柳田国男 こども風土記

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 こども組
 
 
 正月小屋の中では、おかしいほどまじめな子どもの自治が行なわれていた。或いは年長者のすることを模倣もほうしたのかも知れぬが、その年十五になった者を親玉または大将と呼び、以下順つぎに名と役目とがある。去年の親玉は尊敬せられる実力はなく、これを中老だの隠居だのといっている。指揮と分配とは一切が親玉の権能で、これにたてつく者には制裁があるらしい。七つ八つの家では我儘わがままでも、ここへ来ると欣々然きんきんぜんとして親玉の節度に服している。これをしおらしくもけなげにも感ずるためか、年とった者は少しでも干渉せず、実際にまた一つの修練の機会とも認めていたようである。
 この子ども組の最もよく発達しているのは、信州北部から越後えちごへかけてであるが、他にも飛び飛びにこれが見られる土地は多い。古くからあったものの消え残りのようにも考えられるが、それにしてはあまりに他の地方に痕跡こんせきがなさ過ぎる。何か基づくところはあったにしても、それがこの程度まで制度化したのには、別に新たな原因が加わっているのではないか。興味の深い問題だと思う。
 一つの想像は青年団の影響である。十五は昔から男が一人前になる年であったが、若い衆の資格が追い追いとむつかしくなっても、実際はまだ何年間かの準備期間が必要であった。中老などと子ども組ではいばっていても、若連中わかれんじゅうに入っては使い走り、だまって追いまわされていて一向に頭があがらない。かれらの側からいうと、ここでまた一回の努力がいるのである。そう思って見るときは、子ども組の活躍が何か若連中に加わる目的にばかり、集中しているようにも見られぬことはないのである。
 かれらが無心なる年少者の群と、正月十五日の自由とを利用して、成人を笑わせようとする歌言葉の中にも、そういう形跡はたしかにある。正月は花やかに笑うべき月であり、また笑うとすればいずれこの辺のところに落ちるだろうが、かれらは思い切って成長した男女の問題を、大きな声でわめこうとしていたのである。すでに一人前の知識・感覚を持っているぞということを示そうとする態度がよく見られる。穏当おんとうでないか知らぬが親も祖父も、みんな一度は通って来た関門であった。それがただ少しずつ濫用らんようせられていただけである。
        
 
         
〔つづく〕
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