第一編
十五
小間使のカーチヤがひどくおびえた様子をしてはいって来た。
「ナスターシャ・フィリッポヴナ様、あすこにあの、なんでございますか、十人ばかりの男のかたがどやどやはいって来てるんでございます。みんな酔っ払っていますんで、ロゴージンとかいってあなた様がよく御存じだと申しているのでございます」
「そうなのだよ、カーチヤ、すぐみんなをお通しして」
「まあいいんでございますの……みんな通しても、ナスターシャ・フィリッポヴナ様? みんなだらしのない人でございますわ……いやらしい人たちですの!」
「みんな、みんな通しておくれ、カーチヤ、心配することはないよ、ひとり残らずみんな、それにおまえが案内しなくとも勝手にはいって来るよ。あ、今朝と同じような騒がしい音がする。皆さん、私が皆さんがたのいられるところにあんな人たちを通したりして、たぶん、皆さんはお腹立ちのことと存じます」と彼女は客のほうを向いて言った。「それは私も非常に残念なことに存じます、皆様におわび申します、しかしそうしなければならないのです。それから皆さんがこの最後の幕の証人となってくださるようにお願い申したいのでございます。もちろん、皆さんの御都合次第でございますけれど……」
客はみな、いつまでも驚いたり、ささやき合ったり、目を見交わしたりしていた。しかし、これは前もって計画され組み立てられたものであり、ナスターシャ・フィリッポヴナはもちろん気が狂っているのではあるが、彼女を今となっては説き伏せることはできないということがはっきりわかってきた。人々はひどく好奇心に胸をおどらせていた。それにたいして強く驚くような人はいなかった。婦人客は二人しかいなかった。その一人のダーリヤ・アレクセーヴナは、世間の苦労をさんざんなめてきた、そうそう物に動ずるようなことのない元気のいい夫人であった。いま一人は美しくはあるが、しょっちゅう沈黙している、まだ
男のほうでは、たとえば、プチーツィンのごときはロゴージンとは友人であるし、フェルデシチェンコは水の中の魚のような関係にあった。ガーネチカはまだなかなか人心地はつかなかったが、それでもやはり
「ああ、将軍」彼が彼女にこのことを言おうとして向きなおったとき、ナスターシャ・フィリッポヴナはすぐにこれをさえぎってこう言った。「わたしもすっかり忘れていましたわ! しかし、ねえ、私ほんとにあなたのことは前から心配していましたの。もしそんなにお腹立ちになられるのでしたら、この場合に特にあなたにいらしていただきたいのですけれど、無理におとどめはいたしません。いずれにしましてもこれまでいろいろお近づきにしてくださいましたうえに、いろいろと御配慮くださいましたことをほんとに御礼申し上げますわ、けれどもしも御心配のようでしたら……」
「どういたしまして、ナスターシャ・フィリッポヴナさん」と将軍は
「や、ロゴージンだ!」とフェルデシチェンコが声を張り上げた。
「あなたはどうお考えです、アファナシイ・イワーノヴィッチさん」と将軍はすばやくささやいた。「あの女は気が狂ったのじゃないでしょうか? つまり
「そりゃもう私が言ったでしょう、あの女は日ごろからこんな傾向があるって」アファナシイ・イワーノヴィッチはずるそうな様子でこうささやき返した。
「そのうえ熱を出しているようです……」
ロゴージン一党の顔ぶれは今朝ほどとほとんど同じであった。新たに加わったものは、以前、ある、いんちきなゆすり新聞の編集者をしていたことがあり、また、自分の金の入れ歯を
ナスターシャ・フィリッポヴナをたずねることに今日一日すっかり心を奪われてロゴージンが奔走していたため、彼らの間には徹底的に『覚悟をしている人間』は先刻と同じく一人としていなかった。ロゴージン自身も今はほとんど正気に返ってはいたが、その代わり、この汚らわしい、彼の一生のうちの何ものといえどもこれにたぐうべきものがないような、今日一日の間にうけたさまざまの印象のために、ほとんど気抜けがしたようになっていた。しかしただ一つのことだけが一秒ごとに、一分ごとに絶えず彼の視野と記憶と胸の中とにちらついていた。この一つのことのために、彼は五時から十一時までを無限の苦痛と焦燥に苦しみながら、これもまた気が狂わんばかりになって、彼の要求によって火のついたように飛び回ったキンデルとかビスクープとかを相手に過ごしたのであった。こういう風にして、ナスターシャ・フィリッポヴナがちょっとしたはずみに、ぼんやりとあざけるようにほのめかした十万ルーブルの金がともかくも調達されたのである。それにしても、この金はビスクープ自身ですら大声で話すのがはずかしくてキンデルとひそひそささやくように話し合ったほど利息の高いものであった。
先ほどの時と同じくロゴージンが先頭に立ってはいって来た。続いて他のものが自分たちの偉さを十分に自覚してはいるが、それでも少々はびくびくしながらはいって来た。ここでもっとも重大なことは、なぜかはわからないが、彼らがみなナスターシャ・フィリッポヴナを恐れていたことである。彼らの中には一同の者が即座に『階段から突き落とされはしないか』と心配して考える者もあった。こんな考えをいだいたものの中には、例の
皆が皆というわけではないが、彼らの大部分の者はだんだんとぶしつけな好奇心のために恐怖を忘れ、ロゴージンのあとについてどやどやと客間にはいって来た。とは言っても鉄拳氏や『無心者』や、そのほか数名が、客の間にエパンチン将軍を見かけた時、最初の一瞬間はすっかり勇気を失い、じりじりとあとずさりして、隣りの室に退却したほどであった。ただレーベジェフだけは連中の中で最も胆力も確信もあったので、現金十万ルーブルと今手もとにある十万ルーブルとがいかなる意味をもっているかをよく理解して、ロゴージンと並んで進み出た。
それにしても、次のことは言っておかなければならない。この物知りのレーベジェフをも加えた一同の者は、事実、自分たちにはいっさいのことが許されているのかどうか、自分たちの威力がどの辺まで発揮できるか、またどの辺で食い止められるかということについてはいくぶん迷わざるを得なかった。レーベジェフはある瞬間には、すべてが許されていると誓いそうになったが、またある瞬間には万一のために、自分を激励し安心させるような条項を法規全書の中から思い起こすべき不安な要求を感じた。
ナスターシャ・フィリッポヴナの客間は当のロゴージンには、その一党のものに与えた印象と全然正反対の印象を与えた。部屋の入口の
テーブルに近よると、客間にはいるときからずっと両手にささげていた奇妙な品物をその上に置いた。それは高さ四寸三分、長さ六寸ほどの大きな紙包みで、しっかりと「財政新報知」で包み、砂糖の塊を縛るのに使うような紐で、四方からきつく二重に十文字に縛られてあった。そして、一言も発せずに、おのが刑の宣告を聞く人のように、両手をだらりと垂れたままたたずんでいた。彼の服装は、首に巻いているあざやかなみどりに赤のまじった新しい絹の襟巻と、甲虫を形どった大きなダイヤの留針と、右手のよごれた指にはめた大きなダイヤ入りの指環のほかは、今朝とすっかり同じであった。レーベジェフはテーブルの三歩前でとどまった。
他の連中はすでに述べたように、しだいにしだいに客間へはいって来た。ナスターシャ・フィリッポヴナの小間使のカーチヤとパーシヤもまた駆けつけて来て、上げられた
「あれはいったい何ですの?」ナスターシャ・フィリッポヴナは珍しそうにじっとロゴージンをながめながら『品物』を指さしてこう尋ねた。
「十万ルーブル!」と彼はほとんどささやくように答えた。
「じゃ、やっぱり約束を守ったわけですね、えらいわね! おかけなさい、どうぞ、さあ、ここへ、さあこの椅子に。わたしあとであなたになんとか言いますわ。いっしょのかた、どなた? みんな、さっきのかた? だったら、はいって坐ったらいいわよ。さあ、そこの長椅子に、さあ、長椅子はそこにもあるわよ。あすこには肘つき椅子が二つ……あの人たちどうしたの、いやなのじゃないかしら」
ある者たちはひどく狼狽し、次の部屋に引っこんで坐りながら待っていた。またある者は居残って、勧められるままに腰をおろしたが、できるだけテーブルから遠ざかるようにして多くのものは隅のほうにいた。こうした人々の中にもふたとおりあって、ある者はまだいくぶん、からだを隠すようにしていたし、またある者は遠ざかるだけ、なんだか不自然なほど早く元気になった。ロゴージンもまた勧められた椅子に腰をおろしたがそれも長くは続かなかった。彼はすぐ立ち上がって、もうそのまま腰をおろさなかった。だんだんと彼は見わけがつくようになって客を眺め始めた。ガーニャに気がつくと、彼は毒々しいほほえみを浮かべて、「なんでえ!」と口の中でつぶやいた。彼は将軍とアファナシイ・イワーノヴィッチを眺めたが、あわてもせず、特に珍しそうな様子もしなかった。
しかし、ナスターシャ・フィリッポヴナの傍にいた公爵に気づいたとき、非常に驚いて長い間彼から眼を放すことができなかった。それは、このめぐりあいをなんと解釈するかわからないといったような風であった。彼はときどき気が遠くなるのではないかと不審に思われた騒擾の中に過ごした今日一日の出来事のほかに、彼は昨夜、終夜、汽車に揺られたし、それにまたほとんど二日の間まんじりともしなかったのである。
「皆さん、これが十万ルーブルです」とナスターシャ・フィリッポヴナは熱に浮かされたようないらだたしげな挑戦的な態度で一同に向かってこう言った。「そら、このきたない包みの中にはいっているのです。先ほど、晩までに十万ルーブルわたしのところへ持って来ると気ちがいのようになって叫んだのです、それでわたしはこの人の来るのを待っていたのです。これでこの人はわたしをせり落としたんです。一万八千ルーブルから始めて、急に四万ルーブルに飛び上がり、そしてとうとうこの十万ルーブルになったのです。けれど約束を守りました。あら、この人はなんて青い顔色をしてるんでしょう!……このことはいっさい、今日ガーニャの所で起こったんです。わたしが、あの人のお母さんの所を、つまり私の未来の家庭を訪問しますと、あのかたの妹さんが私の目の前で『この恥知らずの女をここから追い出す人はいないんですか!』っておっしゃるんです、そしてガーネチカ、自分の兄さんの顔に唾をひっかけたのですの。なかなか気の強いお嬢さんですわ!」
「ナスターシャ・フィリッポヴナさん」と将軍はたしなめるように言った。彼は自己流の考え方で事件をいくぶん理解し始めたのである。
「なんでございますの、将軍? 礼儀を知らないとでもおっしゃるの? いいえ、取りすますのはもうたくさんですわ! フランス劇場の
「あなたがロゴージンのものだと言いはしませんでした、あなたはロゴージンのものじゃありません」と公爵は震え声で言いだした。
「ナスターシャ・フィリッポヴナさん、もうたくさんですよ、あなた、もうたくさんです」たまりかねてにわかにダーリヤ・アレクセーヴナはこう言った。「そんなにあの人たちがいやなら、見なけりゃいいじゃありませんの! それに、十万ルーブルのためだって、あの男といっしょについてゆくつもりですの? そりゃもう本当に十万ルーブルといえばねえ! だからね、十万ルーブルをとって、あの男を追っ払うといいわ、あんな男なんかそれでちょうどいいわ。ええ、わたしがあんただったら、あの連中をもう……本当にどうしたってんでしょう!」
ダーリヤ・アレクセーヴナは憤怒さえ覚えてきた。この人は善良なきわめて感じやすい女であった。
「ダーリヤ・アレクセーヴナさん、そんなに怒らなくったっていいわ」と言ってナスターシャ・フィリッポヴナはダーリヤに笑いかけた。「私だってあの男に怒らないで話したじゃありませんか。私あの男を叱りつけたかしら? なんだって立派な家庭にはいりたいなんてばかげたことを考えたのかしら、自分ながらさっぱりわからないわ。わたしあの人のお母さんに会って手に接吻しましたわ。ガーネチカ、先ほどわたしがあなたのところでからかったのは、お別れにわざとああしたかったのよ。あなたがどれくらい、我慢できるかってね? ところが、あんたにはわたしすっかり驚いちゃったの、本当に。わたしいろいろのことを期待してはいましたが、あれほどだとは思いがけなかったわ! え、ほとんど結婚の前夜ともいっていいような日にあの人がわたしにこんな真珠を贈ったのを知っていて、そのうえわたしがそれを受け取ったのを知っていながら、わたしと結婚しようってつもりだったの? それにロゴージンは? おまえさんのとこの家で、お母さんや妹さんの前であんなことをしたのに、それでもあんたは結婚するつもりでのめのめやって来るんですものねえ、それに妹まで連れて来かねないんですからね! ロゴージンがあんたのことを三ルーブルほしくって、ワシーリェフスキイまではいつくばって行くって言ったのはいったいほんとのことなんでしょうかね?」
「はってゆくとも」と不意にロゴージンが小声で言った。しかしその顔には強い確信があらわれていた。
「それにあなたが空腹で死にそうだっていうのならとにかく、噂によるとあんたはいい月給をとっているっていうじゃないの? そのうえ、屈辱も忘れて、憎んでいる女を家に入れようって!(なぜってあんたはわたしを憎んでいます、ええ、わたしはよく知っていますわ!)え、今こそ私にはわかりましたわ、こんな人間は金のためには人殺しでもします! 今じゃ誰も彼も金に飢えてあほうみたいになっているんです。和解するにも金なんです。みんなことばどおり醜くなっているんです。そら、あんな小僧っ子までがもう高利貸しをやっているんですからね! でなけりゃ
「あなたが、あなたがそんなことを、ナスターシャ・フィリッポヴナさん!」と将軍は心から悲しんで両手を打ちならした。「あんなにデリケートな、あんなにやさしい美しい心のあなたが、それにそんなことを! なんていう口でしょう、なんていうことばづかいでしょう!」
「わたし今、酔っ払っていますの、将軍」と言ってナスターシャ・フィリッポヴナはにわかに笑いだした。「わたし、はしゃぎたいんですわ! 今日はうれしい日、わたしの休み日、わたしの当たり日、わたしは長い間これを待っていましたの。ダーリヤ・アレクセーヴナさん、あんた、そらあの花束屋をごらんなさい、ほら、あの Monsieur aux cameliass(椿氏)ほら坐ったまま、あたしたちを笑っているわよ……」
「わたしは笑っちゃいませんよ、ナスターシャ・フィリッポヴナさん、非常に注意して聞いているだけですよ」とトーツキイは内心の動揺を隠してもったいらしくこう言った。
「あの、どうしてまる五年というものわたしからあのひとを離さずにいじめたんでしょう? そうされるだけのことがあるのかしら! あのひとはそうされなければならないようになっている人なの……それなのにあのひとはわたしがあのひとに、悪いことをしたように思っているんだわ。教育もしてくれました、伯爵夫人みたいな生活もさせてくれました。お金、お金はずいぶん使いましたわ。またあちらにいるときには立派な夫を捜してくれましたわ、ここではガーネチカをね。あなたはどうお考えか知らないけど、この五年間というものわたしはあのひとといっしょに暮らしはせずに、お金だけは取ったんでしょう、そしてそれでいいんだって考えていたんです。わたしは迷っていたんですわ! あなたはおっしゃいましたわね、いやなら、十万ルーブルだけ取って、追っ払ってしまえって。そりゃ本当にもういやだわ……わたし、しようと思えばとっくに結婚ぐらいできたんですわ、でもガーネチカとじゃなくってよ、だけどそれもまた、とてもいやになったの。またなんだってわたしこの五年の間そんなろくでもない気持で過ごしたんでしょう! あんた本気にするかどうか知らないけど、四年ほど前にはわたしときどき考えたのよ、いっそアファナシイ・イワーノヴィッチと結婚しようかってねえ。だけどわたしその時ただひねくれた気持からそう考えただけなの。まだほかにいろんなことをその時考えたわ。それは本当に無理にもそうさせることができたんですもの! 自分からずいぶん頼んだのよ、あなた本気にするかしら? ところが本当は嘘を言っていたのよ。それにひどい欲ばりやだから我慢できなかったんですよ。するとその後は、仕合わせなことには、わたし意地をはってみたところでそれだけの値打ちがあのひとにあるのかしら! って考えるようになったの、すると不意にあのひとがもうとてもいやになって、たとえあのひとが結婚を申し込んで来ても、けっして承諾すまいと思ったの。それでまる五年というもの、ずっとわたしはあんなに傲慢になってきたんです! もう、いや、いや、もういっそ街に出て野たれ死にでもするほうがましだわ! ロゴージンと騒ぎ回るか、明日にでも洗濯女になっちまおう! なぜって、わたし自分のものは何一つ持たないんだもの。ここを出るとなりゃ、何もかにもあの人にたたき返してしまいます。
「フェルデシチェンコはたぶんひろわないかもしれません、ナスターシャ・フィリッポヴナさん。僕は明けっ放しの男ですから」とフェルデシチェンコがさえぎった。「その代わり公爵がひろってくれますよ! あなたはそんなに坐ったまま泣いていらっしゃるが、公爵を見てごらんなさい。僕はさっきからずっと見ています」
ナスターシャ・フィリッポヴナは好奇心を起こして公爵のほうを向いた。
「本当に?」と彼女は尋ねた。
「本当です」と公爵はつぶやいた。
「このまま、無一物でもひろってくださる?」
「ひろいます、ナスターシャ・フィリッポヴナさん……」
「そら、また始まった!」と将軍はつぶやいた。「思わんこっちゃない!」
公爵は自分をじっと見続けているナスターシャ・フィリッポヴナを悲しそうではあるが、激しい刺すようなまなざしで見つめた。
「そら、もう一人いた!」再びダーリヤのほうを向いて彼女は不意にこう言った。「ただもう善良な心から言っているのよ、わたしはあの人がよくわかるわ。慈善家が見つかったわけだわ。それにしても、あの人のことをそれ……なんだとか人が言うのは本当かもしれないわね。ロゴージンの女を引き取ろうって言うほど惚れ込んじゃったの? 御自分の、公爵の夫人になさるの?……」
「僕は純潔なあなたを引き取るのです、ナスターシャ・フィリッポヴナさん、ロゴージンのものを引き取るんじゃありません」と公爵が言った。
「わたしが純潔ですって?」
「そうです」
「まあ、それは……小説の中のことですわ! ねえ、公爵、それは昔のたわごとよ、今じゃ世間がえらくなってきたので、そんなことは何の役にも立ちませんのよ! それにまだ御自分には乳母さんがいるのに、結婚なんかしてどうなさるの?」
公爵は立ち上がっておずおずとした震え声ではあるが、それと同時に確信に満ちた者の態度で言った。
「ナスターシャ・フィリッポヴナさん、僕は何も知りません、僕は何も見ません、あなたのおっしゃることに間違いはありません、しかし僕は……僕は僕があなたにではなく、あなたが僕に光栄を与えてくださるのだと考えています。僕はくだらない人間です。あなたは苦労なされました、そしてその地獄の中から純潔な人として出て来られたのです。それでもうたくさんです。何をはずかしがって、ロゴージンと行ってしまおうとなさるんです? それはただ熱病のためです……あなたはトーツキイさんに一万七千ルーブルを突き返して、ここにあるものをいっさいすてて出て行かれると言われました。ここにはそんなことのできる人は誰一人いません。僕はあなたを、ナスターシャ・フィリッポヴナさん、……愛していますよ。僕はあなたのためには死んでもかまいません、ナスターシャ・フィリッポヴナさん。僕はあなたのことを誰にだって、かれこれ言わせはしません、ナスターシャ・フィリッポヴナさん……もし僕たちが貧乏なら、僕は働いて稼ぎます、ナスターシャ・フィリッポヴナさん」
この最後の数言の話されているときフェルデシチェンコとレーベジェフのしのび笑いが聞こえた。将軍までが心外に堪えないといったように
「……けれど、僕たちはもしかすると貧乏しなくて大金持になるかもしれません、ナスターシャ・フィリッポヴナさん」と公爵はあの震え声で語り続けた。「と言っても僕は、はっきりしたことは知りません。それに残念ですけれど、今日一日、今まで何も知ることができなかったのです。しかし僕はスイスにいるときモスクワのサラズキンっていう人から手紙を受け取ったんです。それによると僕はとても莫大な遺産を受け取れそうなんです。さあ、これがその手紙です。……」
公爵はたしかにポケットから手紙を取り出した。
「あの男、夢かなんぞ見ているんじゃないかな?」と将軍がつぶやいた。「いや、本当の気ちがい病院じゃ!」
沈黙が一瞬続いた。
「公爵、あなたはサラズキンから手紙をもらったっておっしゃったようですね?」とプチーツィンが尋ねた、「それはあの仲間じゃ有名な男ですよ。いろいろ事件を周旋して回る有名な男です。だからその男から本当に知らせて来たのなら、きっと間違いはないでしょう。都合よく、僕がその男の筆跡を知っています、最近ある事件で手紙をもらったもんですから……私にちょっとお見せくだされば、たぶん、あなたになんとかお話ができるかもしれません」
公爵は無言のまま、震える手で彼のほうへ手紙を差し出した。
「いったいどうしたんです、どうしたんです」と半ば気を失ったように一同を眺めてから、将軍は気をとり戻したようにこう言った。「え、遺産ですか?」
一同の人々は手紙を読んでいるプチーツィンに眼をそそいだ。一座の好奇心は新しくなみなみならぬ衝動を受けた。フェルデシチェンコはもうじっと坐りこんではいられなくなった。ロゴージンは疑惑と恐ろしい不安を覚えて公爵とプチーツィンにかわるがわる
(つづく)