然、血相を変えてこう怒鳴りつけるところでした。いや、たしかにほんの一瞬間、私はさッと顔色を変えました。
「おい、河合々々、教えろよ、ほんとに!」
と、奴等は私の人の好いのを見込んでいるので、何処までもずうずうしく、Hがそう云ってKの方を振り向きながら、
「なあ、K、君は何処から聞いたんだって云ったけな。―――」
「僕ア慶応の学生から聞いたよ」
「ふん、何だって?」
「僕の親戚しんせきの奴なんでね、ダンス気違いなもんだから始終ダンス場へ出入りするんで、その美人を知ってるんだ」
「おい、名前は何て云うんだ?」
と、Tが横合から首を出しました。
「名前は………ええと、………妙な名だったよ、………ナオミ、………ナオミと云うんじゃなかったかな」
「ナオミ?………じゃあやっぱり混血児かな」
そう云ってSは、冷やかすように私の顔をのぞいて、
「混血児だとすると、女優じゃないな」
「何でも偉い発展家だそうだぜ、その女は。盛んに慶応の学生なんかを荒らし廻るんだそうだから」
私は変な、痙攣けいれんのような薄笑いを浮かべたまま、口もとをぴくぴくふるわせているだけでしたが、Kの話が此処ここまで来ると、その薄笑いはにわかに凍りついたように、頬ッぺたの上で動かなくなり、眼玉がグッと眼窩がんかの奥へへこんだような気がしました。
「ふん、ふん、そいつあ頼もしいや!」
と、Sはすっかり恐悦しながら云うのでした。
「君の親戚の学生と云うのも、その女と何かあったのかい?」
「いや、そりゃどうだか知らないが、友達のうちに二三人はあるそうだよ」
せ、止せ、河合が心配するから。―――ほら、ほら、あんな顔してるぜ」
Tがそう云うと、みんな一度に私を見上げて笑いました。
「なあに、ちっとぐらい心配させたって構わんさ。われわれに内証でそんな美人を専有しようとするなんて心がけがしからんよ」
「あはははは、どうだ河合君、君子もたまにはイキな心配をするのもよかろう?」
「あはははは」
もはや私は、怒るどころではありませんでした。誰が何と云ったのかまるで聞えませんでした。ただどっと云う笑い声が、両方の耳にがんがん響いただけでした。咄嗟とっさの私の当惑は、どうしてこの場を切り抜けたらいいか、泣いたらいいのか、笑ったらいいのか、―――が、うっかり何か云ったりすると、尚更嘲弄ちょうろうされやしないかと云うことでした。
とにかく私は、何が何やら上の空で喫煙室を飛び出しました。そしてぬかるみの往来へ立って冷めたい雨に打たれるまでは、足が大地に着きませんでした。いまだに後から何かが追い駆けて来るような心地で、私はどんどん銀座の方へ逃げ伸びました。
尾張町おわりちょうのもう一つ左の四つ角へ出て、そこを私は新橋の方へ歩いて行きました。………と云うよりも、私の足がただ無意識に、私の頭とは関係なく、その方角へ動いて行きました。私の眼には雨にれた舗道の上に街の燈火とうかのきらきら光るのが映りました。このお天気にもかかわらず、通りはなかなか人が出ているようでした。あ、芸者が傘をさして通る、若い娘がフランネルを着て通る、電車が走る、自動車が駆ける、………
………ナオミが非常な発展家だ。学生たちを荒らし廻る?………そんな事が有り得るだろうか? 有り得る、たしかに有り得る、近頃のナオミの様子を見れば、そう思わないのが不思議なくらいだ。実はおれだって内々気にしてはいたのだけれど、彼女を取り巻く男の友達が余り多いので、かえって安心していたのだ。ナオミは子供だ、そして活溌かっぱつだ。「あたし男よ」と彼女自身が云っている通りだ。だから男を大勢集めて、無邪気に、にぎやかに、馬鹿ばかッ騒ぎをするのが好きなだけなんだ。仮に彼女に下心があったとしたって、これだけ多くの人目があれば、それを忍べるものではなし、まさか彼女が、………と、そう考えたこの「まさか」が悪かったんだ。
けれどもまさか、………まさか事実じゃないのじゃなかろうか? ナオミは生意気にはなったが、でも品性は気高い女だ。己はその事をよく知っている。うわべは己を軽蔑けいべつしたりするけれども、十五のとしから養ってやった己の恩義には感謝している。決してそれを裏切るようなことはしないと、寝物語に彼女が※(二の字点、1-2-22)しばしば涙をもって云う言葉を、己は疑うことは出来ない。あのKの話―――事に依ったら、あれは会社の人の悪い奴等やつらが、己をからかうのじゃなかろうか? ほんとうに、そうであってくれればいいが。………あの、Kの親戚の学生と云うのは誰だろうか? その学生の知っているのでも二三人は関係がある? 二三人?………浜田? 熊谷?………怪しいとすればこの二人が一番怪しい、が、それならどうして二人は喧嘩けんかしないのだろう。別々に来ないで、一緒にやって来て、仲よくナオミと遊んでいるのはどう云う気だろう? 己の眼をくらます手段だろうか? ナオミが巧く操っているので、二人は互に知らないのだろうか? いや、それよりも何よりも、ナオミがそんなに堕落してしまっただろうか? 二人に関係があったとしたら、この間の晩の雑魚寝ざこねのような、あんな無耻むちな、しゃあしゃあとした真似まねが出来るだろうか? しそうだったら彼女のしぐさは売笑婦以上じゃないか。………
私はいつの間にか新橋を渡り、芝口の通りを真っ直ぐにぴちゃぴちゃ泥をね上げながら金杉橋の方まで歩いてしまいました。雨は寸分の隙間すきまもなく天地を閉じ込め、私の体を前後左右から包囲して、傘から落ちる雨だれがレインコートの肩を濡らします。ああ、あの雑魚寝をした晩もこんな雨だった。あのダイヤモンド・カフエエのテーブルでナオミに始めて自分の心を打ち明けた晩も、春ではあったがやっぱりこんな雨だった。と、私はそんなことを思いました。すると今夜も、自分がこうしてびしょ濡れになって此処を歩いている最中、大森の家には誰かが来ていやしないだろうか? 又雑魚寝じゃないのだろうか?―――と、そう云う疑惧ぎぐが突然浮かんで来るのでした。ナオミをまん中に、浜田や熊谷が行儀の悪い居ずまいで、べちゃくちゃ冗談を云い合っているみだらなアトリエの光景が、まざまざと見えて来るのでした。
「そうだ。己はぐずぐずしている場合じゃないんだ」
そう思うと私は、急いで田町の停車場へ駆けつけました。一分、二分、三分………と、やっと三分目に電車が来ましたが、私はかつてこんなに長い三分間を経験したことがありませんでした。
ナオミ、ナオミ! 己はどうして今夜彼女を置き去りにして来たのだろう。ナオミが傍に居ないからいけないんだ、それが一番悪い事なんだ。―――私はナオミの顔さえ見れば、このイライラした心持が幾らか救われる気がしました。彼女の闊達かったつな話声を聞き、罪のなさそうなひとみを見れば疑念が晴れるであろうことを祈りました。
が、それにしても、しも彼女が再び雑魚寝をしようなどと云い出したら、自分は何と云うべきだろうか? この後自分は、彼女に対し、彼女に寄りつく浜田や熊谷や、その他の有象無象うぞうむぞうに対し、どんな態度を執るべきだろうか? 自分は彼女の怒りを犯しても、敢然として監督を厳にすべきであろうか? それで彼女が大人しく自分に承服すればいいが、反抗したらどうなるだろう? いや、そんなことはない。「自分は今夜会社の奴等に甚だしい侮辱を受けた。だからお前も世間から誤解されないように、少し行動を慎しんでおくれ」と云えば、外の場合とは違うから、彼女自身の名誉のためにでも、恐らく云うことを聴くであろう。若しその名誉も誤解も顧みないようなら、正しく彼女は怪しいのだ。Kの話は事実なのだ。若し、………ああ、そんな事があったら………
私は努めて冷静に、出来るだけ心を落ち着けて、この最後の場合を想像しました。彼女が私をあざむいていたことが明かになったとしたら、私は彼女を許せるだろうか?―――正直のところ、既に私は彼女なしには一日も生きて行かれません。彼女が堕落した罪の一半は勿論もちろん私にもあるのですから、ナオミが素直に前非を悔いてあやまってさえくれるなら、私はそれ以上彼女を責めたくはありませんし、責める資格もないのです。けれども私の心配なのは、あの強情な、ことに私に対してはしお強硬になりたがる彼女が、仮に証拠を突きつけたとしても、そう易々やすやすと私に頭を下げるだろうかと云うことでした。たとい一旦いったんは下げたとしても、実は少しも改心しないで、此方こっちを甘く見くびって、二度も三度も同じあやまちを繰り返すようになりはしないか? そして結局、お互の意地ッ張りから別れるようになってしまったら?―――それが私には何より恐ろしいことでした。露骨に云えば彼女の貞操その物よりも、ずっとこの方が頭痛の種でした。彼女を糺明きゅうめいし、あるいは監督するにしても、その際に処する自分の腹をあらかじめ決めて置かなけりゃならない。「そんならあたし出て行くわよ」と云われたとき、「勝手に出て行け」と云えるだけの、覚悟が出来ているならいいが。………
しかし私は、この点になるとナオミの方にも同じ弱点があることを知っていました。なぜなら彼女は、私と一緒に暮らしてこそ思う存分の贅沢ぜいたくが出来ますけれども、一と度此処を追い出されたら、あのむさくろしい千束せんぞく町の家より外、何処どこに身を置く場所があるでしょう。もうそうなれば、それこそほんとに売笑婦にでもならない以上、誰も彼女にチヤホヤ云う者はなくなるでしょう。昔はとにかく、我がまま一杯に育ってしまった今の彼女の虚栄心では、それは到底忍び得ないに極まっています。或は浜田や熊谷などが引き取ると云うかも知れませんが、学生の身で、私がさせて置いたような栄耀栄華えいようえいががさせられないのは、彼女にも分っているはずです。そう考えると、私が彼女に贅沢の味を覚えさせたのはいい事でした。
そうだ、そう云えばいつか英語の時間にナオミがノートを引き裂いた時、己が怒って「出て行け」と云ったら、彼女は降参したじゃないか。あの時彼女に出て行かれたらどんなに困ったか知れないのだが、己が困るより彼女の方がもっと困るのだ。己があっての彼女であって、己の傍を離れたが最後、再び社会のどん底へ落ちてこの世の下積になってしまう。それが彼女には余程恐ろしいに違いないのだ。その恐ろしさは今もあの時と変りはあるまい。もはや彼女も今歳は十九だ。歳を取って、多少でも分別がついて来ただけ、一層彼女はそれをハッキリと感じる筈だ。そうだとすれば万一おどかしに「出て行く」と云うことはあっても、よもや本気で実行することは出来なかろう。そんな見え透いた威嚇いかくで以て、己が驚くか驚かないか、そのくらいなことは分っているだろう。………
私は大森の駅へ着くまでに、いくらか勇気を取り返しました。どんな事があってもナオミと私とは別れるような運命にはならない、もうそれだけはきっと確かだと思えました。
家の前までやって来ると、私のまわしい想像はすっかり外れて、アトリエの中は真っ暗になっており、一人の客もないらしく、しーんと静かで、ただ屋根裏の四畳半に明りがともっているだけでした。
「ああ、一人で留守番をしているんだな、―――」
私はほっと胸をでました。「これでよかった、ほんとうに仕合わせだった」と、そんな気がしないではいられませんでした。
締まりのしてある玄関の扉を合鍵あいかぎで開け、中へ這入はいると私はぐにアトリエの電気をつけました。見ると、部屋は相変らず取り散らかしてありますけれど、矢張客の来たような形跡はありません。
「ナオミちゃん、只今ただいま、………帰って来たよ、………」
そうっても返辞がないので、梯子段はしごだんを上って行くと、ナオミは一人四畳半に床を取って、安らかに眠っているのでした。これは彼女に珍しいことではないので、退屈すれば昼でも夜でも、時間を構わず布団ふとんの中へもぐり込んで小説を読み、そのまますやすやと寝入ってしまうのが常でしたから、その罪のない寝顔に接しては、私はいよいよ安心するばかりでした。
「この女が己を欺いている? そんな事があるだろうか?………この、現在己の眼の前で平和な呼吸をつづけている女が?………」
私はひそかに、彼女の眠りを覚まさないようにまくらもとへ据わったまま、しばらくじっと息を殺してその寝姿を見守りました。昔、きつねが美しいお姫様に化けて男をだましたが、寝ている間に正体をあらわして、化けの皮をがされてしまった。―――私は何か、子供の時分に聞いたことのあるそんなはなしおもい出しました。寝像の悪いナオミは、い巻きをすっかり剥いでしまって、両股りょうももの間にそのえりを挟み、乳の方まであらわになった胸の上へ、片肘かたひじを立ててその手の先を、あたかもたわんだ枝のように載せています。そして片一方の手は、ちょうど私が据わっているひざのあたりまで、しなやかに伸びています。首は、その伸ばした手の方角へ横向きになって、今にも枕からずり落ちそうに傾いている。そのつい鼻の先の所に、一冊の本がページを開いたまま落ちていました。それは彼女の批評にれば「今の文壇で一番偉い作家だ」と云う有島武郎たけおの、「カインの末裔まつえい」と云う小説でした。私の眼は、その仮綴かりとじの本の純白な西洋紙と、彼女の胸の白さとの上に、かわがわる注がれました。
ナオミは一体、その肌の色が日によって黄色く見えたり白く見えたりするのでしたが、ぐっすり寝込んでいる時や起きたばかりの時などは、いつも非常にえていました。眠っている間に、すっかり体中のあぶらが脱けてしまうかのように、きれいになりました。普通の場合「夜」と「暗黒」とは附き物ですけれど、私は常に「夜」を思うと、ナオミの肌の「白さ」を連想しないではいられませんでした。それは真っ昼間の、くまなく明るい「白さ」とは違って、汚れた、きたない、あかだらけな布団の中の、云わば襤褸ぼろに包まれた「白さ」であるだけ、余計私をきつけました。で、こうしてつくづく眺めていると、ランプのかさかげになっている彼女の胸は、まるで真っ青な水の底にでもあるもののように、鮮かに浮き上って来るのでした。起きている時はあんなに晴れやかな、変幻極りないその顔つきも、今は憂鬱ゆううつ眉根まゆねを寄せて苦い薬を飲まされたような、くびめられた人のような、神秘な表情をしているのですが、私は彼女のこの寝顔が大へん好きでした。「お前は寝ると別人のような表情になるね、恐ろしい夢でも見ているように」―――と、よくそんなことを云い云いしました。「これでは彼女の死顔もきっと美しいに違いない」と、そう思ったことも屡※(二の字点、1-2-22)ありました。私はよしやこの女が狐であっても、その正体がこんな妖艶ようえんなものであるなら、むしろ喜んで魅せられることを望んだでしょう。
私は大凡おおよそ三十分ぐらいそうして黙ってすわっていました。笠の蔭から明るい方へはみ出している彼女の手は、甲を下に、てのひらを上に、ほころびかけた花びらのように柔かに握られて、その手頸には静かな脈の打っているのがハッキリと分りました。
「いつ帰ったの?………」
すう、すう、すう、と、安らかに繰り返されていた寝息が少し乱れたかと思うと、やがて彼女は眼を開きました。その憂鬱な表情をまだ何処やらに残しながら、………
「今、………もう少し前」
「なぜあたしを起さなかった?」
「呼んだんだけれど起きなかったから、そうッとして置いたんだよ」
「そこにすわって、何をしてたの?―――寝顔を見ていた?」
「ああ」
「ふッ、可笑おかしな人!」
そう云って彼女は、子供のようにあどけなく笑って、伸ばしていた手を私の膝に載せました。
「あたし今夜は独りぽっちでつまらなかったわ。誰か来るかと思ったら、誰も遊びに来ないんだもの。………ねえ、パパさん、もう寝ない?」
「寝てもいいけれど、………」
「よう、寝てよう!………ごろ寝しちゃったもんだから、方々蚊に喰われちゃったわ。ほら、こんなよ! ここん所を少うし掻いて!―――」
云われるままに、私は彼女の腕だの背中だのを暫く掻いてやりました。
「ああ、ありがと、かゆくって痒くって仕様がないわ。―――済まないけれど、そこにある寝間着を取ってくれない? そうしてあたしに着せてくれない?」
私はガウンを持って来て、大の字なりに倒れている彼女の体を抱きすくいました。そして私が帯を解き、着物を着換えさせてやる間、ナオミはわざとぐったりとして、屍骸しがいのように手足をぐにゃぐにゃさせていました。
蚊帳かやって、それからパパさんも早く寝てよう。―――」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 十四
 
その夜の二人の寝物語は、別にくだくだしく書くまでもありません。ナオミは私から精養軒での話を聞くと、「まあ、失敬な! 何て云う物を知らない奴等やつらだろう!」と口汚くののしって一笑に附してしまいました。要するにまだ世間ではソシアル・ダンスと云うものの意義を諒解りょうかいしていない。男と女が手を組み合って踊りさえすれば、何かその間に良くない関係があるもののように臆測おくそくして、直ぐそう云う評判を立てる。新時代の流行に反感を持つ新聞などが、又いい加減な記事を書いては中傷するので、一般の人はダンスと云えば不健全なものだとめてしまっている。だから私たちは、どうせそのくらいな事は云われる覚悟でいなければならない。―――
「それにあたしは、譲治さんより外の男と二人ッきりで居たことなんか一度もないのよ。―――ねえ、そうじゃなくって?」
ダンスに行く時も私と一緒、内で遊ぶ時も私と一緒、万一私が留守であっても、客は一人と云うことはない。一人で来ても「今日は此方も一人だから」と云えば、大概遠慮して帰ってしまう。彼女の友達にはそんな不作法な男は居ない。―――ナオミはそう云って、
「あたしがいくら我が儘だって、いいことと悪いことぐらいは分っているわよ。そりゃ譲治さんを欺そうと思えば欺せるけれど、あたし決してそんな事はしやしないわ。ほんとに公明正大よ、何一つとして譲治さんに隠したことなんかありゃしないのよ」
と云うのでした。
「それは僕だって分っているんだよ、ただあんな事を云われたのが、気持が悪かったと云うだけなんだよ」
「悪かったら、どうするって云うの? もうダンスなんかめるって云うの?」
「止めなくってもいいけれど、成るべく誤解されないように、用心した方がいいと云うのさ」
「あたし、今も云うように用心して附き合っているじゃないの」
「だから、僕は誤解していやあしないよ」
「譲治さんさえ誤解していなけりゃ、世間の奴等が何て云おうと、こわくはないわ。どうせあたしは、乱暴で口が悪くって、みんなに憎まれるんだから。―――」
そして彼女は、ただ私が信じてくれ、愛してくれれば沢山だとか、自分は女のようでないから自然男の友達が出来、男の方がサッパリしていて自分も好きだものだから、彼等とばかり遊ぶのだけれど、色の恋のと云うようなイヤらしい気持は少しもないとか、センチメンタルな、甘ったるい口調で繰り返して、最後には例の「十五のとしから育ててもらった恩を忘れたことはない」とか「譲治さんを親とも思い夫とも思っています」とか、極まり文句を云いながら、さめざめと涙を流したり、又その涙を私にかせたり、矢継ぎ早に接吻せっぷんの雨を降らせたりするのでした。
が、そんなに長く話をしながら浜田と熊谷の名前だけは、故意にか、偶然にか、不思議に彼女は云いませんでした。私も実はこの二つの名を云って、彼女の顔に現れる反応を見たいと思っていたのに、とうとう云いそびれてしまいました。勿論もちろん私は彼女の言葉を一から十まで信じた訳ではありませんが、しかし疑えばどんな事でも疑えますし、いて過ぎ去った事までも詮議せんぎ立てする必要はない、これから先を注意して監督すればいいのだと、………いや、始めはもっと強硬に出るつもりでいたにもかかわらず、次第にそう云う曖昧あいまいな態度にさせられました。そして涙と接吻の中から、すすり泣きの音に交ってささやかれる声を聞いていると、うそではないかと二の足をみながら、やっぱりそれが本当のように思われて来るのでした。
こんな事があってから後、私はそれとなくナオミの様子に気をつけましたが、彼女は少しずつ、あまり不自然でない程度に、在来の態度を改めつつあるようでした。ダンスにも行くことは行きますけれど、今までのように頻繁ではなく、行っても余り沢山は踊らずに、程よいところで切り上げて来る。客もうるさくはやって来ない。私が会社から帰って来ると、独りで大人しく留守番して、小説を読むとか、編物をするとか、静かに蓄音器を聴いているとか、花壇に花を植えるとかしている。
「今日も独りで留守番かね?」
「ええ、独りよ、誰も遊びに来なかったわ」
「じゃ、さびしくはなかったかね?」
「始めから独りときまっていれば、淋しいことなんかありゃしないわ、あたし平気よ」
そう云って、
「あたし、にぎやかなのも好きだけれど、淋しいのも嫌いじゃないわ。子供の時分にはお友達なんかちっともなくって、いつも独りで遊んでいたのよ」
「ああ、そう云えばそんな風だったね。ダイヤモンド・カフエエにいた時分なんか、仲間の者ともあんまり口をかないで、少し陰鬱なくらいだったね」
「ええ、そう、あたしはお転婆てんばなようだけれど、ほんとうの性質は陰鬱なのよ。―――陰鬱じゃいけない?」
「大人しいのは結構だけれど、陰鬱になられても困るなア」
「でもこの間じゅうのように、暴れるよりはよくはなくって?」
「そりゃいくらいいか知れやしないよ」
「あたし、になったでしょ」
そしていきなり私に飛び着いて、両手で首ッ玉を抱きしめながら、眼がくらむほど切なく激しく、接吻したりするのでした。
「どうだね、暫くダンスに行かないから、今夜あたり行って見ようか」
と、私の方から誘いをかけても、
「どうでも―――譲治さんが行きたいなら、―――」
と、浮かぬ顔つきで生返辞をしたり、
「それより活動へ行きましょうよ、今夜はダンスは気が進まないわ」
と云うようなこともよくありました。
又あの、四五年前の、純な楽しい生活が、二人の間に戻って来ました。私とナオミとは水入らずの二人きりで、毎晩のように浅草へ出かけ、活動小屋をのぞいたり帰りには何処どこかの料理屋で晩飯をたべながら、「あの時分はこうだった」とか「ああだった」とか、互になつかしい昔のことを語り合って、思い出にふける。「お前はなりが小さかったものだから、帝国館の横木の上へ腰をかけて、私の肩につかまりながら絵を見たんだよ」と私が云えば、「譲治さんが始めてカフエエへ来た時分には、イヤにむッつりと黙り込んで、遠くの方からジロジロ私の顔ばかり見て、気味が悪かった」とナオミが云う。
「そう云えばパパさんは、この頃あたしをお湯に入れてくれないのね、あの時分にはあたしの体を始終洗ってくれたじゃないの」
「ああそうそう、そんな事もあったっけね」
あったっけじゃないわ、もう洗ってくれないの? こんなにあたしが大きくなっちゃ、洗うのはいや?」
「厭なことがあるもんか、今でも洗ってやりたいんだけれど、実は遠慮していたんだよ」
「そう? じゃ、洗って頂戴ちょうだいよ、あたし又ベビーさんになるわ」
こんな会話があってから、ちょうど幸い行水の季節になって来たので、私は再び、物置きの隅に捨ててあった西洋風呂ぶろをアトリエに運び、彼女の体を洗ってやるようになりました。「大きなベビさん」―――と、かつてはそう云ったものですけれど、あれから四年の月日が過ぎた今のナオミは、そのたっぷりした身長を湯船の中へ横たえて見ると、もはや立派に成人し切って完全な「大人」になっていました。ほどけば夕立雲のように、一杯にひろがる豊満な髪、ところどころの関節に、えくぼの出来ているまろやかな肉づき。そしてその肩は更に一層の厚みを増し、胸としりとはいやが上にも弾力を帯びて、うずたかく波うち、優雅な脚はいよいよ長くなったように思われました。
「譲治さん、あたしいくらかせいが伸びた?」
「ああ、伸びたとも。もうこの頃じゃ僕とあんまり違わないようだね」
「今にあたし、譲治さんより高くなるわよ。この間目方を計ったら十四貫二百あったわ」
「驚いたね、僕だってやっと十六貫足らずだよ」
「でも譲治さんはあたしより重いの? ちびの癖に」
「そりゃ重いさ、いくらちびでも男は骨組が頑丈だからな」
「じゃ、今でも譲治さんは馬になって、あたしを乗せる勇気がある?―――来たての時分にはよくそんなことをやったじゃないの。ほら、あたしが背中へまたがって、手拭てぬぐいを手綱にして、ハイハイドウドウっていながら、部屋の中を廻ったりして、―――」
「うん、あの時分には軽かったね、十二貫ぐらいなもんだったろうよ」
「今だったらば譲治さんはつぶれちまうわよ」
「潰れるもんかよ。嘘だと思うなら乗って御覧」
二人は冗談を云った末に、昔のように又馬ごっこをやったことがありました。
「さ、馬になったよ」
と、そう云って、私が四つんいになると、ナオミはどしんと背中の上へ、その十四貫二百の重みでのしかかって、手拭いの手綱を私の口にくわえさせ、
「まあ、何て云う小さなよたよた馬だろう! もっとしッかり! ハイハイ、ドウドウ!」
と叫びながら、面白そうに脚で私の腹を締めつけ、手綱をグイグイとしごきます。私は彼女に潰されまいと一生懸命に力み返って、汗をき掻き部屋を廻ります。そして彼女は、私がへたばってしまうまではそのいたずらを止めないのでした。
「譲治さん、今年の夏は久振りで鎌倉へ行かない?」
八月になると、彼女は云いました。
「あたし、あれッきり行かないんだから行って見たいわ」
「成る程、そう云えばあれッきりだったかね」
「そうよ、だから今年は鎌倉にしましょうよ、あたしたちの記念の土地じゃないの」
ナオミのこの言葉は、どんなに私を喜ばしたことでしょう。ナオミの云う通り、私たちが新婚旅行?―――まあ云って見れば新婚旅行に出かけたのは鎌倉でした。鎌倉ぐらいわれわれに取って記念になる土地はないはずでした。あれから後も毎年何処かへ避暑に行きながら、すっかり鎌倉を忘れていたのに、ナオミがそれを云い出してくれたのは、全く素晴らしい思いつきでした。
「行こう、是非行こう!」
私はそう云って、一も二もなく賛成しました。
相談が極まるとそこそこに、会社の方は十日間の休暇を貰い、大森の家に戸じまりをして、月の初めに二人は鎌倉へ出かけました。宿は長谷の通りから御用邸の方へ行く道の、植惣うえそうと云う植木屋の離れ座敷を借りました。
私は最初、今度はまさか金波楼でもあるまいから、少し気の利いた旅館へ泊るつもりでしたが、それが図らずも間借りをするようになったのは、「大変都合のいいことを杉崎女史から聞いた」と云って、この植木屋の離れの話をナオミが持って来たからでした。ナオミの云うには、旅館は不経済でもあり、あたり近所に気がねもあるから、間借りが出来れば一番いい。で、仕合わせなことに、女史の親戚しんせきの東洋石油の重役の人が、借りたままで使わずにいる貸間があって、それを此方こっちへ譲って貰えるそうだから、いっそその方がいいじゃないか。その重役は、六、七、八、と三カ月間五百円の約束で借り、七月一杯は居たのだけれど、もう鎌倉も飽きて来たから誰でも借りたい人があるなら喜んで貸す。杉崎女史の周旋とあれば家賃などはどうでもいいと云っているから、………と云うのでした。
「ね、こんなうまい話はないからそうしましょうよ。それならお金もかからないから、今月一杯行っていられるわ」
と、ナオミは云いました。
「だってお前、会社があるからそんなに長くは遊べないよ」
「だけど鎌倉なら、毎日汽車で通えるじゃないの、ね、そうしない?」
「しかし、そこがお前の気に入るかどうか見て来ないじゃあ、………」
「ええ、あたし明日でも行って見て来るわ、そしてあたしの気に入ったら極めてもいい?」
「極めてもいいけれど、ただと云うのも気持が悪いから、そこを何とか話をつけて置かなけりゃあ、………」
「そりゃ分ってるわ。譲治さんは忙しいだろうから、いいとなったら杉崎先生の所へ行って、お金を取ってくれるように頼んで来るわ。まあ百円か百五十円は払わなくっちゃ。………」
こんな調子で、ナオミは独りでぱたぱたと進行させて、家賃は百円と云うことに折れ合い、金の取引も彼女がすっかり済ませて来ました。
私はどうかと案じていましたが、行って見ると思ったより好い家でした。貸間とは云うものの、母屋おもやから独立した平家建ての一棟ひとむねで、八畳と四畳半の座敷の外に、玄関と湯殿と台所があり、出入口も別になっていて、庭からぐと往来へ出ることが出来、植木屋の家族とも顔を合わせる必要はなく、これなら成る程、二人が此処ここで新世帯を構えたようなものでした。私は久振りで、純日本式の新しい畳の上に腰をおろし、長火鉢の前にあぐらを掻いて、伸び伸びとしました。
「や、これはいい、非常に気分がゆったりするね」
「いい家でしょう? 大森と孰方どっちがよくって?」
「ずっとこの方が落ち着くね、これなら幾らでも居られそうだよ」
「それ御覧なさい、だからあたしが此処にしようって云ったんだわ」
そう云ってナオミは得意でした。
る日―――此処へ来てから三日ぐらい立った時だったでしょうか、ひるから水を浴びに行って、一時間ばかり泳いだ後、二人が沙浜すなはまにころがっていると、
「ナオミさん!」
と、不意に私たちの顔の上で、そう呼んだ者がありました。
見ると、それは熊谷でした。たった今海から上ったらしく、れた海水着がべったりと胸に吸い着き、その毛むくじゃらはぎを伝わって、ぼたぼた潮水がれていました。
「おや、まアちゃん、いつ来たの?」
「今日来たんだよ、―――てっきりお前にちげえねえと思ったら、やっぱりそうだった」
そして熊谷は海に向って手を挙げながら、
「おーい」
と呼ぶと、沖の方でも、
「おーい」
と誰かが返辞をしました。
「誰? 彼処あすこに泳いでいるのは?」
「浜田だよ、―――浜田と関と中村と、四人で今日やって来たんだ」
「まあ、そりゃ大分賑やかだわね、何処の宿屋に泊っているの?」
「ヘッ、そんな景気のいいんじゃねえんだ。あんまり暑くって仕様がねえから、ちょっと日帰りでやって来たのよ」
ナオミと彼とがしゃべっている所へ、やがて浜田が上って来ました。
「やあ、しばらく! 大へん御無沙汰ぶさたしちまって、―――どうです河合さん、近頃さっぱりダンスにお見えになりませんね」
「そう云う訳でもないんですが、ナオミが飽きたと云うもんだから」
「そうですか、そりゃしからんな。―――あなた方はいつから此方へ?」
「つい二三日前からですよ、長谷の植木屋の離れ座敷を借りているんです」
「そりゃほんとにいい所よ、杉崎先生のお世話でもって今月一杯の約束で借りたの」
おつ洒落しゃれてるね」
と、熊谷が云いました。
「じゃ、当分此処に居るんですか」
と浜田は云って、
「だけど鎌倉にもダンスはありますよ。今夜も実は海浜ホテルにあるんだけれど、相手があれば行きたいところなんだがなア」
「いやだわ、あたし」
と、ナオミはにべもなく云いました。
「この暑いのにダンスなんか禁物だわ、又そのうちに涼しくなったら出かけるわよ」
「それもそうだね、ダンスは夏のものじゃないね」
そう云って浜田は、つかぬ様子でモジモジしながら、
「おい、どうするいまアちゃん―――もう一遍泳いで来ようか?」
やあだア、おれあ、くたびれたからもう帰ろうや。これから行って一と休みして、東京へ帰ると日が暮れるぜ」
「これから行くって、何処へ行くのよ?」
と、ナオミは浜田に尋ねました。
「何か面白い事でもあるの?」
「なあに、おうぎやつに関の叔父さんの別荘があるんだよ。今日はみんなでそこへ引っ張って来られたんで、御馳走ちそうするって云うんだけれど、窮屈だから飯を喰わずに逃げ出そうと思っているのさ」
「そう? そんなに窮屈なの?」
「窮屈も窮屈も、女中が出て来て三つ指をきやがるんで、ガッカリよ。あれじゃ御馳走になったって飯がのどへ通りゃしねえや。―――なあ、浜田、もう帰ろうや、帰って東京で何か喰おうや」
そういながら、熊谷は直ぐに立とうとはしないで、脚を伸ばしてどっかり浜へ腰を据えたまま、砂をつかんでひざの上へっかけていました。
「ではどうです、僕等と一緒に晩飯をたべませんか。折角来たもんだから、―――」
ナオミも浜田も熊谷も、一としきり黙り込んでしまったので、私はどうもそう云わなければ、バツが悪いような気がしました。
 
 
 
 
 
 

Pages 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14