白痴(第二編) ドストエフスキー

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  第二編

      十一

 ようやく三日目になって、エパンチン家の人々の機嫌がなおった。
 公爵はいつものように多くの点で自分を責め、罰せられることは心の底から覚悟をしていた。それにしても初めはリザヴェータ・プロコフィエヴナが本当に腹を立てはしない、むしろ彼女は自分で自分に腹を立てたのだと堅く信じていた。このように確執の期間が長びいたので、三日目になると公爵はきわめて陰鬱な袋小路にでも踏み込んでしまったかのような気持になった。それは種々の事情のためではあろうが、わけても一つのことがおもなる原因となったのである。それがこの三日間に公爵の猜疑心さいぎしんのうちにだんだんと枝を広げていった(公爵は、ついこの間から、二つの相反した性癖のために、自分をとがめていた。それは人並みはずれた『お話にならないほど執拗な』信頼心と、またそれと同時に、『暗鬱で愚劣な』猜疑心とであった)。要するに、幌馬車の中からエヴゲニイ・パーヴロヴィッチに話しかけた、あの奇矯な婦人の件が三日目ごろになって気味の悪い謎のように、彼の心の中に広がっていったのである。この事件の他の方面にはまず触れないことにして、この謎の本体は、この新たな『奇妙な出来事』について自分にたしかに罪があるのであろうか、あるいはただ単に……という公爵自身にとっての痛ましい疑問であった。公爵は自分以外の誰がこの事件に罪があるのか、言いきらなかった。N・F・Bの文字については、あれはただ無邪気ないたずら、というよりはむしろ、子供らしいいたずらでこれについて何かと考えめぐらすのははずかしいことである、むしろある点から見ればほとんど恥知らずのすることである、と公爵は考えていたのである。
 とはいえ、自分が主なる『原因』となって乱痴気さわぎをひき起こした汚らわしい『晩』のあくる朝、公爵はS公爵とアデライーダとの来訪に接した。二人は『主としてヽヽヽヽ公爵のからだの調子を聞くために』二人きりの散歩のついでに立ち寄ったのである。その前にアデライーダは公園で一本の樹を見つけた。長い曲がりくねった枝がこんもりと茂って、新緑に燃え、幹にはほこらや裂け目のある、珍らしい老樹であった。彼女はぜひともそれを描いてみようと考えた! ほとんどこの話だけで訪問のまる半時間ばかりを過ごしてしまった。S公爵は、いつものように愛想よく優しく公爵に以前のことを尋ねたり、二人がはじめて近づきになった当時を思い出したりした。こういうぐあいで、昨晩のことはひと言も話題にのぼらなかった。しかし、ついにアデライーダはたまりかねて、ほほえみながら、実は二人とも incognito《こっそりと》 来たのだと告白した。告白はそれだけで終わったが、しかし incognito《こっそりと》 来たということから察しても両親、ことにリザヴェータ・プロコフィエヴナが、何かしら特に不機嫌でいることがわかった。
 夫人のことはもちろん、アグラーヤのことも、将軍のことさえも、アデライーダとS公爵はここへ来て一言も話さなかった。そしてまた散歩に出かけて行く時にも、公爵にいっしょに行こうとは言わなかった。自分の家に来るようになどとほのめかしさえもしなかった。このことについては、アデライーダがきわめて異色のある一言をもらした。自作のある水彩画のことに話が及んだ時、彼女はいきなりそれを公爵に見せたいと言いだした。『どうしたら早くお目にかけられるでしょうね? ああ、そうだわ! コォリャがもし今日やって来ましたら、持たせてよこしましょう、でなければ、明日またわたしがS公爵とお散歩に出るとき、持ってまいりましょう』と彼女は決めたが、今までの危惧の念を誰にも都合のいいように、うまく解決ができたのを喜んでいた。たいへん嬉しそうであった。最後に、別れの挨拶もほとんど済んだ時になってS公爵はふと思い出して、「あ、そうだった」と聞いた。「ねえ、レフ・ニコラエヴィチさん、ゆうべ馬車の中からエヴゲニイ・パーヴロヴィッチに声をかけた婦人は誰だか御存じありませんか?」
「あれは、ナスターシャ・フィリッポヴナです」と公爵は言った。「いったい、あなたは今まで、あの人が誰だか御存じなかったんですか? しかし、いっしょに乗っていたのは誰だか存じません」
「噂で知っています!」と、公爵は相手のことばを受けて、「しかし、あのひとがどなったことは何の意味でしょう。正直のところを言いますと、あれは私にとっても、他の人たちにとっても大きな謎なんですよ」
 S公爵は眼に見えるほど激しく驚いている様子であった。
「あのひとは何かエヴゲニイ・パーヴロヴィッチさんが出したあの手形のことを言っていたんです」と公爵はきわめて簡単に答えた。「それがどこかの高利貸しの手にはいっていたのを、ロゴージンがあのひとに頼まれて引き取って、エヴゲニイさんのために延期してやることになったと言ったのでしょう」
「ねえ、公爵、それは聞きましたよ、それは聞きましたがね、しかし、いったいそんなことってあるものでしょうか? エヴゲニイ・パーヴロヴィッチが手形なんか出すはずはないじゃありませんか! あれだけの財産家なんですからね……以前のうわ気のせいで、そんなことになって、私が引き取ってやったこともあります……しかし、あれだけの財産家なのに、高利貸しに手形を渡して、それがために心配しなければならないなんて——ありようはずがありません。それにあの男がナスターシャ・フィリッポヴナさんと、『あんた』なんかっていう口をきき合うほど親しい間柄にあるということもあり得ないことです。——まあ謎っていうのは主としてこのことです。あの男はさっぱりわけがわからないと言っていますが、私はそれを信じます。ところで公爵、私があなたにお尋ねしたいのは、このことで何かお耳にはいったことはないでしょうか? つまり何かの風の吹きまわしで、せめて、あなたのところへでも、噂が伝わってやしないかと思ったのです」
「いいえ、何も存じません、本当に、僕はこのことにはなんの関係もないのですよ」
「ああ、公爵、あなたはどうなすったんです! 今日はなんだかいつもと違った人のようですね。あなたがこんな事件に関係があるなんてはたして、そんなことを僕が想像できるもんですか?……まあ、今日はおかげんが悪いんですね」と言って彼は公爵を抱いて接吻した。
「つまり、『こんな』事件に関係があるって、いったいどんな事件なんです? 僕には『こんな』事件なんてものは、少しもさっぱりわかりません」
「たしかに、あの婦人は、他人のいる前で、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチの持ってもいないし、また持つこともできないような性質を押しつけて、何かあの男の妨害をしようと思ったのに違いありません」とS公爵はかなり無愛想に言った。
 レフ・ニコラエヴィチ公爵はどぎまぎした。しかしそのまま、いぶかしげに相手の顔を眺めていた。が、相手もまた黙りこんでしまった。
「でも、あれはただ手形だけのことじゃないでしょうか? ゆうべのことは、文字どおりに考えていいんじゃないでしょうか?」公爵はついに、なんだかたまらなくなったというような様子でこうつぶやいた。
「だから私が言ってるじゃありませんか、お自分でよく考えてごらんなさい。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチと……あの女と、そのうえロゴージンとの間に、いったい、どんな関係があるものですか? ようござんすか、も一度言っておきますが、あの男の財産はすばらしいものですよ。私にはよくわかっています。まだそのほかに伯父さんからも別に財産を譲りうけることになってますしね。ただナスターシャ・フィリッポヴナが……」
 S公爵は不意に再び黙りこんでしまった。彼は明らかに、公爵に向かってナスターシャ・フィリッポヴナのことを話すのがいやだかららしかった。
「してみると、いずれにしても、あの人はエヴゲニイさんの知り合いというわけですね」ほんの一分間ばかり口をつぐんでいたムイシュキン公爵は不意にこう尋ねた。
「それはどうもそうらしいんです、なにしろうわ気な男ですからね! しかし、それが実際だとしたら、かなり以前のことでしょう、まだあの以前、つまり、二、三年も前のことでしょう。あの男はトーツキイとも知り合いの仲なんですからね。それにしても現在あんなようなことはけっしてあるわけはないんです。『あんた』なんかって呼ぶわけはないはずです! あなたも御存じのとおり、あの女はずっと、こちらにはいなかったんです。どこにもいなかったんですよ。またあの女が姿を現わしたってことは、たいていの人がまだ知らないはずです。私があの馬車に気がついたのは三日ほど前のことで、けっしてそれより前のことじゃありません」
「見事な馬車ですわね!」とアデライーダが言った。
「ええ、見事な馬車です」
 二人は立ち去ったが、しかも二人はレフ・ニコラエヴィチ公爵に対しては、きわめて親しい、打ちとけた、好意ともいうべきものを寄せていた。
 この小説の主人公にとって、この訪問は非常に高価なともいえる何ものかを含んでいた。公爵が昨夜以来(あるいはもっと以前からかもしれないが)いろんな疑惑を重ねたと仮定しても、この訪問をうけるまでは自分の懸念を肯定する気にはなれなかったのである。しかし今はあらゆることがはっきりしてきた。もちろん、S公爵はこの事件の解釈を誤ってはいるが、それでもやはり事実の周囲をうろつきまわって、とにもかくにも、術策ヽヽのあることを悟っているのである(『もっとも、心の中でははっきりと悟っているのかもしれないが、ただそれをはっきりと言いたくないために、強いて間違った解釈をくだしたのかもしれない』と公爵は考えた)。しかし、ここで何よりもはっきりしているのは、あの連中が(とりもなおさずS公爵が)何か事実をつきとめようとの下心で、自分のところへやって来たということである。まさしくそうだとすれば、きっと自分はたしかに共謀者だと認められているに相違ない。そのうえ、もしこれがそんな重大な事実であるとすれば、あの女ヽヽヽには恐れるべき目的があるに違いない。とすれば、どんな目的であろうか? 戦慄せんりつすべきことだ!『それなら、どうしてあの女ヽヽヽを思いとどまらせたらいいのであろう? あの女ヽヽヽが自分の狙いを定めたとなると、どうしても思いとどまらせることは不可能だ!』それはもう公爵が今までの経験でよく知っていることである。『まるで気ちがいだ! 気ちがいだ!』
 しかし、この朝は、このほかにもさまざまな解決のつかないことがあまりに、あまりにも簇々そうそうと起こってきて、それがほとんど同時に、即決を迫るので、公爵はかなり憂鬱になっていた。多少とも気を紛らわしてくれたのはヴェーラ・レーベジェフであった。彼女は赤ん坊のリューボチカを抱いて来て、笑いながら長いこと何かしら話して行った。それと入れ代わりに妹が口をあけてやって来た、続いてレーベジェフのむすこの中学生が遊びに来て、父の講釈では、黙示録にある、この世の水上にちた『苦蓬星にがよもぎぼし』は、ヨーロッパじゅうに散布している鉄道網なのだそうだ、とこんなことを言っていった。公爵にはレーベジェフが、そんな講釈をするとは受けとれなかったので、今度いいおりを見て当人に会ってはっきり聞いてみようと考えた。ヴェーラ・レーベジェフから公爵が聞いたところでは、ケルレルが昨夜以来この家にはいり込んで、いろんな様子から見るのに、どうも当分は出て行きそうもないとのことであった。それはここにいい相棒を見つけたからで、将軍とはかなり親密な間柄になった。もっとも彼の言いぐさでは、自分の教養の補いをするために、ここに留まっているのだという。だいたいにおいてレーベジェフの子供たちはだんだんと日ごとに、公爵の気に入ってきた。コォリャは一日じゅう、家をあけていた。彼は朝早くからペテルブルグに出かけていたのである(レーベジェフもまた何か自分の用で出かけた)。しかし公爵は、今日必ず自分のところへ来なければならないことになっているガーニャの来訪を待ちこがれていた。
 彼は午後六時過ぎ、食事を終えるとすぐにたずねて来た。公爵は彼を一目見て、この人は少なくとも事件の内容を正確に知っているに相違ない、それに、この人にはワルワーラ・アルダリオノヴナや、その亭主のプチーツィンのような立派な助手がついているのだから、どうしたって知らないはずはないと、そういう気がした、しかし、公爵とガーニャの関係は、いつも一種特別なものであった。たとえば、公爵は、彼にブルドフスキイの事件の処置を委任し、特にわざわざ彼に懇願したほどであった。ところが、これほど信頼を傾け、また以前の関係もあったのにもかかわらず、お互いに何も口にすまいと決めてでもいるような点が二、三、いつも二人の間に残っていたのである。しかし、公爵には時として、もしかしたらガーニャは自分のほうから進んで、最も打ちとけた友人としての真情を披瀝ひれきしたいと望んでいるのではないかと、そう思われることもあった。たとえば、今も彼がはいって来るやいなや、今こそあらゆる点において、二人の間に張っている氷を打ち砕くべき時が来たのだとガーニャがきわめて強い信念をいだいているように思われるのであった(しかし、ガーニャはせかせかしていた。それは妹のワーリヤがレーベジェフのところに彼を待っていたからである。二人とも何かの用事で気がせいていた)。
 それにしても、ガーニャが、公爵の性急な質問やふっと思わず口をついて出てくる報告や友情の吐露、そうしたものを期待していたとすれば、これはもちろん、彼の大きな思い違いである。この二十分の訪問の間、公爵はずっと深い物思いにさえも沈んでほとんど茫然としていた。したがってガーニャが待ちに待っていたかずかずの質問、というよりはむしろある重大な質問も、とても出ては来なかったのである。そこで、ガーニャはせいぜいしんぼうしてしゃべって行こうと決心した。そうしてこの二十分間というものは、彼は口を休める暇もなく、ほほえみを浮かべながら、きわめてあっさりした、たわいもないことを早口にしゃべり続けて、ついに肝腎かなめのことには触れずにしまった。
 ガーニャは、話をしているうちに、ナスターシャ・フィリッポヴナはパヴロフスクに来てからまだ四日にしかならないのに、もうみんなから注目されているという話をした。彼女は、マトロフスカヤ通りにあるダーリヤ・アレクセーヴナのきわめて見すぼらしい小さな家に暮らしているが、彼女のもっている馬車はパヴロフスク一といってもいいくらい見事なものであった。彼女の周囲には、早くもあとをつけ回す老年青年が群れをなして集まり、ときには彼女の乗っている馬車に馬に乗ってお供をしている人もあるという。ナスターシャ・フィリッポヴナは以前のように、好き嫌いがはげしくて、よくよく選んだうえでなければ自分の傍へ近づけないことにしている、しかもそれでも彼女の周囲にはすでに一小隊くらいの人が集まっていて、いざという場合には十分その人たちで間に合うとのことであった。別荘暮らしの人の中で、もう正式の婚約ができているというある男は、ナスターシャのことがもとで、早くも自分の許嫁いいなずけの娘と口論したとか、また、ある老将軍は自分の息子に向かって呪いのことばを浴びせかけんばかりのけんまくになったとか、噂はとりどりであった。彼女はよく一人の美しい、やっと十六になったくらいの少女といっしょに馬車を乗り回していた。この少女はダーリヤ・アレクセーヴナの遠縁の娘で、非常に唄がじょうずなので、この小さな家は毎晩、おもてを通る人が聞き耳を立てるという。それはそうと、ナスターシャ・フィリッポヴナはきわめてつつましやかに身を持して、衣裳も派手ごのみではなく、というよりはきわめて優れた趣味が現われているので、貴婦人たちは彼女の『趣味、美貌、幌馬車』を羨望せんぼうしてやまないという。
「昨日の突拍子もないいざこざは」と、ガーニャは言った、「もちろん、前々からたくらんでいたことで、そのことは考慮に容れるわけにはゆきません。あの女に何か言いがかりをつけるには、強いて、あらを捜すか、それとも中傷するかしなければなりません。しかし、それもぐずぐずしていてはだめです」と言ってガーニャはことばを結んだ。彼は公爵がきっと、『どうして昨日のいざこざを前々からたくらんだことだなどと言うか、またなぜぐずぐずしていてはいけないのか?』と尋ねるだろうと当てにしていたのである。
 しかも公爵はそのことについて何も聞かなかった。
 エヴゲニイ・パーヴロヴィッチのことについては、ガーニャは別に何も尋ねられないのに長々と説明した。それもなんというきっかけもないのに、不意に言いだしたので、かなりに妙であった。ガーニャの意見では、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチはナスターシャ・フィリッポヴナを以前も知らなかったし、今も彼女の顔をはっきり覚えているかどうかすこぶる怪しいとのことである。なぜというのに、四日ほど前、散歩に出かけたとき、ある人から彼女を紹介されて、連れといっしょにほんの一度その家へ立ち寄ったことがあるにすぎないからである。またあの手形のこともやはりありようはずのないことである(ガーニャはこのことをはっきり知っていた)。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチの財産が莫大なものであることはもちろんのことである。『もっとも領地のほうの多少の仕事が、事実、いくぶんか乱脈になってはいるが』と言って、この好奇心をあおる話題をガーニャは打ち切ってしまった。ナスターシャ・フィリッポヴナのことについては、前に少し述べたこと以外はひと言も口にはしなかった。やがて、ガーニャに続いてワルワーラ・アルダリオノヴナがはいって来た。彼女は一分間ばかり腰をおろしている間に(やはり尋ねられもしないのに)、こんなことを述べた。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは今日か、あるいはことによったら明日のうちにペテルブルグへ行くはずで、自分の夫(イワン・ペトローヴィッチ・プチーツィン)も同じくエヴゲニイ・パーヴロヴィッチの用件でペテルブルグへ行くはずである。実際、何か事件が起こったらしい、とこう言った。また彼女が帰りぎわに言い足したところによると、リザヴェータ・プロコフィエヴナは今日は非常に機嫌が悪く、何より不思議なことには、アグラーヤが家じゅうの人と口論したとのことである。それも父親や母親とばかりではなく、二人の姉たちとさえも口喧嘩をしたという。『これは全くよろしくないことですね』とワルワーラは言った。ほんの何気なく言った風に、この最後の事実(公爵にとってはきわめて意味深長な事実)を報告すると、この兄と妹は帰って行った。『パヴリシチェフの息』の件についてもまた、ガーネチカは一言も口をきかなかった。たぶん、表面だけの遠慮のためか、あるいは『公爵の胸中を不憫ふびんに思った』からであろうが。公爵はとにもかくにも彼の尽力によって事件がかたづいたことを改めて礼を述べたのであった。
 やっとこれで一人きりにしてもらえたと、公爵は嬉しくてたまらなかった。彼は露台テラスをおりて通りを横切り、公園にはいった。いかにして最初の一歩を踏み出すべきか、ということをゆっくり考えて、決めたいと思ったからである。しかし、この『一歩』はとくと考えるべきものではなく、あっさりと決行すべきたぐいのものであった。彼はにわかに、こんなことを何もかも、振り切って、もとの道を引き返し、どこか遠い所へ行ってしまいたい、辺鄙へんぴな片田舎へでも行ってしまいたい、誰にいとまごいするでもなく、今すぐにでも飛び出してしまいたいと激しい欲望に駆られた。わずか二、三日でもここにじっとしていたら、きっと抜き差しならぬように必ずこの世界へ永久に引きずりこまれてしまって、この世界が自分の将来にふりかかって来るだろう、とこう彼は予感した。しかし、ものの十分とも考えないうちに、彼は逃げ出すのは『不可能』だ、これはまずもって自分が小心なためだ、自分の眼の前に問題が控えているのに、それを解決しないのは、少なくとも、その解決のために全力を尽くそうとしないのは、今の自分のなすべきことではないと決めてしまった。こうした考えをいだいて彼は家に帰って来たが、十五分とも散歩はしていなかったのである。この時、彼は全く不幸な人間であった。
 レーベジェフはまだ家に帰っていなかったので、夕方近くになってケルレルは首尾よく公爵のところへ闖入ちんにゅうして来た。彼は酔っ払ってはいなかったが、胸襟をひらいて告白を始めた。彼は公爵に向かって、明らさまに自分は自分の今までの経歴をすっかり公爵に物語るために来たので、パヴロフスクに残ったのもそれがためだと言った。この男を追い出すことはとても叶わぬことであった。どんなことがあろうとも出て行きそうにはなかった。ケルレルはあれやこれやと実に長々と、とりとめもなく話したそうであったが、やっと一言か二言言ったかと思うと、いきなり、結論へ一足飛びに飛んでしまって、自分は『あらゆる道徳の影』を見失って(これは一に上帝に対する不信心に基づいたことであるが)、果ては泥棒をさえもするようになったと告白した。
「こんなことは、あなたに想像がつくでしょう!」
「ねえ、ケルレル君、僕があんたの立場にいたら、むしろ特に必要もないのにそんな告白はしませんがね」と公爵は言いだしていた。「もっとも、あんたはことによったら強いて自分を中傷していられるのかもしれませんね」
「いや、このことは、あなたただ一人にだけですよ、ただ自分の発展を助けるためにと思って言うのです! 他人には言うべきことじゃありません。死ねばこの秘密は経帷子きょうかたびらの下に包んでゆきます! しかし、公爵、あなた御存じないでしょうが、とても御存じないでしょうが、現代において金をもうけることは非常にむずかしいですね! どこで金が手にはいるんです、失礼ですがお教え願いたいですねえ。いつも返事はただ一つです。『金かダイヤモンドを持って来い、それを抵当かたに金を貸してやろう』って。つまり、僕の持っていないものばかりです! あなたに、これが想像つきましょうか? 僕はついには腹が立って、いつまでもいつまでもじっと、立ってました。『エメラルドを抵当に貸してくれますか?』と聞くと、『エメラルドなら貸してやろう』『あ、そいつは結構だ』と言って、僕は帽子をかむって外へ出ました。ちぇっ、畜生あいつらは悪党だ! ええ、全く!」
「あなたはいったいエメラルドを持ってらっしゃったんですか?」
「どんなエメラルドを僕がもっているとおっしゃるんです! ああ、公爵、あなたはまだ明るく無邪気に、いわば田舎風に人生を見ていらっしゃる!」
 ここに至って、公爵は、哀れというよりは、むしろ自分がはずかしくなってきた。彼の心に『誰かの立派な感化力によって、この人間を何かに育てあげることはできないかしら?』という考えが、ちらとひらめいた。しかし、自分の感化はある理由によってきわめて不適当だと考えた。——これは謙譲の念からではなくて、物に対する特別な見方によるのである。いよいよ二人の話は調子づいて来て、別れるのがいやなくらいになった。ケルレルはきわめて穏やかな気持で、こんなことがどうして話せるのか、想像さえもつかないようなことを告白した。新しい物語に移るたびに、彼は胸の中は『涙でいっぱいになっている』と強く念を押すのであった。それなのに彼の話しぶりは、自分のしたことを自慢でもしているような風で、それと同時にどうかすると、二人が気ちがいのように声をあげて笑いださずにはいられないほどおかしい話をした。
「あなたは何かしら子供のように人を信じやすい性質と、非常に誠実なところがありますが、それは大事ですよ」と公爵は最後に言った。「いいですか、あなたは、これだけでも実にたくさんの償いができるのですよ」
「僕は気高い、気高い、騎士のように気高いんです!」とケルレルは夢中になって相づちをうった。「しかし、ねえ、公爵、こんなことは、いっさい、心のなかで考えているだけのことで、つまり空威張りにすぎません。実際問題となるとけっしてこうはいかない! どうしてこうなんでしょう? わけがわからない」
「そう失望したもんじゃありません。今、あなたは自分の秘密をすっかり僕に打ち明けてくだすったと、はっきり断言できますね、少なくとも僕には、あなたが今お話しになったことへ、このうえもう付け加えることはできないようです。そうじゃありませんか?」
「できない?」どことなくあわれむような声でケルレルが叫んだ。「おお、公爵あなたはそんなにまで、いわば、スイス流に人間というものを理解なさるんですか」
「じゃ、まだ何か付け加えることがあるとでも言うんですか?」おずおずとした顔つきをして、公爵は驚いたようにこう言った。「それでは、君はいったい、僕から何を期待してたんですか、どうぞおっしゃってください。それから何のために僕のところに来て告白なんかなすったんです?」
「あなたから? 何を期待してたかって? まず第一に、あなたの淳朴な気持に接するだけでも楽しいのです。あなたと膝を交えて語るのは愉快です。少なくとも、今、僕の前にいるのは最も善良な人だってことがよくわかりますからね……それから第二には、……第二には……」
 彼はことばに窮してしまった。
「たぶん、金を借りたいと思ったんでしょう?」と、公爵は非常にまじめで素朴な、いくぶん、臆病そうな調子でささやいた。
 ケルレルは思わずぎくりとした。彼は以前のような驚きの様子を見せて、ちらりと公爵の眼をまともに眺めたが、すぐに拳でテーブルを強くたたいた。
「ああ、これだな、こんなぐあいに、あなたは人をどぎまぎさせるんですね! でも公爵、冗談じゃありませんよ、黄金時代にも聞いたことのないような、あんな淳朴な無邪気な様子をなさっているかと思うと、いきなりこんな深刻な心理観察の矢でもって人の心を突き通されるんですからねえ。だが、失礼ながら、これは説明を要します。すなわち、僕は……僕は……すっかり降参しました! もちろん、僕の目的は帰するところ金を借りることなんです。しかし、あなたが金のことを尋ねられた態度は、まるで、こんなことはとがむべきじゃない、それが当然のことだというような風でしたね」
「そう……あなたにしては、それが当然でしょう」
「憤慨なすってはいないんですか?」
「ええ……いったいどうして?」
「ねえ、公爵、僕が昨晩からここに居残っているのは、第一にフランスのブルダルゥ大僧正に深甚なる敬意を表するためなんです(レーベジェフのところで三時までせんを抜きましたよ)。第二に(僕の言うことが嘘偽りのないってことは、あらゆる十字架にかけて誓います!)僕がここに残ったのは、あなたに心の底からすっかり告白して、自己の発展に役立たせようと考えたからです。僕はこうしたことを考えながら、涙を流して三時過ぎに眠りにつきました。僕がその時、このうえもなく高潔な気持だったことは信じてくださるでしょうね、心の奥底から、内面的にも、また外面的にも僕が涙に暮れながら(とうとうたまりかねて、僕は声をあげて泣いてしまったんです、僕ははっきり覚えていますよ!)、いよいよ寝つこうとした、その瞬間に、『ひとつ、あの男から金を借りることはできんだろうか、告白をしたあとで』という悪魔のような考えが浮かんできたのです。こんなわけで、僕は、いわば何かの『愁嘆場しゅうたんば』みたいに、告白の手はずを決めてしまったのです。つまり、涙で路を滑りよくしておいて、あなたに同情の念が動きだしたころあいに、百五十ルーブルほどせしめようと思ったのです。あなたのお考えではふつつかなことになりませんかね?」
「だって、それはきっと本当のことじゃないんでしょう、それは別のものと偶然にいっしょになったんでしょう。二つの考えがいっしょになる、それはよくあることです。僕はそれがしょっちゅうあるんです。それにしても、そんなことはよろしくないと思いますね。それに、ねえ、ケルレル君、僕は何よりこの点で自分を責めてるんですよ。あなたは、ちょうど、僕自身のことを話したみたいですね。僕は、どうかすると、こんなことを考えることさえあるんですよ」と、公爵は深い興味を覚えたかのように、非常にまじめに熱心な態度で語り続けた。「人間は誰でもみなそうなんだといって、自分の行為を是認しかかったりするんです。というのは、この二重ヽヽな考えと闘うのは恐ろしく困難なのですからね。僕には経験がありますよ。こいつがどこからやって来るか、どうして生まれるのかさっぱりわかりません。しかしあなたは卑劣だときっぱり言われる! そう言われると僕もまた、この二重な考えが恐ろしくなってくる。だが、いずれにしても僕はあなたの裁判官じゃありませんよ。僕の考えるところでは、これをふつつかなことだと一言のもとに片付けるわけにはいきません。あなたはどう考えます? あなたは涙で金を引き出そうなどと奸計かんけいをめぐらした、しかし、それにしても君の告白の中にはほかに高潔な、金銭以外のものがあったと、あなたは現に自分の口で誓ったでしょう。さて、お金のことですが、道楽にいるんでしょう、え? それならば、あんな告白をしたあなたとしてはいうまでもなく、あさはかな考えですよ。しばらく道楽から身を退いてはどうです? これもだめですか。いったいどうしたらいいんでしょう。もうあなた自身の良心に任せる以外に方法はありませんね。あなたはどう考えます?」
 公爵はなみなみならぬ好奇心をいだいてケルレルを眺めた。その様子から見ると、二重の考えの問題はかなり以前から彼の心をとらえていたものらしい。
「こんなあなたみたいな人を、どうして白痴ばかだなんて言うんだろう、さっぱりわからない!」と、ケルレルは叫んだ。
 公爵は、かすかに顔を赤らめた。
「ブルダルゥ大僧正にしたところが、こんなやつを許しはしなかったでしょう。それなのに、あなたは僕を許して、人間的に裁いてくださった! 僕は自分に対する罰として、ならびに僕が感動したしるしとして百五十ルーブルはいりませんから、ただ二十五ルーブルだけください、それで十分です! それだけあれば、僕にとって少なくとも二週間は大丈夫です。二週間しないうちは、けっしてお金の無心になんぞ来ません。アガーシカの御機嫌をとろうと思ったんですが、あの女にそれだけの資格はありません。ああ、親愛なる公爵様、神よ、おんみに祝福を与えさせたまえ!」
 つい今、外から帰って来たばかりのレーベジェフが、とうとうはいって来た。そしてケルレルの握っている二十五ルーブル紙幣を見つけると、ちょっといやな顔をした。ところが、金を手に入れたケルレルは、そそくさと逃げ出して、まもなく姿を消した。レーベジェフはさっそく、彼のことを誹謗し始めた。
「あなたのおっしゃることは公平じゃありません。あの人は心から後悔しました」たまりかねて公爵はこう注意した。
「それにしても、そんな後悔なんかなんです? 昨晩、わたしが申しましたんと、まるで同じでございますよ!『ふつつか者だ、ふつつか者だ』と言ってても、それはほんの口先のことです!」
「じゃ、あなたが、あのように言ったのは、口先だけのことですか、僕はまた……」
「それでは、あなたお一人にだけほんとのことを申しましょう。あなたは人の心の底を見透しなさいますからね。ことばも、実行も、嘘も真実まことも、私の心の中ではみんないっしょになっていて、みんな本当なんです。真実まこと行為おこないは、心から後悔したときに出て来るものでござんす。本気になさろうとなさるまいと、それはかまいませんが、わたしはけっして嘘は申しませんよ。だが、嘘と口先は、なんとかして人をだましてやろう、後悔の涙で泣き落としてやろうと、まるで悪魔のような(誰にでもよくあることでござんすが)、考えを起こしたときに出て来るものです。いや、全くのところ、そういったようなぐあいなんですよ! 他の人間にはけっして言うことじゃなかったんです。言えば、笑うかつばを吐きかけるかするに決まっていますからね。だけども、公爵は人間的に裁いてくださいますんで……」
「これはまあ、あの人も、たった今、それとそっくりのことを言いましたよ」公爵は叫んだ。「それに、あなたがたは二人ともまるで自慢でもなさるような格好ですね! あなたがたには驚き入りますよ、あの人のほうがあなたよりずっと実直です。あなたのはすっかり商売みたいになってますからね。いや、もう結構、レーベジェフ君、そんな苦い顔をするのはおよしなさい。手を心臓のところへ当てるのはおよしなさい。何か僕に言いたいことがあるんじゃありませんか? わけもないのに来るはずもなし……」
 レーベジェフは顔をゆがめて、からだをすくめた。
「僕は一つあなたに尋ねたいことがあって、一日じゅう、あなたの帰りを待っていたんですよ。ね、一生にたった一度のつもりで、最初から本当のことを言ってください。あなたは昨晩の馬車の一件に多少、関係があるんでしょう、それとも?」
 レーベジェフはまたしても顔をゆがめて、ひひひと笑い声をもらして、手をもんだり、はてはくしゃみまでして見せたが、それでもまだなかなか口を切ろうとはしなかった。
「僕は関係があったとにらんでますよ」
「しかし、ほんの間接に、全くちょっと間接にかかり合っているだけで。わたしは実際、本当のことを申しておりますので。わたしが関係したというのが、つまり、ただわたくしの所へ今このような集まりがあって、その中には、これこれの人がおられますと、機会を見はからって、あのかたにお知らせしただけのことで」
「僕は、あなたが息子さんを『あそこ』へ使いにやったのを知っていますよ。ちゃんと本人からさっき聞いたんですから。しかしまあ、なんていう術策だろう!」と、公爵はたまりかねて叫んだ。
「それはわたくしの術策じゃござんせん、違います」と言って、レーベジェフは両手を振った。「ほかの人たちです、ほかの人たちです。それに、これは術策と申すよりは、むしろいわば幻想ファンタジヤとでもいいますものなんで」
「だが、いったい、本当はどういうことなんです。お願いだから、説明してください。このことが僕に直接関係があるってことがあなたにはわからないんですか。それに、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチさんの顔へ泥を塗ってるじゃありませんか」
「公爵! 公爵様!」と言ってレーベジェフはまたもやからだをちぢめた。「あなたが本当のことをすっかり言わしてくださらないんじゃありませんか。実のところ、あなたに本当のことを申し上げようとしたのは一度や二度のことじゃございませんよ。それなのに、あなたはわたしの話をしまいまでお聞きにならなかったのです……」
 公爵はしばらく口をつぐんで考え込んでいた。
「ではよろしい、本当のことを言ってください」と重々しい調子で言いだしたが、それまでに心の中ではかなりのいざこざがあったらしく見える。
「アグラーヤ・イワーノヴナさんが……」レーベジェフはさっそくやりだした。
「お黙んなさい、お黙んなさい!」と公爵は狂おしげな声で叫んだが、その顔は憤慨のためか、あるいは羞恥のためであろうか、まっかになった。「そんなことがあるわけはない。それはみんな出まかせです! それはみんなあんたが、さもなければあんたのような気ちがいが考え出したことです。僕はもうこれからけっして、あなたからそんなことは聞きませんから、そのつもりでいてください!」
 その晩おそくなってから、もう十一時に近いころ、コォリャが新しいニュースをどっさり持って来た。このニュースにはペテルブルグに関するものと、パヴロフスクに関するものと二通りあった。コォリャはペテルブルグに関する話は、いずれあとでゆっくり話すことにして、大急ぎに概略だけを話した(これは主としてイッポリットと昨夜の事件についてであった)。それから続いて話はパヴロフスクのほうへ移っていった。彼は三時間ほど前にパヴロフスクへ帰り着いたのであるが、公爵の所へは寄らずに、そのままエパンチン家を訪れたのである。『ところがそこは恐ろしくごたついている』のであった。そのおもなる原因は、もちろん、昨晩の幌馬車であったが、そのほかに、まだ彼にも公爵にもわからないことが、何か起こったのに相違ないらしかった。『僕はもちろん、スパイじゃないんですから、誰にも探りを入れようなんてしなかったんです。しかし、僕が行ったらね、とても歓待してくれましたよ。本当に思いがけないくらい歓待してくれたんです。だけど、公爵、あなたの話はこれっぱかしも出ませんでしたよ』とコォリャは報告した。しかし、何より不思議で、また大事なことは、さっき、アグラーヤがガーニャの肩を持って、一家の人々と口論したことである。詳細な点は知ることもできないが、ガーニャの肩を持ったということだけは確かな事実であった(まあ、なんとしたことでしょう! とコォリャは言った)。それに、その口論もかなり激しかったのだから、何か大変なわけがあるに違いない。将軍は遅れて、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチといっしょにやって来た。将軍は不機嫌らしく苦い顔をしていたが、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチはみんなから非常に歓待されて、恐ろしく陽気で愛想がよかった。最も価値のあるニュースはリザヴェータ・プロコフィエヴナがワルワーラ・アルダリオノヴナを追い出したということである。夫人は、令嬢たちのところに坐って話し込んでいるワルワーラを自分のそばに招いて、きわめて丁寧なことばづかいで、永久にこの家に足を踏み入れないようにと言い渡した。——『僕はワーリヤの口から聞いたんです』とコォリャは言った。しかもワーリヤがリザヴェータ・プロコフィエヴナのそばを離れて、令嬢たちに別れを告げた時、令嬢たちは、彼女が永久にこの家へ来てはならないと断わられていることも、これが最後のお別れだということも知らなかったのである。
「それにしても、ワルワーラ・アルダリオノヴナは七時ごろ僕のところへ来ていらしたんですがね?」と、公爵は驚いて尋ねた。
「だけど姉さんが追い出されたのは七時過ぎか八時ごろなんです。僕はワーリヤがとても可哀そうなんです、ガーニャも可哀そうです……二人は、いつもきっと、何か悪企みをしているに違いないんです。そんなことでもしなくちゃいられないんです。しかし、何を企んでいるんだかちっともわからない、またわかりたくもありません。だけど、公爵、僕は誓って言いますが、ガーニャには良心があります。あの人はもちろん、いろんな点から見て零落した人間ですけど、また多くの点で、捜したり見つけたりしてやるに足りる好い性質をもっています。僕は以前あの人がよく呑み込めなかったんですが、これは一生涯の恨みだと思っています、……つい今、ワーリヤのことをお話ししたあとで、僕がこの先を話し続けてもいいでしょうか、僕にはよくわかりません。実際、僕は初めから全く独立した立場にいるんですが、そうかといって考えないわけにはいきませんからね」
「君がそんなに兄さんを可哀そうがったって、どうにもならないじゃありませんか」と公爵は注意した。「事件がそんなにまでなっているのなら、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんはリザヴェータ・プロコフィエヴナさんの眼にもけんのんだと思われているんでしょう。だから、あの人の例の期待は是認されるわけになります」
「え、どんな期待です?」と、コォリャはびっくりして叫んだ。「あなたは、考えていらっしゃるんじゃありませんか、アグラーヤさんが……、そんなことはありようはずがありません!」
 公爵は黙っていた。
「あなたはひどい懐疑派ですね、公爵」二分間ばかりしてコォリャはこう付け足した。「いつごろからですか、あなたがずいぶんひどい懐疑派になったような気がしてなりません。あなたは何もかも信じないで、いつも予想ばかりをするようになりましたね……けど、僕がこの場合『懐疑派』ってことばを使ったのは当たってるでしょうか?」
「当たってると思います。でも本当のところは自分でもわからないんですが」
「しかし、僕は自分のほうから『懐疑派』ってことばは取り消します。その代わり新しい説明を見つけました」とコォリャがいきなり叫んだ。「あなたは懐疑派でなくって、吝気屋りんきやです! あなたはあの偉そうなお嬢さんのことで、ガーニャのことを恐ろしく焼いていらっしゃる!」
 こう言ったかと思うと、コォリャは飛び上がって、今までおそらくこんな笑い声は出たこともあるまいと思われるほど大きな声で笑いだした。公爵がまっかになったのを見ると、コォリャはいっそう大きな声を立てて笑いだした。公爵がアグラーヤのことで嫉妬しているという考えが、ひどくコォリャの気に入ったのである。しかし、公爵が心から悩んでいるのに気がつくと、彼はぴたりと笑いやめた。それから二人はきわめてまじめに、心配らしい様子で、一時間か一時間半ぐらい話し続けた。
 あくる日、公爵は手放せない用件があって、午前中をペテルブルグに過ごした。パヴロフスクに帰って来たのは午後の四時過ぎであったが、途中の駅でイワン・フョードロヴィッチに出会った。こちらはいきなり、公爵の手を取って、戦々兢々としているらしく、あたりを見まわしてから、いっしょに帰ろうと言って、公爵を一等車へのほうへ引っぱって行った。彼はある重大な件についてよく相談をしたい、という希望に燃えていた。
「ねえ、公爵、まず第一に、僕を怒らないでくれたまえ。もし僕が何か悪いことでも言ったりしたら、そいつはきれいさっぱり忘れてくれたまえ。僕は昨晩、君のところをおたずねしようと思ったんだけれど、このことについてリザヴェータ・プロコフィエヴナが……どんな風だかわからなかったもんだから、……僕んとこは……まさに地獄さ。なんだか謎みたいなスフィンクスの住み家になってね。僕はうろうろして、何がなんだか、さっぱりわからないのさ。君のことについては、僕の考えでは、われわれの誰よりも君が最も罪が軽い。そりゃもちろん、君のことから、いろんな騒ぎも起こりはしたけれどね。どうだね、公爵、博愛家たることも愉快ではあろうが、しかしたいして愉快とも言えんね。実は僕自身も、もしかしたら、禁断の木の実を食べたほうかもしれないよ。僕はむろん、品位というものを好むから、したがってリザヴェータ・プロコフィエヴナさんをも尊敬しているわけなんだが、しかし……」
 イワン将軍は、まだそれから長い間、こんな調子で話し続けていた。が、そのことばはあきれ返るほどとりとめのないことばかりであった。極端に不可解な何ものかのために動揺し、混乱している様子がありありと見えていた。
「君がこの一件になんのかかり合いもないことは僕の信じて疑わないところだ」と彼はやっとのことで、どうやら前より少し明瞭に語りだした。「しかし当分の間、僕の家をたずねないでくれたまえ、このさき風向きが変わるまではね、僕は打ち明けてお願いする。が、さて、あの、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチのことについては」と、彼はひとかたならぬ熱をこめて叫んだ。「あれは何の意味もない中傷だ、中傷も中傷、ひどい中傷だ! 讒謗ざんぼうだ、何か悪企みがあるんだ。何もかも打ちこわしてわれわれを喧嘩させるためにしたことだ。実はね、公爵、これは君にだけの話だがね、われわれとエヴゲニイ・パーヴロヴィッチとの間にはまだひとことも話は進んでいないんだよ、いいかね? われわれは何ものにも束縛されてはいない——しかし、このひと言は今に切り出されるかもしれない、もう近いうちに。こういうわけで、これを邪魔しようっていう計画なんだ! だが何のために、どうして——ということになると僕には呑み込めない。恐るべき女だ、何をしでかすやらわからんとっぴな女だ、僕は夜もろくろく眠れないほどあの女がこわい。それからあの馬車はどうだろう、白い馬、実にショックだ、実際あれこそフランス語で言うシックってやつだね。誰があの女に買ってやったんだろう。本当のことを言うとね、悪いことをしちゃったんだ、一昨日、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチに疑いをかけたのさ。しかし、そんなことのありようはずがないってことがわかった。もしもそんなことがないはずだとなると、何のためにあの女はこんな邪魔をするんだろう。ね、そうだったろう、まるで謎じゃないかね! あの女は自分の傍にエヴゲニイ・パーヴロヴィッチを引き寄せておきたいからな。しかし、もう一度くり返して言うけど、断じてエヴゲニイはあの女と知り合いじゃないんだ。それから、手形のことなんか——あれは全くのでたらめだ! よくあんなに往来ごしに『あんた』なんかってよくもずうずうしく言えたもんだ! 純然たる策謀だ! わかりきったことさ。軽蔑をもって否定すべきことであって、また、いっそうエヴゲニイを、尊敬させることになる。ばかげたことだ。僕はリザヴェータ・プロコフィエヴナにもそう言っておいた。さあ、今度は、僕のごく内々の気持を話してあげよう。僕の深く信ずるところでは、あの女はだね、以前の僕の行為に対して、個人的な復讐をしているんじゃあるまいかと思うんだよ。と言っても、あの女に対して悪いことをした覚えはないんだが、ただある一つのことを思い出して赤面しているところだ。さて、今になってまたあの女が姿を現わした。僕はもうすっかり消えてしまったものと思っていたのに。それはそうと、あのロゴージンはどこにいるんだね? 僕はあの女ヽヽヽはもうずっと前にロゴージン夫人になっているものとばかり思っていたんだが」
 要するに、この人はひどく迷っていたのである。そして途中一時間ばかり彼はほとんど一人で話し続けて、いろんな質問を持ち出しては、自分でそれを解決し、ひっきりなしに公爵の手を握り締めた。そしてどんな事件であろうと、かりそめにも公爵に疑いをかけようなどとは思わないと、少なくともそのことについてばかり一心に公爵に誓うのであった。これは公爵にとっては重大なことであった。やがて最後には、将軍はペテルブルグのある役所の長官をしているエヴゲニイ・パーヴロヴィッチの親身の伯父の話をした。「立派な地位にある人で、年は七十ほどになるが、あの道にかけてはなかなか達者なもので、食い道楽で、相当な苦労人なのさ……は、は! 僕はよく知ってるけど、この人がね、ナスターシャ・フィリッポヴナの噂を耳にして、釣ってやろうとずいぶん骨折ったものさ。さっき、ちょっと立ち寄ってみたが、気分が悪いとかということで面会できなかったが、ともかく金持ちだよ、すばらしく金持ちだよ、そのうえ、権威もあるし……まあ、どうか丈夫で長生きなされるように、いずれそのうちにはエヴゲニイ・パーヴロヴィッチの手にはいるわけさ……しかし、やっぱり僕はこわいね! なんだかわからないがこわい……なんだか空中をかけっているような気がする、なんだか蝙蝠こうもりみたいなものが、災難が飛んでいるみたいに、恐ろしい、恐ろしい!……」
 かくてついに、すでに前にも述べておいたように、ようやく三日目にエパンチン家とレフ・ニコラエヴィチとの間に正式の和解が遂げられたのである。
 
(つづく) 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 

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