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鹿遊びの分布
朝日新聞の「こども風土記」の中に鹿・鹿・角・何本の遊戯のことを書いておいたら僅か七、八日の間に、驚くべし百七十余通の手紙葉書が到着し、それがいずれも近年までこの遊びをしていたという、関係者自身からの知らせであった。この方面においては民間伝承の会はまだ無識であり、かつ怠慢であったことが明らかになったから、罪滅しのためにその資料を整理して、同志諸君に報じ、またこの問題を起してくれたアメリカの学者に通信し、同時に各地の書状の主に感謝の意を表したいと思う。一々その氏名を掲げるのが本意だが、あまり数多いのでそれができない。ただ次の二十四市・五十五郡と五つの島、合せて八十四ヵ所以上の土地に、ほんのわずかずつの変化をもってこの鹿遊びが行なわれていたということを、お互いに知ってもらい、かつそれを比較し綜合してみると、こういうことが考えられるというまでの報告をもって、私の答礼に代えたいのである。
まず最初に現に鹿々の遊戯が行なわれ、または近い頃まで行なわれていたことの、確かなところは次の通りである。地名の下の数字は受取った書状の数で、二、三人以外はみな成人だから、是だけの諸君が独立に記憶しており、また思い出してくれられたのである。
福岡県久留米市 5
同 三井郡
同 八女郡
同 三池郡
同 大牟田市 4
同 浮羽郡
同 朝倉郡 3
同 福岡市 4
同 糟屋郡 2
同 鞍手郡 5
同 直方市
同 嘉穂郡 6
同 宗像郡 2
同 遠賀郡 10
同 八幡市 11
同 若松市 3
同 戸畑市
同 門司市
同 企救郡
同 京都郡 6
同 田川郡 4
同 糸島郡
佐賀県三養基郡
長崎県北松浦郡
同 佐世保市
同 壱岐芦辺浦
熊本県菊池郡
同 八代郡
大分県下毛郡
同 中津市 2
同 宇佐郡
同 東国東郡
同 別府市
同 大分郡
同 大分市 5
愛媛県宇和島市 2
同 西宇和郡
同 八幡浜市 2
同 喜多郡 2
同 上浮穴郡
同 伊予郡 2
同 松山市 16
同 温泉郡 7
同 越智郡
同 大三島
同 今治市 6
同 周桑郡
同 新居郡
同 宇摩郡 2
香川県三豊郡
同 伊吹島
同 仲多度郡
山口県宇部市 4
同 吉敷郡
広島県広島市 2
同 倉橋島
同 豊田郡 2
岡山県浅口郡
兵庫県赤穂郡
同 加西郡
大阪府北河内郡
和歌山県日高郡
京都府京都市 2
三重県阿山郡
滋賀県滋賀郡
同 大津市
同 犬上郡
同 彦根市
同 高島郡
愛知県碧海郡
静岡県浜松市
同 沼津市
同 田方郡
山梨県北巨摩郡
神奈川県足柄下郡
同 中郡
同 高座郡
千葉県夷隅郡
群馬県吾妻郡
新潟県高田市
同 南蒲原郡
同 中蒲原郡
同 佐渡相川
富山県下新川郡
この表で明らかなように、だいたいにこの遊びの分布は西の方、ことに九州と四国との北半分に片よっており、福岡、愛媛の二県などは、ほとんと全般といってよいくらいだが、それと繋がらない他の府県にも飛び飛びに弘く行渡っているうえに、方法と言葉の異同が入組んでいるのは、何か一つの古い起りがあって、近年の流行ではないように思わせる。しかしその伝播の実状なり、また子どもの新しい遊戯を迎える態度なり、習癖なりは、今日まだ決して明らかになっているわけでもない。むしろこういう顕著なる実例に基づいて、改めて是から研究せられてよい問題である故に、汎く児童文化の考察者のために、我々はこの記録を残して置きたいのである。
遊びの方法はだいたいに馬乗式で、背なかを敲くというのは至って少ない。荒い挙動である故か男の児が主であって、女もしていたという例は二つだけである。単純な組合せは三人で一人が行司、数を当てられた児が次の馬になることは普通で、ただ問答の文句と節とが、土地ごとに少しずつちがっている。指は上に向けて高く掲げる者が多く、片手は馬を押えていて五本以下の数しか問わない。両手で十までの変化を争うという例も稀にはあるが、こうなると馬の不利益ははなはだしい。そうでなくとも多くの児童が代る代る、どしんと乗りかかるのは相応にやりきれなかったと言っている人がある。或いは握り拳をさし上げてモゲタまたはモゲタリという処も九州に二つ三つあるが、是は多分土地だけの改作であろう。もっと大きな変化は伊予の各地において、幾人かの子どもが前の子の帯を捉えて、連鎖式ともいうべき長い馬になり、それへめいめいが走って行って飛乗るもので、是は胴乗りと呼ぶ村もあって、馬飛びの運動との結合かとも思われる。鹿々何本の文句は口にしながらも、指の数は当てさせずに、落ちたり足が地に附いたりするのを負けとしているものがある。
九州のどこからしい或る一地では、鹿とは言わずにただ馬乗りになって、
トントントンこれなんぼ
と問うている例がある。或いはもとその文句に合せて、背なかを叩いていたなごりではないかと思う。或いは男生徒のこの遊びをするのが羨ましくて、自分たちでも互いに背を打って鹿々なんぼを唱え、指を出して当てさせる戯れをしていたと知らせてくれられた女性が三人ある。問いの言葉に格別の興味をもち、節をつけて唱えているのが一般であるのを見ると、これはこの方を主としていたのが、後おいおいに相手を馬にして飛び乗る挙動の方へ移って来たのではないかとも思う。佐賀県の例では始めからの申し合せもなく、不意に後から乗りかかって指の数を問う戯れもあるという。これなどはいよいよ背なかを叩く方が元の形ではなかったかを考えさせる。
次には指の数を問う文句であるが、これにはことに面白い変化がある。全体に鹿・鹿・角・何本とくぎって、はっきりと言う者が少なく、九州などは、
しか/\何本
またはシカナンボというのが普通で、それが鹿だということを今始めて気づいたという人も多かった。鹿の角を明らかに言っているのは、九州では博多と京都郡とただ二ヵ所だけで、その他はシタシタ何本と謂ったり、またはチカチカ何本という者が方々にある。広島市などでは、
チケチケワンボ
とさえ謂っている。紀州の日高郡でもチカチカこれ何本、京都ではまた、
ペスペスこれ何本
つまり鹿の遊びだということはもう忘れているのである。
愛媛県の方に来ると、鹿の角何本というのがまだ処々に残っているが、一方には色々の言いかえが始まり、それも九州ほどには統一していない。最も簡単な、しかしかなんぼ以外に、たとえば、
しかいちなんぼ(喜多)
しかんちょなんぼん(松山市等)
しかしかなんちょう(温泉)
しかやんなんぼ(越智)
しか/\しかの年なんぼ
その他の珍しい変化が現われている。是は運動の間拍子とも考え合せて見るべきものであろうが、とにかく意味もわからぬ語が永く伝わるには、別にそれぞれの理由が隠れて存するものと見てよい。注意すべき点はなお幾つかあるが、九州でも大分郡と別府の町とだけに、
レイボン何本
と言ってきく例がある。是は下の児の答えが当らなかった場合に、それを打消して「三本! 何本」と畳みかけて問う言葉ともみられるが、一本も出さずに握り拳で出すことを、零本というのは少し出来過ぎている。ところが遠く離れて滋賀県の犬上郡でも、同じ遊びは背の上から指を立てて、
レイボン、鹿の角何本、鹿の足何本
というのがあって、土地の人は零本と解しているようだが、是などは問いの始めだからことに妙に聞える。何か原因のまだ捉えられぬものが有るのではないか。小さなことのようだが手掛りはこんなところに潜んでいると思う。
それからもう一つ、是は同じ滋賀県の大津などできく問答の言葉に、
鹿のつの/\何本あるや
三本あるわ
よう当てた
というのがある。「あるや」は児童の平語でないだけに、自然には生まれなかったもののように思われる。大津から京都へ越える山中の村でも、
鹿よ鹿よ角何本
九州方面でも朝倉郡に、
鹿々何本なりや
福岡市では、
鹿の角何本なるか
豊前の京都郡には、
鹿の角々何本なりや
三本なァり
などという問答があるというが、是が飛び飛びに広い地域に及んでいる。少し煩わしいけれども列挙してみると、たとえば香川県の三豊郡では、
鹿よ鹿よ立てたる角は何本か
同じく多度津では、
鹿よ鹿よ汝の角は何本あるか
東海道の方に来ても浜松市は、
鹿々何本の角ありや
相模の海岸では、
鹿々汝の角は何本よ
と問い、甲州の北巨摩郡では、
鹿よ鹿よ鹿の角は幾本なりや
富山県の入善地方においても、
鹿よ鹿よ汝の角は何本なりや
と謂っている。こうした一致に至っては偶然ではありえない。或いは最初外国にあったものを直訳に移したかという想像も成り立つのである。
外部に独立した証拠のないかぎり、そう断定してしまうことはもちろんできない。我々の一つの仕事は明治以前の文献の中に、これを記したものが全く無いということを確かめることであるが、それは容易ではないだけでなく、記録に無いということは実はまだ当てにはならない。平凡なる日常の生活は、筆に表わされずに幾らでも伝わっているので、他の多くの児童遊戯とても、必ずしも何かに出ているとはきまらぬからである。しかしこの場合に考えて見るべきことは、我々の慣行には年に一度または人一代にただの一ぺんというような、くり返しの間遠なものが多いのに比べて、子どもの遊びは毎日の事件であり、これに参加する者は無数であるうえに、模倣と発明との境目も立たぬほど、印象に忠実な人たちであった。機会さえあれば学び移し、遠くへ運んで行く足取りは速かだったろうと思う。ただこういう海川山坂をもって区画せられている国土において、いかにしてその機会が得られたろうかが、今はまだ具体的に答えられぬだけである。鹿々の遊戯などは、幸いにして互いによく似ていて、とうてい中心なしに別々に始まったものとは思えない。だから各地の実例を引合せて、やがてその運搬の路筋がわかってくるかも知れぬのである。
次にはこの遊びが古くからあったらしいということ、これも滋賀県と九州の一角とは、飛離れて二つだけあると思っていた間は、私などもそう推定せずにはおられなかったのだが、こうして中間の飛石がほぼ繋がっている以上は、確かとは言えないまでもまた別な考えも成り立ちうるのである。同じ一つの土地からの報告を比べてみても、四十歳の人は三十年ほど以前、三十歳の人は二十年ばかり前の、記憶に拠っているのが多く、もうこの節はやっておらぬようだというのも事実である場合もあろうが、一方には近頃まで、または小学生などが今でもしていると、知らせて来た者も有るのである。それと同様に古い時代からというのにも限度がある。二、三の老人の手紙によると、五十年前にもあったということは事実らしい。越後からは七十のお婆さんが私の生まれる前からだと言ったという話も伝わっているが、それにしたところで、明治より古くはない。その以前は今はまだ明らかになっておらぬのである。同じ越後からはまた次のような報告もあった。明治の初年、高田の女学校で教育を受けた老女が、この遊戯を知っている。この学校には米国の宣教師に特に子どもが好きで、本国の色々の遊戯を教えて遊ばせていた人がある。この人去ってのち一つずつ無くなってしまったというが、鹿々もその一つのように思うとのことである。ただし文句の翻訳口調になっているのは、越中の下新川のが最も近いだけで、越後では、
鹿々々の角何本だ
または、
しかしかこの角なんぼだ
佐渡の相川では、
しかしか指何本
というのが行なわれている。従って直訳くさいから米国からの輸入だとも言えないとともに、高田がただ一つの出発点だとも無論認められない。ただ近世外国人から学び取ったということが、まるっきり有りうべからざる空想であるように私の考えていたのは行き過ぎだっただけである。
ただし女の子の学校において、米国宣教師が教えた遊びにしては、飛び乗りは少しばかり荒々しいように思われるが、是は唱えごとの文句も同様にだんだんと変って来たものとも見られぬことはない。現在この遊戯の最も盛んな西南の二県などは、むしろ新しい流行地であるがために、今のようなちがった形になっているのかも知れない。もっと他の地方の遊びかたを、詳しく尋ねてみなければならぬが、遠州浜松などでは家の中で、女の子も加わってする遊びであった。単にうつ伏しになっている背の上で指を立てて数を問うだけで、馬乗り・胴乗りというようなことまではしていなかった土地がまだ有るのかも知れない。前に言い落したが福岡県の田川郡でも、女の子は御手玉を隠して数を当てさせるのに、やはり鹿々何本を唱えていた。またあいにくと地名を挙げてないが、是も北九州のいずれかの郡で、銀杏・榧の実などの数をあてる女の子の遊びにこの語を用い、なかには「中の中の小坊主」と同じく、手を繋いで輪になって中央に踞った児に、鹿々何本と謂ってその樹実の数をあてさせたという例さえある。是を男の子の遊びの真似のように思っている婦人もあるらしいが、それにしては双方の動作があまりにちがい過ぎる。察するにあの活溌な飛乗りの運動に合体したのが後の進化であって、最初はまず唱えごとの耳新しさが、小さな人たちの興味を誘うたので、それがまた奇抜な文章言葉の、遠くまで伝わって行った理由でもあろう。これを外国輸入の証拠と認めるのはまだ早いとしても、少なくともこの言葉のできた時代が、明治以後だということは疑われない。そうして子ども遊びの興味の中心が動きやすく、一旦その中心をはずれると存外容易に、そこだけは改まって行くということと、女の子は比較的古い形を守るものだということとが、是だけの材料からでも言いうるかと思う。
底本:「こども風土記・母の手毬歌」岩波文庫、岩波書店
1976(昭和51)年12月16日第1刷発行
2009(平成21)年7月9日第12刷発行
底本の親本:「定本柳田國男集 第二十一巻」筑摩書房
1962(昭和37)年12月25日刊
初出:「朝日新聞」
1941(昭和16)年4月1日〜5月16日
鹿遊びの分布「民間伝承六巻九号」
1941(昭和16)年6月号
入力:Nana ohbe
校正:川山隆
2012年12月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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