白痴(第三編)
ドストエフスキー
中山省三郎訳
第三編
一
この国には実際的な人がいない。たとえば政治的な人は多く、将軍などといったような人もかなりに多い。また、支配的な位置に立つ人も、どんなに必要が起ころうとも、すぐにあつらえむきの人がいくらでも見つかるのである。しかし実際的な人となるといっこういないのである。——そういう嘆声が絶え間なしにもらされている。少なくとも、誰も彼もが、そういう人間のいないことを嘆いている。人の話だと、二、三の線などには気のきいた列車ボーイさえもいないという。人がいないためにある汽船会社などでは、どうにもうまく経営してゆくことができないという。どこかの新しく開通された線で客車が衝突したとか、鉄橋から墜落したとかいう話を聞くと思うと、新聞には列車が雪の野原のまん中で、危うく冬ごもりをしかけたという記事が載っている。わずかに五、六時間ばかり乗って行って、五日も雪の中に立ち往生したなどという話が出ている。また、何千トンという貨物が、一つ所に
時おり度はずれに単純な、あまりに単純すぎて、その説明を本当にすることさえもできないような応答をする向きがある。この人たちの話によると、事実、わが国ではたいていの者が勤めていたり、現に勤めたりしている。そしてこの状態がすでに二百年も、曾祖父の代から曾孫の代まで、最もすぐれたドイツ流によって続いているが、——こういう勤め人はまた、最も非実際的な人たちであって、ついには、純然たる理論にのみ走ることや、実際的知識を欠いているということが、勤め人そのものの間において、最近はほとんど最もすぐれた美徳であり、人にも勧むべき資質であるかのように見なされるに至っている、——と、そう言っている。それにしても、私はいたずらに勤め人の話など始めてしまったが、実は特に実際的な人物の話をしたかったのである。臆病であるとか、創意を全く欠如しているということが、絶えずこの国において、実際的な人物にとっての最も主要な、最善の特徴だと見なされ、今日においてさえも、なお見なされつつあることは、すでに疑うべからざる事実である。しかし、この意見を非難の意味にとるとすれば、何もこちらのほうばかりを非難するにはあたらないであろう。創造力の欠如ということは、世界の至るところにおいて、昔から実務家、敏腕家、実際家の第一の資格であり、最良の資質であるかのように常に見なされてきている。少なくとも百人のうち九十九人までが(これは本当に
発明家とか天才とかは、世間ではほとんど常に、世に出たばかりのころには(また実にしばしば、活動のやむころにおいても)ばかも同然に見なされてきた、——しかも、これはすでにあまりにもあまねく知れわたっているきわめて因襲的な物の見方である。早い話が、この何十年かの間に、あらゆる人が自分の金を銀行へ持ち込んで、何十億という金を四分の利で預けているが、これがもし銀行というものがなかったとしたら、もちろん、誰もがしかたなしに自分自身でやりくりをしていたであろうし、またこの何十億という金の大部分は必ずや株式熱や、詐欺師の手にかかって消えうせていたはずである。——しかも、こんなことになるのも礼節とか道義心とかの要求によるものである。まことに道義心があればこそである。もしも、道義にかなった臆病さと、礼節にかなった創造力の欠如とが、今日に至るまで、世上一般の定見として、敏腕な相当の人物に欠くべからざる性質であると認められているとしたら、あまり急に早変わりをするのは、あまりにも
たとえば、わが子をすなおに愛している母親ならば、自分の息子や娘が常軌を逸しようとするのを見て、
が、それにしても、とにかく、ずいぶんよけいなことをおしゃべりしてしまった。実は、特にわれわれがすでにお
実際、そんな風なところは少しもなかった。つまり、意識して、これと定めた目的などはなかったのである。しかし、とにもかくにも、結局、エパンチンの家庭は、かなりに尊敬すべきものではあったが、やはり何かしら、一般にあらゆる尊敬すべき家庭にはあるまじきところをもっていた。近ごろになって、リザヴェータ・プロコフィエヴナは何事につけても、罪を自分一人に、自分の『不仕合わせな』性格のみに負わせるようになってきた。そのために彼女の
すでに、この物語の冒頭において、エパンチン家の人たちが世間から真に尊敬を受けていたことは述べておいたはずである。どこの馬の骨やらわからなかったイワン・フョードロヴィッチ将軍自身さえいたるところで、心から尊敬をもって迎えられていた。また彼は実際に尊敬を受けるだけの値打ちもあったのである。第一に、裕福な、『あまり見下げたものでもない』人間として、第二には、あまり融通はきかなかったが、全くきちんとした人だとしてであった。しかしいくぶん血のめぐりがよくないということは、事業家の全部が全部とはいえないまでも、少なくともあらゆるまじめな利殖家には、ほとんど必要欠くべからざる性質であるように思われる。最後に、将軍はまた、それ相当の礼儀作法を心得、謙譲であり、口のきき方を知って、減らず口をたたくようなことはせず、同時に単に将軍としてばかりでなく、
リザヴェータ・プロコフィエヴナはどうかというに、夫人は前にも述べたごとく、名門の出であった。もっともわが国においては、門地などというものは、のっぴきならぬ立派な親類でもなかったら、そんなに人の関心をひかない。しかしついに夫人にも立派な親戚があらわれて、ついには尊敬もされ、可愛がられもした。しかも相当の人たちがそうするので、自然と、他の人たちもそれに従って夫人を尊敬し、応待もしなければならなかった。いうまでもなく、彼女の家庭的な煩悶は根も葉もないもので、元をただせば実にくだらないもので、おかしいくらいに誇張されていた。それはそうと、もし誰かが鼻の上や額に
自分の娘たちを見ては、何かしら自分が絶えず出世の邪魔になっているのではないかしらと疑ってみたり、自分の性格は笑止なものであり、ぶしつけで、我慢のならないものだろうといぶかってみたりして煩悶するのである。そしてもちろん、そのために夫のイワン・フョードロヴィッチや自分の娘たちを朝に晩にとがめ立てては、毎日毎日、寝ても覚めても口論していたのである。しかも同時に夫や娘たちを、身をも忘れて、ほとんど
何よりも夫人を悩ませたのは、娘たちが自分と同じような『変人』になるだろうという
『第一、あの
ところが、ついに母らしい彼女の親ごころに、太陽が昇ろうとしていた。せめて一人の娘、アデライーダだけでも、やっとかたがつくだろう。『やっと、一人だけでも重荷が軽くなります』と、口に出して言わねばならない機会があった時に、そんなことを言っていた(胸の中では、比較にならないほど、もっともっと優しい言い方をしていたが)。やがて、万事は実に好都合に、身分相応に取り運ばれた。上流社会においてさえも、敬意を払って噂に上ってきた。相手は有名な人物で、公爵で、財産もあれば、器量もよし、そのうえに、令嬢とは気持がしっくり合っている。まことに申し分がないと思われる。しかし、夫人は以前から、アデライーダの身の上をほかの二人の娘ほどには危ぶんではいなかった。たまには彼女の画家らしい性癖が、絶えず危惧の念に包まれているリザヴェータ・プロコフィエヴナの心をかき乱すこともあったが。
『その代わり性質が陽気で、それに、十分に常識もそなえているから、——あれがつまずくようなことはあるまい』と、夫人は、ついには自分を慰めるのであった。彼女は誰にもましてアグラーヤには気をもんでいた。
ついでながら、長女のアレクサンドラについては、リザヴェータ・プロコフィエヴナは気をもんでいいのやら悪いのやら、どうしていいのか自分でもわからなかった。ときには『娘一人がすっかり見る影もなくなった』ような気がしていた。二十五になる、——してみると、いつまでもオールド・ミスで通すのかもしれぬ。『あれほどの器量よしなのに!』と、リザヴェータ・プロコフィエヴナは毎晩のように泣いてさえもいた。しかるに、そんな晩にも、アレクサンドラ・イワーノヴナときたら、実に安らかな夢を見て眠っているのであった。『いったいあれはどんな子なんだろう? ニヒリストなのかしら、それともただのばか娘かしら?』しかし、ばかでないということには、リザヴェータ・プロコフィエヴナもなんらの疑いをももっていなかった。母親はアレクサンドラの判断を非常に尊敬して、この娘に相談をかけるのを好んでいた。しかし、『いくじなし』だということ——それは疑うべからざる事実であった。『まあ、手のつけられないほど落ち着き払っている! だけど、ほかの「いくじなし」って者はあんなに落ち着いてはいない——ふっ! あの子たちにかかったら、気が遠くなっちまう!』
リザヴェータ・プロコフィエヴナはアレクサンドラ・イワーノヴナに対しては、彼女の秘蔵っ子であったアグラーヤに対する以上に、ある言い知れぬあわれみ深い同情を寄せていた。しかし気むずかしい言いがかりや(これは大事なことであるが、夫人の母親らしい心づかいと同情の念をあらわしていた)、かきむしるような態度や、『いくじなし』という悪口は、ただアレクサンドラを笑わせるだけであった。ついには、実につまらない事柄がひどく母なるリザヴェータ・プロコフィエヴナを怒らせ、堪忍袋の緒を切らせるようなことも時おりあった。アレクサンドラはたとえば、いつまでも寝ているのが好きで、いつもいろんな夢を見ていた。ところが、いつも、その夢たるや、何かしら度はずれに単純で、無邪気なものであった、——それこそ七つの子供にふさわしいようなものであった。ところが、この無邪気なのがなぜかしらお母さんに
一度、たった一度、彼女はどうやら奇抜そうな夢を見ることができた——どこかの暗い部屋に一人の坊さんがいて、その部屋へ行くのがこわくてしようがなかったという、この夢の話を二人の娘は大笑いしながら、もっともらしくリザヴェータ・プロコフィエヴナに伝えた。ところが母親はまたもや腹を立てて、三人の娘たちをそろいもそろってばかだと言った。『ふむ! いかにもばか娘らしく落ち着き払っている、ほんとに「いくじなし」だ。手がつけられない。でも、あれは沈んでいる。どうかすると、ほんとに悲しそうな様子をしている! 何を悲しんでいるんだろう? 何を?』時おり、夫人はこの質問をイワン・フョードロヴィッチにも浴びせかけた。そして、いつもの癖として、ヒステリカルに脅やかすような風をして、さっそく返事を聞きたいというような顔をしていた。イワン・フョードロヴィッチは『ふむ』と言って、苦々しい顔をし、肩をすくめて、ついには両手をひろげて、解決を下すのであった。
『亭主が必要なんだ!』
『でも、あの子には、どうかして、あなたのような人を授からないようにしたいもんですわ、ねえ、あなた』とついにリザヴェータ・プロコフィエヴナは爆弾のように破裂した、『あなたみたいな判断をしたり、宣告をしたりしない人を、ねえ、あなた、あなたみたいな無作法な乱暴者を授からないようにね、イワン・フョードロヴィッチ……』
イワン・フョードロヴィッチはさっさと難を免れ、リザヴェータ・プロコフィエヴナは破裂してしまったあとでは、気が落ち着いてくるのであった。
もちろん、その日の夕方ちかくになれば、夫人は必ず夫のイワン・フョードロヴィッチ、『無作法な乱暴者』だと言った、しかも善良な、愛すべき夫、自分が崇拝しているイワン・フョードロヴィッチに対して非常に注意ぶかく、おとなしく、愛想よく、つつましやかになるのであった。なぜなら、彼女は一生涯、夫のイワン・フョードロヴィッチを愛し、
それにしても、夫人の不断のおもなる苦しみの種はアグラーヤであった。
『全く、全く、私とそっくりだ、どこからどこまで私と生き写しだ』とリザヴェータ・プロコフィエヴナはひとり言を言っていた、『わがままな、けがらわしい悪魔だ! ニヒリストで、変人で、気ちがいで、意地悪だ。意地悪、意地悪! ああ、あの子はどんなに不仕合わせな女になるだろう!』
しかし、すでに述べたように、昇って来た太陽はあらゆるものを和らげ、しばしの間、照らしていた。リザヴェータ・プロコフィエヴナがあらゆる不安をのがれて、本当に心を安めることができたのは、生まれてこのかたわずかにこの一か月ばかりの間であった。いよいよ差し迫ったアデライーダの婚礼を機縁として、アグラーヤの噂も上流社会に立つようになってきた。その間、アグラーヤはどこへ行っても美しく、おだやかに、賢く、ゆったりしていて、いくぶんは
ところが、ここにけがらわしい公爵めが、よくよくの
それにしても、いったい、どんなことが起こったのか?
ほかの人たちが見たら、必ずや、何事も起こらなかったように思われるであろう。
ところがリザヴェータ・プロコフィエヴナのよその人と違っているところは、きわめてありふれた事柄が結びついたりもつれ合ったりしているところに、いつも彼女につきものになっている不安な気持ちを透して、いつも何かしら、ときには病気にでもなってしまいそうな激しい恐怖を感じさせるものを見てばかりいるということであった。彼女はそれによって、実に疑い深い、言い知れぬ、したがって、実に重苦しい恐怖を感じさせられるのであった。だから今、不意に、笑止な、根も葉もない不安の入りみだれている陰に、何かしら実際に重大らしいもの、何かしら実際に恐惶や懐疑や、
『それに、なんてずうずうしいんだろう、私にいやらしい無名の手紙なんかをよこして、あの
『こんなことを考えるなんて、よくもずうずうしいことができたもんだ。たとえちょっとでもそんなことを
公爵はなるほど、坐っていた。丸いテーブルの前にほとんど蒼白といってもいいくらいな顔をして坐っていた。そして同時にまた極度の恐怖に襲われているらしかった、時おりは自分自身にさえもわけのわからないあふれるような歓喜に身を任せていた。
ああ、彼に
エパンチン家の別荘はスイスの田舎家の趣を採り入れたぜいたくな別荘で、四方は草花や
いま始まっている話の
「失礼ですが」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチは熱のこもった調子でやり返した、「私はけっしてリベラリズムを
「でも、その人があなたに接吻したいって言ったらでしょう」と、いつになく興奮していたアレクサンドラがこう言った。頬までが、いつもよりはいっそう赤らんでいた。
「まあ」と、リザヴェータ・プロコフィエヴナは心の中で考えた、「いつも寝たり食べたりして、
公爵はふと気がついた。見るとエヴゲニイ・パーヴロヴィッチがこんな真剣な問題を話すのに、あまりにも陽気で、まるで夢中になっているような、それと同時に冗談を言っているような風をしているのが、アレクサンドラ・イワーノヴナにはどうも気に入らないらしいのである。
「私はねえ、公爵、あなたがいらっしゃるちょっと前に、断言したのです」と、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチはことばをついだ、「わが国のリベラリストは今に至るまで、以前の地主(今は
「え? してみると、今までやったことがみんな——みんなロシア的でないと言うのかね?」とS公爵がことばを返した。
「非国民的ですよ。ロシア風かもしれませんけども、しかし国民的ではない。わが国のリベラリストもロシア的でないし、保守主義者もまたロシア的ではない。何もかも……。だから、ようく呑み込んでてください、国民は地主だの神学生だのがやったことを、何ひとつ承認しやしないから。今だって、これから先だって……」
「なるほど、そりゃ結構だ! もしそれがまじめだとすれば、君はどうしてそんな
「だけども、僕は君が考えてるような意味でロシアの地主というものについて論じてるわけじゃない。そりゃあ、僕がただ単にそれに属しているというだけでも尊敬すべき階級には相違ない、わけても今日のように存在しないということになってみれば……」
「それに文学にだって、なにも国民的なものなんかはなかったじゃないんですか?」とアレクサンドラがさえぎった。
「私は文学のほうはあまり得意じゃないんですが、私のつもりでは、ロモノーソフ、プゥシキン、それとゴォゴリを除けたら、ロシア文学は全くロシアのものではないと思うんです」
「第一、それだけあれば結構ですわ、第二に、一人は民衆の間から〔ロモノーソフは平民の出であった〕出ていますが、あとの二人は地主ですね」とアデライーダが笑いだした。
「なるほどそうですが、そんなに威張らないでください。今までのロシア文学者のうちで、ただこの三人だけが、それぞれ、何かしら本当に自分のもの
実際に一同の者が笑っていた。公爵もほほえみを浮かべていた。
「僕は賛成なのか不賛成なのか、いきなり申し上げることはできませんが」と公爵は急に笑うのをやめて、いたずらをしてつかまえられた小学生のような顔つきをして、こう言った、「しかし、あなたのお話を非常に喜んで拝聴いたしておることだけは御承知おき願います……」
こう言いながら、彼はほとんど息がつまりそうであった。額には冷汗までがにじんできた。これは彼がここへ来て坐ってから、はじめて口に出たことばであった。彼はあたりを見回そうとしていたが、その勇気すらも出なかった。エヴゲニイは彼のそぶりを見てとって、ほほえみをもらした。
「皆さん、私はあなたがたに一つの事実をお話しいたしましょう」と彼は以前の調子、つまり、非常に心をひかれて熱中しているような、同時にまた、おそらくは自分自身のことばをあざけってでもいるような妙な調子でことばを続けた、「その事実、その事実の観察、それに発見したということは
「僕は君の言ったことを、冗談だと思うよ、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチ君」とS公爵はま顔になって言うのであった。
「わたしはリベラリストを全部見たわけではありませんから、どちらがいいとは申せませんけれど」とアレクサンドラ・イワーノヴナが言った、「しかし、あなたの御意見を伺って憤慨いたしましたわ。あなたは局部的な場合をとって来て、それを一般的な法則にあてはめようとなさいました、したがって中傷なすったことになります」
「局部的な場合って? あ、あ! よくもおっしゃいましたね」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチはあとを引きとった、「公爵、あなたはなんとお考えになります、これは局部的な場合でしょうか、それとも?」
「僕はやはり、見聞が狭いし、……リベラリストともあまり……ですと申し上げなければなりません」と、公爵は言った、「しかし、あなたのおっしゃるのが、たぶん、本当だろうと、そんな気がするのです、あなたのおっしゃられたロシアリベラリズムは、実際のところ、単にわが国の社会の秩序ばかりではなしに、ロシアそのものをも憎んでいるような傾向があるようですね、いくぶん。むろん、これはただいくぶんというだけのことで……むろん、これはあらゆる人に対して公平な意見だというわけにはまいりませんが……」
彼は口ごもって、そのあとを濁してしまった。彼はすっかり興奮してはいたが、この話には非常な関心をよせていた。公爵には一つの風変わりな特徴があった。それはいつも何か彼の関心をひきよせる話を聞いている時と、人に物を聞かれて答える時に示す、なみなみならぬ無邪気さであった。彼の顔や、からだつきにさえも、この無邪気さ、相手にひやかされても、ユーモアを浴びせかけられても、とんと察しがつかないで、相手を信じきっている気持がどことはなしに漂っていた。ところが、エヴゲニイはかなり前から、たしかにいくぶん、特別な薄笑いを浮かべながら公爵に対していたのであるが、今この答えを聞くと、なんとなく非常にまじめになって、彼を眺め、まさしく彼からこんな答えを聞こうとは夢にも思わなかったというような様子をしていた。
「なるほど……しかしどうもあんたのおっしゃるのは変ですねえ」エヴゲニイは言いだした、「実際、あんたはまじめにお答えになったんですか、公爵?」
「では、あんたはまじめにお尋ねになったんではないんですか?」と、こちらはびっくりして、口答えした。
誰も彼もが笑いだした。
「ほんとだわ」とアデライーダが言った、「エヴゲニイ・パーヴロヴィッチさんはいつでも、相手かまわずばかにしなさる! 承知しててくださりゃいいのに。このかたは時おり、妙なことを、まじめくさってお話しになるんですのに!」
「なんだか、重っ苦しい話らしいわね。そんな話はもう始めなくたっていいでしょうね」とアレクサンドラが鋭く注意した、「散歩に行きたかったのに!……」
「さ、まいりましょう、すばらしい晩ですから!」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチが叫んだ、「しかし、僕が今は大まじめで言ったことをあんたがたに証明するために、——主として公爵に証明するために(ねえ、公爵、あなたは僕に非常な興味をおこさせました。そして、誓って申しますが、僕はいつも誰にもそう思われるんですけれど、けっして見かけほど、あさはかな人間じゃありませんよ、——もっとも、実際のところはあさはかな人間なんですけれど!)、もしもねえ、皆さん、皆さんがよろしいっておっしゃるなら、僕は公爵にもう一つ最後の質問をしようと思います。これは私自身の物好きからなんですが、これをもって打ち切りにしたいものです。この疑問は、まるでわざわざみたいですが、二時間前に私の念頭に浮かんできたのです(いいですか、公爵、僕だってときにはまじめなことを考えるんですよ)、僕はこの疑問を解決はしたのですが、まあ、公爵がなんておっしゃるか見てましょう。たった今『局部的な場合』というお話がありましたね。このことばはわが国では意味深長なことばになっていて、よく耳にするものです。つい最近、誰も彼もがこの若い……男の恐ろしい六人殺しのことや、弁護士の妙な議論のことを噂したり、書いたりしていました。あの議論の中に、犯人が貧困の境遇にあって、これらの六人の者を殺そうという気になったのは、きわめて
一同はどっと吹き出してしまった。
「局部的なもの、むろん、局部的なものです」と言って、アレクサンドラとアデライーダは笑いだした。
「失礼だけれど、また警告するよ、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチ君」S公爵は付け加えた、「君の冗談ももうあんまり鼻についてきたね」
「あなたはどうお考えです、公爵?」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチは相手の言うことなどには耳も傾けずに、ムイシュキン公爵の物好きそうなまじめなまなざしを見てとって、「どういう風に見えますかね、これは局部的な場合、それとも一般的な? 僕はね、正直に言うと、あんたに聞きたくて、この質問を考え出したのです」
「いいえ、局部的なものじゃありません」と、静かに、しかもきっぱりと公爵は言い放った。
「冗談じゃありませんよ、レフ・ニコラエヴィチさん」と、いくぶんいまいましそうにS公爵が叫んだ、「あんたはいったい、この人に乗せられてるのがわからないんですか? この人はね、すっかりちゃかしきって、あんたを
「僕はエヴゲニイ・パーヴロヴィッチ君はまじめな話をしたんだと思いました」と、ムイシュキン公爵は顔を赤らめて、眼を伏せた。
「ねえ、公爵」とS公爵は続けた、「いつぞや、
ムイシュキン公爵はじっと考えていたが、やがて非常に確信のありそうな様子をして、声ひくく、おずおずしているような風をさえ見せて、こう答えた。
「僕はただ、
「有り得べからざる犯罪ですって? しかし、僕はきっぱりとこう申し上げたい。これと同じような犯罪、おそらくは、これ以上に恐るべき犯罪は、たしかに以前にもあったものです。いつもありました。そして、わが国ばかりでなく、いたるところにあったものです。僕の考えでは、これから先も長いことくり返されるだろうと思います。ただ違うところは、わが国では以前は今のように世間で騒ぐようなことはほとんどなかったのに、このごろでは口に出して言ったり、おまけに書き立てるようになったことです。だからこそ、こういう犯人が今はじめて現われたかのように見えるのです。ここにあなたの勘違い、きわめて無邪気な勘違いがあるのですよ、公爵、はっきり言うと」S公爵はあざけるようにほほえんだ。
「それは、僕も犯罪が以前にもこういう恐ろしいのが非常に多かったということは、自分でも知っています。つい先ごろ僕は監獄へまいりまして、いくたりかの囚人や未決囚と近づきになることができました。中には今度のよりはずっと恐ろしいのがいて、十人も殺しておきながら、ちょっとも後悔していないような犯人もいました。しかし、僕はその時こんなことに気がつきました。それはこのうえもなく頑強な、そしてちょっとも後悔をしていない殺人犯でも、やはり自分が
S公爵はもう笑ってはいなかった。そうしていぶかしげに公爵の話を謹聴していた。
さっきから何か言いたげにしていたアレクサンドラ・イワーノヴナは、何か特別な考えに押しとどめられたかのように、ふっと口をつぐんでしまった。エヴゲニイはすっかり驚いてしまって、今度という今度はもうあざわらうような様子は少しもなく、じっと公爵を眺めていた。
「いったいどうしてそんなにびっくりなさるんですの、あなた」と、だしぬけにリザヴェータ・プロコフィエヴナ夫人が口を出した、「この人があなたよりも足りなくって、あなたのように物の判断がつきかねるとでもお思いになって?」
「いいえ、そんなわけじゃございません」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチが言った、「こんな質問をしまして恐縮ですが、ねえ、公爵、あなたはそれほどの見識がおありなさるのに、どうしてあなたは(これまた恐縮な次第ですが)、あの奇怪な事件……ほら、ついこの間の……ブルドフスキイって言いましたね……あの男の事件のときに、どうしてあなたは観念および道徳的信念のああいう歪曲に気がつかれなかったのでしょう? まさしく、さっきのと同じものじゃありませんか! あの時、僕はあなたがちょっとも気がついておられないように、そういう風に見えましたけれど?」
「まあ、こうなんですよ、公爵」とリザヴェータ・プロコフィエヴナは熱くなって言った、「私たちはみんな気がついてましたの、ここに集まって、公爵の前で自慢をしてたんですの。するとこの人は今日になって、あの仲間の一人から、ほら、あのいちばん
「そしてイッポリットもやはりさっそくこちらの別荘へ引っ越して来ましたよ!」とコォリャが叫んだ。
「え! もうこちらへ?」と公爵はいまさらながら驚いた。
「あなたがリザヴェータ・プロコフィエヴナ様とお出かけになるとすぐにおいでになったのですよ。僕が連れて来たんです!」
「まあ、わたし、
「そんなことはしませんでしたよ」とコォリャが叫んだ、「まるで反対です。イッポリットが昨日公爵の手をつかまえて、二度も接吻したんですよ。僕は自分で見ました。もうそれっきりで話はすんだんです。そのほかには、ただ公爵がイッポリットに別荘へ来たほうが楽になるだろうっておっしゃっただけです。するとイッポリットは気持がもっと楽になったらすぐに引っ越しましょうって、たちまち承知したのです」
「だめだよ、コォリャ君……」と公爵は立ち上がって、帽子をとりながらつぶやいた、「なんだってそんなことをしゃべるのさ、僕はね……」
「あんた、どこへ行くのよ?」とリザヴェータ・プロコフィエヴナが彼を押しとどめた。
「気にかけないでください、公爵」とコォリャは胸をときめかしながらことばをついだ、「お出かけなさらんでください、そっとしとってやってください。旅の疲れでぐっすり眠ってますから。とても喜んでいたんですよ。僕はね、公爵、今お会いにならんほうが、ずっといいと思いますよ。明日まででも放っといてください。さもないと、またまごついちゃいますからね。つい今朝も言ってましたけれど、この半年というもの、こんないい気持になって、元気づいたことはないんですって。おまけに
公爵はアグラーヤが不意に自分の席から立って来て、テーブルに近づいたのを認めた。彼は彼女の顔を見る元気もなかったが、この瞬間にアグラーヤがこちらを見ているということ、おそらくは、きつい目をしてにらめつけているだろうということ、この黒い眼には必ずや憤ろしい気持が漂い、その顔には朱を注いでいるだろうということを、心の中でしみじみと感じていた。
「ですけども、ニコライ・アルダリオノヴィッチ君〔コォリャをいくぶん冷笑的に、あらたまって呼んだのである〕、僕はもしもね、その人が、泣いて僕たちを自分の葬式に
「そりゃあ本当ですよ。あの人はあんたと喧嘩をして、つかみ合いをして、出て行くでしょうよ——それくらいが関の山です!」
そう言って、リザヴェータ・プロコフィエヴナ夫人は厳めしそうな顔をして、縫物のはいっている籠を引きよせた。誰もがもう散歩に行こうとして立ち上がっていることなどは、とんと忘れていた。
「あの人があの壁をとても自慢してたのを僕は覚えてます」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチはまた口を出した、「あの人はあの壁がなかったら口達者にして死んではゆけないでしょう、なにしろ、口達者にして死んでゆきたいっていうんですからね」
「それでいったいどうなんです?」と公爵はつぶやいた、「もしあんたがあの人を許してやる気がないんなら、そしたらあんたにかまわず死んでゆくでしょう……今度はここへ、ここに樹木があるっていうんで引っ越して来たんです」
「おお、僕のほうでは何でも許してやりますとも。そう言ってやってください」
「それをそういう風にとっちゃいけませんよ」公爵は相も変わらずじっと床のひとところを眺めながら、眼を伏せたまま、静かに、気がなさそうな返事をした、「あなたもあの人の許しを快くお受けになる、ということにしたらいいでしょう」
「だって僕はこの場合、どうだっていうんです? どういう罪があるんです、あの人に対して?」
「もしおわかりにならなければ、その時 ……いや、しかしおわかりになってるんじゃありませんか。あの時あの人は……僕たちみんなを祝福して、あんたがたからも祝福を受けたかったのです、ただそれだけのことです……」
「ねえ、公爵」とS公爵はそこに居わせた誰かと目を見交わしながら、なんとなく用心ぶかそうにあとを引きとった、「地上の
「音楽を聞きに行きましょう」とリザヴェータ・プロコフィエヴナは腹立たしげに席を立ちながら、勢いすさまじく、こう言った。
夫人にならって一同の者も立ち上がった。
(つづく)