白痴(第三編)ドストエフスキー

2018/10/22

白痴(第三編)
ドストエフスキー
中山省三郎訳

 

 
 
 

  第三編

      一

 この国には実際的な人がいない。たとえば政治的な人は多く、将軍などといったような人もかなりに多い。また、支配的な位置に立つ人も、どんなに必要が起ころうとも、すぐにあつらえむきの人がいくらでも見つかるのである。しかし実際的な人となるといっこういないのである。——そういう嘆声が絶え間なしにもらされている。少なくとも、誰も彼もが、そういう人間のいないことを嘆いている。人の話だと、二、三の線などには気のきいた列車ボーイさえもいないという。人がいないためにある汽船会社などでは、どうにもうまく経営してゆくことができないという。どこかの新しく開通された線で客車が衝突したとか、鉄橋から墜落したとかいう話を聞くと思うと、新聞には列車が雪の野原のまん中で、危うく冬ごもりをしかけたという記事が載っている。わずかに五、六時間ばかり乗って行って、五日も雪の中に立ち往生したなどという話が出ている。また、何千トンという貨物が、一つ所に二月ふたつき三月みつきも発送されるのを待っているうちに、腐ってきているという話を聞かされるかと思うと、さらに、一人の管理者が、つまり、一種の監視人が、どこかの商店の番頭に自分の店の貨物を発送してくれと、うるさく付きまとわれると、発送をする代わりに横っ面を管理したそうで、しかも自分が『ちょっと腹を立てた』当然の管理行為だと言っているという噂を耳にする(もっともこの話はにうけられないくらいである)。思うに、公務を行なう役所の数というものは、考えるのも恐ろしいくらいにおびただしい。そして、たいていの者がかつて勤めていたか、あるいは現に勤めているか、ないしはこれから勤めようと心がけているかであるが、——さればといって、いったい、こんながらくたヽヽヽヽによって、何かそれ相当の汽船会社の経営などといったようなものが成り立つものであろうか? と、かなりにあぶなかしい気がする。
 時おり度はずれに単純な、あまりに単純すぎて、その説明を本当にすることさえもできないような応答をする向きがある。この人たちの話によると、事実、わが国ではたいていの者が勤めていたり、現に勤めたりしている。そしてこの状態がすでに二百年も、曾祖父の代から曾孫の代まで、最もすぐれたドイツ流によって続いているが、——こういう勤め人はまた、最も非実際的な人たちであって、ついには、純然たる理論にのみ走ることや、実際的知識を欠いているということが、勤め人そのものの間において、最近はほとんど最もすぐれた美徳であり、人にも勧むべき資質であるかのように見なされるに至っている、——と、そう言っている。それにしても、私はいたずらに勤め人の話など始めてしまったが、実は特に実際的な人物の話をしたかったのである。臆病であるとか、創意を全く欠如しているということが、絶えずこの国において、実際的な人物にとっての最も主要な、最善の特徴だと見なされ、今日においてさえも、なお見なされつつあることは、すでに疑うべからざる事実である。しかし、この意見を非難の意味にとるとすれば、何もこちらのほうばかりを非難するにはあたらないであろう。創造力の欠如ということは、世界の至るところにおいて、昔から実務家、敏腕家、実際家の第一の資格であり、最良の資質であるかのように常に見なされてきている。少なくとも百人のうち九十九人までが(これは本当に少なくともヽヽヽヽヽである)、常にかような思想に支配されており、わずかにあとの残りの百人中の一人が、絶えず違った意見をもち、ないしは、現にもっているのである。
 発明家とか天才とかは、世間ではほとんど常に、世に出たばかりのころには(また実にしばしば、活動のやむころにおいても)ばかも同然に見なされてきた、——しかも、これはすでにあまりにもあまねく知れわたっているきわめて因襲的な物の見方である。早い話が、この何十年かの間に、あらゆる人が自分の金を銀行へ持ち込んで、何十億という金を四分の利で預けているが、これがもし銀行というものがなかったとしたら、もちろん、誰もがしかたなしに自分自身でやりくりをしていたであろうし、またこの何十億という金の大部分は必ずや株式熱や、詐欺師の手にかかって消えうせていたはずである。——しかも、こんなことになるのも礼節とか道義心とかの要求によるものである。まことに道義心があればこそである。もしも、道義にかなった臆病さと、礼節にかなった創造力の欠如とが、今日に至るまで、世上一般の定見として、敏腕な相当の人物に欠くべからざる性質であると認められているとしたら、あまり急に早変わりをするのは、あまりにも放埓ほうらつな、あまつさえぶしつけなこととさえもなるであろう。
 たとえば、わが子をすなおに愛している母親ならば、自分の息子や娘が常軌を逸しようとするのを見て、恐惶きょうこうを感じ、恐怖のあまり病気にかからないような者はないであろう。『いや、もういっそのこと、創造力なんかというものはなくっとも、仕合わせに満足な暮らしをしてくれたほうが、どんなにいいかしれない』と自分の赤ん坊をゆすぶりながら、どこの母親も考えるものである。また、わが国の乳母たちは、赤ん坊をゆすぶりながら、昔々のその昔から同じことをくり返して歌っている、『錦の衣を着なされや、将軍様になりなされ!』してみると、わが国の乳母たちにさえも将軍の位がロシア人の幸福の絶頂と思われているのであり、したがって、これは静かな美しい幸福というものの最も普遍的な国民的な理想であったのだ。事実において、あまりまごまごしないで試験に及第し、三十五年も勤続して、——ついに将軍にもなれず、それ相当の金を銀行へ積みもしなかったというような野暮な人間はわが国にはいないであろう? かくのごとくにして、ロシア人は、ほとんど何一つ骨も折らずに、結局においては、敏腕な、実際的な人だといわれる結構な御身分に到達しうるのである。実際、ロシアにおいて将軍になれないのは、ただ創造力に富んだ風変わりな人、換言すれば、物騒な人ばかりである。ひょっとすると、こんなことを言うのには、いくぶんの思い違いもあるであろうが、だいたいのことを言えば、これが本当のことであり、わが国の社会が、かように実際的な人間の理想を定義したのは、全く公平であるように考えられる。
 が、それにしても、とにかく、ずいぶんよけいなことをおしゃべりしてしまった。実は、特にわれわれがすでにお馴染なじみのエパンチンの家庭について、少しばかり説明的なことを言いたかったのである。この家の人たち、あるいは、少なくともこの家庭で最も分別のある人たちは、この一族にほとんど共通ともいうべき一つの性質に絶えず苦しんでいた。その性質は前に述べたいろんな美徳とは正反対なものであった。事実をすっかり理解もしないくせに(事実を理解するのはむずかしいからである)、ときには自分の家では何もかもが、よその家とは違っているのだと不審の念をいだいたりした。よその家では何もかもが、すらすらいっているのに、自分のところでは、そうはゆかない、よその人はみんな常軌を逸せずに、すらすらと走っているのに、——自分たちは、しょっちゅう脱線ばかりしている。よその人は誰しも常につつましやかに小心翼々としているのに、——自分たちは全く趣を異にしている。リザヴェータ・プロコフィエヴナは実際、あまりにびくびくしすぎるぐらいであるが、しかも、それは夫人たちが切望しているつつましやかな俗世間の臆病とは違っている。もっとも、ことによったらこんなに気をもんでいるのはリザヴェータ・プロコフィエヴナばかりかもしれない。娘たちは、かなりに慧眼けいがんな、皮肉な連中ではあるが、まだ若い身空のことではあり、将軍もまた慧眼ではあったが(もっとも気転がきくほうではなかった)、事がめんどうになったときには、『ふむ!』と言うだけで、結局はいっさいの期待をリザヴェータ・プロコフィエヴナにかけるのであった。したがって、夫人に責任というものが負わされていた。早い話が、この家族は何か特別な創意をことさらにもっていたわけでもなく、全くぶしつけなことだとされている目新しい創造力なるものに意識的に心をひかれて、そのために常軌を逸しているというわけでもなかった。いやいやけっして!
 実際、そんな風なところは少しもなかった。つまり、意識して、これと定めた目的などはなかったのである。しかし、とにもかくにも、結局、エパンチンの家庭は、かなりに尊敬すべきものではあったが、やはり何かしら、一般にあらゆる尊敬すべき家庭にはあるまじきところをもっていた。近ごろになって、リザヴェータ・プロコフィエヴナは何事につけても、罪を自分一人に、自分の『不仕合わせな』性格のみに負わせるようになってきた。そのために彼女の煩悶はんもんがいっそうはなはだしくもなったのである。彼女は絶えず自分自身を『愚かな、礼儀知らずの変人』だとののしり、猜疑心さいぎしんのために煩悶し、しょっちゅう周章狼狽して、何かのことできわめてありふれた行き違いが起こっても、どうして処理したらいいのかわからずに、絶えず破綻はたんを大きくしていた。
 すでに、この物語の冒頭において、エパンチン家の人たちが世間から真に尊敬を受けていたことは述べておいたはずである。どこの馬の骨やらわからなかったイワン・フョードロヴィッチ将軍自身さえいたるところで、心から尊敬をもって迎えられていた。また彼は実際に尊敬を受けるだけの値打ちもあったのである。第一に、裕福な、『あまり見下げたものでもない』人間として、第二には、あまり融通はきかなかったが、全くきちんとした人だとしてであった。しかしいくぶん血のめぐりがよくないということは、事業家の全部が全部とはいえないまでも、少なくともあらゆるまじめな利殖家には、ほとんど必要欠くべからざる性質であるように思われる。最後に、将軍はまた、それ相当の礼儀作法を心得、謙譲であり、口のきき方を知って、減らず口をたたくようなことはせず、同時に単に将軍としてばかりでなく、廉潔れんけつにして高尚な一個の人間としても、けっして他人に踏みつけられるようなことはなかった。最も重要なことは、彼が有力な保護のもとに在るということであった。
 リザヴェータ・プロコフィエヴナはどうかというに、夫人は前にも述べたごとく、名門の出であった。もっともわが国においては、門地などというものは、のっぴきならぬ立派な親類でもなかったら、そんなに人の関心をひかない。しかしついに夫人にも立派な親戚があらわれて、ついには尊敬もされ、可愛がられもした。しかも相当の人たちがそうするので、自然と、他の人たちもそれに従って夫人を尊敬し、応待もしなければならなかった。いうまでもなく、彼女の家庭的な煩悶は根も葉もないもので、元をただせば実にくだらないもので、おかしいくらいに誇張されていた。それはそうと、もし誰かが鼻の上や額にいぼがあるとしたら、その人はなんだか自分の疣を見て、誰もがそれをあざわらったり、またたとえ、アメリカ発見のような大手柄をしても、この疣があるからといって自分を非難したりすることを、この世の唯一の仕事としてるかのように思うものである。世間で実際にリザヴェータ・プロコフィエヴナを『変人』扱いにしているのは疑うべからざる事実であるが、同時に尊敬されていたこともいなみがたいのである。が、リザヴェータ・プロコフィエヴナはついに自分が尊敬されているということさえも信じなくなってきた——ここにいっさいの破綻があったのである。
 自分の娘たちを見ては、何かしら自分が絶えず出世の邪魔になっているのではないかしらと疑ってみたり、自分の性格は笑止なものであり、ぶしつけで、我慢のならないものだろうといぶかってみたりして煩悶するのである。そしてもちろん、そのために夫のイワン・フョードロヴィッチや自分の娘たちを朝に晩にとがめ立てては、毎日毎日、寝ても覚めても口論していたのである。しかも同時に夫や娘たちを、身をも忘れて、ほとんど煩悩ぼんのうといってもいいくらいに愛していた。
 何よりも夫人を悩ませたのは、娘たちが自分と同じような『変人』になるだろうという危惧きぐの念であった。あんな娘たちって、この世の中にあるものではない。またいてはならないものだと思い煩うのである。『ニヒリストができかかっている、ただそれだけのことだ!』と絶えずひとり言を言っていた。この一年というもの、わけても、つい最近になって、この憂鬱な気持はいよいよ彼女の胸に根強いものとなってきた。
『第一、あのたちはなんだってお嫁に行かないんだろう?』と夫人は絶えず、あてもなく自分に聞いてみる、『母親をいじめたくって——それをあの娘たちは人生の目的だと思っているのだ、むろん、それに相違ない。なぜといって、こんなことが新しい思想とやらで、こんなことがあのいまいましい婦人問題なのだから! 半年ばかり前にアグラーヤはあのすばらしい髪の毛を切ろうとしたのではなかったか!(ああ、本当に私の娘ざかりにだって、あんないい髪はしていなかったものを!)もう鋏を手にしていたものを、私はひざまずいて、拝むようにしてよしてもらったのではなかったか!……まあ、あの子はきっと、母親をいじめてやろうという意地の悪い魂胆から、あんなことをしたのに相違ない、あの子は意地の悪い、わがままな、甘やかされて育ってきたやつだから。けど、何よりいけないのは、意地悪なことだ、意地悪、意地悪! でも、あのでぶヽヽ公のアレクサンドラは、あの子にひかされて、やはり同じように髪の毛を切ろうとしたのではないかしら? あれはけっして意地悪ででも、気まぐれででもなく、髪の毛がなかったら、もっと気楽に寝られるし、頭も痛まないだろうと、アグラーヤにきつけられて、ばかみたいに、それをに受けてしまったのだ。まあ、この五年の間に、——どれだけ、どれだけ結婚の申込み者があったろう? そして、実際、いい人もあった、とてもとても器量のいい人もあったものを! あの子たちは何を待っているのかしら、なんでお嫁に行かないのかしら? ただ母親をいらいらさせたいばかりに——ほかには何のいわれもない! 何も! 何も!』
 ところが、ついに母らしい彼女の親ごころに、太陽が昇ろうとしていた。せめて一人の娘、アデライーダだけでも、やっとかたがつくだろう。『やっと、一人だけでも重荷が軽くなります』と、口に出して言わねばならない機会があった時に、そんなことを言っていた(胸の中では、比較にならないほど、もっともっと優しい言い方をしていたが)。やがて、万事は実に好都合に、身分相応に取り運ばれた。上流社会においてさえも、敬意を払って噂に上ってきた。相手は有名な人物で、公爵で、財産もあれば、器量もよし、そのうえに、令嬢とは気持がしっくり合っている。まことに申し分がないと思われる。しかし、夫人は以前から、アデライーダの身の上をほかの二人の娘ほどには危ぶんではいなかった。たまには彼女の画家らしい性癖が、絶えず危惧の念に包まれているリザヴェータ・プロコフィエヴナの心をかき乱すこともあったが。
『その代わり性質が陽気で、それに、十分に常識もそなえているから、——あれがつまずくようなことはあるまい』と、夫人は、ついには自分を慰めるのであった。彼女は誰にもましてアグラーヤには気をもんでいた。
 ついでながら、長女のアレクサンドラについては、リザヴェータ・プロコフィエヴナは気をもんでいいのやら悪いのやら、どうしていいのか自分でもわからなかった。ときには『娘一人がすっかり見る影もなくなった』ような気がしていた。二十五になる、——してみると、いつまでもオールド・ミスで通すのかもしれぬ。『あれほどの器量よしなのに!』と、リザヴェータ・プロコフィエヴナは毎晩のように泣いてさえもいた。しかるに、そんな晩にも、アレクサンドラ・イワーノヴナときたら、実に安らかな夢を見て眠っているのであった。『いったいあれはどんな子なんだろう? ニヒリストなのかしら、それともただのばか娘かしら?』しかし、ばかでないということには、リザヴェータ・プロコフィエヴナもなんらの疑いをももっていなかった。母親はアレクサンドラの判断を非常に尊敬して、この娘に相談をかけるのを好んでいた。しかし、『いくじなし』だということ——それは疑うべからざる事実であった。『まあ、手のつけられないほど落ち着き払っている! だけど、ほかの「いくじなし」って者はあんなに落ち着いてはいない——ふっ! あの子たちにかかったら、気が遠くなっちまう!』
 リザヴェータ・プロコフィエヴナはアレクサンドラ・イワーノヴナに対しては、彼女の秘蔵っ子であったアグラーヤに対する以上に、ある言い知れぬあわれみ深い同情を寄せていた。しかし気むずかしい言いがかりや(これは大事なことであるが、夫人の母親らしい心づかいと同情の念をあらわしていた)、かきむしるような態度や、『いくじなし』という悪口は、ただアレクサンドラを笑わせるだけであった。ついには、実につまらない事柄がひどく母なるリザヴェータ・プロコフィエヴナを怒らせ、堪忍袋の緒を切らせるようなことも時おりあった。アレクサンドラはたとえば、いつまでも寝ているのが好きで、いつもいろんな夢を見ていた。ところが、いつも、その夢たるや、何かしら度はずれに単純で、無邪気なものであった、——それこそ七つの子供にふさわしいようなものであった。ところが、この無邪気なのがなぜかしらお母さんに癇癪かんしゃくをおこさせた。ある時、アレクサンドラ・イワーノヴナが九羽の牝鶏を夢に見た。そしてこの話から娘と母親との間に妙に形式的な口論がおこった。なぜ? ということは説明がむずかしい。
 一度、たった一度、彼女はどうやら奇抜そうな夢を見ることができた——どこかの暗い部屋に一人の坊さんがいて、その部屋へ行くのがこわくてしようがなかったという、この夢の話を二人の娘は大笑いしながら、もっともらしくリザヴェータ・プロコフィエヴナに伝えた。ところが母親はまたもや腹を立てて、三人の娘たちをそろいもそろってばかだと言った。『ふむ! いかにもばか娘らしく落ち着き払っている、ほんとに「いくじなし」だ。手がつけられない。でも、あれは沈んでいる。どうかすると、ほんとに悲しそうな様子をしている! 何を悲しんでいるんだろう? 何を?』時おり、夫人はこの質問をイワン・フョードロヴィッチにも浴びせかけた。そして、いつもの癖として、ヒステリカルに脅やかすような風をして、さっそく返事を聞きたいというような顔をしていた。イワン・フョードロヴィッチは『ふむ』と言って、苦々しい顔をし、肩をすくめて、ついには両手をひろげて、解決を下すのであった。
『亭主が必要なんだ!』
『でも、あの子には、どうかして、あなたのような人を授からないようにしたいもんですわ、ねえ、あなた』とついにリザヴェータ・プロコフィエヴナは爆弾のように破裂した、『あなたみたいな判断をしたり、宣告をしたりしない人を、ねえ、あなた、あなたみたいな無作法な乱暴者を授からないようにね、イワン・フョードロヴィッチ……』
 イワン・フョードロヴィッチはさっさと難を免れ、リザヴェータ・プロコフィエヴナは破裂してしまったあとでは、気が落ち着いてくるのであった。
 もちろん、その日の夕方ちかくになれば、夫人は必ず夫のイワン・フョードロヴィッチ、『無作法な乱暴者』だと言った、しかも善良な、愛すべき夫、自分が崇拝しているイワン・フョードロヴィッチに対して非常に注意ぶかく、おとなしく、愛想よく、つつましやかになるのであった。なぜなら、彼女は一生涯、夫のイワン・フョードロヴィッチを愛し、れてさえもいたのであり、そのことはイワン・フョードロヴィッチ自身もよくよく承知していて、その点ではリザヴェータ・プロコフィエヴナを限りなく尊敬もしていたのである。
 それにしても、夫人の不断のおもなる苦しみの種はアグラーヤであった。
『全く、全く、私とそっくりだ、どこからどこまで私と生き写しだ』とリザヴェータ・プロコフィエヴナはひとり言を言っていた、『わがままな、けがらわしい悪魔だ! ニヒリストで、変人で、気ちがいで、意地悪だ。意地悪、意地悪! ああ、あの子はどんなに不仕合わせな女になるだろう!』
 しかし、すでに述べたように、昇って来た太陽はあらゆるものを和らげ、しばしの間、照らしていた。リザヴェータ・プロコフィエヴナがあらゆる不安をのがれて、本当に心を安めることができたのは、生まれてこのかたわずかにこの一か月ばかりの間であった。いよいよ差し迫ったアデライーダの婚礼を機縁として、アグラーヤの噂も上流社会に立つようになってきた。その間、アグラーヤはどこへ行っても美しく、おだやかに、賢く、ゆったりしていて、いくぶんは傲然ごうぜんとしていたが、それさえも彼女にふさわしかった。まる一か月の間は母親に対しても、実に愛想がよくて、丁寧であった!(『たしかにあのエヴゲニイ・パーヴロヴィッチのことは、もっともっとよく観察して、腹の底を見きわめなければならぬ。それにアグラーヤもあの人を他の話よりも好いているようにも思われないのだ!』)とにもかくにも、あの子は急にすばらしい娘になった——なんていうきれいな子だろう、ああ、なんてきれいなんだろう、日ましにきれいになってゆく! ところがどうだろう!
 ところが、ここにけがらわしい公爵めが、よくよくの白痴ばかものが現われるやいなや、何もかもがまたもやごちゃごちゃになってしまって、家のなかが、がらりとひっくり返ってしまったのだ!
 それにしても、いったい、どんなことが起こったのか?
 ほかの人たちが見たら、必ずや、何事も起こらなかったように思われるであろう。
 ところがリザヴェータ・プロコフィエヴナのよその人と違っているところは、きわめてありふれた事柄が結びついたりもつれ合ったりしているところに、いつも彼女につきものになっている不安な気持ちを透して、いつも何かしら、ときには病気にでもなってしまいそうな激しい恐怖を感じさせるものを見てばかりいるということであった。彼女はそれによって、実に疑い深い、言い知れぬ、したがって、実に重苦しい恐怖を感じさせられるのであった。だから今、不意に、笑止な、根も葉もない不安の入りみだれている陰に、何かしら実際に重大らしいもの、何かしら実際に恐惶や懐疑や、杞憂きゆうの念をよび起こさせるようなものが、ありありと見えてきたとき、夫人の気持はどんなものであったろうか?
『それに、なんてずうずうしいんだろう、私にいやらしい無名の手紙なんかをよこして、あの死女郎しにめろうのことを書いて、アグラーヤがあいつと交際してるなんて言って、なんてずうずうしいんだろう?』リザヴェータ・プロコフィエヴナは公爵を引っぱって来る道すがら、また家へ着いて家じゅうの者が集まっている丸いテーブルのところへ公爵を坐らせながらも、こんなことを考え続けていた。
『こんなことを考えるなんて、よくもずうずうしいことができたもんだ。たとえちょっとでもそんなことをにうけたり、アグラーヤにあの手紙を見せたりしながら、私はもう恥ずかしくって死んじまうわ! これは私たち、エパンチン家の者を嘲弄ちょうろうしようというんだろう! これもみんなイワン・フョードロヴィッチのせいなんだ、みんな貴方のせいなんですよ、あなた! ああ! なんだってエラーギン〔フィンランド湾にのぞむネワ河の河口にある小さな島。夏の散策地〕へ引っ越して行かなかったろう、私があんなにエラーギンへ越そうって言ったのに! これは、たぶん、ワーリヤがよこしたんだろう、きっとそうだわ、それとも、ことによったら、……いや、いや、何もかもイワン・フョードロヴィッチの罪なんだ! これはこの人を目当てにこしらえたお芝居なんだ、以前の関係を思い出して、この人にばかな目を見せようっていうんだ。たしかに以前あの人が真珠をあの阿魔のところへ持って行った時、まるでばか者あつかいにして、さんざん笑ったあげく、さんざん愚弄したっていうけど、その時と同じことをしようっていうんだ……。しかし、結局、わたしたちはやっぱり巻き添えを食っているんだ。やっぱり、うちの娘たちも巻き添えにされているんですよ、イワン・フョードロヴィッチ、処女ですよ、令嬢ですよ、上流社会の令嬢ですよ、嫁入り前の娘なのですよ、それだのに、あんなところにいて、あんなところへ行って、みんな聞いてしまったんですよ、そしてあんな小僧っ子たちといっしょに話に巻き込まれてしまったんですよ! あんたは喜んだらいいでしょう、やっぱりあの子たちはあそこにいて聞いてしまったのですよ! でも、私はどうしてもあの公爵のやつを容赦はしませんよ。けっして容赦なんかするもんですか! それになんだってアグラーヤは三日もヒステリーを起こしてたんだろう、なんだって姉たちと、今にも喧嘩しそうにしてたんだろう。いつも手に接吻なんかして、母親のように敬っているアレクサンドラとまでも喧嘩しそうになったりして? なんだってあの子は三日も、みんなに謎をかけるようなことをしているのだろう? それだのに、ガヴリーラ・イヴォルギンはどうなんだろう? 昨日も今日もなんだってあの子はガヴリーラ・イヴォルギンを褒めちぎって、泣いたりしていたんだろう? なんだって、あの子は公爵から来た手紙を姉にも見せなかったのに、あの無名の手紙に、あのいやな「貧しき騎士」のことなど書いてあったのだろう? それになんだって! 何のために、何のために私は気ちがい猫みたいに向こう見ずに駆けつけて、自分からここへわざわざ引っぱってなぞ来たんだろう? ああ、私は気が狂ったのだ、こんなことをするなんて! 若い男を相手にして、娘の秘密をしゃべるなんて、おまけに……おまけに、ほとんどあの人自身に関係している秘密を打ち明けるなんて! ああ、あの人が白痴ばかで……そして……家の者の友だちだったのが仕合わせだ……けども、アグラーヤがこんな不具者に参るなんて、どうしたことなんだろう! ああ、私ともあろう者が、なんていう寝言を言っているんだろう! ちぇっ! 私たちは奇人ぞろいだ……ガラスの箱の中へ入れて、うちの連中を、まず第一には私を、見せ物に出したらいいわ、十カペイカくらいの木戸銭を払わせて。でも、イワン・フョードロヴィッチ、あんたのことも容赦はしませんよ、けっしてするもんですか。ときに、あの子はなんだって公爵の気にさわるようなことをしないんでしょうね? ぎゅうぎゅういじめてやるって約束をしたのに、今はそんなことをするけはいもない! ほら、ほら、一生懸命に公爵のほうを見て、黙っている。出て行こうとはしないで、突っ立っている。自分から来てくれるなと言ったくせに……。公爵はまっさおになって坐っている。それに、あのいやな、おしゃべりのエヴゲニイ・パーヴロヴィッチめが自分一人で話を持ちきりにしてる! まあ、しゃべることったら、他人ひとにはひと言も口をきかさないで。私はあの話を持ちかけて、何から何までわかってしまいたいけれど』
 公爵はなるほど、坐っていた。丸いテーブルの前にほとんど蒼白といってもいいくらいな顔をして坐っていた。そして同時にまた極度の恐怖に襲われているらしかった、時おりは自分自身にさえもわけのわからないあふれるような歓喜に身を任せていた。
 ああ、彼に馴染なじみの深い黒い二つの眼が、じっと自分のほうを見つめている部屋の片隅の方をのぞくのを、彼はどんなに恐れたことであろう。また同時に、アグラーヤに便りをもらってから、再びここに来て、この人たちの間に坐り、聞き慣れた彼女の声を聞いているのだと思うと、あまりの嬉しさに気が遠くなるほどであった。『ああ、今あのひとはなんとか言ってくれるだろう!』彼は自分ではただひと言も物も言わずに、一生懸命にエヴゲニイ・パーヴロヴィッチの『おしゃべり』を聞いていた。エヴゲニイは今宵今晩ほど満足して興奮していることは珍しかった。公爵は彼の話をじっと聞いていたが、長いこと相手の言うことが、ひと言もわからなかった。まだペテルブルグから帰って来ないイワン・フョードロヴィッチのほかは、みんなが集まっていた。S公爵もやはりそこに顔を見せていた。一同の者は、もう少ししたら、お茶の出るまで音楽を聞きに行こうとしているらしかった。まもなく、不意にどこからかコォリャがやって来て、露台テラスへすべり込んだ。『してみると、あれは以前のようにここで相手にされているんだな』と公爵は心の中で考えた。
 エパンチン家の別荘はスイスの田舎家の趣を採り入れたぜいたくな別荘で、四方は草花や常春藤きづたなどで飾られていた。あまり大きくはないが、きれいな花園がぐるりを取り巻いていた。一同は公爵のところでと同じように、露台に腰をおろしていた。ただ、そこの露台はいくらか広く、いきな造りであった。
 いま始まっている話の主題テーマは若干の人にしか迎えられぬらしかった。察するところ、この会話は激論の結果、始まったものらしく、もちろん、誰しも話題を変えたがっている様子であった。しかし、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチはいよいよ激しく頑張ったものとみえて、相手にどんな印象を与えるかということなどは、てんで気にもかけていないらしかった。公爵がやって来たので、彼はいっそう興奮したらしかった。リザヴェータ・プロコフィエヴナは全部呑み込めなかったが、苦い顔をしていた。アグラーヤはわきのほうに、ほとんど隅のほうに坐っていたが、その場を立ち去ろうともせずに、耳を傾けて、固く口をつぐんでいた。
「失礼ですが」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチは熱のこもった調子でやり返した、「私はけっしてリベラリズムを反駁はんばくなんかしてはおりません。リベラリズムはけっして悪いもんじゃありません。これは渾然こんぜんたるものを形づくるに必要欠くべからざる一部分であり、これがなかったら渾然たるものは分裂するか滅びるかしてしまうものです。リベラリズムは最も穏健な保守主義と同様に当然、存在すべきものです。しかし私はロシアのリベラリズムは攻撃します。もう一度くり返しますが、私はロシアのリベラリストはロシア的リベラリストではなく、非ロシア的リベラリストだという、その点で攻撃するのです。ロシア的リベラリストを見せていただきたい。そしたらさっそくあるかたのいる前で私はその人に接吻して見せますよ」
「でも、その人があなたに接吻したいって言ったらでしょう」と、いつになく興奮していたアレクサンドラがこう言った。頬までが、いつもよりはいっそう赤らんでいた。
「まあ」と、リザヴェータ・プロコフィエヴナは心の中で考えた、「いつも寝たり食べたりして、挺子てこでも動かせないくらいに落ち着き払っているのに、年に一度くらいは、ひょっこり腰をあげて、聞いてるほうで度胆どぎもを抜かれるようなことを言いだすじゃないの」
 公爵はふと気がついた。見るとエヴゲニイ・パーヴロヴィッチがこんな真剣な問題を話すのに、あまりにも陽気で、まるで夢中になっているような、それと同時に冗談を言っているような風をしているのが、アレクサンドラ・イワーノヴナにはどうも気に入らないらしいのである。
「私はねえ、公爵、あなたがいらっしゃるちょっと前に、断言したのです」と、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチはことばをついだ、「わが国のリベラリストは今に至るまで、以前の地主(今はすたれている)と神学生と、——ただこの二つの階級からばかりできてました。ところがこの二つの階級はついに全くの種姓カースタ、国民から独立した一種特別なものに変化し、時がたてばたつに従って、百年また百年といよいよ距離がはなはだしくなるばかりです。そんなわけですから、しぜん、彼らのやったこと、またすでにやりつつあることが一事が万事、非国民的なのです……」
「え? してみると、今までやったことがみんな——みんなロシア的でないと言うのかね?」とS公爵がことばを返した。
「非国民的ですよ。ロシア風かもしれませんけども、しかし国民的ではない。わが国のリベラリストもロシア的でないし、保守主義者もまたロシア的ではない。何もかも……。だから、ようく呑み込んでてください、国民は地主だの神学生だのがやったことを、何ひとつ承認しやしないから。今だって、これから先だって……」
「なるほど、そりゃ結構だ! もしそれがまじめだとすれば、君はどうしてそんな逆説パラドックスを主張できるんだね? ロシアの地主に対するそんな言いがかりを僕は黙殺するわけにはいかない。夫子ふうし自身だってロシアの地主だのに」と公爵は性急に反駁した。
「だけども、僕は君が考えてるような意味でロシアの地主というものについて論じてるわけじゃない。そりゃあ、僕がただ単にそれに属しているというだけでも尊敬すべき階級には相違ない、わけても今日のように存在しないということになってみれば……」
「それに文学にだって、なにも国民的なものなんかはなかったじゃないんですか?」とアレクサンドラがさえぎった。
「私は文学のほうはあまり得意じゃないんですが、私のつもりでは、ロモノーソフ、プゥシキン、それとゴォゴリを除けたら、ロシア文学は全くロシアのものではないと思うんです」
「第一、それだけあれば結構ですわ、第二に、一人は民衆の間から〔ロモノーソフは平民の出であった〕出ていますが、あとの二人は地主ですね」とアデライーダが笑いだした。
「なるほどそうですが、そんなに威張らないでください。今までのロシア文学者のうちで、ただこの三人だけが、それぞれ、何かしら本当に自分のもの自分独得ヽヽヽヽのものを語ることができたので、それによって、この三人がたちまち国民的なものとなったのです。ロシア人のうち誰でもいい。何か自分のもの、けっして消滅しない、借り物でない自分のものヽヽヽヽヽを言うなり、書くなり、行動にあらわすなりしたら、その人は必ず国民的になります。たとえロシア語もじょうずに話せないとしても。これが私にとっては不易の真理です。しかし、私たちは文学の話を始めたのではなく、社会主義者の話を始めたのでした。それがついその話からこんな話になったのです。さて、私は確信してやまないのですが、わが国には一人のロシア的な社会主義者もおりません。現におらんばかりでなく、昔もおりませんでした。というのは、わが国の社会主義者といえば全部が全部、やはり地主や神学生あがりだからです。わが国の有名な、どこへ出しても恥ずかしくないような社会主義者は、こちらにいる者も、外国にいる者も、ことごとく農奴制時代の地主から出たリベラリストにほかならぬものです。何をあなたがたはお笑いになるのです? まあ、私にあの連中の書いた本を見せてください。あの連中の学説なり、覚え書きなりを貸してごらんなさい。私は文学批評家ではありませんが、きわめて信頼するに足る文学批評を書いてごらんに入れましょう。そして彼らの書物、パンフレット、覚え書きなどの一ページ一ページが、何よりもまず以前のロシアの地主によって書かれたものだということを、火を見るよりも明らかに証明しましょう。あの連中の敵意、不満、諷刺ふうし——はいずれも地主的なものです。彼らの歓喜、彼らの涙は本当のものであり、おそらくは、真心まごころからの涙であっても、しかも、——なお地主的なものです! 地主的か神学生的か……またあなたがたはお笑いなさる、あなたも笑ってらっしゃるんですね、公爵? あなたもやはり不賛成なんですか」
 実際に一同の者が笑っていた。公爵もほほえみを浮かべていた。
「僕は賛成なのか不賛成なのか、いきなり申し上げることはできませんが」と公爵は急に笑うのをやめて、いたずらをしてつかまえられた小学生のような顔つきをして、こう言った、「しかし、あなたのお話を非常に喜んで拝聴いたしておることだけは御承知おき願います……」
 こう言いながら、彼はほとんど息がつまりそうであった。額には冷汗までがにじんできた。これは彼がここへ来て坐ってから、はじめて口に出たことばであった。彼はあたりを見回そうとしていたが、その勇気すらも出なかった。エヴゲニイは彼のそぶりを見てとって、ほほえみをもらした。
「皆さん、私はあなたがたに一つの事実をお話しいたしましょう」と彼は以前の調子、つまり、非常に心をひかれて熱中しているような、同時にまた、おそらくは自分自身のことばをあざけってでもいるような妙な調子でことばを続けた、「その事実、その事実の観察、それに発見したということは僣越せんえつながら私のもの、しかも私だけの手柄と言いうるものです。少なくとも、この事実については、まだどこでも話にも上っていませんし、書いた人もいないのですから。この事実のうちに、私の言うような意味のロシアリベラリズムの本質がすっかり現われているのです。第一に、リベラリズムというものを、現存する社会の秩序に対する攻撃とは見ないで(この攻撃が論理的なものか、あるいは、間違っているものか、それは別問題ですが)、とにかく、そう見ないで、だいたいのことを言うとしたら、いったい、リベラリストとはなんぞや? と言いたいのです。ねえ、そうじゃありませんか? さて、私の言う事実というのは、ロシアリベラリズムなるものは現存せる社会の秩序に対する攻撃ではなくて、わが国の社会の本質に対する攻撃であり、ただ単に秩序、ロシアの秩序に対する攻撃であるばかりでなく、ロシアそのものに対する攻撃でもある。ついに、わがリベラリストはロシアそのものを否定し、すなわち自分の母親を憎んでむちうつところまで立ち至ったのです。不幸なこと、失敗したことがあれば、必ずリベラリストはあざわらったり、ほとんど狂喜したりするのです。またわが国の民俗、ロシアの歴史、なんでもかんでも憎んでいる。彼らのために弁明してやることがあるとしたら、それはただ彼らが自分のしていることを知らずに、ロシアに対する憎悪をもって、最も有効なリベラリストだと勘違いしていることです(ああ、あなたがたはほかの人から賞めそやされているのに、自分は実際のところ、おそらく、このうえもなく間抜けな、ぼんやりな、そして危険な保守主義者なのに、自分ではそれを知らずにいるリベラリストをこの国でしばしばお見うけなさることでしょう!)、このロシアに対する憎悪を、わが国の若干のリベラリストはついこの間まで、ほとんど祖国に対する真心からの愛であるかのように勘違いをして、その愛情の根本ともなるべきものを、他人よりもよく知っていると自慢していたものでした。ところが、今日このごろはもう、ずっとずっと露骨になって、『祖国に対する愛』ということばをさえ恥ずべきものと考えるようになり、あまつさえその概念までも有害な、取るにも足らないものだとして、これを排撃し、ついには除外してしまいました。この事実は正確なもので、わたしはそれを主張してやまない者です……いつかは本当のことを余すところなく、率直に、露骨に言ってしまわなければならなかったのです。しかし、この事実はまた同時にいまだかつて、いついかなるところにも、ただ一つの国民の間にさえも見られなかったという、そういうたぐいのものでした。したがって、この事実は偶然のもので、やがては過ぎ去ってしまうかもしれません、私はそれには同意します。自分の国を憎むなどというリベラリズムはどこへ行ったって見当たらないでしょう、こういうことをわが国では何によって説明しうるでしょう? 以前もこれと寸分違わぬものがあったとか。——ロシアのリベラリストは目下のところでは、まだ非ロシア的リベラリストだとか、その辺のことをいって説明することですね。私の考えでは、ほかには別に何も材料もないと思うのです」
「僕は君の言ったことを、冗談だと思うよ、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチ君」とS公爵はま顔になって言うのであった。
「わたしはリベラリストを全部見たわけではありませんから、どちらがいいとは申せませんけれど」とアレクサンドラ・イワーノヴナが言った、「しかし、あなたの御意見を伺って憤慨いたしましたわ。あなたは局部的な場合をとって来て、それを一般的な法則にあてはめようとなさいました、したがって中傷なすったことになります」
「局部的な場合って? あ、あ! よくもおっしゃいましたね」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチはあとを引きとった、「公爵、あなたはなんとお考えになります、これは局部的な場合でしょうか、それとも?」
「僕はやはり、見聞が狭いし、……リベラリストともあまり……ですと申し上げなければなりません」と、公爵は言った、「しかし、あなたのおっしゃるのが、たぶん、本当だろうと、そんな気がするのです、あなたのおっしゃられたロシアリベラリズムは、実際のところ、単にわが国の社会の秩序ばかりではなしに、ロシアそのものをも憎んでいるような傾向があるようですね、いくぶん。むろん、これはただいくぶんというだけのことで……むろん、これはあらゆる人に対して公平な意見だというわけにはまいりませんが……」
 彼は口ごもって、そのあとを濁してしまった。彼はすっかり興奮してはいたが、この話には非常な関心をよせていた。公爵には一つの風変わりな特徴があった。それはいつも何か彼の関心をひきよせる話を聞いている時と、人に物を聞かれて答える時に示す、なみなみならぬ無邪気さであった。彼の顔や、からだつきにさえも、この無邪気さ、相手にひやかされても、ユーモアを浴びせかけられても、とんと察しがつかないで、相手を信じきっている気持がどことはなしに漂っていた。ところが、エヴゲニイはかなり前から、たしかにいくぶん、特別な薄笑いを浮かべながら公爵に対していたのであるが、今この答えを聞くと、なんとなく非常にまじめになって、彼を眺め、まさしく彼からこんな答えを聞こうとは夢にも思わなかったというような様子をしていた。
「なるほど……しかしどうもあんたのおっしゃるのは変ですねえ」エヴゲニイは言いだした、「実際、あんたはまじめにお答えになったんですか、公爵?」
「では、あんたはまじめにお尋ねになったんではないんですか?」と、こちらはびっくりして、口答えした。
 誰も彼もが笑いだした。
「ほんとだわ」とアデライーダが言った、「エヴゲニイ・パーヴロヴィッチさんはいつでも、相手かまわずばかにしなさる! 承知しててくださりゃいいのに。このかたは時おり、妙なことを、まじめくさってお話しになるんですのに!」
「なんだか、重っ苦しい話らしいわね。そんな話はもう始めなくたっていいでしょうね」とアレクサンドラが鋭く注意した、「散歩に行きたかったのに!……」
「さ、まいりましょう、すばらしい晩ですから!」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチが叫んだ、「しかし、僕が今は大まじめで言ったことをあんたがたに証明するために、——主として公爵に証明するために(ねえ、公爵、あなたは僕に非常な興味をおこさせました。そして、誓って申しますが、僕はいつも誰にもそう思われるんですけれど、けっして見かけほど、あさはかな人間じゃありませんよ、——もっとも、実際のところはあさはかな人間なんですけれど!)、もしもねえ、皆さん、皆さんがよろしいっておっしゃるなら、僕は公爵にもう一つ最後の質問をしようと思います。これは私自身の物好きからなんですが、これをもって打ち切りにしたいものです。この疑問は、まるでわざわざみたいですが、二時間前に私の念頭に浮かんできたのです(いいですか、公爵、僕だってときにはまじめなことを考えるんですよ)、僕はこの疑問を解決はしたのですが、まあ、公爵がなんておっしゃるか見てましょう。たった今『局部的な場合』というお話がありましたね。このことばはわが国では意味深長なことばになっていて、よく耳にするものです。つい最近、誰も彼もがこの若い……男の恐ろしい六人殺しのことや、弁護士の妙な議論のことを噂したり、書いたりしていました。あの議論の中に、犯人が貧困の境遇にあって、これらの六人の者を殺そうという気になったのは、きわめて自然なことヽヽヽヽヽだということがありました。これは文字どおりではありませんが、意味は確かこのとおり、あるいはそれに近いものだったと思います。僕一個人の考えでは、弁護士は、かような妙な思想を声明しながら、自分では最もリベラルな、最も人道的な、今のような時勢だからこそ言えるような最も進歩的な意見を語っているのだと、全く信じきっていたように思えるのです。さあ、あなたの御意見だとどうなりましょう? 概念や信念のうえでのこの歪曲わいきょくが、かような物事に対する不公平な、ただごとならぬ見方が存在し得るということが、これがいったい、局部的な場合なんでしょうか、それとも一般的な場合なんでしょうか?」
 一同はどっと吹き出してしまった。
「局部的なもの、むろん、局部的なものです」と言って、アレクサンドラとアデライーダは笑いだした。
「失礼だけれど、また警告するよ、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチ君」S公爵は付け加えた、「君の冗談ももうあんまり鼻についてきたね」
「あなたはどうお考えです、公爵?」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチは相手の言うことなどには耳も傾けずに、ムイシュキン公爵の物好きそうなまじめなまなざしを見てとって、「どういう風に見えますかね、これは局部的な場合、それとも一般的な? 僕はね、正直に言うと、あんたに聞きたくて、この質問を考え出したのです」
「いいえ、局部的なものじゃありません」と、静かに、しかもきっぱりと公爵は言い放った。
「冗談じゃありませんよ、レフ・ニコラエヴィチさん」と、いくぶんいまいましそうにS公爵が叫んだ、「あんたはいったい、この人に乗せられてるのがわからないんですか? この人はね、すっかりちゃかしきって、あんたをなぶる気でいるんですよ」
「僕はエヴゲニイ・パーヴロヴィッチ君はまじめな話をしたんだと思いました」と、ムイシュキン公爵は顔を赤らめて、眼を伏せた。
「ねえ、公爵」とS公爵は続けた、「いつぞや、三月みつきばかり前に二人で話し合ったことを思い出してくださいよ。ほかでもない、わが国に新しく創立されたばかりの法廷に、早くも実に多くの注目すべき、才能のある弁護士を認めることができるという話をしたじゃありませんか! それは陪審員の決定に、きわめて注目すべきものが多いということを話しましたね。あなた御自身がどんなに喜んでいらっしたか、そして僕があんたの喜ばれているのを見てどんなに嬉しい思いをしたことか……。僕たちは当然、自慢をしてもいいのだと話し合ったじゃありませんか……。ところが、この不細工な弁護ときたら、この奇妙な論法ときたら、これはむろん、偶然のもので、万に一つの例外ですよ」
 ムイシュキン公爵はじっと考えていたが、やがて非常に確信のありそうな様子をして、声ひくく、おずおずしているような風をさえ見せて、こう答えた。
「僕はただ、観念イデーおよび——これはエヴゲニイ・パーヴロヴィッチさんのことばをかりて言うのですが概念の歪曲に実にしばしば、出くわして、不仕合わせにも、局部的な場合よりもはるかに一般的な場合のほうが多いということを言いたかったのです。そして、もしもこうした歪曲がかような一般的な場合でなかったら、おそらく、ああいったような有り得べからざる犯罪も起こらなかったろうと思われるほど、それほど多くなっているということを……」
「有り得べからざる犯罪ですって? しかし、僕はきっぱりとこう申し上げたい。これと同じような犯罪、おそらくは、これ以上に恐るべき犯罪は、たしかに以前にもあったものです。いつもありました。そして、わが国ばかりでなく、いたるところにあったものです。僕の考えでは、これから先も長いことくり返されるだろうと思います。ただ違うところは、わが国では以前は今のように世間で騒ぐようなことはほとんどなかったのに、このごろでは口に出して言ったり、おまけに書き立てるようになったことです。だからこそ、こういう犯人が今はじめて現われたかのように見えるのです。ここにあなたの勘違い、きわめて無邪気な勘違いがあるのですよ、公爵、はっきり言うと」S公爵はあざけるようにほほえんだ。
「それは、僕も犯罪が以前にもこういう恐ろしいのが非常に多かったということは、自分でも知っています。つい先ごろ僕は監獄へまいりまして、いくたりかの囚人や未決囚と近づきになることができました。中には今度のよりはずっと恐ろしいのがいて、十人も殺しておきながら、ちょっとも後悔していないような犯人もいました。しかし、僕はその時こんなことに気がつきました。それはこのうえもなく頑強な、そしてちょっとも後悔をしていない殺人犯でも、やはり自分が罪人ヽヽであるということは知っている、つまり良心的に、たとい後悔などはしていないにしても、自分が良くないことをしたのだということだけは考えているということです。そして彼らはことごとくそうなのです。ところがエヴゲニイ・パーヴロヴィッチさんがお話しになったような人たちは、自分のことを罪人だということを考えてみる気持さえもなく、はらの中では、当然そうする権利があったのだ……よいことをしたのだと、……つまりだいたいがそういう気持でいるんじゃありませんか。僕をして言わしむれば、ここにこそ非常な相違があるのです。しかも注意しなければならないのは、これがみんな青年であるということ、つまり何よりもたやすく、あっさりと観念の曲解に陥ることのできる年ごろの連中であることです」
 S公爵はもう笑ってはいなかった。そうしていぶかしげに公爵の話を謹聴していた。
 さっきから何か言いたげにしていたアレクサンドラ・イワーノヴナは、何か特別な考えに押しとどめられたかのように、ふっと口をつぐんでしまった。エヴゲニイはすっかり驚いてしまって、今度という今度はもうあざわらうような様子は少しもなく、じっと公爵を眺めていた。
「いったいどうしてそんなにびっくりなさるんですの、あなた」と、だしぬけにリザヴェータ・プロコフィエヴナ夫人が口を出した、「この人があなたよりも足りなくって、あなたのように物の判断がつきかねるとでもお思いになって?」
「いいえ、そんなわけじゃございません」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチが言った、「こんな質問をしまして恐縮ですが、ねえ、公爵、あなたはそれほどの見識がおありなさるのに、どうしてあなたは(これまた恐縮な次第ですが)、あの奇怪な事件……ほら、ついこの間の……ブルドフスキイって言いましたね……あの男の事件のときに、どうしてあなたは観念および道徳的信念のああいう歪曲に気がつかれなかったのでしょう? まさしく、さっきのと同じものじゃありませんか! あの時、僕はあなたがちょっとも気がついておられないように、そういう風に見えましたけれど?」
「まあ、こうなんですよ、公爵」とリザヴェータ・プロコフィエヴナは熱くなって言った、「私たちはみんな気がついてましたの、ここに集まって、公爵の前で自慢をしてたんですの。するとこの人は今日になって、あの仲間の一人から、ほら、あのいちばんかしらになっている、面皰にきびのある、覚えているでしょう、アレクサンドラ? あの人から手紙をもらったんですよ、あの男はね、公爵に手紙の中でおわびを言ってるの。そりゃあ、おわびの言い方も自己流だけれど。そしてさ、もうあの時、あの男をきつけた仲間を……ねえ、アレクサンドラ、覚えてるでしょう? ……あの仲間と離れてしまって、今は誰よりも公爵を信じてるって、そんなことを言って来てますよ。まあ、私たちは公爵の前で天狗てんぐになることだけは一人前だけれど、そんな手紙って受け取ったこともありませんよ」
「そしてイッポリットもやはりさっそくこちらの別荘へ引っ越して来ましたよ!」とコォリャが叫んだ。
「え! もうこちらへ?」と公爵はいまさらながら驚いた。
「あなたがリザヴェータ・プロコフィエヴナ様とお出かけになるとすぐにおいでになったのですよ。僕が連れて来たんです!」
「まあ、わたし、かけをしてもいいわ」とリザヴェータ・プロコフィエヴナは、たった今、公爵を賞めそやしたことなどは、すっかり忘れてしまって、急に怒りだした、「賭をしましょう、この人は昨日あの男の屋根裏の部屋へ出かけて行って、あの毒々しい意地悪に、悪く思わないで、こちらへ引っ越してくれるようにって、拝むようにして頼んだに相違ないんです。あなたは昨日、行ったでしょう? だって、さっき自分で白状したじゃありませんか。そうでしょう、それとも行かなかったの? 拝むように頼んだんでしょう、それとも頼まなかったの?」
「そんなことはしませんでしたよ」とコォリャが叫んだ、「まるで反対です。イッポリットが昨日公爵の手をつかまえて、二度も接吻したんですよ。僕は自分で見ました。もうそれっきりで話はすんだんです。そのほかには、ただ公爵がイッポリットに別荘へ来たほうが楽になるだろうっておっしゃっただけです。するとイッポリットは気持がもっと楽になったらすぐに引っ越しましょうって、たちまち承知したのです」
「だめだよ、コォリャ君……」と公爵は立ち上がって、帽子をとりながらつぶやいた、「なんだってそんなことをしゃべるのさ、僕はね……」
「あんた、どこへ行くのよ?」とリザヴェータ・プロコフィエヴナが彼を押しとどめた。
「気にかけないでください、公爵」とコォリャは胸をときめかしながらことばをついだ、「お出かけなさらんでください、そっとしとってやってください。旅の疲れでぐっすり眠ってますから。とても喜んでいたんですよ。僕はね、公爵、今お会いにならんほうが、ずっといいと思いますよ。明日まででも放っといてください。さもないと、またまごついちゃいますからね。つい今朝も言ってましたけれど、この半年というもの、こんないい気持になって、元気づいたことはないんですって。おまけにせきも半分くらいになったそうですよ」
 公爵はアグラーヤが不意に自分の席から立って来て、テーブルに近づいたのを認めた。彼は彼女の顔を見る元気もなかったが、この瞬間にアグラーヤがこちらを見ているということ、おそらくは、きつい目をしてにらめつけているだろうということ、この黒い眼には必ずや憤ろしい気持が漂い、その顔には朱を注いでいるだろうということを、心の中でしみじみと感じていた。
「ですけども、ニコライ・アルダリオノヴィッチ君〔コォリャをいくぶん冷笑的に、あらたまって呼んだのである〕、僕はもしもね、その人が、泣いて僕たちを自分の葬式にんだあの肺病やみの子供だったら、わざわざその人をこちらへ君が連れて来たのはむだだと思うよ」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチが言った、「あの人はその時、隣りの家の壁の話をして、この壁を見ると、きっと悲しくなるだろうって、そんなことを実に口達者にしゃべってました。ほんとですよ」
「そりゃあ本当ですよ。あの人はあんたと喧嘩をして、つかみ合いをして、出て行くでしょうよ——それくらいが関の山です!」
 そう言って、リザヴェータ・プロコフィエヴナ夫人は厳めしそうな顔をして、縫物のはいっている籠を引きよせた。誰もがもう散歩に行こうとして立ち上がっていることなどは、とんと忘れていた。
「あの人があの壁をとても自慢してたのを僕は覚えてます」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチはまた口を出した、「あの人はあの壁がなかったら口達者にして死んではゆけないでしょう、なにしろ、口達者にして死んでゆきたいっていうんですからね」
「それでいったいどうなんです?」と公爵はつぶやいた、「もしあんたがあの人を許してやる気がないんなら、そしたらあんたにかまわず死んでゆくでしょう……今度はここへ、ここに樹木があるっていうんで引っ越して来たんです」
「おお、僕のほうでは何でも許してやりますとも。そう言ってやってください」
「それをそういう風にとっちゃいけませんよ」公爵は相も変わらずじっと床のひとところを眺めながら、眼を伏せたまま、静かに、気がなさそうな返事をした、「あなたもあの人の許しを快くお受けになる、ということにしたらいいでしょう」
「だって僕はこの場合、どうだっていうんです? どういう罪があるんです、あの人に対して?」
「もしおわかりにならなければ、その時 ……いや、しかしおわかりになってるんじゃありませんか。あの時あの人は……僕たちみんなを祝福して、あんたがたからも祝福を受けたかったのです、ただそれだけのことです……」
「ねえ、公爵」とS公爵はそこに居わせた誰かと目を見交わしながら、なんとなく用心ぶかそうにあとを引きとった、「地上の楽園パラダイスは容易に得られるものじゃありません。ところが、あなたはとにもかくにも、楽園というものに若干の期待をもっておいでになる。地上の楽園というものはむずかしいものです。ねえ、公爵、あなたの美しいお心で考えていらっしゃるものよりは、ずっとずっとむずかしいものです。まあ、こんな話はよしたほうがいいでしょう。さもないと、お互いにまた気まずい思いをしなけりゃならんでしょうから、そうなると……」
「音楽を聞きに行きましょう」とリザヴェータ・プロコフィエヴナは腹立たしげに席を立ちながら、勢いすさまじく、こう言った。
 夫人にならって一同の者も立ち上がった。
 
(つづく) 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 

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