白痴(第一編) ドストエフスキー

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  第一編

      七

 公爵が口をつぐんだ時、一同のものは(アデライーダまでが)楽しそうに公爵を眺めたが、リザヴェータ夫人はことにそうであった。
「まあ、試験されちゃいましたわ!」と夫人が叫んだ、「いかがです、淑女諸君、あなたがたは公爵をまるで哀れな子供みたいに、保護でもしてあげる気でいらっしたんですね、ところが公爵のほうで、あんたがたをやっと引き立ててくださったんですよ、おまけに、ほんの時たまにしか来られないという条件つきで。まあ、私たちは好いかげんにばかな目を見たわけになりますけれど、それでも私は嬉しいんですよ、いちばんばかを見たのはイワン・フョードロヴィッチですわ。すてきですわ、公爵、私たちはさっき、あなたを試験するようにいいつけられていたんですからね。それはそうと、私の顔についてあなたがおっしゃったことは、全くそのとおりでしたわ。私が赤ん坊だって、それは私もよく知ってますの。それはあなたがおっしゃる前から、わかっていたのですけれど、あなたは、私の考えていたことをただの一言で言いのけたのです。あなたの性質はそれこそ全く私とそっくりだと思いますの、まるで生き写しですわ。ただ、あなたは男ですけれど、私は女で、スイスへ行ったことがない、それだけが違っているだけです」
「そんなにあわてないでよ、ママ」とアグラーヤが叫んだ、「公爵がいろいろ打ち明けなすったのは下心があってのことで、何心なく言ったんじゃないって、御自分でおっしゃってるんですよ」
「そうだわ、そうだわ」と他の者も笑った。
「そんなにからかうもんじゃないよ。公爵はひょっとしたら、おまえたち三人をいっしょにしたよりも、もっともっとずるいおかたかもしれないからね。ええかい。けど、ねえ、公爵、あなたはいったいどうしてアグラーヤのことをなんともおっしゃらなかったんですの? アグラーヤも当てにしていますし、わたしも待っているんですよ」
「すぐにはなんにも申し上げられません。のちほど申し上げます」
「どうしてですの? この子は目立つように思うのですけれど」
「え、そう、目には立ちますね。アグラーヤ・イワーノヴナさん、あなたはすてきな美人です。あなたを見るのがこわいほどのきれいなおかたです」
「たったそれだけですの? 性質のほうは?」と夫人はせがんだ。
「美の批評はむずかしいことです。僕にはまだ用意ができておりません。美は謎です」
「それはつまり、アグラーヤに謎をかけたことになりますね」とアデライーダが言った、「解いてごらんよ、アグラーヤ。でもきれいでしょう。公爵、きれいでしょう?」
「実に!」と公爵は心をひかれてアグラーヤを見つめながら、熱のこもった調子で答えた、「お顔はすっかり違いますけれど、だいたいナスターシャ・フィリッポヴナと同じことです!……」
 一同はびっくりして互いに顔を見合わせた。
「え、だれと、ですってえ?」夫人は長く引っぱった、「ナスターシャ・フィリッポヴナと? あなたはどこでナスターシャ・フィリッポヴナとお会いになりましたの? いったい、どのナスターシャ・フィリッポヴナですの?」
「さっきガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんがイワン・フョードロヴィッチさんに写真をお目にかけていたのです」
「なんですって? イワン・フョードロヴィッチのところへ写真を持って来たのですか?」
「そう、お目にかけに。ナスターシャ・フィリッポヴナが今日ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんに写真を進呈したんですって、それをお目にかけに持ってらしたんです」
「わたし見たいわ!」と、夫人が叫んだ、「その写真はどこにあるんでしょう? あの人に進呈したのなら、あの人んところにあるはずだわ。でも、あの人はむろんまだ書斎にいるでしょう。いつも木曜ごとに仕事をしにやって来て、けっして四時より早くは帰らないのだから。今すぐにガヴリーラ・アルダリオノヴィッチを呼びなさい! いいわ、よすわ、死ぬほど会いたいわけでもないから。ねえ、公爵、お願いですからね、書斎へ行ってちょうだいな。写真を借りて、ここへ持って来てくださいな。ちょっと見たいからっておっしゃってね。どうぞ」
「いい人だわ、でもお人好しすぎるわね」と公爵が出て行くとアデライーダが言った。
「そうね、なんだかすぎるわね」とアレクサンドラが尻馬に乗った、「だから少し滑稽なくらいだわ」
 二人とも考えていることを、すっかり言わないらしかった。
「もっとも、わたしたちの顔のことでは、うまく言い抜けたわ」とアグラーヤが言った、「みんなにお世辞をつかって、ママまでにも」
「どうぞだから、洒落しゃれは言わないで」と夫人は叫んだ、「あの人がお世辞をつかったわけじゃなくって、わたしがお世辞に乗せられたんですよ」
「あの人がうまく逃げたと思ってるの?」とアデライーダが聞いた。
「わたし、そんなにお人好しじゃないと思うわ」
「さあ、また始まった!」と夫人は怒りだした、「わたしから見ると、おまえたちのほうがずっと滑稽だわ。お人好しだけれど、腹は黒いわよ。むろん、これは、高尚な意味で、まるで私とそっくりだわ」
『僕が写真のことなどを言いだしたのは、もちろん間違っていた』と公爵は書斎に近づきながら、いくぶん良心の苛責かしゃくを覚えて、ひとり反省してみるのであった、『しかし……ことによったら、言いだしたことがかえって良かったかもしれない……』
 胸の中にはある不思議な観念がひらめきだした。とはいっても、なお漠然としたところがあった。
 ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチはまだ書斎に坐って、書類の整理に余念がなかった。実際、彼は会社からいたずらに給料をもらっているのではないらしかった。公爵から写真を頼まれ、連中が写真のことをいかにして知るに至ったかということを聞かされると、彼はひどくどぎまぎした。
「え、えっ! なんだって、あんたはそんなおしゃべりをする必要があったんです!」と彼は腹立たしげに叫んで、「何も知りもしないで……白痴!」と口の中でぶつぶつ言っていた。
「御免なさい。何の気なしに、ついうっかりしていて、話のついでに出てしまったのです。僕はアグラーヤさんが、ほとんどナスターシャ・フィリッポヴナさんと同じくらいにきれいだと言ってしまったんです」
 ガーニャはもっと詳細にわたって話してくれと頼んだ。公爵は話して聞かせた。するとガーニャは再びあざけるかのように彼を見つめた。
「ナスターシャ・フィリッポヴナも偉い人に覚えられて、……」と彼はつぶやいて、言い終わらずに考え込んでしまった。彼は明らかに恐惶きょうこうを来たしていた。
 公爵は写真のことをうながした。
「ねえ、公爵」とガーニャは思いもよらぬことに胸を打たれたかのように、不意に言うのであった、「僕はあんたにたいへんなお頼みがあるんですけれど……実際、わからないものですから……」
 彼はどぎまぎして、話を途中で切ってしまった。何かしら覚悟を決めて、自分自身と闘っているらしかった。公爵は黙々として、待ち構えていた。ガーニャはもう一度、腹をさぐるような眼を据えて相手をじろじろ眺めた。
「公爵」とまたもや言いだした、「今、あの人たちは僕のことを……ある実に不思議な……そして滑稽な事情のために——しかも僕にはこの事では何のとがもないのに……いや、要するに、こんなことは言う必要はないのですが……あの人たちは僕のことを少々怒っている様子です、だから僕は呼ばれもしないのにあちらへ行く気はないのです。しかし、アグラーヤ・イワーノヴナさんと今ぜひともお話ししなければならない用事があるんですが。万一のためをおもんぱかって、ちょっと手紙を書いておきました(彼の手に小さく折り畳んだ紙きれが現われた)、——ところが、どうして渡したらいいものかわからないのです。どうか、公爵、これをお持ちなすって、アグラーヤ・イワーノヴナさんにさっそくお渡しくださいませんか。もっともアグラーヤ・イワーノヴナさんお一人だけ、つまり、その、ほかの人に見つけられないように、いいですか? これはけっして、内証事や何かじゃないのでして、何もそんなことは、……でも、……引き受けてくださるでしょうか?」
「そんなことをするのは僕はあんまり好い気持じゃありません」と公爵は答えた。
「ああ、公爵、僕にとっては、とてもせっぱつまった用事なんですが!」とガーニャは哀願し始めた。
「あの人も、たぶん、返事してくださるでしょう……お察しください、僕はただ押し迫っているので、非常に押し迫っているので、それで、お頼みをしたわけなんでして、……他に誰一人とどけてくださるかたもないんですからね。……これは実に大事なことでして、……僕にとっては非常に重大なことなんです……」
 ガーニャは公爵が承諾してくれなかったらと、極度におじけづいて、おずおずと頼みながら公爵の眼の色をうかがっていた。
「そんなら、まず渡してあげましょう」
「ですけれど、ただ、誰にも気づかれないようにですよ」と、いい気持になって、ガーニャは念を押した、「それになんですね、公爵、けっしておっしゃったことに間違いはないだろうと存じますが、よろしゅうございますね?」
「誰にも僕は見せませんよ」と公爵は言った。
「この書面には封がしてありませんが、しかし……」と、ガーニャはすっかり、もじもじしながら、こう言いかけたが、急にまごついてやめてしまった。
「おお、けっして僕は読みやしませんよ」と公爵は至極あっさり答えて、写真を取ると、たちまち書斎の外へ出て行った。
 ガーニャは、ひとりぽっちになると、頭をかかえた。
『あの人のただの一言で、おれは……おれは本当に縁切りにしてしまうかもしれないんだ!……』
 公爵は物思いに沈みながら歩いて行った。頼まれたことを思い、ガーニャがアグラーヤにやる手紙のことを思うと、不愉快な気持がしてならなかった。しかし客間からまだ二つの部屋が残っているところで、彼は何事かを思い起こしたように、ふと立ち止まって、あたりを見回し、窓の光のさすほうへなるべく近く寄り添って、ナスターシャ・フィリッポヴナの写真を見つめ始めた。
 この顔のうちに秘されていて、さっき自分の胸を打った何ものかの謎を解きたいような気がした。さっきの印象が、まだほとんど残っていたが、今は何ものかを再び確かめようとでも焦っているらしかった。美しいということばかりによってではなく、さらに何ものかによってもたぐいまれなるこの顔は今はいっそう力強い感銘を彼に与えた。この顔には、限りないプライドと、ほとんど憎悪に近い軽侮の念とが浮かんでいるように思われる。また、それと同時に、何かしら他人を信頼するようなもの、何かしら驚くばかりに天真爛漫なものがあり、この異なった二つのものの対照は、この面かげを見る者に、一種の憐憫れんびんの情をすらもひきおこすように思われる。このまばゆいほどの美しさ、青白い顔、ほとんど落ちくぼんだような頬、燃えるような眼の美しさはたまらないほどの魅力をもっている。まことに不思議な美しさであった! 公爵は一分間ばかり眺めていたが、やがて、ふとわれにかえって、あたりを見回し、急いで写真を唇に近づけて接吻した。一分間して、客間の中にはいった時、彼の顔は事もなげに静まりかえっていた。
 しかし彼が食堂に足を踏み入れるやいなや(客間との間にはもう一つの部屋があった)、危うく向こうから出て来るアグラーヤに戸口のところで突き当たろうとした。彼女は一人きりであった。
「ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんが、これをあなたに渡してくれとのお頼みでした」と、公爵は書面を渡しながら言った。
 アグラーヤは立ち止まって書面を受け取ると、なんとなく不思議そうに公爵を見た。そのひとみにはいささかもうろたえたようなけはいがなく、ただいくぶん驚いたような様子が見えたが、しかもそれも、ただ単に公爵だけに関連したものらしかった。アグラーヤの眼は、たしかに——いかにして公爵がこの事件にガーニャと共に登場してきたのか?——と、これに対する報告を要求しているらしかった。しかも落ち着き払って、おうへいに要求しているのである。二人は二、三秒の間、互いに向き合って立っていたが、ついに何かしら皮肉めいた感じが彼女の顔に浮かんで、彼女は薄笑いを浮かべながら、傍を通り過ぎて行った。
 将軍夫人はしばらくの間、口をつぐんだまま、別に気にもとめないような風をして、ナスターシャ・フィリッポヴナの写真を見つめていたが、夫人はその写真をひどく感心したように眼から遠ざけて、差し伸べた手に支えていた。
「そう、きれいだわね」とついに言いだした、「なかなかきれいだね、わたしは二度もこの人を見ている。もっとも遠くからだけれど。それで、あなた、こんな美しさをあなたは尊重してるんですね?」と、いきなり公爵のほうを向いた。
「ええ……こんな……」と公爵は、やっとのことで、こう答えた。
「つまり、ちょうどこんなのをですね?」
「ちょうどこんなのをです」
「どういうわけで?」
「この顔には……かなりの苦しみがあります……」公爵は、あたかもひとり言を言っているかのように、なんとはなしにわれ知らず語っているかのようにこう言ったが、それもけっして質問されたから答えるというような風はなかった。
「それにしても、ひょっとしたら、貴方は夢を見てるかもしれませんね」と夫人は断定して、ぎょうさんな身ぶりをして写真をテーブルの上に放り出した。
 アレクサンドラは写真を拾い上げた。すると、アデライーダがそれに近づいて、二人は共に眺め始めた。ちょうどこの時アグラーヤがまた客間へ帰って来た。
「なんていう力でしょう!」とむさぼるように姉の肩越しに写真をのぞき込んでいたアデライーダが不意に叫んだ。
「どこにさ? どんな力なの?」とリザヴェータ・プロコフィエヴナが鋭く聞きかえした。
「こういう美しさは力ですわ」と熱心にアデライーダが言った、「こんな美しさをもっていたら、世界をひっくりかえすこともできるんだわ!」
 彼女は物思わしげに画架の方へ後ずさりした。アグラーヤはほんのちょっと、写真をのぞいて、軽く眼を細くし、下唇をつき出して、側を離れ、両手を組んで脇のほうへ腰をかけた。
 夫人はベルを鳴らした。
「ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんをここへ呼んで来ておくれ、あの方は書斎にいなさるはずだから」と、部屋へはいって来る召使いに言いつけた。
「ママ!」と意味ありげにアレクサンドラが叫んだ。
「あのかたに私はふた言ばかり言いたいの——ただそれだけでたくさんだわ」と夫人は娘の抗議を押さえながら、せき込んであとを言わせなかった。
 彼女は明らかにいらだっていた。
「あのね、公爵、うちでは今、何もかも秘密なんですよ! 何もかも秘密! そのほうがいいんですとさ、一種の礼式ですって、ばかばかしい。それに、こんなことは何よりもざっくばらんに、はっきりと、正直に言ったほうがいいことなんですからね。今、縁談がきまりかけているんですけれど、私はこんな縁談は気に食わないんですの」
「ママ、何をおっしゃるの?」とまたもやアレクサンドラはあわてて母を食いとめた。
「なんだね、おまえは? おまえは自分では気に入ってるの? 公爵が聞いていらっしゃるからって、私たちはお友だちなんですよ。少なくとも私とは。神様はむろん、いい人たちを捜していらっしゃるから、悪い人だのうわ気者には御用がないんですよ。わけても、今日は一つのことを決めて置きながら、明日は違ったことを言うようなうわ気者には御用がないんですって。わかりましたかね、アレクサンドラさん? この人たちはね、公爵、わたしを変人だって言うんですけれど、私にだって物の区別くらいはつきますよ。情というものが大事ですからね、あとはみんなつまらないものです。知恵というものも、もちろん、必要ですわ……たぶん、知恵がいちばん大事かもしれません。笑うのはよして、アグラーヤ、私は自分でつじつまの合わないことなど言いやしないんですからね。情があって、知恵のないばか者は、知恵があって情のないばか者と同じように不仕合わせなばか者なんですからね。こんなことは昔からの真理ですよ。ところで私は情があって知恵がないばか者だし、おまえさんは知恵があって情がないばか者だし、してみると、どちらも不仕合わせで二人とも苦労するわけですよ」
「いったい、なんであなたは不仕合わせですの、ママ?」とアデライーダはたまらなくなって問いかけたが、彼女は一座のうちで、おそらくただ一人陽気な気持を失わなかったように思われた。
「第一に、学問のある娘たちがいるから」と夫人は言い返した、「もう、これ一つだけでもたくさんだから、よけいなおせっかいはしないことだわ。口数の多いのも、もう結構だわ。まあ、見てましょうよ、知恵があって、口数の多いおまえさんたちお二人が(アグラーヤは勘定に入れませんよ)、どんな風に切り抜けて行くか、そして、いちばん御立派なアレクサンドラさん、あなたが、あの大事なおかたといっしょになって、仕合わせだかどうだかを……ああ!……」と夫人は中へはいって来るガーニャを見ながら、こう叫んだ、「ここにもまた婚約の人が一人お見えになった、いらっしゃい!」彼女は(おかけなさい)とも言わずに、ガーニャのお辞儀に応えた。「あなたも結婚なさるんでしょう?」
「結婚?……え?……どんな結婚?……」とガヴリーラ・アルダリオノヴィッチはすっかりめんくらってこうつぶやいた。彼はひどくどぎまぎした。
「じゃ、家をおもちになるんでしょう?——もしそういう言い方をしたほうがいいんでしたら、そうお聞きしましょう?」
「いい、え……わたしは……い、い、え」とガヴリーラ・アルダリオノヴィッチは嘘をついたが、きまりが悪くて顔が赤くなった。
 彼は脇のほうに腰をかけているアグラーヤをちらと見たが、すぐに眼をそらしてしまった。アグラーヤはひややかに落ち着き払って、眼を放さずに彼を見つめたが、彼女は彼の狼狽ろうばいしている様子を見まもっていたのである。
「いいえって? あなたは『いいえ』とおっしゃいましたね?」と片意地な夫人は執念ぶかく追及した、「もういいわ、今日という今日、水曜の朝、わたしの問いに対して『いいえ』とあなたがおっしゃったことを、よく覚えておきましょうよ、今日は何曜、水曜?」
「きっと、そうでしょう、ママ」とアデライーダが答えた。
「いつも何日か知らない。今日は何日?」
「二十七日です」とガーニャが答えた。
「二十七日? ある意味で、それは結構ですわ。さようなら。あなたにはお仕事がどっさりおありでしょうね。私ももうしたくをして出なけりゃなりません。あなたの写真を持っていらっしゃい。あなたの不仕合わせなニイナさんによろしく。またお目にかかりましょうね? ときどき遊びにいらっしゃい。私はこれからあんたのことを話しに、ベラコンスカヤのお婆さんのところへ、わざわざ出かけるところです。それからねえ、公爵、わたしは神様が、とりもなおさず私のために、あなたをスイスからペテルブルグへ連れて来てくだすったのだと信じてますよ。たぶん、あなたにも他にいろんな用事ができてくるでしょうけれど、それもおもに私のためなんですよ。神様はそういうおつもりでいらしったはずですもの。さようなら、おまえたち、アレクサンドラ、ちょっとわたしの部屋へ来てちょうだい」
 夫人は出て行った。ガーニャは心みだれ、消然として、いきどおろしく、テーブルから写真を取って、苦々しくゆがんだ微笑を浮かべながら、公爵をかえり見た。
「公爵、わたしはすぐに帰宅します。もしも、わたしの所へ下宿なさろうっていうおつもりに変わりがなかったら、お連れ申しましょう。さもないと、アドレスを御存じないでしょうから」
「公爵、ちょっとお待ちください」とアグラーヤが椅子から身を起こしながら、不意に言った、「あなたはまだ私のアルバムへ何か書いてくださらなきゃいけませんよ。パパがあなたを能書家だって申しましたから。すぐに、わたし、持ってまいりますわ」
 彼女は部屋を出て行った。
「公爵、またいずれ、わたしもおいとまします」アデライーダが言った。彼女はしっかりと公爵の手を握って、やさしく愛想よくほほえみかけて、出て行った。
 ガーニャには眼もくれなかった。
「あれはあなたが」と、みんなが出て行くやいなや、ガーニャは不意に公爵に食ってかかりながら、歯ぎしりし始めた、「わたしが家をもつなんて、あれはあんたがおしゃべりしたことだ!」と彼はすさまじい顔をして、恨めしげに眼を光らせながら、半ばささやくように早口につぶやいた、「あなたという人はずうずうしいおしゃべりだ!」
「あえて申しますが、それはあなたの思い違いです」と、冷静に、丁寧に公爵は答えるのであった、「僕はあなたが結婚なさるということは知りもしなかったのです」
「あなたはさっき、イワン・フョードロヴィッチさんが、今晩ナスターシャ・フィリッポヴナのところで万事が解決すると言っていたのをお聞きになって、それを告げ口なすったんです! 嘘を言って! あの人たちがどうしてぎつけられるもんですか? いまいましい、あんたのほかに誰が言いつける? あの婆め、わたしをあてこすったじゃありませんか?」
「あてこすられたとあなたが思うのなら、誰が告げ口したか、あなたのほうがよくおわかりでしょう。僕は一言だってそんなことは言いませんよ」
「書面を渡してくれたんですか? 返事は?」もえるような焦燥の念にかられながらガーニャは公爵のことばをさえぎった。
 ところがちょうどこの時、アグラーヤが戻って来たので、公爵は言い返す暇もなかった。
「さあ、公爵」とテーブルの上にアルバムを置きながら、アグラーヤが言った、「どこかお好きなページへ、何か書いてちょうだい。これ、ペン、まだ新しいの。鋼鉄てつのでかまいません? 能書家は鋼鉄のペンでは書かないって聞きましたけど」
 公爵とことばを交えながら、彼女はガーニャがそこにいることに、気も留めぬかのごとくであった。しかし公爵がペンをなおし、ページを繰って、用意をしているひまに、ガーニャはアグラーヤが立っている暖炉のほうへ近づいて行った。そこはちょうど、公爵のすぐ右側に当たるところであった。そして、ふるえがちな、とぎれとぎれな声で、ほとんど耳打ちせんばかりにアグラーヤにことばをかけた。
「一言、たった一言聞かしていただけたら、それでわたしは救われるんです」
 公爵はひょいとふり返って、二人を見た。ガーニャの顔には絶望そのものの色が浮かんでいた。彼はこれだけのことばを考えもせずに夢中で言ったらしかった。アグラーヤは二、三秒の間、さっき公爵を見た時と全く同じような、あの落ち着き払った驚きを見せて、彼を見つめていた。それにしても、あたかも相手の言ったことが何のことやら、さっぱりわからないといったような、この落ち着き払った驚き、この疑惑の色は、この瞬間のガーニャにとっては最も辛辣しんらつ侮蔑ぶべつよりもさらに恐ろしいものであった。
「いったい、何を書いたらいいでしょう?」と公爵は聞いた。
「今わたしが口で申します」とアグラーヤはふり返りながら言った、「よろしゅうございますか? 書いてくださいな、『わたしはせり売りには出されませぬ』こんどは月日を書いて下さい。見せてちょうだい」
「まあ、すばらしいわ! ほんとに立派に書いてくださいましたわね。なんてみごとな、お手並みでしょう! ありがとう存じます。では、公爵、またそのうち……。あ、ちょっと待ってください」彼女は急に何か思い出したように付け加えた、「あちらへまいりましょう、記念に何か差し上げたいんですの」
「これを読んでちょうだい」と彼女は公爵にガーニャの手紙を渡しながら言った。
 公爵は手紙を受け取ったが、不審の念をうかべてアグラーヤを見つめた。
「わたし、知ってますわ、あなたが御覧にならなかったことも、あなたがあの人の子分にもなれないことを。まあ、読んでくださいな。わたしはあなたに読んでいただきたいんですから」
 手紙にはき込んで書いたことがありありと見えていた。

 
  今日、私の運命は決せられようとしています。いかなる道をたどるかは、御承知のことでしょう。今日、私は二度とひるがえすことのできない固い約束をしなければなりません。今はあなたの御同情を乞うべきなんらの権利もなく、あえてなんらの期待をも持とうとはいたしません。けれど、いつぞや、あなたは一言、ただ一言おっしゃってくださいましたが、その一言が私の一生の暗澹たる夜を照らし、ついに私の燈台ともなったのでした。どうかいま一度、ただ一言、あのようなおことばをおかけくださいますよう、——そうして滅亡にひんしている私を救ってくださいまし! どうか私に何もかもやめてしまえヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽと、それだけおっしゃってください。そうすれば私は今日にでも何もかもやめてしまいます。ああ、これくらいのことをおっしゃってくだすったとてなんでございましょう! この一言のうちに、私はあなたの私に対する同情と憐れみのしるしなりとも見いだしたいと願っております——ただ、それだけ、それだけのことですヽヽヽヽヽヽヽヽヽ! それ以上は何もございません! 何もございません! 私はあえてなんらかの期待を持とうなどというつもりはさらにございません。そんな期待を持つほどの柄でもございませんから。けれど、あなたにただ一言おっしゃっていただけましたら、再び私は貧困に甘んじ、喜んでこの絶望の状態をも堪え忍ぶ者であります。闘いにも直面して、それを喜びとし、そのうちに新しい力を得て更生いたしましょう! どうぞ、同情の(誓って申しますが、ただただヽヽヽヽ同情の)、おことばをお寄せくださいまし。絶望に瀕した者が絶望の淵よりおのれを救わんとして、あえて最後の努力をなしたことに対して、そのあつかましさをお叱りなきように切にお願い申し上げます。
  G・I・

「この人はね」と公爵が読み終わった時、アグラーヤは鋭く言うのであった、「『何もかもやめてしまえ』ということばが私にるいを及ぼしたり私を束縛したりしないとはっきり言っています。そして、自分から、御覧のとおり、証文としてこの手紙をよこしているのです。どうでしょう、子供みたいに、そそくさと二、三か所、傍へ線まで引いて念を押しているんですよ。でも、腹の底の気持がなんてぶざまに見え透いてることでしょう。もっともあのひとが、何もかもよして、それも自分ひとりで、わたしのことばなどあてにしないで、それに、こんなことをわざわざ言わずに、いっさいわたしなんかに頼らないんでしたら、わたしもあのひとに対する気持を改めて、あのひとのお友だちにもなったでしょう。そのくらいのことは、あのひとだって、ちゃんと承知しているはずです! それだのに、あんな腐れ根性をもってるんですからね。承知していながら、ぐずぐずしてるんです。承知してながら、やっぱり証拠を欲しがっているのです。あのひとは信用しようっていう覚悟がつかないんです。十万ルーブルの代わりに、わたしが期待をかけさせるようにと望んでいるんです。この手紙の中であのひとの一生を照らしたかのように言っている以前のわたしの一言って、これはずうずうしくあのひとが嘘をついてるんです。わたしはたった一度、可哀そうだって言っただけなんですからね。それを、あつかましい恥知らずなもんですから、すぐに当てにしてもいいような気になったのですね、そんなことはじきに悟りましたわ。それで、その時からわたしを釣りにかかったのです、今でも釣ってはいますけれど、でも、もう飽き飽きしましたわ。この手紙を持ってって、この家をお出なすったら、すぐに、むろんそれより早くちゃいけませんけど、返してやってくださいな」
「それじゃ返事はどう言います?」
「むろん、何も言いませんわ。これがいちばんいい返事ですからね。それじゃ、あなたは、あのひとの家へ下宿するおつもりですの?」
「さっき将軍が紹介してくだすったものですから」と公爵は言った。
「じゃ、前もって申し上げておきますけれど、あのひとを用心なさいまし。この手紙をお返しなすったら、もう今度はあなたを容赦しませんからね」
 アグラーヤは軽く公爵の手を握って、出て行った。顔はまじめらしく、気むずかしげであった。彼女は、さよならのつもりで、公爵に向かってうなずいた時、ほほえみさえもしなかった。
「僕はちょっと風呂敷包みを取って来ます」と公爵はガーニャに言った、「それから出かけましょう」
 ガーニャはたまらなくなって、足を踏み鳴らした。その顔は忿怒ふんぬのあまり、黒ずんでさえもきた。やがてついに二人は通りへ出た。公爵は包みを両手にかかえていた。
「返事は? 返事は?」とガーニャは公爵に詰め寄った、「あの人はあんたになんて言いました? あの手紙を渡してくれましたかね?」
 公爵は黙って手紙を返した。ガーニャは驚いて立ちすくんでしまった。
「え? わたしの手紙が!」彼は叫んだ、「こいつめ、渡してもくれなかったんだな! ああ、ついうっかりしていた。おお、この、ち、畜生……道理で、さっき、こっちの言うことがあの人にさっぱり呑み込めなかったはずだ! だがいったい、どう、どうして、どうしてあんたは渡してくれなかったんだ、ええ、この、ち、ち、畜生……」
「失礼ですが、とんでもないことです。僕はあんたが私におよこしになると、しかも、ぜひそうしてくれとおっしゃられたとおりに、お手紙を渡すことができたんです。それがまた僕の手へ返って来たのは、アグラーヤ・イワーノヴナさんがお返しなすったからです」
「いつ? いつですか?」
「ちょうど、僕がアルバムへ書き終えて、あのひとが僕をお呼びになった時です(あなたもお聞きになったでしょう?)。二人が食堂へはいると、あのひとは僕に手紙を渡して、読めとおっしゃって、それからあなたに返してくれって言いつけたのです」
「読めぇ、って!」とガーニャはほとんどあらん限りの声をしぼってわめき立てた。「読めって! それで貴方は読んだんですか?」
 そこで彼はまた茫然自失して舗道ほどうのまん中へ立ちすくんでしまった。しかも、あいた口がふさがらないほど度胆をぬかれていたのである。
「え、読みました、すぐに」
「じゃあの人が自分から、自分からあんたに読ましたんですか? 自分から?」
「そうです、はっきり言いますけど、僕はあの人に勧められなかったら、けっして読まなかったはずです」
 ガーニャは一分間ほど口をつぐんで、苦しい努力をして何か考え込んでいたが、いきなりわめきだした。
「そんなことがあるもんか! あの人が読めって言いつけるはずがあるもんか。あんたは嘘をいってるんだ! あんたが自分で読んだんだ!」
「僕は正直なことを言ってるんです」と公爵は相変わらず、すっかり落ち着き払った調子で答えた、「本気にしてください。このことがそれほどあなたに不愉快な気持をおこさせるかと思うと、たいへんお気の毒です」
「冗談じゃない、困った人だ、でもその時、何かあなたに言ったでしょう? なんとか返事したでしょう」
「そう、もちろん」
「そんなら聞かしてください、聞かしてくださいって、ああ、いまいましい!……」
 こう言ってガーニャはオーバ・シューズをはいた右の足で舗道を二度ほど踏み鳴らした。
「僕が読み終わったかと思うと、あのかたは、あなたがあのひとの希望をあてにして、何も損をすることなしに十万ルーブルに対するもう一つの希望を台なしにするためには、ぜひとも希望をかけさせてもらいたいので、それで、あなたがあのひとを釣りたがってるんだって言いましたよ。もしも貴方が、あのひとに駆け引きなどしないで、こんなことをしたんだったら、それに、あのひとに前もって証拠をくれなんかと言わずに、自分からいっさいをよしてしまったんなら、その時はたぶんあなたのお友だちにもなったんだろうって、そうも言ってました。これだけだったと思います。そうだ、まだある。手紙を受け取ってから、返事はどう言いますか? って聞きましたら、返事のないのがいちばんいい返事だと申しました。たぶん、そうだったと思います。もし、僕がはっきりした言い方を忘れて、自分の呑み込みどおりにお伝えしているのでしたら、御免なさい」
 ガーニャの身も心も量り知られぬ恨みに満たされていた。忿怒の情はとめどなく湧き出て来た。
「ああ! なるほど!」と彼は歯ぎしりした、「それじゃ、僕の手紙なんかは窓の外へ放っちまえばいいんだ! ああ! セリ売りには出されませんよ! だって。僕はせり売りに出されるんだ! まあ、見ていましょうよ! 僕を買うにはたくさん……まあ、見ていることだ!……鼻っ柱をくじいてやるから!……」
 彼は顔をゆがめて、まっさおになり、泡を吹いていた。彼は拳を握りしめて、威張っていた。こうして二人は何歩か歩いて行った。公爵に対しては少なからず無遠慮にふるまい、あたかも自分の部屋にただ一人いるかのようであった。それというのも、彼をまるで虫けらか何かのように取るにも足らぬものと考えていたからである。
 ところが不意に何か考え込んでわれにかえった。
「だが、どういうわけで」と彼は公爵のほうをふり向いた、「どういうわけであんたは(白痴が! と口の中で付け足して)、はじめて知り合ってから二時間ばかりのうちに、急にこんなに信頼されるようになったんです? いったい、どういうわけなんです?」
 いろいろ今まで苦しい思いをしたが、まだ嫉妬しっとの念には事欠いていた。それが急に彼の心臓そのものを、ちくりと刺したのである。
「そんなことは僕には説明できませんね」と公爵は答えた。
 ガーニャは恨めしそうに公爵を見た。
「いったい、あのひとがあんたに何か差し上げるなんかと言って、食堂へ呼んだのは信頼したからじゃないんですか? 事実あのひとはあんたに何か贈るつもりだったんでしょう?」
「まあ、まさしくそうだと思うよりほかはありませんね」
「けどもいったい、何のために、ええ、畜生! あすこで何をしたんです、あんたは? 何であの人たちに気に入られたんです? ねえ、君」と彼はひどく気をもむのであった(このとき、彼の気持はすっかり散り散りになって、ごった返しているように思われた。彼は考えをまとめることもできないほどであった)、「あのね、なんとかして、あそこで話したことを初めからすっかり思い返して、順序を立てて話すことはできないんですか? 何か気がついたことはなかったんですか、覚えていないんですか?」
「おお、それはできますよ」と公爵は答えた、「僕が部屋へはいって挨拶すると、すぐその場から、スイスの話を始めたのでした」
「ええ、スイスのことなんかくそでも食らえだ」
「それから死刑の話を……」
「死刑の話って?」
「ええ、ちょっとしたことから……、それから僕が三年の間、あちらでどんな暮らしをしたかということだの、ある可哀そうな村娘との出来事だの……」
「ええ、可哀そうな村娘なんかどうでもいい! それから!」ガーニャはたまらなくなって、いきり立った。
「それから、シネイデル先生が僕の性質について自分の意見を述べ、僕を無理強いしたことを話したのです」
「シネイデルなんてくたばっちまえだ。そんな野郎の意見なんてとも思わん。それから、どうした!」
「それから、ちょっとしたことから、顔のこと、つまり、人相の話をして、アグラーヤさんはほとんどナスターシャ・フィリッポヴナと同じくらいにきれいだと言ったのです。僕が写真のことをうっかりしゃべっちゃったのはその時です……」
「しかし告げ口はしなかったんですか、さっき書斎で聞いて行ったことを告げ口はしなかったんですか? しなかった? しなかった?」
「くり返して言いますが、そんなことはしませんよ」
「してみると、どこからあん畜生め……ああ! アグラーヤさんは婆さんに手紙を見せなかったんですか?」
「見せなかったことは十分に僕が保証します。僕はずっとあそこにいたんですし、それにアグラーヤさんにそんな暇もなかったことです」
「うむ。だって、あんたは何か見そこなったかもしれんし……。ああ、こ、ま、った白痴野郎だ」と彼は全くわれを忘れて叫んだ、「何一つ話すこともできないやつなんだ!」
 ひとたび悪口を言いだして、しかもさからいもされずに、ガーニャはだんだんと、ある種の人たちにありがちなように、抑制力を失っていった。もう少しそのままにしておいたら、おそらく唾をも吐きかねなかったであろう。彼はそれほどまでに憤激していたのである。しかも、この憤激に燃えていたればこそ、盲目にもなっていたのである。さもなくば、自分がかほどまでに冷遇しているこの『白痴』が、どうかすると早すぎるほど早く、敏感に、あらゆることを理解し、実に申し分がないほど立派に物事を他人に伝えることができるということに、とうから注意を払っていたはずなのである。
 ところが不意に思いもよらぬ事が起こった。
「ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさん、僕は言っておかなけりゃなりませんが」と、だしぬけに公爵が言うのであった、「以前は僕もたしかに丈夫ではなくて、それで、実際に白痴に近かったものでした。けれども今はもうとっくにからだのぐあいもよくなっているのです、だもんですから眼の前で自分のことを白痴って言われるのは、あんまり気持のいいものでもありません。あんたの失敗をよくよく考えてみれば、とがめ立てするわけにもいきませんが、しかしあなたはいまいましがって、もう二度ほども僕のことを悪く言いなすった。こんなことは僕には好ましくないことでして、ことに、あんたみたいな人に初めっから、いきなりおっしゃられるのは、いやなんですよ。ちょうど、四つ角へ来ましたから、ここで僕たちはお別れしたほうがよくはないでしょうか。あなたは右へいらっしゃい、僕は左へです。僕は二十五ルーブルもっとりますから、必ずどこか下宿屋が見つかるでしょう」
 ガーニャはだしぬけにやりこめられたのでひどく狼狽し、羞恥の念に顔を赤らめさえもした。
「御免なさい、公爵」と、にわかに口ぎたない調子を極度に丁寧な調子に変えながら、興奮して叫ぶのであった、「後生ですから御免なすってください! 僕がどんなに難儀しているか、あなたもよくおわかりでしょう。また、ほとんどなんにも御承知にならないわけですが、もしもいっさいのことを御承知くだすっていたら、いくぶんたりとも必ずお許しくださるだろうと存じます。むろん、私は申しわけがないんですけれども……」
「おお、僕はそんなにたいへんなおわびをしていただかなくとも結構です」と、公爵は急いで答えた。「僕はあなたがかなり不愉快でいらしって、それで悪口をおっしゃることも、よくわかります。じゃ、あなたのところへまいりましょう。僕は喜んで……」
『いや、もう、こんなやつを容赦することはできない』ガーニャは途中で恨めしそうに公爵を見つめながら、心の中で考えていた、『このぺてん師め、おれのはらん中をすっかり探り出してから、不意に仮面をとりやがって……。これには何かいわくがあるんだ。だが、まあ見てよう! 万事が解決するんだから、万事が、何もかも! しかも今日!』
 もう彼らは家のすぐ側に立っていた。
 
(つづく) 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 

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