白痴(第三編)ドストエフスキー

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  第三編

      二

 公爵はいきなりエヴゲニイに近づいた。
「エヴゲニイ・パーヴロヴィッチさん」と彼は相手の手を取って、妙に熱のこもった調子で言うのであった、「本当に僕は、どんなことがあろうとも、あんたのことを最も気品のある、最も善良なかただと思っているのです。どうかこのことは信じていてください」
 エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは驚きのあまり、一歩あとへ退がったほどであった。その一瞬間、彼はやっとのことで、やむにやまれぬこみ上げてくる笑いをこらえたのであった。しかし、しげしげと見まもっているうちに、彼は公爵がどうも正気ではないらしく、少なくとも一種特別な気持でいるらしいのに気がついた。
「僕はかけをしてもいいですが」と彼は叫んだ、「あなたはね、公爵、まるで別のことを言おうとしていらっしたんです。それも、ことによったら、僕にではなく全く別の人に向かって……それにしても、あなたはどうなすったんです? お気分でも悪いんじゃないんですか?」
「たぶんそうでしょう、たぶんそうでしょうとも。あなたは実にはっきりと気がつきましたね。たぶん、あなたでない人に僕が近よろうとしていたらしいなんて!」
 こう言って彼はなんとなく奇妙な、おかしくさえも見えるほほえみを浮かべたが、急に興奮したらしく叫びだした。
「どうか三日前の僕の行ないについては触れないでください! 僕はこの三日間、実にきまりが悪かったのです……僕は自分が悪かったことをよく知っています……」
「いったい、……いったい、何をそんなに恐ろしいことをなすったんです?」
「僕にはよくわかります、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチさん、たぶん、あなたは僕って者のために誰よりもいちばん恥ずかしい思いをしていらっしゃるんです。あなたは顔を赤らめていらっしゃる。それは美しい心のあらわれです。僕は今すぐ帰ります、間違いなしに」
「まあ、この人ってなんだろう! 発作でも起こってるのかしら?」とリザヴェータ・プロコフィエヴナは驚いてコォリャをかえり見た。
「気にとめないでください、奥さん、発作などありませんから。僕は今すぐ帰ります。僕はよく知ってます……僕は……自然にしいたげられた者です。二十四年の間、生まれてから二十四の年になるまで病気していました。今でも病人のことばだと思ってください。僕はすぐ帰ります、今すぐ。ほんとに。僕は赤い顔などしません、だってこんなことで赤くなるって変ですからね、そうじゃありませんか? しかし僕は世へ出るとよけい者です……僕はけっしてうぬぼれでそんなことを言うわけじゃありません……この三日の間いろいろと考えてみて、今度お目にかかっていいおりがあったら、必ず真心から、上品にお話をしなければならないと、こう決心したのです。僕が口に出してはいけないような理想、高遠な理想があることを申し上げたかったのです。なぜ、口に出してはいけないかというと、僕が話をすると必ず、みんなを笑わしてしまうからです。S公爵もこのことを、たった今、注意してくださいました。僕には礼儀にかなった身振ジェスチァりがありません。中庸という感情がありません。僕のことばというものはまるで当てはずれなもので、思想に適応しないものです。これすなわち思想に対する侮辱です。だからこそ、僕には……権利がありません、……おまけに、僕は疑い深い性分です。はっきりと、ここのお宅でははずかしめられていない、もったいないほど愛せられているとは信じながら、しかもよくわかっているのです(たしかによくわかっています)、二十年も病気をしていたあとですから、必ず何かしら痕跡が残っているはずです、それだから笑われずに済むようなものはないのです……、時おり……、ねえ、そうじゃありませんか?」
 彼はあたりを見まわしながら、はっきりした返答を待っているような風をしていた。この思いもよらない病的な、どう考えてみても、とにもかくにもなんのいわれ因縁もなさそうな公爵の言いがかりを聞いて、一同は重苦しい不審の念にうたれながらたたずんでいた。が、この言いがかりは、奇妙な插話エピソードの原因となったのである。
「なんだってあなたは、そんなことをここでおっしゃるのです?」と不意にアグラーヤが叫んだ、「なんだってそんなことをこの人たちにヽヽヽヽヽヽおっしゃるんですの? この人たちに! この人たちに!」
 彼女は極度に憤慨しているらしかった。眼はまるで火花を散らしているかのようであった。公爵は彼女の前に、おしのように声もなくたたずんでいたが、たちまちまっさおになってしまった。
「ここにはそんなことばを聞くだけの値打ちのある人が一人もいないんですよ!」とアグラーヤはどなり立てた。「ここにいる人はみんなあなたの小指ほどの値打ちもないんですよ、あなたの知恵、あなたのお心は、こんな人たちにはもったいなさすぎるのですよ! あなたは誰よりも潔白で、誰よりも高尚で、誰よりもおきれいで、誰よりも善良で、聰明なおかたなんです! ここにいる人たちは、あなたがたったいま落としたハンカチを、かがんで拾うだけの資格さえないのです……いったい、あなたはなんだってそんなに自分を卑しめて、誰よりも自分をいやしいものだとお考えになるのです? どうしてあなたは自分のなかにあるものを何から何までゆがめてしまったのです? どうしてプライドというものをもたないのです?」
「まあ、そんなことは思いもよらなかった!」とリザヴェータ・プロコフィエヴナは手をたたいた。
「貧しき騎士! 万歳!」とコォリャは有頂天になって叫んだ。
「黙ってなさい! まあ、このうちで私になんて恥をかかせるつもりなんでしょう!」と、いきなりアグラーヤはリザヴェータ・プロコフィエヴナに突っかかった。彼女はもう、まっしぐらにあらゆる邪魔物を飛び越えてゆこうとする時に、誰もが現わすような、ヒステリックな気持になっていた。「どうしてみんなが寄ってたかって、一人のこらず私をいじめるんです? どうして、公爵、この人たちはこの三日間、あなたのことで私にうるさくつきまとっているんでしょう? どんなことがあろうと、私はあなたとは結婚しません! 承知しててくださいな、どんなことがあっても、けっしてですよ! 覚えててちょうだい! いったいあなたみたいなおかしい人のところへ行けるもんですか? その立ってるところの格好を、まあ鏡で見てごらんなさい!……なんだって、なんだってこの人たちは、あなたのところへ私がお嫁にゆくなんて、私をばかにしてるんでしょう? あなたはそれを、ちゃんと承知してらっしゃるはずです! あなたもこの人たちと陰謀をたくらんでいらっしゃるんでしょう!」
「誰もけっしてばかになんかしやしないわ!」とアデライーダはあきれてつぶやいた。
「そんなこと誰も考えてやしなかったわ、ひと言だってそんなこと言いやしなかったわ!」とアレクサンドラ・イワーノヴナが叫んだ。
「誰がこの子をばかにしたの? いつばかにしたの? 誰がそんなこと言えたの? まあ、この子……寝言ねごとを言ってる、そうじゃないの?」と、怒りに燃えて身をふるわせながら、リザヴェータ・プロコフィエヴナ夫人はみんなに向かってそう言った。
「みんなが言ってたんです。一人のこらず、みんなでこの三日間! 私はけっしてけっしてこの人のところへなんかきません!」
 こう叫んで、アグラーヤはいたいたしい涙に濡れるのであった。ハンカチで顔をおおうと、椅子にどっかと腰をおろした。
「だって、まだおまえに公爵は結婚してくれとは……」
「僕はまだあんたに結婚してくれとは申しませんでしたよ、アグラーヤさん」と、不意に公爵は口をすべらした。
「なあに?」驚きと憤りと恐れとを同時に感じて、リザヴェータ・プロコフィエヴナはことばを長く引っぱった、「なあに、それは、いったい?」
 彼女は自分の耳を信用する気になれなかった。
「僕は言うつもりでした、……言うつもりでした」と公爵は震えてきた、「僕はただアグラーヤさんに……けっして僕は……結婚を……たといいつの日が来ても……申し込もうなどという……そんなつもりは今までも、これから先もさらにもっていないって……はっきり申し上げたかったのです。僕には何のとがもないはずです、断じてありません、アグラーヤさん? 僕はそんなことは一度だって望んだことがありませんし夢にも思ったことはないのです。これから先だって望みはしません。それは御自分でよくわかってくださるでしょう。どうか僕を信じていてください! これは誰か悪い人があなたの前で僕を中傷したに相違ありません! どうか! 安心しててください!」
 こう言いながら、公爵はアグラーヤに近づいて行った。彼女は顔をおおっていたハンカチをとって、公爵の顔を、どぎまぎしている様子をちらと見た。そうして相手の言ったことばの意味をあれかこれかと考えていたが、不意に公爵の眼の前で吹き出してしまった、——やむにやまれぬ、陽気な高笑い、いかにもおかしそうな、人をばかにしたような高笑いをするので、アデライーダもつい我慢がしきれなくなって(わけても公爵のほうを眺めた時に)、妹に飛びかかって妹を抱きしめると、同じように、やむにやまれぬ、まるで小学生のように陽気な笑い声を立ててしまった。この様子を見ると、公爵も急に笑いだして、嬉しそうな、幸福そうな表情を浮かべてくり返した。
「いや、結構、結構!」
 そこでもうアレクサンドラもたまらなくなって、腹をかかえて笑いだした。この三人はいつまでたっても笑うのをよしそうにもなかった。
「まあ、まるで気ちがいみたいな!」リザヴェータ・プロコフィエヴナはつぶやいた、「人をびっくりさせるかと思うと、今度は……」
 しかし、もうS公爵も笑いだしていた。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチも笑いだし、コォリャも声をあげてひっきりなしに笑い続け、ムイシュキン公爵もまた一同を眺めながら大笑いした。
「散歩にまいりましょう、まいりましょう!」と、アデライーダが叫んだ、「みんないっしょに、そして公爵もぜひいっしょにいらしてください。あなたがお帰りになるなんて法はありませんよ、あなたはいいおかたなんですものね! ねえ、アグラーヤ、まあなんていいかたでしょうね? そうじゃなくて、お母さん? それに、私はこのかたにぜひとも、ぜひとも接吻して、抱きしめて上げなければなりませんわ……アグラーヤに言ってきかしてくだすったお礼に。ねえ、ママ、公爵に接吻してもよくって? アグラーヤ! あんたヽヽヽの公爵に接吻さしてよ!」だだっ子はこう叫んで、本当に公爵のほうへ駆けよって、その額に接吻した。
 公爵は彼女の手をとって、あまりしっかりと強く握りしめたので、アデライーダはもう少しでわめき立てるところであった。公爵は限りもしれぬ喜びに浸って彼女を見つめていたが、いきなりすばやくその手を唇のところへもって行って、三度も接吻した。
「さあ、まいりましょう!」とアグラーヤが呼んだ、「公爵、あなたは私を連れてってくださいね。いいでしょう、ママ? 私を振った花婿さんにそうしていただいても? もうあなたは永久に私を振ったんでしょう、公爵? そんなふうに、そんなふうに婦人に差し出すもんじゃありませんよ。あなたは婦人の手のほんとうの引き方を御存じないんですか? あ、これでいいんです。じゃまいりましょう。私たちは誰より先にまいりましょう。先になって行くのはおいやですの、tete a tete(ふたりきりで)?」
 彼女はひっきりなしに話をしていた。やはり時おりは思い出したように笑いながら。
「ありがたい! ありがたい」とリザヴェータ・プロコフィエヴナは何が嬉しいのやらわからなかったが、わけもなく、こうくり返した。
『実に奇妙な人たちだ』とS公爵は考えた。この家の人たちと交わるようになってから、おそらくこんな気持をもつのは、もう百ぺん目くらいになるかもしれない。しかも……この奇妙な人たちが好きなのであった。ムイシュキン公爵はというと、これはことによったら、そんなにS公爵には気に入らないらしかった。S公爵はみんなと散歩に出かけた時、いくぶん苦い顔をして、なんとなく心配そうな風をしていた。
 エヴゲニイ・パーヴロヴィッチはたまらなく愉快な気持になっているらしく、停車場へ行く途中〔パヴロフスクの駅のわきには公園があって、そこには立派な音楽堂があった〕、しきりにアレクサンドラやアデライーダを笑わせていた。この二人は彼の冗談をあまりにも申し合わせたように笑うので、彼のほうでは、この連中はことによったら、ちょっとも自分の話なんか聞いていないんじゃないかしらと、ふっと疑ってみたくらいであった。こんなことを考えていると、ついには不意に、何がおかしいのかわけも言わずに、全く本気になって(彼はこんな性格の男であった!)、大きな声で笑いだした。もっとも、すっかり散歩気分になっていた二人の姉たちは、先頭に立ってゆくアグラーヤと公爵のほうに絶えず目を配っていた。どうやら妹は姉たち二人に大きな謎をかけたらしかった。S公爵はしきりにリザヴェータ・プロコフィエヴナに話をしかけようとしていた。たぶん、夫人の気をまぎらわそうとしていたのであろう。ところがかえって非常にいやがられていた。夫人はすっかり頭が散漫になっているらしく、つじつまの合わない返事ばかりしていて、ときには全く返事をしないことがあった。が、アグラーヤ・イワーノヴナの謎はこの晩だけで終わったのではなかった。最後の謎が、今度は公爵ただ一人に降りかかって来たのである。
 別荘からおよそ百歩ばかりも隔った時、アグラーヤは早口に、半ばささやくような声で、片意地に黙ってばかりいる自分の『騎士カヴレール』に向かって言うのであった。
「右のほうをごらんなさい」
 公爵はふり向いた。
「もっとよく気をつけてごらんなさい。あの公園のベンチ、ほら、あの大きな木が三本あるところに……あれが見えますかしら……緑色のベンチ?」
 公爵は「見える」と答えた。
「あなた、この場所がお気に召しまして? わたしは時おり朝早く、七時ごろに、みんながまだ寝ている時分にここへ一人でやって来て、腰かけているんです」
 公爵は美しい所だとつぶやいた。
「もう私と離れていらっしゃい。もうあなたと手を組んで歩きたかありません。いや、やっぱり手を組んでいらしたほうがいいわ。だけど、ひと言も口をきいちゃいけませんよ。わたし自分ひとりで考えたいことがあるんです……」
 どう見てもこの警告はよけいなおせっかいであった。公爵はこんな命令がなくとも、途中で最初からひと言もきかなかったに相違ないのである。
 ベンチのことを聞いた時、彼の胸はひどく動悸をうってきた。けれどもたちまちにして彼は思いなおしてみて、われながら恥ずかしい思いをしながら、愚かしい自分の考えを払いのけた。
 バヴロフスクの停車場には知ってのとおり、少なくと誰もが断言しているように、ふだんの日には、かえって市内の「いろんな種類の人たち」が押しかけてくる日曜や祭日よりも、もっと「り抜き」の人たちが集まって来る。女の人たちは祭日の時のようにことさらに眼をひくような風はしていないが、いきな風をしている。ここへ音楽を聞きに集まって来るのをみんなが楽しみにしていた。
 おそらく、この国の公園楽隊オーケストラのうちでも、実際に最もすぐれているこの楽隊は新しい曲を演奏していた。一般に、家庭的な、いかにも親しそうな親子もいくぶん見えないではなかったが、礼儀を重んじて、端正なことは格別であった。かねて知り合いの別荘の人たちは、誰も彼もがお互いに顔を見ようとして集まって来る。多くの者は心から満足して、これを実行し、ただそのためにのみやって来るが、中にはただ音楽だけを目当てにしてやって来る人もあった。不埓ふらちなことはきわめてまれであったが、ないことはなく、普通の日にさえも見うけられた。それにしても、こんなことがなくて済むということは、どこへ行ってもないものであろう。
 この晩はすばらしくいい晩であったから、人出もかなりに多かった。
 演奏中の楽隊に近い座席はすっかりふさがっていた。こちらからやって来た連中は、いくぶん側に寄って、停車場の左の入口のすぐそばにある椅子に腰をかけた。群集と音楽とはいくらかリザヴェータ・プロコフィエヴナを元気づけ、令嬢たちの気をまぎらわした。彼女たちは早くも知り合いの誰彼と眼を見交わして、誰彼に遠くのほうからなつかしげにうなずいて見せた。また早くも聴衆の衣裳を眺めて、何かしら変なことを眼にとめては、その話をしたり、あざけるようにほほえんだりしていた。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチもやはり、しょっちゅう挨拶をしていた。相変わらずいっしょになっていたアグラーヤと公爵には、ある人たちが早くも注意を向けていた。知り合いの青年が五、六人、母親と令嬢たちのところへ近づいて来た。二、三の者はそこに居残ってことばを交わしていた。いずれもエヴゲニイ・パーヴロヴィッチの友人であった。中に一人の年の若い、かなりにきれいな士官がいたが、かなりに陽気な、かなりに話の好きな男であった。彼は早口にアグラーヤに話しかけ、一生懸命に彼女の注意をひこうと努めていた。アグラーヤもこの士官に対しては、かなりにねんごろな態度を見せ、非常に愉快そうにしていた。
 エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは公爵に向かって、この友人に紹介させてくれと言った。公爵は、この人たちが自分に対して何をしようとしているのかほとんどわからなかったが、紹介が済んで、二人はお辞儀をして互いに握手をした。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチの友人はちょっとした質問をしたが、公爵はこれに対しては答えなかったらしかった。それとも何やら妙な風をして、もぐもぐ言っていたのであろうか。とにかく、あまりに妙だったので、士官はじっと彼のほうを見つめ、やがてエヴゲニイ・パーヴロヴィッチのほうをちらと見たほどであった。士官はすぐに、何のためにエヴゲニイがこの紹介を思いついたのかを悟って、ほのかにほほえみをもらして、またアグラーヤのほうを向いた。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチだけは、このときアグラーヤがさっと顔を赤らめたのに気がついた。
 公爵はほかの連中がアグラーヤと話をしたり、御機嫌をとっているのには、気もつかなかった。おまけに、自分がアグラーヤのそばに坐っているということさえも忘れがちであった。どうかすると、彼はどこかへのがれ、ここから全く姿を消してしまいたいような気持になり、たった一人で物思いに沈んで、誰一人として彼がどこにいるのか知る者もないような暗澹として荒涼たるところへ行ってしまいたいとさえも考えていた。それが無理なら、せめて自分の露台テラスにでもいたい、しかもレーベジェフも、その子たちもいないところで、自分の長椅子の上にそっとしておいてもらって、枕に顔を埋め、そのまま昼も夜も、またその次の日もというように寝て暮らすようにしたいと思うのであった。時おり山々が胸に浮かんできた。それも彼がいつも楽しく思い浮かべる連山のなかのただ一つのゆかりの深い地点であった。まだ外国あちらに暮らしていたころ、歩いて行っては、麓の村や、はるか下の方にかすかにちらついている白い糸のような滝や、白い雲、さては荒廃に帰した古い城廓を見おろすのを楽しみにしていたところであった。ああ、どんなに彼は今もそこへ行って、ただ一つのことばかりを思っていたかったろう! ああ! 一生の間、そのことばかりを思っていたかったろう——千年も思い続けて行くに足ることを! たとい、ここでこの人たちに忘れ去られようとも、それでもかまわないのだ。ああ! それは当然に必要なことでさえあるのだ、もしも自分が全く人に知られず、こうしたいっさいの幻が、ただ一つの夢に現われたものにすぎないというのであれば、かえって、そのほうがましなくらいだ。とはいえ、夢にあらわれたことであろうと、うつつのことであろうと、いずれにしても同じことではなかったのか!
 彼は時おり思い出したようにアグラーヤのほうへ眼をつけて、五分間ほどじっと見まもっていたが、そのひとみはあまりにも奇妙であった。しかも、まるで二露里エルスターも離れたところにある物体か、ないしは彼女の肖像画を眺めているような眼つきをしていて、正真正銘のアグラーヤその人を見ているとは思えなかった。
「何をそんなに私を見てるんですの、公爵?」自分をとり巻いている人たちと陽気に話をしたり、笑ったりしていたのを、ふっつりとやめて、アグラーヤはいきなり言うのであった、「わたし、あなたがこわいわ。なんだか手をのばして、私の顔に指をあてて、そうっとさわりそうな気がしてならないの。そうじゃなくって? エヴゲニイさん、公爵はそうらしいでしょう?」
 公爵は自分が話をしかけられたのを聞いて、びっくりしたらしかった。何やら思いめぐらしていたらしかったが、おそらく、相手の言ったことがさっぱり見当がつかなかったらしく、返事をしてやらなかった。しかし、彼女もほかの人もみんなが笑っているのを見ると、だしぬけに大きな口をあけて、自分も笑いだした。あたりの笑い声はいっそうひどくなった。士官はかなりの笑いん坊とみえて、おなかをかかえて笑いころげるばかりであった。アグラーヤは急に腹立たしげに声低くひとり言を言った。
白痴ばか!」
「まあ! いったい、この子はこんなやつに……どぎまぎさせられるのかしら?」とリザヴェータ・プロコフィエヴナは歯ぎしりした。
「これは冗談なんですよ。これはさっきの『貧しき騎士』のときと同じように、冗談なんですよ」と母親にアレクサンドラはしっかりした声で耳打ちした。「ただそれだけよ! この人はね、いつものやり方で公爵をまたからかったんですよ! でも、この冗談はあんまり深入りしすぎたわ。もうよさせなくちゃなりませんよ、ママ! さっきは女優みたいに変ないたずらをして私たちをびっくりさせるし……」
「でも、いくらいじめたって、こんな白痴ばかならいいわよ」とリザヴェータ・プロコフィエヴナはまた耳打ちした。
 娘の注釈はとにもかくにも夫人の気を軽くした。
 それにしても、公爵は自分を『白痴ばか』と言ったのを耳にして、身震いした。しかし、『白痴』と言われたから身震いしたのではなかった。『白痴ばか』ということばはすぐに忘れてしまった。が、群集の中の、自分の坐っている席からほど遠からぬ、どこか側のあたりに——公爵はどこのどの辺ということは、はっきり言えなかったであろうが——一つの顔が、ちらちらしたからであった。ちぢれた黒っぽい髪の毛と、見覚えのある、実によく見覚えのあるほほえみ方と眼つきをする青白い顔がちらついて、消えて行ったのだ。ことによったら、それはただ、そんな風に思えたのかもしれなかった。彼の印象に残った面影は、ちらと目にとまった紳士のゆがんだようなほほえみと、二つの眼と、淡緑のしゃれたネクタイだけであった。この紳士は群集の中に姿を消したのか、それとも停車場の中へ忍び込んだのか、やはり公爵は、はっきりしたことは言えなかった。
 けれど、一分間ほどすると、公爵は急に不安らしい様子をして、あたりを見まわし始めた。あの最初の面影は、次に来る面影の前兆であり、先駆者であったかもしれぬ。必ずそうなければならないものであった。はたして彼は停車場をさしてやって来る時、この人に会えるかもしれないということを忘れていたのであろうか? たしかに彼は停車場へ来る時、自分がここへ来るということを全く知らずにいたらしかった、彼の気持は、それほどの余裕をすらもたなかったのである。
 もしも彼がもっと気をつけて観察することができたなら、アグラーヤが時おり不安げにあたりを見まわして、やはり何かしら自分の周囲にあるものを捜すような風をしているのを、すでに十五分も前に見てとっていたはずである。今、彼の不安が著しく目立ってくると共に、アグラーヤの興奮も不安もいよいよ大きなものとなってきた。そして、彼がふり返って、あたりを見まわすやいなや、ほとんど同時に彼女もまたふり返るのであった。この胸さわぎはまもなく解決がついた。
 公爵およびエパンチン家の一行が陣取っていた停車場の横の出口のところから、不意に何人か、少なくとも十人くらいの人が一隊を成して現われて来た。この一隊の先頭には、三人の女が立っていた。うちの二人はすばらしい美人であったので、この女たちのあとから、これほどの崇拝者たちが従って来るのも、けっして不思議なことではなかった。しかし、崇拝者たちにも女たちにも、——何かしら特殊なもの、音楽を聞きに集まったほかの人たちとはまるで似てもつかないものがあった。ほとんど全部の者が、この連中にはじきに気がついたが、大部分の者は見ていながらも全く見ぬふりをしようと努めていた。ただ若い者の五、六人が互いに声低くささやきながら、彼らを見てほほえみを浮かべるだけであった。彼らを全然見ないというわけにはいかなかった。彼らは、これ見よがしの風をして、大きな声で話をしたり、笑ったりしていた。二、三の者はしゃれた、いきな服装をしていたが、彼らの多くが酔っ払っているということは、明らかに察しのつくことであった。もっとも、そこには実に妙な格好をして、妙な服を着、妙に興奮した顔をしている人たちもいた。彼らの中には軍人もおり、あまり年の若くない人たちもいた。ゆったりと、スマートに仕立てた服を着て、宝石入りの指環や飾りボタンも美しく、見事な漆黒くろかつらをかぶって、頬髭も堂々と、顔にはいくぶん人好きのしないところもあるが、しかも特殊な気品をもった威風をそなえた人もいた。それにしても、世間では、こういう人はまるでペストのように忌み嫌われるのである。この郊外の人ごみの中には、もちろん、人並みすぐれて端正な、特に評判のよい人たちも交っていた。それにしても、このうえもない用心ぶかい人でも、ときには、隣りの家から落ちてくる煉瓦に頭を打たれることがあるのである。この煉瓦は音楽を聞きに集まって来た端正な公衆の上に今まさに落ちかかろうとしていたのである。
 停車場から、楽隊が陣取っている広場へ行くには、三つの階段を降りて行かなければならなかった。この階段のいちばん上のところに例の一隊は立ち止まった。彼らはそこから降りるのを躊躇ちゅうちょしていた。すると一人の女が前へ進み出た。意を決してそれに続いたのは、わずかに二人のお供だけであった。一人は四十がらみの、かなりに内気そうな男で、あらゆる点から見て見かけは一人前の風をしていたが、まぎれもない浮浪人の風貌をそなえていた。つまり、自分もまるで他人を知らず、いつの日が来ても人に知られないといったような手合いの一人なのである。自分が崇拝している婦人のそばを離れずにいるいま一人の男は、全くの乞食風で、かなりに薄気味の悪い風をしていた。
 それ以上に誰ひとりとして、このとっぴな婦人のあとにつく者はなかった。しかし、階段を降りながら、彼女はさながら、人がついて来ようが来まいが、結局は同じことだというような顔をして、あとをふり返って見ようともしなかった。彼女は相変わらず笑ったり、大きな声で話をしたりしていた。服装にはなみなみならぬ嗜好しこうがあらわれ、ぜいたくではあるが、いくぶん普通以上に派手なようにも見うけられた。彼女は楽隊のわきを通って広場の別の側をさして進んで行った。そこには道ばたに誰かの馬車が、何びとかを待ちうけていた。
 公爵はもう三か月あまりも彼女ヽヽに会わなかった。ペテルブルグへ来てから、彼は毎日のように彼女を訪れようと考えていた。しかし、おそらくは神秘的な予感に引きとどめられていたのであろう。少なくとも、彼は彼女と会ってどういう印象をうけるか、どうしても察しがつかなかったのである。ときには恐怖の念をもって、その日の印象を胸に描いてみようと努めた。が、彼女と会えば、重苦しい気持になるだろう——と、ただそれだけのことしか、はっきりわからなかった。
 はじめて写真を見た時に、あの女の顔から受けた最初の感じを、彼はこの六か月の間に、いくたびか思い起こしていた。しかし、写真から受けた印象のうちにさえも、あまりにも重苦しいものが含まれていることを彼は思い起こすのであった。ほとんど毎日といってもいいくらいに彼女と会っていた田舎の一月ひとつきが自分に恐るべき影響を与えていたので、公爵はついこの間の思い出すらもときには払いのけようとしていた。
 この女の顔そのものには、常に彼にとって悩ましい何ものかが潜んでいた。ロゴージンとことばを交わした時、この感じを彼は限りなき憐憫れんびんの感じだと言ったが、それは確かなことであった。この顔は、はじめて写真を見たその時から、彼の心にまぎれもなく憐憫の苦痛をよび起こしたのであった。この人間に対する同情の念、それに苦痛の念すらもが、今までに一度として彼の心を去ったことがなかった。今もなお去らないのである。
 ああ、たしかにそうだ。そうしてかえって根強くなっているのだ。しかし、ロゴージンに話したことだけでは満足がいかなかった。ところが、今にしてようやく、あの女が忽然こつぜんとして姿を現わした刹那せつなに、彼は、おそらく第六感によってであろう、ロゴージンに語った自分のことばに何が不足していたかを、はっきりと理解したのである。恐怖、まぎれもない恐怖を言い表わすのには、ことばが足りなかったのだ! 彼は今、この瞬間に、それを完全に直覚した。彼はこの女が——気ちがいなのだと、彼一流の論拠によって深く信じ、全く信じきっていた。もしも、この世において、何ものにもまして一人の女を愛し、ないしはかような愛がありうるものだと予感している時に、その女がにわかに鎖につながれ、鉄の格子の中に入れられて、看守に棒でなぐられているところを見つけた者があったら、——いま公爵が感じたものといくぶん似通った印象を受けるであろう。
「あなた、どうなすって?」とアグラーヤは彼のほうをふり返って、無邪気にその手を引っぱりながら、早口にささやいた。
 彼はそのほうに頭を向けて、女の顔を見た。女の黒い眼、彼には理解できないほどに輝いているこの瞬間の眼をちらと見て、にっこり笑って見せようとしたが、ちょっとのあいだアグラーヤのことを忘れてしまって、またもや右のほうに眼を転じて、またもやあのただごとならぬ面影を追い始めた。ナスターシャ・フィリッポヴナはこのとき、令嬢たちの席のすぐわきを通り過ぎていた。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは何やら非常に滑稽な、おもしろそうなことをアレクサンドラに話していた。早口に、威勢よく話していた。公爵はアグラーヤがこの時、いきなり半ばつぶやくような声で『なんていう……』と言ったのを忘れることができなかった。
 このことばは曖昧あいまいな、尻の切れたことばであった。彼女はすぐに切ってしまって、それ以上、なんとも付け加えなかったが、もうそれだけでも十分であった。ナスターシャ・フィリッポヴナは別にこれといって、誰に眼をつける風もなく通り過ぎていたが、ひょいと彼らのほうを向いて、今はじめてエヴゲニイに気がついたような風をした。
「あら、まあ! この人ここにいるじゃないの!」と彼女は急に立ち止まって叫んだ、「飛脚を頼んでも見つからないと思えば、こんな思いもよらないところに、まるでわざとみたいに、ちゃんと坐ってる……わたしはあの……伯父さんのところにでもいると思っていたのに!」
 エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは癇癪を立てて、すさまじい顔をしてナスターシャ・フィリッポヴナを見たが、すぐにまたわきを向いてしまった。
「どうしたの? いったいあんた知らないの? この人はまだ知らない、どうでしょう、まあ! 自殺したのよ! つい今朝、あんたの伯父さんは、ピストル自殺をしたのよ! わたし、さっき、二時ごろ聞いたんです。もう町の人が半ば知ってますよ。官金三十五万ルーブルがなくなっているんですってさ。人によっては五十万って言う人もありますよ。わたし、あんたが遺産をもらうんだと思って、あてにしていたのに、みんな水にしてしまったのね。手のつけられない道楽爺さんだわねえ……。じゃ、さようなら、bonne chance(いいおりだったわね)! それでは向こうへは行かないの? なるほど、いい潮時にあんたは退職したもんだわね、虫がいいわ! だけど、御冗談でしょう、知ってたはずだわよ、前から知ってたはずだわ。ひょっとしたら昨日あたり知ってたんでしょう……」
 こんなずうずうしく、うるさい、ありもしない友情や親しさの押し売りには必ず目的が潜んでいた。それは今や疑うべからざる事実である。しかし、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは最初、なんとかして突っ離し、たといどんなことがあろうとも、こんな無礼者には眼もくれまいと考えていた。ところが、ナスターシャ・フィリッポヴナのことばは雷のように彼をたたきのめしたのである。伯父が亡くなったと聞いて、彼は生きた空もなく青ざめて、伯父の死を伝えた相手のほうをふり向いた。この瞬間に、リザヴェータ・プロコフィエヴナはさっさと立ち上がってほかの人たちをうながして、今にも走り出しそうにして、この場をのがれた。ただムイシュキン公爵ばかりは躊躇するかのように、ちょっと、その場に居残っていた。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチもやはり茫然として、相変わらずその場に立っていた。ところがエパンチン家の一行がまだ二十歩とも離れぬうちに、恐ろしい騒ぎが持ちあがった。
 さっきアグラーヤとことばを交わしていた士官はエヴゲニイの友人であったが、極度に憤慨した。
「もう、たたかなくちゃだめだ。あの引きずりめはそうしなけりゃ手に負えないんだ!」と彼はほとんどわめかんばかりに言った(彼は以前からエヴゲニイの子分らしかった)。
 ナスターシャ・フィリッポヴナはちらと彼のほうをふり返った。眼は輝いていた。彼女は二歩ほど離れて立っている、まるで見も知らぬ青年に飛びかかった。この青年の士官は細い編んで作ったステッキを手にしていたが、彼女はステッキをもぎ取って力まかせにこの無礼者の顔を斜めに打ちのめした。これは、ほんのまたたく間の出来事であった……。
 士官はわれをも忘れて、彼女に飛びかかった。ナスターシャのまわりには、もう誰もお供の者はいなかった。中年の気取った紳士は早くも雲がくれして、もう一人の紳士がわきに立って、すこぶる上機嫌で、声を立てて笑っていた。一分間すればもちろん、警官がやって来たであろうが、それもまだ来ないので、もしもこの瞬間に思いがけないすけだちが来なかったなら、ナスターシャはひどい目に会うところであった。ところが、やはり二歩ばかり離れたところに立っていた公爵が、うしろから士官の両手をつかまえてしまった。士官はその手を振り放そうとして、したたか公爵の胸を突きとばした。公爵は三歩ほどよろめいて、椅子の上に倒れた。ところがナスターシャにはなお二人の護衛があらわれていた。今にも襲いかかろうとしていた士官の前には、拳闘家が立っていた。これはお馴染の新聞記事の筆者で、以前のロゴージン一派の片われであった。
「退職中尉ケルレルです!」と、彼は力を入れて名乗りをあげた、「大尉殿、もし取っ組み合いがお望みでしたら、小生が、か弱い女性に代わってお相手をいたしましょう、英国式拳闘はすっかり修業した者です。大尉殿、突き飛ばさんでください。あなたの血の出るようなヽヽヽヽヽヽヽ憤慨はお気の毒に存じますが、公衆の面前で女性に鉄拳制裁を加えるのは黙認するわけにはいきません。もしも高潔なる人物にふさわしい他の方法をおとりになるというのでしたら——あなたはもちろん、よくわかってくださるはずですが、大尉殿……」
 しかし大尉はすでにわれに返って、もう拳闘家のことばなど聞いてはいなかった。この刹那に群集の中から現われたロゴージンはすばやくナスターシャ・フィリッポヴナの手をとって、引っぱって行った。ロゴージンのほうでも、恐ろしく興奮しているらしく、青ざめて震えていた。ナスターシャ・フィリッポヴナを連れ去りながら、彼は士官のほうをまともに見ながら意地悪そうに笑いながら、勝ち誇った勧工場の商人のような顔をして言うのであった。
「ちぇっ! 何のとくがあったんだえ! そのつらあ血だらけだぞ! ちぇっ!」
 われに返って、相手がどんな男であるかを悟った士官はことばやさしく(もっとも顔をハンカチでおおいながら)、すでに椅子から立ち上がっていた公爵にことばをかけた。
「あなたは先ほどお近づきになりましたムイシュキン公爵でしたね?」
「あのひとは気ちがいだ! 狂人だ! 本当ですよ!」と公爵は震える手を何のためか知らないが相手のほうに差し出して、震え声で答えた。
「僕はもちろん、そんなことを知ってても自慢するわけにはいきません。しかも僕はあなたのお名前をぜひとも承わりたい」
 彼はうなずいて、その場を離れた。
 警官は最後の登場人物が姿をかくしてから、ちょうど五秒してから駆けつけた。それにしても、この騒ぎはどう見ても二分以上は続かなかった。群集のうちには席を立って、行ってしまった者もあった。またある人たちは座席だけを変え、ある者はまたこの騒ぎを非常に喜んでおり、またある者はりきみかえって話をし、かなりの興味を寄せていた。要するに、事件は月並みな終わりを告げたのである。
 楽隊はまた演奏を始めた。公爵はエパンチン家の人たちのあとをつけて行った。もしも彼が突きとばされて椅子に坐り込んでしまった時、思いあたるか、あるいは右のほうを見るかしていたら、二十歩ばかりのところに、もうずっと先のほうへ行っている母や姉が呼ぶ声にも耳をかさず、このもってのほかの場面をじっとたたずんで眺めているアグラーヤを眼にとめたはずである。S公爵は彼女のところへ走り寄って、ついに一刻も早くここを立ち去るようにと言い聞かせた。リザヴェータ・プロコフィエヴナは、アグラーヤがこちらの呼び声も耳にはいったかどうか怪しいほど興奮して帰って来たのをよく覚えていた。しかし二分間して、一同が公園の中へはいったかと思うと、アグラーヤはいつもの平然とした、気まぐれな声で言うのであった。
「わたしは狂言がどんな落ちになるかと思ってそれが見たかったの」
 
(つづく) 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 

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