白痴(第一編) ドストエフスキー

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  第一編

      五

 将軍夫人は自分の家柄のこととなると躍起になる人であった。ところへ、すでに噂に聞いている一門のうちの最後の人たる公爵ムイシュキンが、哀れむべき白痴というよりほかなく、ほとんど乞食こじきも同然の身で、施し物をも受けかねない状態にあると、明らさまに、いきなり聞かされた時、彼女はどんな気持であったろうか。将軍は一気に夫人の注意をひき、夫人の気持をいいかげんに他のほうへ向けさせて、このどさくさ粉れに真珠の問題を免れようとして、首尾よく図星ずぼしにあたった。
 夫人は非常時となると、極度に眼をむき出して、いくらか体を後ろへ引いて、ひと言も物を言わずに前の方をあてもなく眺めるのが常であった。背の高い女で、年は良人おっとと同じく、黒っぽい髪はかなりに白髪がまじっているが、まだふさふさしており、鼻は心もち鉤鼻かぎばなというべく、顔は痩せていて、黄いろい、こけた頬をし、落ちこんだ薄い唇をしている。額は高いけれども狭く、灰色の、かなりに大きな眼はどうかすると、きわめて思いがけない表情をあらわす。かつては自分のひとみは非常に効果的だと信じたがる欠点をもっていたが、この信念は今もなお拭い去られずに残っている。
「応待しろって? あなたは今すぐに、そんな人に応待しろっておっしゃるんですか?」そう言って、将軍夫人は自分の前にもじもじしているイワン・フョードロヴィッチのほうへ精いっぱいに眼をむき出した。
「おお、そのことならば、何も遠慮会釈はいらないよ、ただおまえに、ね、会うつもりがあれば」と将軍は大急ぎに弁明した。「全くの子供でおまけにたいへんみじめなのさ。何か病気の発作があるって。いまスイスから帰って来て、汽車から降りたばかりで、身なりは妙な、ドイツ風らしい様子をしている。金は文字どおり一文なしで、今にも泣きださんばかりだ。ぼくは二十五ルーブルやったが、何かこちらで事務所の書記の口でも見つけてやろうと思う。ときに mesdames(お嬢さんたち)何か御馳走をしてやってくれ、おなかが空いてるようだから……」
「あなたはびっくりさせるわ、わたしを」と夫人は以前のような調子で続けた、「お腹が空いてるだの、発作だのと! どんな発作です?」
「おお、そんなにしょっちゅうあるわけじゃないのさ、それに、まるで子供みたいなんだからね、もっとも教育はあるけど。ぼくはね、mesdames(お嬢さんたち)」と彼はまたもや娘たちのほうを向いて、「おまえさんたちにあの人を試験してもらおうと思っていたんだが。どんな方面に才能があるか、とにかく、承知しておくと都合がいいから」
「し、け、ん、を、です、って?」と夫人は引っぱって、非常に驚いたらしく、またもや眼をむき出して、娘たちのほうから良人のほうへ向け、それからまたもとにかえした。
「ああ、これ、そんな意味にとっちゃ困るよ……、だがもちろんおまえの好きなように。僕はただ、あれをいたわって、みんなのところへ連れて来てやるつもりだったのさ、それはまずいいことだからね」
「みんなのところへ連れて来るですって? スイスから?」
「スイスだってかまわんじゃないか。もっとも、もう一度言うけど、好きなようにおし。僕はなにしろ、第一には、同姓の人で、ひょっとしたら親類にでもなる人かと思うし、第二には、どこへ身を置いていいものやら困っているところだから言うんだが。とにもかくにも同姓だということだけでも、おまえに若干の興味はあろうと、そうも思ったのさ」
「そうだわ、ママ、もしも遠慮なしにつきあえるものだったら。それに旅行帰りで、ひもじいっていうんでしょう、どこへ落ち着いたらいいのか途方に暮れてるっていうのに、なんだって御馳走してあげないの?」と長女のアレクサンドラが言った。
「おまけに全くの赤ちゃんなんだから、いっしょに目かくしをして遊んでもいいくらいさ」
「目かくし遊びですって? どんな風にして?」
「おお、ママ、そんなにもったいぶるのはよしてちょうだいよ」とアグラーヤがいまいましそうにさえぎった。
 中の子のアデライーダは笑いん坊なので、たまりかねて笑いだした。
「パパ、呼んで来てちょうだいよ、ママがいいって言うのよ」アグラーヤは決めてしまった。
 将軍はベルを鳴らして、公爵を呼んで来るようにと言いつけた。
「けれど断わっておきますが、テーブルにつくときは、必ずくびのところへナプキンをゆわえつけさせるんですよ」と夫人は主張した、「それからフョードルでも、マーヴルでもいいから呼んで来て、その人の食べるときには後ろへ立って気をつけさせるんですよ。その人はおとなしくしてるんでしょうか、発作が起こった時でも? 変なしぐさをしないかしら?」
「とんでもない、実にしつけがいいし、行儀作法も立派なもんだよ。どうかすると、ちょっと単純すぎるようだがな……ああ、この人がそうだよ! さあ、紹介しよう、一門の中の最後の人で、同姓の人でもあり、ひょっとすると親類になるかもしれないムイシュキン公爵。朝の食事の用意もすぐにできるでしょうから、ねえ公爵、どうぞ召しあがってください……。僕は失礼ですが、かなり遅れましたから急いで行かなくちゃなりません」
「どこへお急ぎになるのかわかってますよ」と夫人は偉そうに言った。
「急ぐんだ、急ぐんだよ。おい、遅れちゃったよ! mesdames おまえさんたち、アルバムを出して、それへ何か書いていただきな。実に珍しい能筆家だよ。立派な腕前だ! さっきあちらで『僧院の長パフヌーチイみずからこれに署名す』と昔風の書体で書いてくだすったんだ、……じゃ、さようなら」
「パフヌーチイ? 僧院の長? まあお待ちなさい、お待ちなさい、どちらへいらっしゃるの? パフヌーチイってどんなかたですの?」夫人は執拗にいまいましい様子をして、ほとんどあわてているような調子で、逃げ腰の良人にわめき立てた。
「そう、そう、それはね、昔いた僧院長なのさ……、して、僕は伯爵のところへ行かにゃならん、待っておられるんだから、もうとうから。なにしろ先方で時間を切られたんだから遅れちゃ相済まん……公爵、またいずれ!」
 将軍は急ぎ足で出て行った。
「どんな伯爵のところへだかわかってますよ!」と辛辣しんらつにリザヴェータ・プロコフィエヴナは言い放って、いらだたしげに公爵のほうに眼を向けた、「なんでしたっけね!」と急に思い立ったように、いやらしく、いまいましげな調子で言いだした、「まあ、なんでしたかしら? ああ、そうだわ、僧院の長ってどんなかたですの?」
「ママ」とアレクサンドラが言いかけていた。アグラーヤは床を踏み鳴らしてさえいた。
「アレクサンドラ・イワーノヴナさん、わたしの邪魔をしないでくださいな」と夫人は妙に改まってさえぎった、「わたしだってやっぱり知りたいわ。さあ、公爵、そこへおかけなさい、それ、そこの安楽椅子へ、わたしのま向かいにある。いいえ、こちらよ、日のあたるほうへ、わたしに見えるように、なるべく明るいほうへいらしって。さあ、僧院の長ってどんなかたですの」
「僧院の長パフヌーチイです」と公爵は気をつけてまじめに返事した。
「パフヌーチイ? おもしろいですわね、まあ、いったいその人がどうしましたの?」
 夫人は黙っていられないらしく、公爵を見つめたまま、早口に、鋭く問いかけた。そして公爵が答えると、ひとこと言うたびにいちいちうなずいていた。
「僧院の長パフヌーチイは十四世紀の人で」と公爵は言いだした、「今のコストロマ県のあるヴォルガ川の沿岸の僧院を管理していました。聖らかな暮らしをしていたことは周知のことで、ダッタン国へも出かけて行きました、また当時の公共事業の処理にも力をいたして、ある教書に署名をしていますが、わたしはこの署名の写しを見たのです。その筆跡が気に入りましたものですから、習ってみました。さきほど将軍が、どこか勤め口を見つけてやるから、筆跡を見せるようにとの御所望でしたので、いろんな書体で五、六句書いてみました。その中へ『僧院の長パフヌーチイみずからこれに署名す』というのを、パフヌーチイ自身の筆跡そのままに書いたわけなんです。それがたいへん将軍のお気に召して、それで今もそのことをおっしゃったのでした」
「アグラーヤ」と夫人が言った、「覚えておいで、パフヌーチイですよ、それとも書いといたほうがいいわ、でないと、私はいつも忘れてしまうから。でも、わたしはもっとおもしろいことかと思ったわ。どこにその署名があるのかしら?」
「たぶん、将軍の書斎のテーブルの上に置いてあるでしょう」
「じゃすぐに取りにやって」
「でも、もしなんなら、もう一度書いて差し上げたほうがいいでしょう」
「それがいいわ、ママ」とアレクサンドラが言う、「でも今はお食事をしたほうがいいわ、あたしたち、お腹が空いてるんですもの」
「そりゃあ、そうね」と、夫人は承知した、「さあ、まいりましょう、公爵。あなたたいへんお腹が空いてらして?」
「ええ、いま、空いてきました。本当にありがとう存じます」
「あなたは丁寧でいらっしゃるから、たいへん結構です、それにお見うけしたところ、他人様ひとさまがおっしゃるような、そんな……変人じゃけっしてありませんし。さあ、まいりましょう。ここへおかけください、ちょうどわたしのま向こうへ」と、一同が食堂へやって来たとき彼女は公爵を席につかせながら、何かと気を配っていた、「わたしはあなたを見ていたいんですからね。アレクサンドラ、アデライーダ、二人とも公爵に御馳走してあげて。ねえ、ほんとにこのかたは、そんな……病人じゃけっしてないわね? だからおおかたナプキンなんかもいらないわね……。公爵、あなたは食事の時にいつもナプキンをゆわえてもらっていたんですか?」
「昔、まだ七つぐらいのころにはゆわえてもらってたでしょうが、今では食事のときにはたいていナプキンを膝の上にのせて置きます」
「それはそうでしょうとも。それで発作は?」
「発作?」と公爵はいささか驚いて、「発作はごくたまにしか起きません。もっともよくわかりませんけれど。なんだか、こちらの気候は私には悪いそうですから」
「なかなかうまいことを言うわね、この人は」と夫人は娘たちのほうを向いて、絶えずひとこと言うごとにうなずきながら、こう言った、「わたしは思いもよらなかったくらいだよ。して見ると、みんなたわいもない嘘だったんだわ、いつものように。さあ、公爵、おあがんなさい。そして、聞かしてくださいな。どこで生まれて、どこで育てられたのか。わたしはあんたのことをすっかり知りたいんですから。あなたはほんとにおもしろいおかたですわ」
 公爵は厚くお礼を言って、いかにも甘美うまそうに、食事をとりながら、今朝から一度ならず話したことを、すっかり、もう一度話しだした。夫人はいよいよ満足らしい様子をした。令嬢たちもかなりに注意深く耳を傾けた。話を聞いているうちに、公爵が実によく自分の家系を承知していることはわかったが、どんなに骨折って話をしてみても、彼と夫人との間にはほとんどなんらの姻戚関係も見いだすことができなかった。ただ双方の祖父母間に、遠い親族関係のあることが考えられるくらいのものであった。味もそっけもないこの問題は、かねて自分の家系について話をしたいと切望していながらも、いまだかつて一度としてそういう機会にめぐまれなかった将軍夫人に、ことのほか気に入って、やがて彼女は興奮のあまりテーブルから立ち上がった。
「さあ、みんなで会合室へ行きましょう」と彼女は言った、「コーヒーを持って来させますから。宅にはみんなが集まる部屋がございますの」公爵を案内しながら、ふり返って言うのであった、「つまり、なんのことはない、小さな客間なんでして、宅が留守の時などにみんなが集まって、めいめい自分の仕事をするところなんですの。アレクサンドラ、というのはこの子ですけど、これはいちばん上の娘で、ピアノをひいたり、本を読んだり、お裁縫をしたり、アデライーダは景色や肖像を描き(何も仕上げることはできないのですけど)、アグラーヤになると坐っているだけで。何もいたしませんの。私もやっぱり仕事がうまくはかどらないものですから、何も仕上がらないんですの。さあ、ここですの。公爵、こちらの暖炉のそばへおかけなすって、お話を聞かしてください。わたしはあなたがどんな風にお話をなさるか知りたいんですの。そしてあなたのことをすっかり承知しておいて、ベラコンスカヤ公爵のお婆さんにお会いしたら、あなたのことを何もかもお話しして上げたいんですの。わたしは、あの人たちがみんな、あなたに興味をもつように話をしてくださればいいと思いますわ。さ、お話ししてちょうだい」
「ママ、そんな風に話をするって、ずいぶん変じゃありませんか」とアデライーダは注意した、その間に自分の画架をなおして、画筆とパレットを取って、かなり前から手をかけている版画の風景の模写をやりだしていた。アレクサンドラとアグラーヤはいっしょに小さなソファに腰をおろして、両手を組みながら、話を聞こうと待ち構えていた。公爵は特別の注意が四方から自分のほうへ向けられていることに気がついた。
「あたし、あんなことを言われたら何も話しなんかしないわ」とアグラーヤが言った。
「なぜ? 何が変なのさ? なんだって、あの人がお話ししていけないの? 舌があるのに。わたしはね、公爵がどんな風に話ができるか知りたいんですよ。さあ、何かお話を。スイスはお気に召しましたの。はじめての印象はいかがでした。おまえたち、見てごらん、ほら、今お話を始めなさるから、立派にお始めになるから」
「印象は強いものでした……」と公爵は話しかかっていた。
「それ、それ」と気短なリザヴェータ・プロコフィエヴナは娘たちのほうを向きながら口をはさんだ、「お始めなすったよ」
「せめて、ママ、じゃまをしないでお話を続けていただきなさいよ」とアレクサンドラが制止した、「この公爵はひょっとすると大の悪党だわ、けっして白痴なんかじゃなくって」と彼女はアグラーヤに耳打ちした。
「きっとそうだわ、さっきから私もそう見ているの」とアグラーヤが答えた、「こんな芝居をするなんて、この人も卑劣だわね。こんなことをしていったい、なんの得をしようっていうんでしょう?」
「はじめての印象はとても強いものでした」と公爵はくり返した。「ロシアから連れて行かれて、いろんなドイツの町を通り過ぎたとき、僕は黙って眺めていました。今でも覚えていますが、何一つ聞いてもみませんでした。それは引き続いて、強い苦しい病気の発作があった後のことでした。僕はいつも、病気がひどくなって、発作が何度も続くと、すっかりぼんやりしてしまって、すっかり記憶力がなくなり、頭は働いているのですが、思想の論理的な秩序がとぎれてしまうのでした。二つないし三つ以上の観念を論理的に順序を追って結びつけることが僕にはできなかった。どうもそういう気がします。しかし発作がしずまると、また今のように健康になって、元気にもなりました。忘れもいたしませんが、そのころの心中の悲哀は堪えられないほどでした。むしろ僕は泣きだしたいくらいでした。いつも物に驚いたり、心配したり、それもつまりはあらゆるものが異なっているということが、ひどく僕に影響したのですね、そのことをはっきり了解しました。異なったものが僕を苦しめたのです。この闇から全く眼がさめたのは、今でも覚えていますが、スイスのバーゼルの町へ、日暮れにはいったときでした。町の市場にいた驢馬ろばの声が僕の眼をさましたのです。この驢馬がひどく私を驚かして、なぜかしら非常に僕の気に入ったのです。それと同時に、急に僕の頭の中は、雲がれたようになりました」
「驢馬ですって? まあ、不思議ですこと」と夫人が言った、「もっとも、別に不思議なこともありませんね、うちの誰かさんは驢馬にれ込んでいるんですからね」と夫人は笑っている娘たちを厳めしそうににらんだ、「それは神話にあったことですよ。さあ、続けてください、公爵」
「そのときから僕は驢馬が大好きになったんです。それは僕にとっては一種の同情でさえもあるのです。僕は驢馬のことをあれやこれやと聞き始めました、というのはそれまで見たこともなかったからです。そしてすぐに、これは実に有益な動物だ、よく働いて、力が強く、しんぼうもするし、値段も安くて、運ぶのにも便利だということがわかってきました。この驢馬がいたために急にスイス全体が好きになって、以前の憂鬱ゆううつな気持はすっかり消し飛んでしまいました」
「みんなたいへん不思議なお話ばかりですね、驢馬のお話は、ぬきにしても結構ですから、今度は別のお話をしてください。おまえはなんだってそうそう笑ってばかりいるの、アグラーヤ? おまえもさ、アデライーダ? 公爵は驢馬のお話を立派になすったんだよ。御自分で御覧なすったんですよ、おまえは何を見ました? おまえなんか外国へ行ったこともないじゃありませんか?」
「あたし、驢馬なんか見たわよ、ママ」とアデライーダが言った。
「あたし、声だって聞いたわよ」とアグラーヤがあとを引きとった。
 三人の娘たちはいっせいにまたもや笑い出した。公爵もいっしょに笑い出した。
「おまえたちは、ほんとにいけないよ。公爵、かんにんしてやってくださいね、気だてはいい連中なんですからね。わたしはしょっちゅう、言いあってばかりいますけれど、可愛がっていますの。この人たちは気ままで、分別がなくて、向こう見ずなんです」
「いったい、どうしてですか」と公爵は笑って、「僕だってお嬢さんたちの位置にいたら、やっぱり同じことでしょうよ。でもとにかく、僕は驢馬を擁護しますね。驢馬は善良で有益な生き物です」
「では、あなたも善良なんですか、公爵? わたしは物好きに聞いてみるんですけど」と夫人が聞いた。
 一同はまたもや笑いだした。
「やっぱりまた、あのいやらしい驢馬の話にもどりましたね。わたし、そんな物のことは考えてもいませんでした」と夫人はわめき立てた、「本当なんですよ、公爵、私はちょっとも……」
「暗示ですか? おお、そうでしょう、ほんとに!」
 公爵はやはり笑い続けていた。
「あなたが笑ってくださるのでたいへん嬉しい。お見うけしたところ、あなたというおかたは、実に気だてのいい青年ですね」と夫人は言った。
「時おりよくないことがありますよ」と公爵は答えた。
「でも、わたしは気だてのいい人間ですよ」と、いきなり夫人は口をはさんだ「こんなことを申していいなら、わたしはいつも善い人間ですよ、ところが、これが私のたった一つの欠点ですの、なぜって、いつも善い人間でいる必要はないのですからね。わたしは実によく、この人たちや、わけても宅のイワン・フョードロヴィッチなどには疳癪かんしゃくをおこしますけれど、疳癪をおこすときにいちばん善い人間になるのでいまいましくなります。さっきも、あなたがおいでになる前に、さんざん怒って、わざと、何が何やらさっぱりわからない、どうしても呑み込めないって駄々をこねたんですよ。こんなことは私によくあることですけど、まるで赤ん坊ですわね。それでアグラーヤが、いさめてくれたんですの。ありがとう、アグラーヤ。でも、こんなことはみんなばかげたことです。わたしは、自分で思ったり、娘たちが思っているほどのばかではありません。意地もあるし、そんなにはにかみやでもないし。でも、悪気があって言っているわけじゃありませんよ。アグラーヤ、こっちへおいで、接吻してちょうだい、そうそう……甘えすぎていけないわ」アグラーヤが情をこめて唇と手に接吻したとき、彼女はこう言った、「公爵、どうぞその先を。たぶん、なにか驢馬の話よりもおもしろいことを思い出しなさるでしょう」
「どうしてそんなにいきなり話というのができるのか、やっぱり、私にはわかりませんわ」とアデライーダがまた言った、「あたしだったら、どうしたって迷っちゃうわ」
「公爵は迷いはしませんよ、なにしろ公爵は非常に賢いかたで、少なくともおまえなんかよりは十倍も賢いかたなんだからね、ひょっとすると十二倍も。きっとおまえもあとでよく気がつくでしょうよ。公爵、どうぞ、あの子たちに証拠を見せてやってください。さあ、それから。でも、いよいよ本当に驢馬のことはやめてくだすっても結構ですわ。さあ、それで、驢馬のほかに何を外国でごらんになりましたの?」
「だって、驢馬のお話だってためになりましたわ」とアレクサンドラが言った、「公爵はたいへんおもしろく病気のときのお話をなさいましたわ、それにたった一つの外部的な衝動によって、何もかもお好きになられたということも。あたし、人が気がちがって、それからまたなおったというようなお話なら、いつもおもしろうございましたわ。わけても、そんなことが不意にそうなるんでしたらね」
「そお? ほんとに?」夫人は飛び上がらんばかりであった。「おまえも時には利口になるらしいね。さあ、もう、笑うのはたくさんよ! あなたはスイスの話をなすっていたようですよ、公爵、さあ!」
「僕たちはリュツェルへ着きました、そして、僕は湖水の上を連れて行かれたのです。湖水はいいなとは思いましたけれど、見たときには、ひどく憂鬱になっていました」と公爵は話しだした。
「なぜでしょうか?」とアレクサンドラが聞いた。
「わかりません。僕はああいう風景をはじめて見ると、いつも憂鬱な、不安な気持になるのです。いいなとは思っても不安になる。もっとも、そんなことはみんな病気中のことでした」
「まあ、けども、あたし行って見たくてなりませんわ」とアデライーダが言った、「でも、いつになったらあちらへ行けるかわかりませんわ。ほんとに、あたしはもう二年も絵の題材が見つからないでいるんですの。

 東も南も描かれぬ、遠き昔に……

 ねえ、公爵、題材を見つけてくださいな」
「そんなことは私にはさっぱりわかりません。僕なんかには見て描きさえすりゃいいような気がするんでしてね」
「だって、見ることができないんですもの」
「なんだって、あんたたちは謎みたいな話をしているんですの? 何が何やらさっぱりわからないわ」と夫人はさえぎった、「見ることができないって、どんなことなの? 眼があるんだもの見られるじゃないの。ここで見られないくらいなら、外国へ行ってもだめですよ。公爵、そんなことより、あなたが御自分でごらんになったことを聞かしてちょうだいな」
「それがいいわ」とアデライーダが口添えした、「公爵はあちらで物の見方を習っていらっしったんですもの」
「どうですかね。僕はただ、からだをなおしに行ったんですから、物の見方を習ったかどうかわかりませんよ。もっとも、僕はほとんど、いつもいつもといってもいいくらいに、実に幸福でした」
「幸福って? あなたは幸福になれるんですの?」とアグラーヤが叫んだ、「それなら物の見方を習わなかったなんて、どうしておっしゃるんですの? あたしたちを教えることだって、できるはずですわ」
「教えてくださいな、お願いですから」と、アデライーダは笑った。
「何もお教えすることなんかできませんよ」と公爵もまた笑って、「僕は外国にいるときはたいていはスイスの片田舎に暮らしていて、ほんのたまに、どこか遠くないところへ出かけるくらいのものでした。そんなわけですから、あなたがたに何をお教えできるでしょう? 初めのうちは、ただ退屈しないというだけのことでしたが、すぐにからだがよくなってきました。それからは、その日その日が貴重なものになって、日がたてばたつほど、貴重なものになってきて、それで僕もそれにようやく気がついてきました。夜は実に満足した気持でやすむのですが、朝になって起きるときは、ずっとずっと幸福でした、ところで、なぜそうだったか——というと、それは話すのが実にむずかしいことです」
「それでは何ですか、どこへも行きたいとお思いにならなかったんですね? そんな気持がお起きにならなかったんですね?」とアレクサンドラが聞いた。
「初めのうち、ごく最初は、そう、行きたいという気になりました、そして僕は非常に不安な気持になりました。どうして暮らそうかと思案に暮れたり、自分の運命を試してみたいと思ったりして、ある時には不安な気持になりました。そんな時があることは、おわかりでしょう、ことに一人きりでいる時などに。で、僕のいたところに滝があって、大きくはなかったのですが、高い山の上から、細い糸のようになってほとんど垂直に落ちていました、白い泡を立てて、ざわめきながら。高いところから落ちていたのですが、実に低い気がして、半露里エルスターくらいのところにあるのですが、そこまで五十歩くらいしかないように見えるのでした。僕は夜ごとに滝の音を聞くのが好きでした。そんな時にどうかすると、非常な不安に陥るのでした。それから時として、真昼にどこか山の上に登って、たった一人で山の中に立っていますと、あたりには年老いた、大きな、樹脂の多い松があって、岩の上には中世紀の古いお城がくずれていて、はるか下のほうには僕のいる村がかすかに見え、太陽は明るく、空は青く、あたりは恐ろしいほどひっそりしている。そんな時にも非常に不安になるのでした。実にそんなところへ行っていると、どこかへ行きたくなって、もしもまっすぐに、どんどん、どんどん歩いて行って、あの空と地が一つになっている線の向こうまで行ったら、謎はすっかり解けてしまって、ここにいるよりは何千倍も力強く、にぎやかな、新しい生活が生まれてくるのだと、いつもそんな気がしていました。いつもナポリのような大きい町を心に描いていました。そこには宮殿やざわめきやかまびすしい物音や、あふれるような活気があるんだと……そういう風に……。実際、いろんなことを空想したものでしたよ! やがて後には、監獄の中ででも、立派な生活は見いだせるものだと、そんな気がしたのでした」
「おしまいにおっしゃったような立派なお考えは、あたし、十二のときに、本で読みましたわ」とアグラーヤが言った。
「みんなそれは哲学ですわね」とアデライーダが口を出した、「あなたは哲学者で、あたしたちを教えにいらしったんですわね」
「たぶんあなたがたがおっしゃるとおりでしょう」公爵はほほえんだ、「僕は、おそらく、本当に哲学者でしょう。そしてまた、たぶん、実際に教えようという気持ももっているのかもしれません……。全くそのとおりかもしれません。本当に、そうかもしれません」
「あなたの哲学は本当にエウラムピヤ・ニコライヴナさんのと同じようですわね」とまたアグラーヤがあとを引き取った、「そのおかたは官吏の後家さんなんですけれど、居候みたいに、よく家へやって来ますの。あの人の人生における問題というのは、ただもう安直というばかりですの、ただどうしたらもっと安く暮らせるかって、一カペイカ二カペイカのことばかり言ってるんですの。それなのに、どうでしょう、お金はあるんですよ。ぺてん師なんですわね。あなたのおっしゃる監獄の中の立派な生活というのも、ちょうどそれと同じようなものですわね。それに、ひょっとしたら田舎での四年間の幸福も。あなたはその幸福のためにナポリの町もお売りになって、たとえわずかなりとももうけなすったようですし」
「監獄の生活ということについては、まだ賛成できかねるところがあります」と公爵は言った、「僕は十二年も監獄にはいっていた人の話を聞いたことがあります。それは僕の先生の患者の一人で、治療をうけていた男です。癲癇てんかんもちで、時おり不安になって、泣いたり、ある時などは自殺を企てたりしました。その男の監獄生活は実に哀れなものでした、本当に、しかし、もちろん、けちけちしたものではありませんでした。馴染なじみといえば、ただ蜘蛛くもと、それに窓の下に生えている小さな木ばかりでした……。もっとも、僕は去年、あの男と会ったことを話したほうがよさそうです。実に奇妙な出来事がありましたものですよ。奇妙だというのは、まずめったにないことだからです。この男はある時、ほかの連中といっしょに刑場に引き立てられました。政治犯だというので、銃刑の宣告が読み上げられました。それから二十分ほどたったころのことです。恩赦の勅命が読み上げられて、新たな判決が下されました。しかし、それにしてもこの二つの宣告の間の二十分、あるいは少なくとも十五分というものを、その男は何分かの後には自分が不意に死んでしまうものとばかり思い込んで過ごしたのでした。時おり、この人が当時の印象を話してくれましたが、僕はそんな時には聞き耳を立てたのでした。そして幾度も聞き返したものでした。その男はいっさいのことを珍しいほどはっきり覚えていて、その何分かの間の出来事は一生忘れないと言っていました。群集や兵隊がよってたかっている処刑台から、およそ二十歩ばかり離れたところに柱が三本つきさしてありました。犯人が幾人もいたからです。まず三人の者を柱のところへ連れて行って、柱に縛りつけ、死服(白くて長い夏着)を着せて、銃の見えないように夜帽を眼の上までかぶせました。それから柱ごとに、何人かの兵士で隊を組んで前に整列しました。僕の知っている人は八番目のところに立っていましたので、三度目に柱のところへ行くことになっていました。お坊さんがみんなのところを十字を切りながら回りました。さて、いよいよ生きているのも、あと五分ばかりのことで、それから先がないという時になりました。その男の話では、この五分間が果てもなく長い時間で、莫大な財産のように思えたそうです。またこの五分間に、最後の瞬間のことなど未練がましく思うがものもないような豊かな生活をすることができるような気がして、いろんな処置をとったそうです。まず時間を割りつけて、二分間ほど友だちとの告別に、さらに二分間をこれを最後に自分のことを考えるために、あとの残りはこれをこの世の見おさめに、あたりを眺めることにしました。この人はこういう風に三つの処置をとって、また、こんなぐあいに時間の割りつけをしたことを、実によく覚えていました。その人はからだが丈夫で力の強い人でしたが、二十七歳にして死ぬところだったのです。友だちに別れを告げながら、そのうちの一人にかなりのんびりした質問を発して、その答えをおもしろがったりさえもしたということを、よく覚えていました。やがて、友だちに別れを告げると、今度は自分のことを考えるために割りつけた二分がやってきました。どんなことを考えたらいいかということは、あらかじめわかっていたのでした。いったい、自分は今こうして生きているのに、三分間したら、もう何かになる、誰かになる、でなければ何かになる、誰かになるとすれば誰になるのか、そしていったいどこで?——つまりどうしてこんなことになるのかということをできるだけ早く、できるだけ明瞭に考えて見ようと思ったのです。こんなことを、すっかり、この二分間に解決してしまおうと思っていたのです! ほど遠からぬ所に教会堂があって、金色の本堂の屋根の頂きが明るい日ざしをうけて輝いていたといいます。この屋根と、そこに反射する光を恐ろしいほどじっと見つめていたことも覚えていました。どうしてもこの光を見ないわけにはいかなかった。なんでもこの光こそ自分の新しい自然であり、三分間したら自分はこの光とどうにかして融合できるのだと、そんな気がしたそうです。……やがて今にもやって来る新しいものに対する無常な気持と、嫌悪の念は恐ろしいものでした。しかし、当人の話では、その時、絶えず浮かんでくる気持、——『もし死ななかったらどうだろう! もし生き返ったらどうだろうか!……なんという限りない時であろう! それがみんな自分のものになるんだ! そうしたら一分一秒を百年に延ばして、何一つ失わないようにしたい。そして一分一秒が過ぎ去るごとにこれをいちいち清算して、けっしてむざむざといたずらには過ごしたくない!』そんな考えほどつらいものはなかったそうです。やがて、ついには、この考えはひどい敵愾心てきがいしんとなって、一刻も早く射ち殺してもらいたいという気持になったと、そうも言っていました」
 公爵は不意に口をつぐんだ。誰もが、彼が後を続けて何か締めくくりをするだろうと待ち構えていた。
「おしまいですの?」とアグラーヤが尋ねた。
「何? そう、おしまいですよ」と公爵はちょっとの間の物思いからわれに帰って、こう言った。
「けど、なんのためにそんなことをお話しなさいましたの?」
「そう……ちょっと思い出したもんですから……ほんの付けたしに……」
「あなたのお話はほんとに飛び飛びですね」とアレクサンドラが言った、「公爵、あなたは、ただの一瞬間でも粗末にはできない、時には五分間でも非常に貴いってことを、聞かせたかったんでしょうね。それはみんな立派なことですわ。けど、それにしても、あなた、そんなに恐ろしいお話をなすったそのお友だちは、どうなすったんでしょうね……、だって減刑されたんでしょう。つまり『限りない生活』をいただいたんでしょう。まあ、そののち、それほどの財産をどうなすったでしょうね? 一分一秒を清算しながら暮らしたでしょうか?」
「おお、違います、僕はそのことをとうに聞いていたのですが、その人は自分で言っていました、まるで違った生活をして、実におびただしい一分一秒を空費したって」
「まあ、してみると、あなたにとっては、いい経験でしたわね。つまり、『清算しながら』生活するってことは、実際にはできないことなんですね。なぜかしら、できないことなんですね」
「そうです、なぜだかしれないけれどもできないことなんです」公爵は同じことをくり返した、「僕自身にもそういう気がしました……でも、やっぱり、なんだか、そうとばかりも思えなくって……」
「では、あなたは誰よりも利口に暮らせると思っていらっしゃるんですね?」アグラーヤがそう言った。
「ええ、ときにはそんな気もしました」
「今でもそうですの?」
「今でも……そうです」公爵は相変わらず物しずかな、それでいて、おどおどさえしたようなほほえみを浮かべてアグラーヤのほうを見ながら答えるのであった、けれど、すぐにまた声を立てて笑って、陽気そうに彼女のほうを見た。
「内気ですわね?」アグラーヤは、さもいらいらしているかのように、こう言った。
「でもそれにしても、あなたがたは勇敢ですね、そんなにして笑ってらっしゃる。僕なんかは、その男の話を聞いて、ひどく打たれてしまって、あとで夢にまで見たほどでしたよ。つまりその五分間を見たのでした……」
 彼は探るような眼で、まじめに、もう一度聞き手を見まわした。
「あなたたちは何かのことで、僕を怒ってらっしゃるんじゃないですか?」と、公爵はどぎまぎしているかのように、しかもじっと一同のほうを見ながら、だしぬけに尋ねた。
「何のことでですの?」三人の令嬢たちは驚いて口々に叫んだ。
「そりゃあ、つまり、僕が、しょっちゅう説教でもしてるように見えるから……」
 一同は笑いだした。
「もし怒っていらっしゃるんでしたら、どうか怒らないでください」と彼は言った、「自分でもよくわかっているんですが、僕は他人よりも劣った生活をしてきて、世の中のことも人並みはずれて知らんのです。僕は、おそらく、とても妙なことを時おり言っているでしょう……」
 こう言って彼はすっかり、うろたえてしまった。
「あなたが幸福だったとおっしゃるからには、人に劣った生活をしたことにはならないでしょう、かえって他人以上ですわ。なんだってあなたはもったいぶって、あやまったりなんかなさるんでしょう?」アグラーヤは厳めしそうに、とがめ立てるような調子でやりだした、「あなたが私たちに説教なすってるなんてことは、御心配には及びません。あなたに、すましたところなんかありませんものね。あなたのように隠遁いんとん主義のおかただったら、百年の生涯をも幸福でいっぱいになされるでしょう。あなたは死刑を見せられても、指一本見せられても、どちらの場合でも同じように、立派な御意見を思いつきなすって、しかも満足しておいでになれるおかたなのですからね。そんな風だったら長生きもできましょうよ」
「なんだっておまえは意地の悪いことを言うんだろう、私にはわからないわ」さっきから話している人たちの顔を見まもっていた夫人は後を引き取った、「そして、おまえさんたちの話していることからして、やっぱりわけがわからない。指って、どんな指なのさ。まあ、つまらないことを。公爵は立派なお話をなすってるんですよ。ただ少し憂鬱だけれど。おまえは何だって拍子ぬけさせるの? お話を始めなすったときには、公爵は笑ってらしったのに、今はすっかり気が抜けておしまいになって」
「かまやしないわよ、ママ、でも、公爵、死刑をごらんにならなかったのは惜しいですわね。あたし、一つお聞きしたいことがあるんですけど」
「僕は死刑を見ましたよ」と公爵は答えた。
「ごらんなすったって?」とアグラーヤが叫んだ、「まあ、気がつかなけりゃならなかったのに! それで何もかも、めでたし、めでたしですわ。でも、ごらんになったのなら、いつも幸福に暮らしたなんて、どうしておっしゃるんでしょうね? まあ、私の言ったこと間違ってるかしら?」
「でも、あなたのいらした村で死刑なんかがあるんですの?」とアデライーダが聞いた。
「僕はリヨンで見ました、シネイデル先生といっしょにそこへ行ったのです。先生が連れてってくだすったものですから。そこへ着くと、ちょうど、死刑にぶつかりましてね」
「いかがでしたの、お気に召しまして? 教訓になることがたくさんあったでしょう? ためになることが?」とアグラーヤが尋ねる。
「さっぱり気に入りませんでした。それを見たおかげで、あとで病気になりましたし。でも、白状しますと、僕は釘付けにされたように、じっと立って見ていたのです。どうしても眼をはなすことができませんでした」
「やっぱりあたしだって、眼をはなすことができなかったでしょうよ」とアグラーヤが言った。
「あちらでは女の人が見に行くのを、ひどくいやがります、見に行ったりすると、そんな女のことは新聞にまでも書き立てます」
「それはつまり、女の知ったことじゃないと考えて、だからこそ男の見るべきものだと言いたがるんですね(したがってあたりまえだと言いたがるのでしょう)。まあ、おめでたい論法ロジックだわ! それで、むろん、あなたもそういうお考えなんでしょう」
「死刑の話をしてくださいな」とアデライーダがさえぎった。
「僕は今、ひどく気が進まないんですが……」と、まごついて、公爵は何かしらいやそうな顔をした。
「あなたはお話なさるのが、きっと惜しいんでしょう」とアグラーヤがちくりと刺した。
「いいえ、なあに、もう、この死刑の話は先ほどしてしまったからです」
「どなたにお話なさいましたの?」
「お宅の小使さんに、お待ちしているときに……」
「どの小使ですの?」と四方から声がかかる。
「あの、控え室に坐っている、白髪まじりの、赤ら顔の人です、僕はイワン・フョードロヴィッチさんに中でお目にかかるのをお待ちして、控え室に坐ってたんです」
「それは不思議ですね」と夫人が口を出した。
「公爵は民衆的ですもの」とアグラーヤが話を中断させた、「さあ、アレクセイなんかにお話なすったくらいなら、あたしたちのほうを断わるなんて法はありませんわ」
「わたしは、どうしても聞かしていただきたいの」とアデライーダがくり返した。
「さっきは、実際」といくぶん、元気をとり戻して(公爵は見たところ、非常に早く、あっさりと元気づくらしかった)、アデライーダのほうを向いた、「実際、僕は、あなたが画題をとおっしゃった時、題材を差し上げるつもりがあったのです、それは、断頭機ギロチンが落ちて来る一分間前に、その板の上に横になろうとして、まだ刑場しおきばの上に立っている時の死刑囚の顔をお描きになるようにと」
「まあ、顔をですって? 顔だけを?」と、アデライーダが聞いた、「妙な題材になりましょうね。まあ、どんな絵ができるでしょう?」
「わかりません、なぜですか?」と公爵は熱心に固執した、「僕はつい先ごろ、バーゼルで一つの絵を見ました。そのお話がしたくてなりません……いつか、お話ししましょう……実にうたれましたよ」
「バーゼルの絵のことはあとでぜひとも聞かしてくださいな」とアデライーダが言った。「そして今は、その死刑の絵のことを、詳しく説明していただきたいものです。あなたが想像していらっしゃるとおりに、話していただけるでしょう? どういう風に、その顔を描いたらいいでしょうか? そして、顔だけでいいでしょうか? いったい、どんな顔でしょうか?」
「それはちょうど殺される一分前です」と、公爵は当時の思い出にふけって、ほかのことは何もかもたちまちにして忘れてしまったような風をして、実にすらすらと話しだした、「死刑囚が梯子はしごを登って、処刑台に足を踏み入れたその瞬間のことです。その男は僕のほうをちらと見ました。それで、僕もその顔を見て、何もかもがわかったのです……。それにしても、それをどんな風に話したらいいでしょうか! 僕はあなたでも、誰でもいい、そいつを描いてくれることを、とても、とても望んでいるのです! もしも、あなただったら、これに越したことはありません。僕は、その時、絵ができたらためになる絵になるだろうと思いました。もっとも、前にあったことを、すっかり表わす必要があります、何もかも。その男は監獄の中に暮らして、少なくとも、一週間くらいは間があるだろうと、死刑執行の日を待っていたのですが、書類はまだどこかへ回って、一週間もたったころようやくこちらへやって来るだろうというような、おきまりの手続をあてにしていた様子です。ところが、どうしたはずみか、事務が簡略にされたのです。朝の五時、その男はまだ眠っていました。七月の末のことで、朝の五時といっても、まだ寒くて、まっ暗です。典獄が、こっそりと看守を連れてはいって来て、用心しながら男の肩にさわりました。男はちょっと身を起こして、ひじをつきました、——するとあかりが見える。『なんですか?』『九時すぎに死刑だ』男は寝ぼけているので本気にしないで、書類は一週間のうちに来るんだと喧嘩けんかを売りにかかったのですが、すっかり眼がさめてみると、喧嘩どころではないので、黙り込んでしまいました。やがて、その男は『とにかく、こんなに急では困ります……』と言って、また口をつぐんでしまいましたが、もう何も言う元気がなかったのです。それから三、四時間ほどはきまりきったことで過ぎてしまう、坊さんに会ったり朝飯を食べたり、それに酒やコーヒーや牛肉がつくのです(まあ、お笑いぐさじゃありませんか? どんなに残酷なものだか考えただけでもたくさんです、ところが、一方から見ると、嘘のような話ですが、あんな無邪気な人たちは、純な気持からすることで、これが博愛というものだと信じきっているんですからね)、それから身づくろい(あなたは囚人の身づくろいって、どんなものだか御存じですか?)、おしまいには、処刑台に上るまで町じゅうを引っぱり回されるのです……。やっぱりあの男には引っぱり回されているうちは、まだまだ生きていられる時が無限にあるような気がしただろうと思います。きっと、あの男は行く道々で、『まだ長いぞ、まだ三つの通りだけ命があるぞ。これを通り過ぎても、あとにはまだあの通りが残っている。その先にはまだ、右側にパン屋がある通りが残っている……パン屋のところまでたどりつくのは、いつのことやら!』と、そんなことを考えていたに相違ないという気がするのです。あたりには群集、叫び声、ざわめき、幾万の顔、幾万の眼、——これをすっかり、忍ばなければならない、がそんなことよりも、『ここに幾万という人間がいる、そして誰一人として死刑になる者はないのに、おれだけが死刑になるんだ!』という気持が起こってくるのです。まあ、こんなことはみな、死刑の前置きなんですね。処刑台には小さな梯子がかかっていました、その梯子の前へ来ると急に泣きだしました。もっともかなりに強い、男らしいやつだったんですが、大悪党だったと申します。いつも男の傍を、お坊さんが離れませんでした。馬車にまで相乗りして、しょっちゅう話をしていましたが——男の耳にははいらなかったようです。聞き始めたかと思うと、もう三こと目からはわからなくなるのです。それはそのはずでしょう。やがて、とうとう梯子を登り始めましたが、足を縛りつけられているものですから、小刻みに足を運ぶのです。坊さんは、たしかに利口だったとみえます、もう話をするのはよして、絶えず十字架へ接吻さしていました。梯子の下にいる時は、実に青ざめていましたが、処刑台に登って、立った時には、急にまっ白に、ちょうど、紙のように、それこそ、まるで、白い用箋のようになってしまいました。きっと両足に力がなくなって、棒のようになり、それに吐きけでも催したのでしょう、——なんだか咽喉のどを押さえつけられたような、それがために実際くすぐったいような、そんな気持をいつか、あなたたちは、びっくりしたあととか、非常に恐ろしい時とか、つまり、判断力はそっくり残っているのに、制御する力を少しももっていないというような時に、感じたことはありませんか。僕にはこういう気がするんです。たとえばもし、避けることのできない災難で、家があんたたちの上へ倒れかかってでも来たら、そこへ坐って、眼をつむって、どうにでもなれ! と、最後の時を待つつもりになるでしょう……。ちょうど、こんな弱気が起こってきた時に、お坊さんはこの時おそしとばかりに、大急ぎで、黙々と、男の口もとへいきなり十字架をあてがいました。小さい銀の粗末な十字架を——ひっきりなしにあてがうのでした。十字架が唇にさわったかと思うと、男は眼をあけて、また何秒かの間は元気づいたらしく、足もどんどん運べるのでした。十字架にむさぼるように接吻して、大急ぎに接吻して、まるで万一の場合の用意に何かを忘れずに、大急ぎにつかみ取るような風でした。もっとも、この場合に、何か宗教的なものを意識していたのかどうかはわかりませんね。まあ、こんなぐあいで、板のきわまでたどり着きました……。ところで、こんなどたんヽヽヽ場になっても、めったに卒倒なんかしないのは、不思議なものですね! そんなどころか、かえって頭がひどくいきいきしてきて、働きが活発になって、それこそ強く、強く、まるで回っている機械のように、強く働いているに相違ないんです。これは僕の想像なんですが、いろんな考えが、どれもこれも、まとまりのない、そしておそらく滑稽こっけいな、実に見当違いな、たとえば、『おや、あいつはおれを見ているぞ、——あいつの額にはいぼがある。あれっ、この執行人の下のボタンが一つ錆びてるぞ……』といったような気持が絶えず、ざわついていて、しかも何もかも知りぬいていて、何もかも覚えてるんですね。どうしても忘れられないっていうような点が一つあって、それがために、どうしても卒倒することもできずに、この点の回りを、あらゆるものが動いて、ぐるぐる回っているのです。まあ、考えてもごらんなさい。断頭台の上に頭を載せて、時の来るのを待ちうけながら、……めい悟ってヽヽヽ、突如として、頭の上に鉄の刃の滑って来るのを耳にする。その最後の四分の一秒に及んでも、こんな調子なのですからね。滑って来る音は、必ず聞こえるはずです! 僕がもしも横になっているんだったら、僕はわざと、耳をすまして、ようく聞いてやるんだがなあ! おそらく、一秒の十分の一くらいの間しかないでしょうけれども、必ず聞こえるはずですからね! それにどうでしょう、今でもまだ議論していますよ。ひょっとしたら頭が飛んでしまっても、まだ一秒くらいはね飛ばされたことを知ってるだろうって、——まあ、なんていう考え方なんでしょうね! もしも五秒もたったら、どうでしょう!……描いてごらんなさいよ、処刑台を。ただ一ついちばん上の段が、はっきりと、間近に見えるように。罪人がそれに足をかけていて、首や、紙のように色気のない顔があって、坊さんが十字架を差し出して、相手がむさぼるように青い唇をつき出して、じっと見つめて、何もかも悟っているヽヽヽヽヽところを。十字架と首——それはたしかに絵になりますよ。坊さんの顔だの、執行人だの、二人の手下だの、それから下のほうにいる何人かの人の首だの眼だの——そんなものはみんな、背景くらいのつもりで、ぼんやりと、点景として描いたらいいでしょう、……そうすればもう立派な絵ですよ」
 公爵は黙りこんで、一座の者を見わたした。
「これじゃ、隠遁主義らしいところはないわ、ほんとに」とアレクサンドラがひとり言を言った。
「さあ、今度は恋物語を聞かしてちょうだいよ」とアデライーダが言った。
 公爵はびっくりして、彼女を見つめた。
「あのね」とアデライーダはせきこんでいるらしかった、「あなたにはまだバーゼルの絵のお話を聞かしていただかなくちゃならないんですけれど、今はあなたの恋物語をお伺いしたいんですの。知らないなんておっしゃらないでくださいな。恋をなすったに相違ないんですもの。それにまた、そのお話をお始めになれば、じきに哲学者ではなくなるでしょうからね」
「あなたはお話がすむと、すぐにお話しなすったことをはずかしがるんですね」と、いきなりアグラーヤが口を出した、「どうしたわけなんでしょうね?」
「まあなんてばかなことを」と夫人は、腹立たしげにアグラーヤを見つめながらさえぎった。
「あんまり利口でもないわ」とアレクサンドラが相づちをうった。
「この子の言うことをにうけないでくださいよ、公爵」と夫人は公爵のほうを向いた、「この子は何かしら悪意があって、わざとこんなことを言ってるんですからね。こんなばかにしつけたつもりはないんですけれど。この子たちが、あなたを困らしてるんだなどとお考えにならないでください。きっと何か、たくらんでいるんでしょうけれど、この子たちは、もうあなたを好いているのですよ。わたしは、この子たちの顔つきを、ちゃんと見抜いていますよ」
「僕も見抜いています」と公爵は、特にことばに力を入れて言った。
「どんなことなんですの?」とアデライーダは好奇心をもって尋ねた。
「あたしたちの顔つきを、どういうふうに見抜いてらっしゃるんですの?」と、あとの二人も知りたがった。
 けれども公爵は黙りこんで、まじめくさっていた。一同は彼の返答を待ちうけていた。
「あとで申しましょう」と落ち着いて、まじめな調子で言った。
「あなたはむきになって、あたしたちの興味を釣ろうとしてらっしゃるんですわ」とアグラーヤが叫んだ、「それに、なんて、すまし方でしょうね!」
「まあ、いいわ」とアデライーダはまたせき込んで、「でも、あなたがそんなに顔を見る玄人くろうとなんでしたら、きっと、恋だってなすったに違いないわよ。つまり、私が当てたわけだわ。さあ、聞かしてくださいな」
「僕、恋におちたことなんかありませんよ」公爵は相変わらず、落ち着いて、まじめな調子で答えた、「僕は……別のことで幸福だったんですよ」
「まあ、どうしてですの、どんなことで?」
「よろしい、僕は聞かして差しあげましょう」と公爵はなんとはなしに深い物思いに沈んでいるかのような風をして、こう言った。
 
(つづく) 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 

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