白痴(第一編) ドストエフスキー

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  第一編

      二

 エパンチン将軍はリティナヤ通りから少しわきへそれて、「変容救世主寺」のほうへ寄った自分の家に暮らしていた。このすばらしい家——その六分の五は人に貸していたが、——のほかに、エパンチン将軍はサドーワヤ通りにもまた宏壮な邸宅をもっていて、これまた非常な収益をあげていた。この二軒の家のほかに、ペテルブルグ近郊に、きわめて有利な、目抜きの持ち村があるし、またペテルブルグ郡には何かの工場もあった。その昔、エパンチン将軍は、誰もが知るとおり、物産の一手販売に関係していたが、今では幾つかの内容の充実した株式会社に関係して、非常な権力をもっていた。彼は大金持で、たくさん仕事があり、交際の広い人物として評判されていた。場所によっては、本職のほうではいうまでもないが、どうしてもなくてはならない人となり得たのである。それとともに、イワン・フョードロヴィッチ・エパンチンは教養がなくて、兵卒のせがれから成り上がったというようなことも、世間に知られていた。兵卒の伜ということはもちろん、彼にとってはただ名誉になるだけのことであった。しかも、将軍は聰明な人ではあったけれど、やはり小さな(かなりに無理もないようなものであったが)、弱点をもっていて、他人から明らさまにではなくともそんなことに触れられるのが嫌いであった。とはいえ、聰明で機敏な人であったことには間違いはないのである。彼は、たとえば、出る幕でないようなところには、主義としてけっして姿を現わさないことにしていた。だから多くの人は彼の淡白なところ、すなわち常に自分の位置を知っているということを高く買っていた。しかし、こんな判断のみが下されていたとするならば実によくおのれの分を知っていたエパンチン将軍の心のうちに、時おり、どんなことが起こっていたかということを見せてやりたいものである。たしかに彼は世の中のことにかけては、修練もあれば、経験もあり、また、かなりに注目すべき才能をもいくぶんはもっていたが、しかも彼は自分の頭の中に専制的な気持をもった人間としてよりは、むしろ他人の理想を実行する者「お世辞なしに他人に従順な」、あまつさえロシア人らしく人なつこい人間という風にさえも自分を見せかけるのが好きであった。この最後の点では、若干の滑稽な逸話さえも伝えられていた。けれど、将軍はたといかなりに滑稽な逸話が伝えられたときでさえも、けっしてしょげはしなかった。それにまたカルタをやっても、運がよかった。彼は実に莫大な金の賭け方をして遊んだが、カルタとなると眼がなくなる自分の癖を、押し隠そうとしないばかりではなく(もっともその癖は彼にとっては本質的なものであり、多くの場合に彼の役に立つものではあった)、わざわざ人に見せびらかすのであった。彼は社会にあっては、どっちつかずの人間であった、もちろん、多くの場合に「勢力家」ではあったが、しかし何もかもが手の届かないところにあった。それを長い間、しんぼうしてきた。いつも気長にしんぼうしてきた。そうして何もかもが、時と共に、順ぐりに回って来なければならぬはずであった。まさしく、エパンチン将軍は年のうえでは、まだまだいわゆるあぶらぎった時代、すなわち五十六にして、なんといっても男盛り、これから本格的な、真の人生が始まろうという年になっていた。健康、顔の色つや、黒いとはいえ、しっかりした歯並み、ずんぐりした、肉づきのいい体格、毎朝、出勤したときの心配げな表情、夜が近づいてカルタに向かったとき、あるいは上官の前へ出たときの陽気そうな顔つき——何もかもが現在および未来の成功を助け、この閣下の生涯に薔薇ばらの花をまき散らしていたのである。将軍にはまた咲き誇る花のような家族があった。たしかに、何もかもが薔薇の花のようなものではなかったが、その代わり、この閣下がすでに久しい以前から、最も主要な希望や目的をまじめに衷心ちゅうしんから寄せていたものがかなり、たくさんあった。それにしても、親のもつ目的よりも重大な、また神聖なものがこの世にまたとあるだろうか? 家庭をよそにして、人は何に結びつけられるか? 将軍の家庭は、夫人と年ごろの三人の娘とから成り立っていた。将軍はずっと昔、まだ中尉時代に、ほとんど同い年の娘と結婚したのであった。この娘は、別にきりょうがいいというわけでもなければ教養があるというのでもなく、ただわずかに五十人の農奴が持参金代わりに付いているだけであった——事実、それが彼のずっと後々の運命の踏石となったのである。けれど、将軍は後にも、けっして自分が早婚であったことを悔いることもなく、一度として若気のあやまちとして後悔したこともなく、夫人を尊敬し、ときには畏れ、やがては愛しいと思ったくらいであった。夫人はムイシュキン公爵家の出であった。家柄はたいして立派ではなかったが、いたって旧家であったから、夫人はそのために、かなりに自尊心が強かった。そのころの有力者で、保護者というべき一人の人物が(もっとも保護をするといっても何も金がかかるわけではない)、年の若い公爵令嬢の相談に乗ることを承諾してくれた。この人が若い士官に耳門をあけてくれて、あとから押しこんでくれたのである。とはいえ、若い士官にとっては、わざわざ押してなどもらわなくとも、ほんのちょっと眼くばせをしてもらうくらいで十分なのであった——眼くばせがむだになるようなことはなかったはずである! わずかな例外をのけたら、夫妻は長い間、琴瑟きんしつ相和して暮らしていた。まだ、ずっと年のゆかなかったころには、将軍夫人は公爵家の令嬢として、しかも一門のうちの最後の一人として——おそらくは生まれつきの性質にもよろうが、幾人かのきわめて身分の高い婦人の保護者をもっていた。後に財産ができ、主人の職務上の位置も進んでからは、こうした高貴な人たちの仲間入りをしても、いくぶんなれなれしくふるまうようにさえもなってきた。
 この最近の何年かに、将軍の三人の娘たち——アレクサンドラ、アデライーダ、アグラーヤ——は、いずれも成人して、年ごろになっていた。実際、三人とも、単にエパンチンの娘というだけのものではあるが、母親の側からいえば公爵家の血筋をひいて、少なからず持参金をもち、やがて後には、おそらく高い位置にも昇ろうという大望をいだいている父をもっているうえに、これまたはなはだ大事なことであるが、——三人が三人とも美人で、今年はもう二十五になる長女のアレクサンドラも、その数にはもれなかった。中の娘は二十三になり、末の娘のアグラーヤはやっと二十になったばかりであった。この末の娘は申し分のない美人で、社交界に出ても非常な注目をひき始めていた。が、これだけいっただけでは三人のことをすっかり言い尽くしたとはいえない、すなわち三人が三人とも教育の点でも叡智の点でもまた才能の点でも、人並みすぐれていたのである。それにお互いが実によく愛し合って、互いに助け合っていることも、人のよく知るところであった。年上の二人の娘たちが、一家の偶像ともいうべき妹のために、どうやら犠牲になっているらしいというようなことまで噂に上っていた。娘たちは世間へ顔を出すのを好まなかったばかりか、極度に内気でさえもあった。もとより、誰ひとりとして傲慢ごうまんだとかおうへいだとかいってとがめ立てる者はいなかったが、それでも、娘たちが誇りをもち、気位の高いことはよく人に知られていた。長女は音楽が得意で、中の娘はかなりうまい画家であった。ところが、このことは長い間ほとんど誰にも知られずにいて、ごく最近に、ほんのちょっとしたことから表われたような次第であった。一口にいえば、娘たちについては賞讃すべきことが、数かぎりもなく伝えられているのである。しかし、反感をいだくものもないわけではなかった。娘たちがどれくらいたくさんの本を読んだかということが、驚異をもって喧伝されていた。娘たちは結婚をあせらなかった。世間のある階級の人たちを重んじているとはいうものの、それほどには崇めていない。そんなことは、誰もが父親の態度や性格、目的や希望を知っていると、いっそう意味が深いことになるのである。
 公爵が将軍の家のベルを鳴らした時は、もう十一時に近くなっていた。将軍は二階に住んで、できるだけ控え目に、しかも自分の地位に釣り合うように自分の住まいをとっていた。公爵にドアをあけてくれたのは、お仕着せを着た下男であったが、最初からうさんくさげに客の身なりや、風呂敷包みを眺めまわしているこの男に、公爵は来意を説明するのに長いこと骨を折らなければならなかった。やがて、自分は実際にムイシュキン公爵であって、のっぴきならぬ用件のために、どうしても将軍にお目にかからなければならないのだと何べんも同じことを、はっきりと言って聞かせたので、けげんそうな顔をしていた下男も、しょうことなしに、書斎の側の応接間の前にある小さな控え室へ公爵を導き、毎朝、控え室にいて訪問客のことを将軍に取り次ぐ別の下男の手に引き渡した。この下男は燕尾服を着ている四十を過ぎた男で、心配そうな顔つきをしており、閣下の居間の専任の召使でもあり、取り次ぎでもあったので、かなりにもったいぶっていた。
「応接間でお待ちください。包みはここへお置きなすって」と彼はゆっくりと重々しげに、自分の安楽椅子に腰をおろし、公爵が手に風呂敷包みを持ったまま、すぐわきの椅子に座を占めたのを見て、厳めしそうな驚きを浮かべながら、ふと言いだした。
「もし、さしつかえがなかったら」と公爵は言った、「僕は君といっしょにここに待っているほうがいいんだけれど、なにしろあんなところに一人ぽっちでいられたもんじゃないからね」
「でも、控え室においでになるって法はありません、あなたは訪問者、いいかえると、お客様なんですからね。あなたは直接に将軍に御用があるんですか?」
 召使はどう考えてみても、こんな訪問者を入れるつもりにはなれなかったらしく、思いきって、もう一度聞いてみた。
「さよう、僕は用事があって……」と公爵は言いかかっていた。
「わたしはどんなご用だか、そんなことは聞いておりません。わたしの役目はただあなたがたをお取り次ぎ申すだけのことで。それもただいま申し上げましたように、秘書がおりませんと、じかにお取り次ぎするわけにはまいりませんので」
 この下男の疑惑の念はいよいよ募っていくらしかった。公爵は毎日毎日会っている普通の訪問客とはまるで様子が変わりすぎていた。将軍とても実にしばしば、ほとんど毎日といってもよいくらいに、ある時刻になると、特に用事があって来る客にはそうであるが、ときには、はなはだ毛色の変わった客にも応対はしているのである。しかし、そういった習慣や、まことにおうようなさしずを忘れ果てて、侍僕は非常な疑念をいだいていた。侍僕はどうしても取り次ぐ前に秘書の意見をきいてみなければならないと考えていた。
「ですけども、本当にあなたは……外国からお帰りになったのですね?」と、ついには思いがけなく聞いたのであるが、じきにまごついてしまった。彼はおそらく、「ですけども、本当にあなたはムイシュキン公爵様ですね?」と聞きたかったのであろう。
「さよう、たった今、汽車から降りたばかりです。けども、僕はね、君、僕がいったい本当にムイシュキン公爵なのかどうか聞きたかったのに、遠慮して聞かなかったような気がしますよ」
「ふむ……」と、下男はびっくりした。
「僕は嘘なんか言わないから大丈夫。僕のことで君が迷惑するようなことはありませんよ。僕がこんな格好をして、風呂敷包みなんか持ってても、何も驚くことはありませんよ。目下の僕のふところぐあいが、あんまり香ばしくないもんですから」
「ふむ!……、わたしはそんなことは平気ですよ、あなた。お取り次ぎをするのが役目でして、もうすぐ秘書のかたが見えるでしょう、……それに、もしあなたが……。実はその、なんですが、その、失礼ですけれども、あなたはその、将軍のところへお金の御無心にいらしたのではございませんかしら?」
「おお、とんでもない、そんなことはいっさい心配御無用ですよ。僕は全く別の用件でまいったんで」
「どうぞ御免くださいまし。わたしはお様子を見て、ついお伺いしたわけなんでして、まあ秘書のかたがまいりますから、お待ちください。閣下はただいま、大佐殿と御用談がありまして、それが済みますれば秘書のかたもまいりましょう。……会社のほうのおかたで」
「それなら、もし長く待たなければならないようなら、ちょっとお願いいたしたいんですが。いかがでしょう、こちらにどこか、煙草をのめるところはないでしょうか? 僕はパイプも煙草も持ってるんですが」
「た ば こ を の む?」侍僕は、自分の耳を信ずることができないかのように、さげすむようなけげんな様子をして、相手をちらと見た。「たばこをのむですって? ええ、こちらでは煙草はやれないことになってます。そんなことをお考えになるだけでも、御身の恥じゃございませんか? へえ……奇妙なこった!」
「おお! 僕はけっしてこの部屋でとお頼みしたわけじゃない、そりゃあ、僕だって心得てますよ。僕はどこか、君が教えてくれるところへ出て、やるつもりだったんですよ、なにしろ癖になってて、しかももう三時間ばかりものまなかったので。それはそうと、御都合のよろしいように。ねえ、郷に入っては……という諺もありますからね」
「さて、あなたみたいなおかたを、どういう風に取り次いだもんでしょう?」思わず侍僕はつぶやいた。「そもそも、あなたがこんなところにいらっしゃるのは間違ってることで、応接間にいらっしゃらなければならない、あなたは訪問者、言いかえると、お客様の御身分なんですからね。こんなところにおいでになると、私が困るまでです。……ときに、あなたはこちらへ御滞在のつもりでいらしったのでしょうか?」彼は公爵の風呂敷包みをもう一度、流し目に見て、こう付け加えた。明らかにこの包みは気にかかるらしかった。
「いいえ、考えてません。たとい引きとめられても、いないつもりです。僕はお近づきになろうと思ってまいったので、ただ、話はそれだけのことなんです」
「なんですって? お近づきに?」侍僕は、いよいよ怪しげな様子をして、驚いて尋ねた、「では、なんだって最初に、用事があって来たなんておっしゃったんですか?」
「おお、まあほとんど用事で来たともいえないことで! もしなんなら、そう言ってもいいんですが、実はただ一つ、ちょっと御相談にあずかりたくて。しかし、何はさておいて、自己紹介にまいったまでなんでして。というのは、僕はムイシュキン公爵ですが、エパンチン将軍夫人もやっぱりムイシュキン公爵家の最後の一人で、僕と夫人をのけたらムイシュキン家の者は一人もいないというわけなんですよ」
「それでは、あなたは御親戚にも当たるわけですね」ほとんど完膚なきまでにやりこめられた下男は身ぶるいした。
「かろうじて、そうだといえるくらいのものです。もっとも、無理に穿鑿せんさくしてみれば、親戚ということにはなるが、今ではそういえないくらいに縁が遠くなっています。僕はいつぞや、奥さんに宛てて外国からお手紙を差し上げたけれど、御返事がなかった。それでもやっぱり、国へ帰ったらぜひとも御交際を願おうと思っていました。こんなことをことさら君に打ち明けるのも、実は君が僕をいつまでも気にかけてることが、よく見え透いてるので、疑わないでくれるようにと思うからです。さ、公爵ムイシュキンが来たと取り次いでください。名前を言ってくれただけで、僕の来意はおのずとわかるはずですから。会っていただければ結構だし、会ってもらえなかったら、それも、またたぶん、結構なことかもしれん。でも、会わないわけにはいくまいと思います。将軍夫人ももちろん、自分の本家のたった一人の代表者に会いたいでしょう。確かな筋から、僕が聞いたところによると、なんでも夫人は、家柄のことをかなり重んじておられるそうですからね」
 公爵の話はきわめてつまらないものであったかもしれぬ。しかし、つまらないものであればあるほど、この場合にはばからしく思われて、世慣れた侍僕は、下男と下男の間では全くあたりまえのことではあるが、お客と下男の間ということになれば、全く不穏当な何ものかがあることを、しみじみと感じないわけにはゆかなかった。下男などというものは、普通に主人のほうで考えているよりは、ずっと賢いものなので、この場合にも、二つのことがふと頭に浮かんできた。公爵は金をせびりに来た一種の放蕩ほうとう者なのか、それともただのばか者で、野心なぞはもっていないやつなのか、なぜかというに、公爵が聰明で、野心をもっているならば、控え室などに坐りこんで、下男風情に自分の用向きなどを話すわけはなかろうし、したがって、いずれにしたって自分が迷惑をこうむる筋合いはあるまい、という風に考えた。
「ですけども、とにかく応接間のほうへいらしていただきたいもので」と彼はできるだけ執拗しつように注意をうながした。
「だって、もしも僕があちらにいたなら、君に何もかも打ちあけるわけにはいかなかったでしょうよ」と公爵は陽気そうに笑いだした。「そうすると、君はやっぱり僕のマントや風呂敷包みを見て、心配していなくてはならなかったでしょう。ところで、もう秘書を待っている必要もないでしょう、君自身で取り次いでくれてもいいでしょう」
「わたしは、あなたのようなおかたを、秘書に相談なしで取り次ぐわけにはいきません。しかも、つい先ほど、大佐殿がおられるうちは、どなたが来ても邪魔をせんようにと、閣下から申しつけられておりますので。ガヴリーラ・アルダリオヌィチ様は、お取り次ぎなしに、お通りになるおかたです」
「お役人なんですか?」
「ガヴリーラ・アルダリオヌィチ様ですか? いいえ、あのかたは会社のほうへお勤めです。まあ、風呂敷包みはこちらなりとお置きなすったら」
「僕もさっきから、そう思ってたんです。もしなんなら、このマントをとりましょうかしら?」
「むろんですとも、マントを着たままで、将軍の前へ出るわけにはいきませんもの」
 公爵は立ち上がった。大急ぎでマントをぬいで、もうすっかり古びているが、かなりにきちんとした、立派な仕立の背広姿になった。チョッキには鋼鉄の鎖が見えていた。鎖にはジュネーヴ製の銀時計がついている。
 公爵はおめでたい人だ——下男はもう、そう決めてしまっていた——それにしても、とにかく、将軍の侍僕は、もちろん、それも一風変わってはいたが、公爵が好きになったにもかかわらず、これ以上、来客と話を続けるのは礼儀ではないという風に考えた。好きになったとはいえ、別の見方からすれば、この公爵は、かなり思いきった、粗野な憤懣ふんまんを感じさせないわけにはいかなかった。
「ところで、夫人はいつ御面会なさるんですか?」と公爵は、また元の席に腰をかけながら聞くのであった。
「そんなことは私の知ったことじゃございません。人によって、まちまちなんですよ。裁縫屋はいつも十一時です。ガヴリーラ・アルダリオヌィチ様には、やはり誰よりも先にお会いになりますし。朝御飯の前にでもお通しなすったりして」
「ロシアへ来ると部屋の中は、冬でも外国よりはずっと暖かいですね」と公爵が言った、「その代わり、おもてはあちらのほうがずっと暖かい、しかし冬は家の中にいると、ロシア人なんかには、住み慣れないので、とても暮らせたもんじゃありません」
「ストーヴをたかないんですか?」
「そう。なにしろ家の建てぐあいが違うんで、つまりストーヴや窓のぐあいが」
「ふむ! ときに、あなたは長いこと御旅行なすったんですか?」
「四年ほど。とはいっても、僕はたいていいつも一つところにばかりいたんですよ、田舎いなかに」
「じゃ、こちらの習わしもぐあいが悪くおなりでしょうね?」
「そりゃ、そうですね。実際、僕はよくロシア語を忘れずに話せると思って、われながらびっくりしますよ。こうして君とお話しして、腹の中では『おれはよく話せるな』と思ってるんですよ。僕は、ひょっとしたら、それでこんなにおしゃべりをしてるんでしょうよ。全く、昨日からは、しょっちゅう、ロシア語で話したくってしようがないんですよ」
「ふむ! へえ! ペテルブルグには以前お暮らしになったことがおありなんですか?」(下男はどんなにおさえてみても、こんなに鄭重な、慇懃いんぎんな会話をしないわけにはいかなかった)
「ペテルブルグに? ほとんどありません。ほんの通りがかりに寄っただけでして。以前はこちらのことは何一つ知らなかったのですが、このごろ聞くところによると、新しいものが多くなって、前から知っている者でも新規まきなおしに習いなおしているそうですね。こちらでは目下、裁判の話が、たいへんだとか」
「ふむ……裁判。なるほど裁判、全く裁判ですね。ところで、あちらはいかがです、裁判はこちらより公平でしょうか、どうでしょう?」
「知りませんねえ。僕はこちらのことでも、だいぶん良い話を聞きましたよ。それ、ロシアには、死刑ってものがないでしょう」
「あちらではやるんでしょうか?」
「やりますとも、僕はフランスのリヨンで見ましたよ。シネイデルさんが連れてってくだすったんです」
「首を絞めるんですか?」
「いや、フランスではいつも首を切ってしまうんです」
「どうですね、わめき立てるでしょう?」
「どうして! ほんの一瞬間ですよ。罪人を据えると、こんな幅の広い庖丁が機械じかけで落ちてくるんですよ、それをギロチンといっていますが、重くて、がんじょうな……。すると首が、眼をぱちっとさせる暇もないうちに、ころがるんですよ。それまでのしたくは恐ろしいものです。宣告文が読まれると、いよいよ罪人に用意をさせて、それから縛り上げて、死刑台に上げるんですが、これがすごいんですよ! 人が集まる、女までがやって来る。もっとも、あちらでは女に見られることをきらってますが」
「女なんかが知ったことじゃないんですね」
「むろん、むろんです! あんなひどいことを!……私が見た罪人は、利口そうな、臆しない、力のありそうな中年の男で、名字はレグロというのでした。ところが、こいつは本気にされないかもしれませんが、その男が死刑台にのぼると、まるで紙みたいにまっ白い顔をして泣きだしちゃったのです。そんなわけってあるものでしょうか? 恐ろしいじゃありませんか? まあ、こわいからって泣くものがあるでしょうか? 僕は、それまで一度も泣いたこともない四十五にもなる大人が、子供じゃあるまいし、こわいからって泣くなんかということを、てんで、考えてもいませんでした。もっともその時、男の心中はどんな風だったでしょう、どんなに恐れわなないていたことでしょう! 死刑たるや魂の凌辱りょうじょくにほかならない、ただそれだけだ。『殺すべからず』と聖書には書かれています。それだのに、人が人を殺したからといって、その人を殺してもいいものでしょうか? 断じて、そんな法はない。僕は死刑の場を見てから一か月になるけれど、いまだにまざまざと眼に見えるようです。もう五度も夢みたほどです」
 公爵は自分が話しているうちに活気づいてさえもきた。ことばづかいは、相変わらず静かではあったが、彼の青白い顔はほのかに紅潮を帯びてきた。侍僕は身をいれて、興味ふかく彼のことばに聞きいっていたので、どうやら話がとぎれるのを好まないらしかった。ひょっとすると、彼もまた想像力があって、思想的なものに心をひかれる男であったかもしれぬ。
「でも、まだ、首が飛ぶ時」と彼は言った、「あんまり苦しみがないのが取りえですね」
「まあ、よく?」と公爵は熱心に後を引きとった、「まあ、よくも、気がつきましたね。たしかに誰もが気づいてはいるんですよ。ギロチンなんかっていう機械が、そのために発明されたんですからね。ところが、その時、僕はそんなものが発明されたんでかえって悪いんじゃないかと、ふと考えついたんです。そりゃあ、君から見たらおかしいでしょう、またむちゃな考えだとも思えるでしょう。しかし、少々想像をめぐらしてみると、そんな考えも浮かぶのですよ。まあ考えてごらんなさい。たとえば拷問ごうもんだ、拷問を受けるものは、苦痛でもあるし、からだは傷つけられる。けれど苦痛とはいっても肉体の苦しみだから、そんなものはかえって精神上の苦痛を感じさせない。したがって、死んでしまうまで、受けるほうでは、ただ傷だけに苦しむばかりです。しかし、大きい最もひどい苦痛は、おそらく傷のいたみではないでしょう。もう一時間したら、十分したら、三十秒したら、それから今、すぐに——魂が肉体を飛び離れて、もう人間ではなくなるのだということを、はっきりと思いきることです。このはっきりということがいちばん大事なことです。それ、頭を庖丁の真下に置いて、その庖丁が頭の上に滑り落ちてくるのを聞くとき、その一秒の四分の一の間が、いちばん恐ろしいんですよ。これはね、僕だけの空想じゃなくて、実際に多くの人が言って聞かしたことなんで。僕はそれを本気にしているから、君にきっぱりと僕の意見を言ってみましょう。殺人のゆえをもって、人を殺すのは、最初の犯罪そのものよりも、比較にならないほど大きな刑罰です。宣告文を読んで人を殺すのは、強盗が人を殺すことよりも、もっと、比べものにもならないほど恐ろしいことです。夜、森の中かどこかで強盗に切りつけられる人は、それでも必ず救われるという希望をもっている。本人はもう咽喉を切られているのに、まだまだ希望をもっていて、逃げるなり、助けを呼ぶなりするという例はいくらでもあります。この最後の希望があれば十倍も気軽に死ねるものを、死刑といえば『はっきりと』奪い去ってしまうのですからね。宣告文が読み上げられる、すると、どうしたってもう逃げられっこはないのだと観念する。そこに恐るべき苦痛があるのです、この世にこんなに根づよい苦痛はありません。戦場に兵士をつれて来て、大砲のまん前に立たせて、狙い撃ちしてごらんなさい。それでも兵士は希望をもっているでしょう。ところがこの兵士に『はっきり』と死刑の宣告を読み上げてごらんなさい。兵士は気が狂うか、泣きだすかするでしょう。人間の本性は狂いもしないで、それを堪え忍ぶことができるなどと、誰が言えるでしょう? なんだって、こんなみにくい、不必要な、無益な嘲弄ちょうろうを浴びせかけるのでしょう? たぶん、宣告を読み上げられて、苦しまされて、それから『さあ行け、許してつかわす』といわれた人もいるでしょう。そんな人なら、たぶん、よく話してくれるでしょう。この苦痛、この恐怖についてはキリストもいっています。いや、人が人をそんな風に扱うことはできない!」
 侍僕はこれらのことを公爵のように自分では言い表わせなかったであろうが、しかももちろん、全部が全部とはいえないまでも、要点だけは悟ったということが、感動した顔つきにさえもあらわれていた。
「もしもそんなにあなたが」と彼は言いだした、「煙草をおやりになりたいのでしたら、おやんなすっても結構です、ただ早くやってくださいまし。と申すのは、閣下がお呼びになった時、あんたがここにいらっしゃらないと困りますので。そら、そこの階段の下に、ドアがございましょう。そのドアをおはいりになると、右手に小ちゃな部屋がございますから、そこなら結構です。でも、特別のことなんですから、風抜きだけはあけてくださいまし」
 しかし公爵は煙草をのみに行く余裕がなかった。不意に書類を手にした若い男が控え室にはいって来たのである。侍僕はその男の毛皮の外套を脱がせにかかった。青年は公爵を横目でちらと見た。
「このかたは、ガヴリーラ・アルダリオヌィチさん」と侍僕は相手を信頼しきっているかのように、ほとんど家の者と口をきいているような調子で口をきった、「ムイシュキン公爵とおっしゃって、奥様の御親戚にあたり、外国から今しがた汽車でお帰りになられたそうで、風呂敷包みを手にして、ただ……」
 侍僕はひそひそと耳うちし始めたので、それから先のことは公爵には聞こえなかった。ガヴリーラ・アルダリオヌィチは注意ぶかく耳を傾けながら、非常な好奇心をもって公爵を眺めたが、ついには聞くのをやめて、もどかしげに公爵のほうへ近づいて来た。
「あなた様がムイシュキン公爵でいらっしゃいますか?」と彼はきわめて愛想よく、鄭重ていちょうに尋ねた。
 この男もまた年は二十八くらいの、かなりの美男子で、中肉中背で、すらりとして、ブロンドの髪をして、ナポレオン流の小さな顎髯あごひげをたくわえ、聰明らしい、まことに美しい顔をしていた。ただほほえみだけは、かなりに愛嬌あいきょうがあるのにもかかわらず、なんとなくデリケート過ぎ、それにほほえむときにあらわれる歯並みが、まるで、真珠を並べたように味がなさ過ぎていた。まなざしは、かなりに陽気らしく、ちょっと見たところは無邪気らしかったが、よく見ると何かしらあまりに据わりすぎていて、人の腹をさぐり過ぎるように見受けられた。
「この人は、きっと、一人でいるときには、まるで違った顔つきをしているに違いない、たぶん、どんなことがあっても笑わないだろう」と、公爵にはなんとはなしに、そういうことが感ぜられた。
 公爵はいっさいのことを手短にできるだけ説明してやった。ちょうど、今しがた侍僕に、さらにそれ以前にロゴージンに説明してやったのと同じことを言ったのであった。ガヴリーラはそのうちに何か思いおこしたらしかった。
「あなたじゃなかったかしら」と彼は聞いた、「一年ほど前に、あるいはもっと後だったかに、エリザヴェータ・プロコフィエヴナにお手紙をおよこしになったのは、たしかスイスからだったと思いますが?」
「たしかにそうです」
「そんならば、こちらではあなたのことをよく御存じですから、きっと覚えているでしょう。あなたは閣下のところへまいったのですか? それならすぐにお取り次ぎしましょう……閣下はすぐにお手すきになりましょうから。ただ、あなたは……その間、応接間のほうにいらっしゃればいいんですのに……こんなところに、なんだって、また?」と彼は厳めしい顔をして侍僕のほうをふり向いた。
「そう申し上げたのですけれど、いやだと申され……」
 この時、いきなり書斎のドアがあいて、紙挾みをかかえた軍人らしい人が声高く話をし、会釈をしながら出て来た。
「君はそこにいたのかえ、ガーニャ〔ガヴリーラの愛称〕?」書斎の中から叫ぶ声が聞こえる。「こっちへ来ておくれ!」
 ガヴリーラ・アルダリオヌィチは公爵に頭をさげて、そそくさと書斎へはいって行った。
 二分ほどしてまた戸があいて、ガヴリーラ・アルダリオヌィチのよく徹る、優しい声が聞こえてきた。
「公爵、どうぞ!」
 
(つづく) 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 

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