痴人の愛 谷崎潤一郎

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 十五
 
その晩は久しぶりでにぎやかな晩飯をたべました。浜田に熊谷、あとから関や中村も加わって、離れ座敷の八畳の間に六人の主客がチャブ台を囲み、十時頃までしゃべっていました。私も始めは、この連中に今度の宿を荒らされるのはいやでしたが、こうしてたまに会って見れば、彼等の元気な、サッパリとしたこだわりのない、青年らしい肌合が、愉快でないことはありませんでした。ナオミの態度も、人をそらさぬ愛嬌あいきょうはあって、はすでなく、座興の添え方やもてなし振りは、すっかり理想的でした。
「今夜は非常に面白かったね、あの連中にときどき会うのも悪くはないよ」
私とナオミとは、終列車で帰る彼等を停車場まで送って行って、夏の夜道を手を携えて歩きながら話しました。星のきれいな、海から吹いて来る風の涼しい晩でした。
「そう、そんなに面白かった?」
ナオミも私の機嫌のいいのを喜んでいるような口調でした。そして、ちょっと考えてから云いました。
「あの連中も、よく附き合えばそんなに悪い人たちじゃないのよ」
「ああ、ほんとうに悪い人たちじゃないね」
「だけど、又そのうちに押しかけて来やしないかしら? 関さんは叔父さんの別荘があるから、これからはちょいちょいみんなを連れてやって来るって、云ってたじゃないの」
「だが何だろう、僕等の所へそう押しかけちゃ来ないだろう、………」
「たまにはいいけれど、たびたび来られると迷惑だわ。もし今度来たら、あんまり優待しない方がいいことよ。御飯なんか御馳走しないで、大概にして帰ってもらうのよ」
「けれどまさか、追い立てる訳には行かんからなあ。………」
「行かない事はありゃしないわ、邪魔だから帰って頂戴ちょうだいって、あたしとっとと追い立ててやるわ。―――そんな事を云っちゃいけない?」
「ふん、又熊谷に冷やかされるぜ」
「冷やかされたっていいじゃないの、人が折角鎌倉へ来たのに、邪魔に来る方が悪いんだもの。―――」
二人は暗い松の木蔭こかげへ来ていましたが、そう云いながらナオミはそっと立ち止まりました。
「譲治さん」
甘い、かすかな、訴えるようなその声の意味が私に分ると、私は無言で彼女の体を両手の中へ包みました。がぶりと一滴、潮水をんだ時のような、激しい強い唇を味わいながら、………
それから後、十日の休暇はまたたくうちに過ぎ去りましたが、私たちは依然として幸福でした。そして最初の計画通り、私は毎日鎌倉から会社へ通いました。「ちょいちょい来る」と云っていた関の連中も、ほんの一遍、一週間ほど立ってから立ち寄ったきり、ほとんど影を見せませんでした。
すると、その月の末になってから、或る緊急な調べ物をする用事が出来て、私の帰りがおそくなることがありました。いつもは大抵七時までには帰って来て、ナオミと一緒に夕飯をたべられるのが、九時まで会社に居残って、それから帰るとかれこれ十一時過ぎになる、―――そんな晩が、五六日はつづく予定になっていた、そのちょうど四日目のことでした。
その晩私は、九時までかかるはずだったのが、仕事が早く片附いたので、八時頃に会社を出ました。いつものように大井町から省線電車で横浜へ行き、それから汽車に乗り換えて、鎌倉へ降りたのは、まだ十時には間のある時分でしたろうか。毎晩々々、―――と云ってもわずか三日か四日でしたけれど、―――このところ引きつづいて、帰りのおそい日が多かったものですから、私は早く宿へ戻ってナオミの顔を見、ゆっくりくつろいで夕飯をべたいと、いつもよりは気がせいていたので、停車場前から御用邸のそばみちくるまで行きました。
夏の日盛りの暑いさなかを一日会社で働いて、それから再び汽車に揺られて帰って来る身には、この海岸の夜の空気は何とも云えず柔かな、すがすがしい肌触りを覚えさせます。それは今夜に限ったことではありませんが、その晩はまた、日の暮れ方にさっと一遍、夕立があった後だったので、濡れた草葉や、露のしたたる松の枝から、しずかに上る水蒸気にも、こっそり忍び寄るようなしめやかな香が感ぜられました。ところどころに、夜目にもしるく水たまりが光っていましたけれど、沙地すなじの路はもはやほこりを揚げぬ程度にきれいに乾いて、走っている車夫の足音が、びろうどの上をでもむように、軽く、しとしとと地面に落ちて行きました。何処どこかの別荘らしい家の、生垣の奥から蓄音器が聞えたり、たまに一人か二人ずつ、白地の浴衣ゆかたの人影がそこらを徘徊はいかいしていたり、いかにも避暑地へ来たらしい心持がするのでした。
木戸口のところで俥を帰して、私は庭から離れ座敷の縁側の方へ行きました。私の靴の音を聞いてナオミが直ぐにその縁側の障子を明けて出るであろうと予期していたのに、障子の中は明りがかんかんともっていながら、彼女の居そうなけはいはなく、ひっそりとしているのでした。
「ナオミちゃん、………」
私は二三度呼びましたが、返辞がないので、縁側へ上って障子を明けると、部屋はからッぽになっていました。海水着だの、タオルだの、浴衣だのが、壁や、ふすまや、床の間や、そこらじゅうに引っかけてあり、茶器や、灰皿や、座布団ざぶとんなどが出しッ放しになっている座敷の様子は、いつもの通り乱雑で、取り散らかしてはありましたけれど、何か、しーんとした人気のなさ、―――それは決して、つい今しがた留守になったのではない静かさがそこにあるのを、私は恋人に特有な感覚をもって感じました。
「何処かへ行ったのだ、………恐らく二三時間も前から、………」
それでも私は、便所をのぞいたり、湯殿を調べたり、なお念のために勝手口へ降りて、流しもとの電燈でんとうをつけて見ました。すると私の眼に触れたのは、誰かが盛んに喰い荒らし、飲み荒らして行ったらしい正宗まさむねの一升びんと、西洋料理の残骸ざんがいでした。そうだ、そう云えばあの灰皿にも煙草たばこの吸殻が沢山あった。あの同勢が押しかけて来たのに違いないのだ。………
「おかみさん、ナオミが居ないようですが、何処かへ出て行きましたか?」
私は母屋おもやへ駆けて行って、植惣のかみさんに尋ねました。
「ああ、お嬢さんでいらっしゃいますか。―――」
かみさんはナオミのことを「お嬢さん」と云うのでした。夫婦ではあっても、世間に対しては単なる同棲者どうせいしゃしくは許婚いいなずけと云う風に取って貰いたいので、そう呼ばれなければナオミは機嫌が悪かったのです。
「お嬢さんはあの、夕方一遍お帰りになって、御飯をお上りになってから、又皆さんとお出かけになりましてございます」
「皆さんと云うのは?」
「あの、………」
と云って、かみさんはちょっと云いよどんでから、
「あの熊谷さんの若様や何か、皆さん御一緒でございましたが、………」
私は宿のかみさんが、熊谷の名を知っているのみか、「熊谷さんの若様」などと彼を呼ぶのを不思議に思いましたけれど、今そんな事を聞いている暇はなかったのです。
「夕方一遍帰ったと云うと、昼間もみんなと一緒でしたか?」
「おひる過ぎに、お一人で泳ぎにいらっしゃいまして、それからあの、熊谷さんの若様と御一緒にお帰りになりまして、………」
「熊谷君と二人ぎりで?」
「はあ、………」
私は実は、まだその時はそんなにあわててはいませんでしたが、かみさんの言葉が何となく云いにくそうで、その顔つきに当惑の色がますます強く表れて来るのが次第に私を不安にさせました。このかみさんに腹を見られるのはイヤだと思いながら、私の口調は性急にならずにはいませんでした。
「じゃあ何ですか、大勢一緒じゃないんですか!」
「はあ、その時はお二人ぎりで、今日はホテルに昼間のダンスがあるからとっしゃって、お出かけになったんでございますが、………」
「それから?」
「それから夕方、大勢さんで戻っていらっしゃいました」
「晩の御膳ごぜんは、みんなで内でたべたんですかね?」
「はあ、何ですか大そうおにぎやかに、………」
そう云ってかみさんは、私の眼つきを判じながら、苦笑いするのでした。
「晩飯を食ってから又出かけたのは、何時頃でしたろうか?」
「さあ、あれは、八時時分でございましたでしょうか、………」
「じゃ、もう二時間にもなるんだ」
と、私は覚えず口へ出して云いました。
「するとホテルにでも居るのかしら? 何かおかみさんは、お聞きになっちゃいませんかしら?」
「よくは存じませんけれど、御別荘の方じゃございますまいか、………」
成る程、そう云われれば関の叔父さんの別荘と云うのが、扇ヶ谷にあったことを私は思い出しました。
「ああ別荘へ行ったんですか。それじゃこれから僕は迎いに行って来ますが、どの辺にあるか、おかみさんは御存知ありますまいか?」
「あの、直きそこの、長谷の海岸でございますが、………」
「へえ、長谷ですか? 僕はたしか扇ヶ谷だと聞いてたんですが、………あの、何ですよ、僕の云うのは、今夜も此処ここへ来たかどうだか知らないけれど、ナオミのお友達の、関と云う男の叔父さんの別荘なんだが、………」
私がそう云うと、かみさんの顔にはっとかすかな驚きが走ったようでした。
「その別荘と違うんでしょうか?………」
「はあ、………あの、………」
「長谷の海岸にあると云うのは、一体誰の別荘なんです?」
「あの、―――熊谷さんの御親戚しんせきの、………」
「熊谷君の?………」
私は急に真っ青になりました。
停車場の方から長谷の通りを左へ切れて、海浜ホテルの前のみちを真っぐに行って御覧なさい。路は自然と海岸へつきあたります。その出はずれの角にある大久保さんの御別荘が、熊谷さんの御親戚なのでございます。―――そうかみさんは云うのでしたが、全く私には初耳でした。ナオミも熊谷も、今までかつてそんな話をおくびにも出しはしませんでした。
「その別荘へはナオミはたびたび行くんでしょうか?」
「はあ、いかがでございますかしら、………」
そうは云っても、そのかみさんのオドオドした素振りを、私は見逃しませんでした。
「しかし勿論もちろん、今夜が始めてじゃないんでしょうな?」
私はひとりでに呼吸が迫り、声がふるえるのをどうすることも出来ませんでした。私の剣幕に恐れをなしたのか、かみさんの顔も青くなりました。
「いや、御迷惑はかけませんから、構わずに仰っしゃって下さい。昨夜はどうでした? 昨夜も出かけたんですか?」
「はあ。………ゆうべもお出かけになったようでございましたが、………」
「じゃ、一昨日の晩は?」
「はあ」
「やっぱり出かけたんですね?」
「はあ」
「その前の晩は?」
「はあ、その前の晩も、………」
「僕の帰りがおそくなってから、ずっと毎晩そうなんですね?」
「はあ、………ハッキリ覚えてはおりませんけれど、………」
「で、いつも大概何時頃に戻って来るんです?」
「大概何でございます、………十一時ちょっと前ごろには、………」
では始めから二人でおれかついでいたのだ! それでナオミは鎌倉へ来たがったのだ!―――私の頭は暴風のように廻転し始め、私の記憶は非常な速さで、この間じゅうのナオミの言葉と行動とを、一つ残らず心の底に映しました。一瞬間、私を取り巻くからくりの糸が驚く程の明瞭めいりょうさであらわれました。そこには殆ど、私のような単純な人間には到底想像も出来なかった、二重にも三重にものうそがあり、念には念を入れたしめし合わせがあり、しかもどれ程大勢の奴等やつらがその陰謀に加担しているか分らないくらい、それは複雑に思われました。私は突然、平らな、安全な地面から、どしんと深い陥穽おとしあなたたき落され、穴の底から、高い所をガヤガヤ笑いながら通って行くナオミや、熊谷や、浜田や、関や、その他無数の影をうらやましそうに見送っているのでした。
「おかみさん、僕はこれから出かけて来ますが、もし行き違いに戻って来ても、僕が帰って来たことは何卒どうぞ黙っていて下さい、少し考があるんですから」
そうい捨てて、私は表へ飛び出しました。
海浜ホテルの前へ出て、教えられた路を、成るべく暗い蔭に寄りながら辿たどって行きました。そこは両側に大きな別荘の並んでいる、森閑とした、夜は人通りの少い街で、いい塩梅あんばいにそう明るくはありませんでした。とある門燈の光の下で、私は時計を出して見ました。十時がやっと廻ったばかりのところでした。その大久保の別荘というのに、熊谷と二人きりでいるのか、それとも例の御定連ごじょうれんと騒いでいるのか、とにかく現場を突き止めてやりたい。し出来るなら彼等に感づかれないようにコッソリ証拠をつかんで来て、あとで彼等がどんなしらじらしい出まかせを云うか試してやりたい。そして動きが取れないようにして置いて、トッチメてやりたいと思ったので、私は歩調を早めて行きました。
目的の家はすぐ分りました。私はしばらくその前通りをったり来たりして、構えの様子をうかがいましたが、立派な石の門の内にはこんもりとした植込みがあり、その植込みの間を縫うて、ずっと奥まった玄関の方へ砂利を敷き詰めた道があり、「大久保別邸」と記された標札の文字の古さと云い、ひろい庭を囲んでいるこけのついた石垣と云い、別荘と云うよりは年数を経た屋敷の感じで、こんな所にこんな宏壮こうそうな邸宅を持った熊谷の親戚があろうなどとは、思えば思うほど意外でした。
私は成るく、砂利に足音を響かせないように、門の中へ忍んで行きました。何分樹木がしげっているので、往来からは母屋の模様はよくは分りませんでしたが、近寄って見ると、奇妙なことに、表玄関も裏玄関も、二階も下も、そこから望まれる部屋と云う部屋はことごとくひっそりとして、戸が締まって、暗くなっているのです。
「ハテナ、裏の方にでも熊谷の部屋があるのじゃないか」
私はそう思って、又足音を殺しながら、母屋に添って後側へ廻りました。すると果して、二階の一と間と、その下にある勝手口に、明りがついているのでした。
その二階が熊谷の居間であることを知るには、たった一と目で十分でした。なぜかと云うのに、縁側を見ると例のフラット・マンドリンが手すりに寄せかけてあるばかりか、座敷の中には、たしかに私の見覚えのあるタスカンの中折帽子が柱にかかっていたからです。が、障子が明け放されているのに、話声一つれて来ないので、今その部屋に誰もいないことは明かでした。
―――そう云えば勝手口の方の障子も、今しがた誰かがそこから出て行ったらしく、矢張明け放しになっていました。と、私の注意は、勝手口から地面へさしているほのかな明りを伝わって、つい二三間先のところに裏門のあるのを発見しました。門は扉がついていない古い二本の木の柱で、柱と柱の間から、由比ゆいはまに砕ける波がやみにカッキリと白い線になって見え、強い海の香が襲って来ました。
「きっと此処ここから出て行ったんだな」
そして私が裏門から海岸へ出るとほとんど同時に、疑うべくもないナオミの声がすぐと近所で聞えました。それが今まで聞えなかったのは、大方風の加減か何かだったのでしょう。―――
「ちょっと! 靴ン中へ砂が這入はいっちゃって、歩けやしないよ。誰かこの砂を取ってくんない?………まアちゃん、あんた靴を脱がしてよ!」
「いやだよ、己あ。己あお前の奴隷どれいじゃあねえよ」
「そんなことを云うと、もう可愛かわいがってやらないわよ。………じゃあ浜さんは親切だわね、………ありがと、ありがと、浜さんに限るわ、あたし浜さんが一番好きさ」
「畜生! 人がいと思って馬鹿ばかにするない」
「あ、あッはははは! いやよ浜さん、そんなに足の裏をくすぐっちゃ!」
「擽っているんじゃないんだよ、こんなに砂が附いているから、払ってやっているんじゃないか」
「ついでにそれをめちゃったら、パパさんになるぜ」
そう云ったのは関でした。つづいてどっと四五人の男の笑い声がしました。
ちょうど私の立っている場所から沙丘さきゅうがだらだらとくだり坂になったあたりに、葭簀よしず張りの茶店があって、声はその小屋から聞えて来るのです。私と小屋との間隔は五間と離れていませんでした。まだ会社から帰ったままの茶のアルパカの背広服を着ていた私は、上衣うわぎえりを立て、前のボタンをすっかりめて、カラーとワイシャツが目立たぬようにし、麦藁帽子むぎわらぼうしわきの下に隠しました。そして身をかがめてうようにしながら、小屋のうしろの井戸側のかげついと走って行きましたが、とたんに彼等は、
「さあ、もういいわよ、今度は彼方あっちへ行って見ようよ」
と、ナオミが音頭を取りながら、ぞろぞろつながって出て来ました。
彼等は私には気が付かないで、小屋の前から波打ちぎわへ降りて行きました。浜田に熊谷に関に中村、―――四人の男は浴衣ゆかたの着流しで、そのまん中に挟まったナオミは、黒いマントを引っかけて、かかとの高い靴を穿いているのだけが分りました。彼女は鎌倉の宿の方へ、マントや靴を持って来てはいないのですから、それは誰かの借り物に違いありません。風が吹くのでマントのすそがぱたぱためくれそうになる、それを内側から両手でしっかり体へ巻きつけているらしく、歩く度毎たびごとにマントの中で大きなしりが円くむっくりと動きます。そして彼女は酔っ払いのような歩調で、両方の肩を左右の男にッつけながら、わざとよろけて行くのでした。
それまでじっと小さくなって息をこらしていた私は、彼等との距離が半町ぐらい隔たって、白い浴衣が遠くの方にほんのちらちら見える時分、始めて立ち上ってそっとその跡を追いました。最初彼等は、海岸を真っすぐに、材木座の方へ行くのだろうかと思われましたが、中途でだんだん左へ曲って、街の方へ出る沙山すなやまを越えたようでした。彼等の姿が、その沙山の向うへ隠れきってしまうと、私は急に全速力で山へけ上り始めました。なぜなら私は、ちょうど彼等の出るみちが、松林の多い、身を隠すのに究竟くっきょうな物蔭のある、暗い別荘街であるのを知っていたので、そこならもっと傍へ寄っても、多分彼等に発見される恐れはないと思ったからです。
降りるとたちまち、彼等の陽気な唄声うたごえが私の耳朶じだを打ちました。それもそのはず、彼等はわずか五六歩に足らぬところを、合唱しながら拍子を取って進んで行くのです。
 Just before the battle, mother,
 I am thinking most of you, ………
それはナオミが口癖にうたう唄でした。熊谷は先に立って、指揮棒を振るような手つきをしています。ナオミは矢張彼方へよろよろ、此方こっちへよろよろと、肩を打ッつけて歩いて行きます。すると打ッつけられた男も、ボートでもいでいるように、一緒になって端から端へよろけて行きます。
「ヨイショ! ヨイショ!………ヨイショ! ヨイショ!」
「アラ、何よ! そんなに押しちゃ塀へ打ッつかるじゃないの」
ばらばらばらッ、と、誰かが塀をステッキで殴ったようでした。ナオミがきゃッきゃッと笑いました。
「さ、今度はホニカ、ウワ、ウイキ、ウイキだ!」
「よし来た! 此奴こいつ布哇ハワイの臀振りダンスだ、みんな唄いながらけつを振るんだ!」
ホニカ、ウワ、ウイキ、ウイキ! スウィート、ブラウン、メイドゥン、セッド、トゥー、ミー、………そして彼等は一度に臀を振り出しました。
「あッはははは、おけつの振り方は関さんが一番うまいよ」
「そりゃそうさ、己あこれでも大いに研究したんだからな」
何処どこで?」
「上野の平和博覧会でさ、ほら、万国館で土人が踊ってるだろう? 己あ彼処あそこへ十日も通ったんだ」
馬鹿ばかだな貴様は」
「お前もいっそ万国館へ出るんだったな、お前のつらならたしかに土人とまちげえられたよ」
「おい、まアちゃん、もう何時だろう?」
そう云ったのは浜田でした。浜田は酒を飲まないので一番真面目まじめのようでした。
「さあ、何時だろう? 誰か時計を持っていねえか?」
「うん、持っている、―――」
と、中村が云って、マッチを擦りました。
「や、もう十時二十分だぜ」
「大丈夫よ、十一時半にならなけりゃパパは帰って来ないんだよ。これからぐるりと長谷の通りを一と廻りして帰ろうじゃないの。あたしこのなりにぎやかな所を歩いて見たいわ」
「賛成々々!」
と、関が大声で怒鳴りました。
「だけどこのふうで歩いたら一体何に見えるだろう?」
「どう見ても女団長だね」
「あたしが女団長なら、みんなあたしの部下なんだよ」
白浪しらなみ四人男じゃねえか」
「それじゃあたしは弁天小僧よ」
「エエ、女団長河合ナオミは、………」
と、熊谷が活弁の口調で云いました。
「………夜陰に乗じ、黒きマントに身を包み、………」
「うふふふ、おしよそんな下司張げすばった声を出すのは!」
「………四名の悪漢を引率いたして、由比ヶ浜の海岸から………」
「お止しよまアちゃん! 止さないかったら!」
ぴしゃッとナオミが、平手で熊谷の頬ッぺたを打ちました。
「あ痛え、………下司張った声は己の地声さ、己あ浪花節なにわぶし語りにならなかったのが、天下の恨事だ」
「だけれどメリー・ピクフォードは女団長にゃならないぜ」
「それじゃ誰だい? プリシラ・ディーンかい?」
「うんそうだ、プリシラ・ディーンだ」
「ラ、ラ、ラ、ラ」
と浜田が再びダンス・ミュージックを唄いながら、踊り出した時でした。私は彼がステップをんで、ふいと後向きになりそうにしたので、素早く木蔭へ隠れましたが、同時に浜田の「おや」と云う声がしました。
「誰?―――河合さんじゃありませんか?」
みんなにわかに、しーんと黙って、立ち止まったまま、闇を透かして私の方を振り返りました。「しまった」と思ったが、もう駄目でした。
「パパさん? パパさんじゃないの? 何しているのよそんな所で? みんなの仲間へお這入んなさいよ」
ナオミはいきなりツカツカと私の前へやって来て、ぱっとマントを開くやいなや、腕を伸ばして私の肩へ載せました。見ると彼女は、マントの下に一糸をもまとっていませんでした。
「何だお前は! おれはじかせたな! ばいた! 淫売いんばい! じごく!」
「おほほほほ」
その笑い声には、酒のにおいがぷんぷんしました。私は今まで、彼女が酒を飲んだところを一度も見たことはなかったのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 十六
 
ナオミが私をあざむいていたからくりの一端は、その晩とその明くる日と二日がかりで、やっと強情な彼女の口から聞き出すことが出来ました。
私が推察した通り、彼女が鎌倉へ来たがったのは、矢張熊谷と遊びたかったからなのだそうです。おうぎやつに関の親類が居ると云うのは真っ赤なうそで、長谷の大久保の別荘こそ、熊谷の叔父の家だったのです。いや、そればかりか、私が現に借りているこの離れ座敷も、実は熊谷の世話なのでした。この植木屋は大久保のやしきのお出入りなので、熊谷の方から談じ込んで、どう話をつけたものか、前に居た人に立ち退いてもらい、そこへ私たちを入れるようにしたのでした。うまでもなく、それはナオミと熊谷との相談の上でやったことで、杉崎女史の周旋だとか、東洋石油の重役云々うんぬんは、全くナオミの出鱈目でたらめに過ぎなかったのです。さてこそ彼女は、自分でどんどん事を運んだ訳でした。植惣のかみさんの話にると、彼女が始めて下検分に来た折には、熊谷の「若様」と一緒にやって来て、あたかも「若様」の一家の人であるかのように振舞っていたばかりでなく、前からそう云う触れ込みだったものだから、よんどころなく先のお客を断って、部屋を此方へ明け渡したのだと云うことでした。
「おかみさん、まことに飛んだ係り合いで御迷惑をかけて済みませんが、どうかおかみさんの知っていらっしゃるだけの事を私に話してくれませんか。どんな場合でもあなたの名前を出すようなことはしませんから。私は決してこの事に就いて、熊谷の方へ談じ込む気はないんです。事実を知りたいだけなんです」
私は明くる日、今まで休んだことのない会社を休んでしまいました。そして厳重にナオミを監視して、「一歩も部屋から出てはならない」と堅く云いつけ、彼女の衣類、穿き物、財布をことごとく纏めて母屋おもやに運び、そこの一室でかみさんを訊問じんもんしました。
「じゃ何ですか、もうずっと前から、私の留守中二人はしていたんですか?」
「はあ、それは始終でございました。若様の方からお越しになりましたり、お嬢様の方からお出かけになりましたり、………」
「大久保さんの別荘には全体誰がいるんですね?」
「今年は皆さんが御本宅の方へお引き揚げになりまして、時々お見えになりますけれど、いつも大概熊谷さんの若様お一人でございますの」
「ではあの、熊谷君の友達はどうでしたろう? あの連中も折々やって来たでしょうか?」
「はあ、ちょくちょくおいでになりましてございます」
「それは何ですか、熊谷君が連れて来るんですか、めいめい勝手に来るんですか?」
「さあ」
と云って、―――これは私が後で気がついた事なのですが、その時かみさんは非常に困ったらしい様子をしました。
「………御めいめいでおいでになったり、若様と御一緒だったり、いろいろのようでございましたが、………」
「誰か、熊谷君の外にも、一人で来た者があるでしょうか?」
「あの浜田さんとっしゃるお方や、それから外のお方たちも、お一人でお越しになった事がございましたかと存じますが、………」
「じゃあそんな時は何処かへ誘って出るのですかね?」
「いいえ、大抵内でお話しになっていらっしゃいました」
私に一番不可解なのはこの一事でした。ナオミと熊谷とが怪しいとすれば、なぜ邪魔になる連中を引っ張って来たりするのだろう? 彼等の一人が訪ねて来たり、ナオミがそれと話しているとはどう云う訳だろう? 彼等がみんなナオミをねらっているとしたら、何故なぜ喧嘩けんかが起らないのだろう? 昨夜もあんなに四人の男は仲好なかよくふざけていたじゃないか。そう考えると再び私は分らなくなって、果してナオミと熊谷とが怪しいかどうかさえ、疑問になってしまうのでした。
ナオミはしかし、この点になると容易に口を開きませんでした。自分は別に深いたくらみがあったのではない。ただ大勢の友達と騒ぎたかっただけなのだと、何処までもそう云い張るのです。では何のためにああまで陰険に、私をだましたのかと云うと、
「だって、パパさんがあの人たちを疑ぐっていて、余計な心配をするんだもの」
と云うのでした。
「それじゃ、関の親類の別荘があると云ったのはどう云う訳だい? 関と熊谷とどう違うんだい?」
そう云われると、ナオミははたと返辞に窮したようでした。彼女は急に下を向いて、黙って、唇をみながら、上眼づかいに穴のあくほど私の顔をにらんでいました。
「でもまアちゃんが一番疑ぐられているんだもの、―――まだ関さんにして置いた方がいくらかいいと思ったのよ」
まアちゃんなんて云うのはお止し! 熊谷と云う名があるんだから!」
我慢に我慢をしていた私は、そこでとうとう爆発しました。私は彼女が「まアちゃん」と呼ぶのを聞くと、むしずが走るほどイヤだったのです。
「おい! お前は熊谷と関係があったんだろう? 正直のことを云っておしまい!」
「関係なんかありゃしないわよ、そんなにあたしを疑ぐるなら、証拠でもあるの?」
「証拠がなくっても己にはちゃんと分ってるんだ」
「どうして?―――どうして分るの?」
ナオミの態度はすごいほど落ち着いたものでした。その口辺には小憎らしい薄笑いさえ浮かんでいました。
「昨夜のあのざまは、あれは何だ? お前はあんなざまをしながらそれでも潔白だと云える積りか?」
「あれはみんながあたしを無理に酔っ払わして、あんななりをさせたんだもの。―――ただああやって表を歩いただけじゃないの」
「よし! それじゃ飽くまで潔白だと云うんだな?」
「ええ、潔白だわ」
「お前はそれを誓うんだな!」
「ええ、誓うわ」
「よし! その一と言を忘れずにいろよ! 己はお前の云うことなんか、もう一と言も信用しちゃいないんだから」
それきり私は、彼女と口をききませんでした。
私は彼女が熊谷に通牒つうちょうしたりすることを恐れて、書簡箋しょかんせん、封筒、インキ、鉛筆、万年筆、郵便切手、一切のものを取り上げてしまい、それを彼女の荷物と一緒に植惣のかみさんに預けました。そして私が留守の間にも決して外出することが出来ないように、赤いちぢみのガウン一枚を着せて置きました。それから私は、三日目の朝、会社へ行くような風をよそおって鎌倉を出ましたが、どうしたら証拠を得られるか、散々汽車の中で考えた末、とにかく最初に、もう一と月も空家になっている大森の家へ行って見ようと決心しました。もし熊谷と関係があるなら、無論夏から始まったことではない。大森へ行ってナオミの持ち物を捜索したなら、手紙か何か出て来はしないかと思ったからです。
その日はいつもより一汽車おくれて出て来たので、大森の家の前まで来たのはかれこれ十時頃でした。私は正面のポーチを上り、合鍵あいかぎで扉をあけ、アトリエを横ぎり、彼女の部屋を調べるために屋根裏へ昇って行きました。そしてその部屋のドーアを開いて、一歩中へ蹈み込んだ瞬間、私は思わず「あっ」と云ったなり、二の句がつげずに立ちすくんでしまいました。見るとそこには、浜田が独りぽつねんとしてころんでいるではありませんか!
浜田は私が這入はいってくると、突然顔を真っ赤にして、
「やあ」
と云って起き上りました。
「やあ」
そう云ったきり二人はしばらく、相手の腹を読むような眼つきで、睨めッくらをしていました。
「浜田君………君はどうしてこんな所に?………」
浜田は口をもぐもぐやらせて、何か云いそうにしましたけれど、矢張黙って、私の前にあわれみをうかのごとく、うなじを垂れてしまいました。
「え? 浜田君………君はいつから此処ここに居るんです?」
「僕は今しがた、………今しがた来たところなんです」
もうどうしても逃れられない、覚悟をきめたと云う風に、今度はハッキリとそう云いました。
「しかしこの家は、戸締まりがしてあったでしょう、何処どこから這入って来たんですね?」
「裏口の方から、―――」
「裏口だって、錠がおりていたはずだけれど、………」
「ええ、僕は鍵を持っているんです。―――」
そう云った浜田の声は聞えないくらいかすかでした。
「鍵を?―――どうして君が?」
「ナオミさんから貰ったんです。―――もうそう云えば、僕がどうして此処に来ているか、大凡おおよそあなたはお察しになったと思いますが、………」
浜田は静かに面を上げて、唖然あぜんとしている私の顔を、まともに、そしてまぶしそうに、じっと見ました。その表情にはいざとなると正直な、お坊っちゃんらしい気品があって、いつもの不良少年の彼ではありませんでした。
「河合さん、僕はあなたが今日出し抜けに此処へおいでになった理由も、想像がつかなくはありません。僕はあなたを欺していたんです。それに就いてはたといどんな制裁でも、甘んじて受ける積りなんです。今更こんな事を云うのは変ですけれど、僕はとうから、………一度あなたにこう云う所を発見されるまでもなく、自分の罪を打ち明けようと思っていました。………」
そう云っているうちに、浜田の眼には涙が一杯浮かんで来て、それがぽたぽた頬を伝って流れ出しました。べてが全く、私の予想の外でした。私は黙って、眼瞼まぶたをパチパチやらせながら、その光景を眺めていましたが、彼の自白を一往信用するとしても、まだ私にはに落ちないことだらけでした。
「河合さん、どうか僕をゆるすと云ってくれませんか、………」
「しかし、浜田君、僕にはまだよく分っていないんだ。君はナオミから鍵を貰って、此処へ何しに来ていたと云うんです?」
「此処で、………此処で今日………ナオミさんとう約束になっていたんです」
「え? ナオミと此処で逢う約束に?」
「ええ、そうです、………それも今日だけじゃないんです。今まで何度もそうしてたんです。………」
だんだん聞くと、私たちが鎌倉へ引き移ってから、彼とナオミとは此処で三度も密会しているとうのでした。つまりナオミは、私が会社へ出て行ったあとで、一と汽車か二た汽車おくらせて、大森へやって来るのだそうです。いつも大概朝の十時前後に来て、十一時半には帰って行く。それで鎌倉へ戻るのはおそくも午後一時頃なので、彼女がまさかその間に大森まで行って来たろうとは、宿の者にも気がつかれないようにしてある。そして浜田は、今朝も十時に落ち合う手筈になっていたので、さっき私が上って来たのを、てっきりナオミが来たのだとばかり思っていた、と、そう彼は云うのでした。
この驚くべき自白に対して、最初に私の胸を一杯にたしたものは、ただ茫然ぼうぜんたる感じより外ありませんでした。開いた口がふさがらない、―――何ともかとも話にならない、―――事実その通りの気持でした。断って置きますが私はその時三十二歳で、ナオミのとしは十九でした。十九の娘が、かくも大胆に、かくも奸黠かんかつに、私をあざむいていようとは! ナオミがそんな恐ろしい少女であるとは、今の今まで、いや、今になっても、まだ私には考えられないくらいでした。
「君とナオミとは、一体いつからそう云う関係になっていました?」
浜田を赦す赦さないは二の次の問題として、私は根掘り葉掘り、事実の真相を知りたいと思う願いに燃えました。
「それはよほど前からなんです。多分あなたが僕を御存じにならない時分、………」
「じゃ、いつだったか君に始めて会ったことがありましたっけね、―――あれは去年の秋だったでしょう、僕が会社から帰って来ると、花壇のところで君がナオミと立ち話をしていたのは?」
「ええ、そうでした、かれこれちょうど一年になります。―――」
「すると、もうあの時分から?―――」
「いや、あれよりもっと前からでした。僕は去年の三月からピアノを習いに、杉崎女史の所へ通い出したんですが、あすこで始めてナオミさんを知ったんです。それから間もなく、何でも三月ぐらい立ってから、―――」
「その時分は何処で逢ってたんです?」
「やっぱり此処の、大森のお宅でした。午前中はナオミさんは何処へも稽古けいこに行かないし、独りでさびしくって仕様がないから遊びに来てくれと云われたんで、最初はそのつもりで訪ねて来たんです」
「ふん、じゃ、ナオミの方から遊びに来いと云ったんですね?」
「ええ、そうでした。それに僕はあなたと云うものがあることを、全く知りませんでした。自分の国は田舎の方だものだから、大森の親類へ来ているので、あなたと従兄妹いとこ同士の間柄だと、ナオミさんは云っていました。それがそうでないと知ったのは、あなたが始めてエルドラドオのダンスに来られた時分でした。けれども僕は、………もうその時はどうすることも出来なくなっていたのです」
「ナオミがこの夏、鎌倉へ行きたがったのは、君と相談の結果なのじゃないでしょうか?」
「いいえ、あれは僕じゃないんです、ナオミさんに鎌倉行きをすすめたのは熊谷なんです」
浜田はそう云って、急に一段と語気を強めて、
「河合さん、欺されたのはあなたばかりじゃありません! 僕もやっぱり欺されていたんです!」
「………それじゃナオミは熊谷君とも?………」
「そうです、今ナオミさんを一番自由にしている男は熊谷なんです。僕はナオミさんが熊谷を好いているのを、とうからうすうすは感づいていました。けれども一方僕と関係していながら、まさか熊谷ともそうなっていようとは、夢にも思っていなかったんです。それにナオミさんは、自分はただ男の友達と無邪気に騒ぐのが好きなんだ、それ以上の事は何もないんだって云うもんだから、成る程それもそうかと思って、………」
「ああ」
と、私はため息をつきながら云いました。
「それがナオミの手なんですよ、僕もそう云われたものだから、それを信じていたんですよ。………そうして君は、熊谷とそうなっているのをいつ発見したんです?」
「それはあの、雨の降った晩に此処で雑魚寝ざこねをしたことがあったでしょう。あの晩僕は気がついたんです。………あの晩、僕はあなたにほんとうに同情しました。あの時の二人のずうずうしい態度は、どうしたってただの間柄ではないと思えましたからね。僕は自分が嫉妬しっとを感じれば感じるほど、あなたの気持をお察しすることが出来たんです」
「じゃ、あの晩君が気がついたと云うのは、二人の態度から推し測って、想像したと云うだけの………」
「いいえ、そうじゃありません、その想像を確かめる事実があったんです。明け方、あなたは寝ていらしって御存じなかったようでしたが、僕は眠られなかったので、二人が接吻せっぷんするところを、うとうとしながら見ていたのです」
「ナオミは君に見られたことを、知っているのでしょうか?」
「ええ、知っています。僕はその後ナオミさんに話したんです。そして是非とも熊谷と切れてくれろと云ったんです。僕はおもちゃにされるのはいやだ、こうなった以上ナオミさんをもらわなければ………」
「貰わなければ?………」
「ああ、そうでした、僕はあなたに二人の恋を打ち明けて、ナオミさんを自分の妻に貰い受けるつもりでした。あなたは訳の分った方だから、僕等の苦しい心持をお話しすれば、きっと承知して下さるだろうって、ナオミさんは云っていました。事実はどうか知りませんが、ナオミさんの話だと、あなたはナオミさんに学問を仕込むつもりで養育なすっただけなので、同棲どうせいはしているけれど、夫婦にならなけりゃいけないと云う約束がある訳でもない。それにあなたとナオミさんとは歳も大変違っているから、結婚しても幸福に暮せるかどうか分らないと云うような、………」
「そんな事を、………そんな事をナオミが云ったんですね?」
「ええ、云いました。近いうちにあなたに話して、僕と夫婦になれるようにするから、もう少し時期を待ってくれろと、何度も何度も僕に堅い約束をしました。そして熊谷とも手を切ると云いました。けれどもみんな出鱈目でたらめだったんです。ナオミさんは初めッから、僕と夫婦になるつもりなんかまるッきりなかったんです」
「ナオミはそれじゃ、熊谷君ともそんな約束をしているんでしょうか?」
「さあ、それはどうだか分りませんが、恐らくそうじゃなかろうと思います。ナオミさんは飽きッぽいたちですし、熊谷の方だってどうせ真面目まじめじゃないんです。あの男は僕なんかよりずっと狡猾こうかつなんですから、………」
不思議なもので、私は最初から浜田を憎む心はなかったのですが、こんな話をきかされて見ると、むしろ同病相憐れむ―――と、云うような気持にさせられました。そしてそれだけ、一層熊谷が憎くなりました。熊谷こそは二人の共同の敵であると云う感じを強く抱きました。
「浜田君、まあ何にしてもこんな所でしゃべってもいられないから、何処かで飯でも喰いながら、ゆっくり話そうじゃありませんか。まだまだ沢山聞きたいことがあるんですから」
で、私は彼を誘い出して、洋食屋では工合が悪いので、大森の海岸の「松浅」へ連れて行きました。
「それじゃ河合さんも、今日は会社をお休みになったんですか」
と、浜田も前の興奮した調子ではなく、いくらか重荷をおろしたような、打ち解けた口ぶりで、途々みちみちそんな風に話しかけました。
「ええ、昨日も休んじまったんです。会社の方もこの頃は又意地悪く忙しいんで、出なけりゃ悪いんですけれど、一昨日以来頭がむしゃくしゃしちまって、とてもそれどころじゃないもんだから。………」
「ナオミさんは、あなたが今日大森へ入らっしゃるのを、知っていますかしら?」
「僕は昨日は一日内にいましたけれど、今日は会社へ出ると云って来たんです。あの女のことだから、あるいは内々気がついたかも知れないが、まさか大森へ来るとは思っていないでしょう。僕は彼奴あいつの部屋を捜したら、ラブ・レターでもありゃしないかと思ったもんだから、それで突然寄って見る気になったんです」
「ああそうですか、僕はそうじゃない、あなたが僕をつかまえに来たと思ったんです。しかしそれだと、後からナオミさんもやって来やしないでしょうか」
「いや、大丈夫、………僕は留守中、着物も財布も取り上げちまって、一歩も外へ出られないようにして来たんです。あのなりじゃ門口へだって出られやしませんよ」
「へえ、どんななりをしているんです?」
「ほら、君も知っている、あの桃色のちぢみのガウンがあったでしょう?」
「ああ、あれですか」
「あれ一枚で、細帯一つ締めていないんだから、大丈夫ですよ。まあ猛獣がおりへ入れられたようなもんです」
「しかし、さっき彼処あそこへナオミさんが這入はいって来たらどうなったでしょう。それこそほんとに、どんな騒ぎが持ち上ったかも知れませんね」
「ですが一体、ナオミが君と今日逢うと云う約束をしたのはいつなんです?」
「それは一昨日、―――あなたに見つかったあの晩でした。ナオミさんは、僕があの晩すねていたもんですから、御機嫌を取るつもりか何かで、明後日大森へ来てくれろって云ったんですが、勿論もちろん僕も悪いんですよ。僕はナオミさんと絶交するか、でなけりゃ熊谷と喧嘩けんかをするのが当り前だのに、それが僕には出来ないんです。自分も卑屈だと思いながら、気が弱くって、ついぐずぐず奴等やつらと附き合っていたんです。ですからナオミさんにだまされたとは云うものの、つまり自分が馬鹿ばかだったんですよ」
私は何だか、自分のことを云われているような気がしました。そして「松浅」の座敷へ通って、さし向いにすわって見ると、どうやらこの男が可愛かわいくさえなって来るのでした。
 
 
 
 
 
 

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