白痴(第三編)ドストエフスキー

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  第三編

      三

 停車場での出来事は母リザヴェータ夫人にも令嬢たちにも、ほとんどおじけづくほどの驚きを与えた。リザヴェータ・プロコフィエヴナは不安と興奮に駆られて、停車場から、令嬢たちと共に、文字どおり駆け出さないばかりにして家へ戻って来た。夫人の見解によると、この出来事によってあまりにも多くのことが起こり、暴露されたのである。さればこそ愕然がくぜんとして、すっかりしどけなくなったのにもかかわらず、彼女の胸に、はっきりとした考えが浮かんできたのである。しかも、ほかの人たちもみな、何かしら特別なことが起こって、またおそらくは仕合わせにもある非常な秘密が暴露されかかっているのだと悟っていた。S公爵がさきにいろいろと保証をしたり、説明をしたのにもかかわらず、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは『今や明るみに出され』、化けの皮をがされ、『あの引きずりとの関係を明らさまに暴露されたのだ』リザヴェータ・プロコフィエヴナ、それに二人の令嬢までが、そういう風に考えていた。
 もっとも、この結論からかち得たものは、なお解きがたい謎がさらに加わったというだけのことであった。令嬢たちは母親のあまりにも激しい驚きようと、実に見え透いた脱走ぶりを、心の中ではいくぶんいまいましく思わぬでもなかったが、このどさくさが起こったばかりの時に、いろんな問題で母親に不安を感じさせる気にはどうしてもなれなかった。のみならず、どうしたわけか、二人には妹のアグラーヤ・イワーノヴナが、ことによったら母親や自分たち二人よりは、この事件についてさらに詳しく知っているのではあるまいかというように思われたのであった。S公爵もやはり、すっかり暗い顔をして、やはり深い物思いに沈んでいた。リザヴェータ・プロコフィエヴナは、途中でひと言も彼と物を言わなかったが、彼のほうでもそれに気がつかないらしかった。
 アデライーダは彼に向かって、「いま話していた伯父さんて、どんな伯父さんですの、そしてぺテルブルグでどんなことが起きたんです?」と聞いてみた。しかし彼はその答えとして、実に苦々しい顔をしながら、何かの照会がどうとか、きわめて取りとめもないことをつぶやいて、もちろん、それはみんなたわごとにも等しいことだと言った。「それは疑うまでもありません!」とアデライーダは答えたが、もうそれ以上何も聞きはしなかった。
 アグラーヤはまたなんだか非常に落ち着いてしまって、途中であまりみんなが早く駆けすぎると注意しただけであった。ただ一度、彼女は後をふり返って、自分たちを追いかけて来る公爵を眼にとめた。公爵が一生懸命に追いつこうとしているのを見て、彼女はあざけるように薄ら笑いをもらしたが、もうそれ以上、公爵のほうを顧みようともしなかった。
 ついに別荘のほとんどすぐ傍のところで、一行を迎えに出て来る父イワン・フョードロヴィッチに出会った。将軍はペテルブルグから、つい今しがた帰って来たばかりであった。将軍は顔を見るやいなや、まずエヴゲニイ・パーヴロヴィッチのことを尋ねた。が、夫人は返事をしないばかりか、夫のほうへは眼もくれずに、厳めしい顔をして通り抜けてしまった。娘たちやS公爵の眼つきを見て、将軍は家の中に雷雨がやって来たと臆測した。しかし、そんな気持がなくとも、彼自身の顔にも何かしら、ただごとならぬ不安の色が映っていた。彼はすぐにS公爵の手をとって、家の入口のところへ引きとめ、ほとんど耳打ちするような声で、二こと、三こと、彼とことばを交わした。やがて二人が露台へあがって、リザヴェータ・プロコフィエヴナのところへ行った時の二人の不安な顔つきには、何かしらなみなみならぬ報知を耳にしたらしい様子がはっきりとうかがわれた。だんだんと一同の者が二階のリザヴェータ・プロコフィエヴナのところへ集まって行って、露台にはついにムイシュキン公爵だけがとり残されてしまった。彼は何ものかを期待しているらしく、しかも自分では何のためにこうしているのかわかりもせずに、片隅に腰をおろしていた。家の中がごたついているのを見ながら、彼はもう帰ろうという気は少しも起こらなかった。どうやら彼は全宇宙を忘れ果てて、どこへ自分が坐らされようとも、そのまま二年くらいは、ずっと坐り続けることも辞さないようなけはいを見せていた。
 二階からは時おりただならぬ話し声が彼の耳に聞こえてきた。そこにどれくらい坐っていたか、彼は自分でもわからなかったであろう。もう時もすでにおそく、あたりはすっかり暗くなっていた。
 不意にアグラーヤが露台へ出て来た。彼女は見たところ、顔はいくらか青ざめていたが、それでも落ち着き払っていた。アグラーヤはこんなところで椅子に腰をかけていようとは、『思いもよらなかったらしく』、公爵の姿を見ると、なんだか狐につままれたような風をして、ほほえみを浮かべた。
「そんなところで何をしていらっしゃるの?」と言って、彼女は公爵のほうへ近づいた。
 ムイシュキン公爵はどぎまぎして、口の中で何やらつぶやいて、ひょいと椅子から飛び上がった。けれど、アグラーヤがすぐに彼のそばへ腰をおろしたので、自分もまた席に着いた。
 彼女はいきなり、しかも注意ぶかく公爵を見つめて、やがて今度は何一つ考え事もないような風で窓の外を眺め、それからまた公爵のほうを見た。『たぶん、僕のことを笑いたくなっているんだろう』公爵にはそういう気もしたが、『いや、そうじゃない、笑いたいのなら、あのとき笑ったはずだろうが』
「きっと、あなた、お茶が欲しいんでしょう、そうだったら言いつけましょう」としばらく黙っていたのち彼女は言った。
「い、いいえ……僕わかりません」
「まあ、それがわからないなんて法はありませんわ! ああ、そうだわ、ねえ、もし誰かあなたに決闘を申し込んだら、どうなさいます? わたし、さっきからお聞きしたかったんですの?」
「だって……いったい誰が……誰も決闘を申し込む人なんかありませんよ」
「まあ、もしも申し込んだらって言うんです? あなたはあわてるでしょうね?」
「僕はきっとひどく……こわがるでしょう」
「ほんと? では、あなたは臆病ですね?」
「い、いいえ、たぶんそうじゃないでしょう。臆病者というのは、こわがって逃げる者のことです。こわがっても逃げなければ、まだ臆病とはいえません」と公爵はちょっと考えてから、ほほえみをもらした。
「じゃ、あなたはお逃げにならない?」
「たぶん、逃げないでしょう」と言って彼はついにアグラーヤの質問に笑いだしてしまった。
「私は女ですけれど、どんなことがあったって逃げたりなんかしませんわ」と彼女はほとんど腹立たしそうに言いだした、「もっとも、あなたは私をからかってらっしゃるんですね、いつもの癖で、自分がいっそうおもしろくなりたいために、ちゃらかしてしまうんですね。ねえ、聞かしてちょうだい、たいてい決闘は二十歩くらいの距離で撃ち合うんでしょう? それとも十歩くらい? してみると、どうしても殺されるか、負傷するかにきまってるんでしょう?」
「決闘ではむやみに死なないと思いますがね」
「むやみにって、どうして? だって、プゥシキンは殺されましたよ」
「たぶんそれは偶然でしょう」
「決して偶然じゃありませんわ。命がけの決闘ですもの、それで殺されたんですわ」
「あの弾丸たまは〔一八三七年一月、詩人プゥシキンは、妻ナタリヤに懸想せるフランス生まれの青年士官ダンテスに決闘を申し込み、ついにその弾丸にたおれた〕非常に低いところへ当たりましたから、きっとダンテスはどこかもっと高いところ、胸か頭を狙ったのでしょう。だから当たったのです。誰もそんな狙い方はしません。したがってプゥシキンに弾丸たまが当たったのはむしろ偶然だったんです。まぐれ当たりでしょう。その道にくわしい人から僕は聞いたんです」
「わたし、いつかある兵隊さんと話をしましたが、その人の話では、軍隊では操典に、散兵で射撃の時には半身を狙えということになっていて、はっきり『半身』をといってあるそうですね。ほら、してみるともう、胸や頭ではなくって半身を射つようにと、わざわざ命令がしてあるんですわ。あとで、わたしがある士官に聞いてみましたら、全くそのとおりだと言っていましたよ」
「それは間違いありません、なにしろ遠距離の時ですからね」
「あなたは射撃ができますの?」
「僕は一度もやってみたことがありません」
「ではピストルを装填そうてんすることもおできにならないんですか?」
「ええ、実はそのやり方はわかってるんですが、自分でやってみたことはないんです」
「じゃ、やっぱりできないってことですね。それには稽古が必要ですからね! ね、実地にやってごらんなさい。まず湿りけのない、ピストル用の上等の火薬をお買いなさい(湿りけのない、乾燥したのでなければいけないんですって)。そしていい粉末のを。そんな風のをお求めなさい、大砲に使うようなのはいけませんよ。そして弾丸たまはなんとかして自分で造るんですって。あなた、ピストルをお持ちですの?」
「いいえ、それに必要もありません」と公爵は不意に笑いだした。
「ああ、なんてつまらないことを! 必ずお買いなさい、フランス製かイギリス製の上等のを。これがいちばん良いんですって。それから雷管へ一本分、ことによったら二本分くらいの火薬を出して、それを中へ落とすんです。も少し多いほうがいいでしょう。それからフェルトをお詰めなさい(どういうわけですか、ぜひともフェルトでなければいけないそうです)。これはどこか、敷蒲団のようなものからも取れましょう。また扉にもフェルトが打ち込んでありますし。それからフェルトのきれを詰めたら、今度は弾丸たまをお入れなさい。よござんすか、弾丸たまはあとからで、火薬が先ですよ。でないと射てませんから。何を笑ってらっしゃるの? わたし、あなたが毎日、三、四度ずつ射撃をして、必ず、命中するようになっていただきたいんです。おやりになりますか?」
 公爵は笑っていた。アグラーヤはいまいましそうに足を踏み鳴らした。こんな話をしているのに、彼女がまじめくさった顔をしているので、公爵はいささか驚いた。彼は、何かしら知っておく必要がある、何かしら——とにかく、ピストルの装填法より、も少しまじめなことを聞いておく必要があろうとは、いくぶん感じていた。しかし、そんなことは何もかも念頭から離れてしまった、ただ自分の前にアグラーヤが坐っている、そして自分はその顔を見つめているということだけしか考えていなかった。しかも相手がどんなことを言いだそうとも、この場合に、われにおいて何のかかわりあらんやといった風であった。
 ついに二階から父イワン・フョードロヴィッチ自身が露台へおりて来た。彼は苦々しい、心配そうな、しかも、きっぱりした顔をして、どこかへ行こうとしていた。
「ああ、レフ・ニコラエヴィチさん、君でしたか……。今どちらへ?」レフ・ニコラエヴィチが席を立とうとも考えていないのに、彼はこう聞いた。「まいりませんか、僕は君にちょっとお話ししたいことがある」
「さよなら」と言って、アグラーヤは公爵に手をさし出した。
 露台のあたりも、もうかなりに暗くなっていた。公爵はこの時、アグラーヤの顔をはっきり見分けることができなかったであろう。一分間ののち、公爵が将軍と共に別荘の外へ出たとき、彼はにわかにおそろしく顔を赤らめて、強く自分の右の手を握りしめた。
 聞いてみると、イワン・フョードロヴィッチは彼と行く先が同じであった。イワン・フョードロヴィッチは、こんなに遅くなっているのに、何かのことで誰かと打ち合わせることがあって急いでいるのであった。しかし、そのうちに彼は不意に公爵に向かって、早口に、不安げな様子で、実にまとまりのないことを話しだした。しょっちゅうリザヴェータが、リザヴェータが、と言いながら。
 もしも公爵がこの時、もっと気をつけていられたら、将軍が話をするうちに何かしら探り出してやろう、というよりはむしろ、直截に打ち明けて、何事かを尋ねてやろうとしながら、しかも最も重大な点に触れることができずにいることを、おそらく察し得たであろう。ところが、恥ずかしいことには、公爵は実にうっかりしていたので、初めのうちは何一つ耳にはいらなかった。そこで将軍が何か熱心な質問をしながら、彼の前に立ち止まった時には、やむを得ず、相手の言うことがさっぱりわからないと、明らさまに白状しなければならなかった。
「君たちはみんな、なんだか妙な人間になってしまったね、どこから見ても」と将軍はまた一生懸命に話しだした、「実を言うと、僕はリザヴェータの考えや心配が、さっぱり呑み込めん。あれはヒステリーを起こして泣いたり、やれ、われわれは侮辱されたの、体面を汚されたのと、そんなことを言ってる。誰が? どんな風にして? 誰に? いつ、どういうわけで? どうもわけがわからん。僕も正直に言うと、悪かった(これは自分でも認めている)、大いに悪かった。しかし、あの物騒な(おまけに身持の悪い)女の……迫害は、結局、警察の手で押さえてもらえることで、今日も僕は二、三の人に会って、あらかじめ注意をしておくつもりです。何もかも穏便に、やさしく、親切にまでしても、うまく収まることで、これは今までのよしみからいけばわけもないでしょう、けっして人聞きの悪いようなことはしなくても済むでしょうよ。これから先、いろんな事件が起こることも、現にわけのわからないことがたくさんあることは自分もよく承知はしている。これには策略があるのでしてね。しかも、ここで何か知らないといえば、あちらへ行ってもやはり何も説明がつかないという。わたしが聞かないと言えば、君も聞かない、あの人も聞かない、この人も何一つ聞かない、それでは結局、誰が聞いたんだろう、ねえ、君? いったい、君はこれをどういう風に説明しますね、それにまた、この事件は半分は蜃気楼しんきろうで、たとえば月の光とか……何かそのほかの幻のように、実際に存在していないものです」
あのひとヽヽヽヽは気ちがいです」と公爵は今までのことを急に痛々しく思い起こして、つぶやいた。
「もし君があの女のことを言ってるのなら、僕の言うこととぴったり合ってます。僕もやはり若干そういう気持がしたので、今まで安眠ができたわけです。しかし今になってみると、みんなの考えていることはもっと正確で、どうも気ちがいだとは受けとれんのです。かりに、ナンセンスな女だとしても、しかもデリケートで、とてもとても気ちがいどころの騒ぎじゃない、今日のあのカピトン・アレクセィヴィッチのことでの乱暴なしぐさを見ても、十分にわかることです。あの女のほうからみても、あの一件は詐欺だ、少なくとも何かあの女に特別な目的があって仕組んだ狡猾こうかつな仕事だ」
「カピトン・アレクセィヴィッチってどんな人です」
「あら、まあ、レフ・ニコラエヴィチさん、君はなんにも聞いていなかったんだね。僕はカピトン・アレクセィヴィッチの話から始めたんですよ。実に驚いてしまって、今でも手足が震えるくらいだ。それで今日、市内で遅くなったんですよ。カピトン・アレクセィヴィッチ・ラドムスキイはエヴゲニイ・パーヴロヴィッチの伯父だが……」
「ああ!」と公爵は叫んだ。
「今朝、夜明けの七時ごろ、ピストル自殺をしたのさ。もう七十ぐらいの爺さんで、人から尊敬をうけ、相当の道楽者で——全くあの女が言ったとおり、——官金費消で、しかも容易ならぬ金額だ!」
「あの人はいったいどこから……」
「聞いたかって? は、は! だって、もうこちらへ姿を見せたかと思うとあの人のまわりにはもう一小隊ぐらいの子分ができてるじゃありませんか。どんな連中があの人をたずねて行って、『近づきになる光栄』を求めているか、君は知らないんでしょう。そういうわけだからさっきペテルブルグから来た人に何か聞かしてもらったのも無理のない話さ。なぜって、あちらでは市内にすっかり知れ渡ってるんだから、それに、パヴロフスクだって、町の半分、いや、もうパヴロフスクの町じゅうの者がみんな知ってるんだからね。しかし、何度も僕は聞いてるが、制服のこと、つまり、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチが潮時を見はからって、退職したってことを、実にあの人はうまく言ったもんだね! なんていう悪辣あくらつな当てこすりだろう! いや、これはとても気ちがいに言えたことじゃない。僕だって、むろん、エヴゲニイが前もって、この騒ぎを知っていた、つまり、いつの幾日いくかの何時ごろにあるのなんのってことを知ってたとは信じたくない。けども、こんなことはいっさい、前もって感じていたはずだ。僕は、いや、われわれはS公爵といっしょに、あの人はエヴゲニイに遺産をやるだろうって、胸算用をしてみたんだ、恐ろしい! 恐ろしいことだ! もっとも、よく了解してくれたまえ、僕はエヴゲニイを、どんなことでもとがめやしない。これはとりあえず君に言明しておこう。しかし、ともかく、怪しいね。S公爵はとても腰を抜かしてる。なんだか、妙に、何もかも一時に落ちて来たんだね」
「しかし、エヴゲニイさんの品行にいったい、どんな怪しいところがあるんです?」
「何もない! そりゃあ、品行は実に高潔なものだ。僕はそんなことをほのめかしたんじゃない。あの人自身の財産は、そっくりしてると僕は思う。リザヴェータは、むろん、そんなことを聞きたがっていない……それにしても、いけないことに、家庭のいろんな騒ぎ、というよりはむしろ、いろんなみっともないこと、いや、なんともかとも言えないようなことがあって……。君は実際のところ、ねえ君、うちの友だちだから言うんだけれど、また察してくれたまえ、実はどうも、これは確かな話じゃないけども、エヴゲニイが一か月あまり前にアグラーヤと膝詰談判ひざづめだんぱんをして、あれから正式に断わられたらしいんでね」
「そんなはずがありません!」と公爵は熱のある調子で叫んだ。
「けども、君は何か知ってないかね? ねえ、君」将軍はまるで釘づけにされたようにその場にじっと立ち止まって、慄然りつぜんとして驚いた。「僕は、ことによったら、つまらんことをぶしつけにうっかり言ったかもしれん。しかし、そりゃあ、君が……君が……いわば……そんな人だからですよ。おそらく、君は何か特別なことを知ってるでしょう?」
「僕はなんにも知りません……エヴゲニイさんのことは」と公爵はつぶやいた。
「僕も知らん! 僕のことを、僕のことを、ねえ、君、……みんなが息を引き取らして、土の中へ葬ってしまおうとしてる、そして生きた人間にそんなことは無理なことだ、そんなことはとても僕に堪えられないってことを、考えてみようともしないんだ。今も実に恐ろしい狂言を打って来たところだ! 僕は親身の息子として君に話すわけなんだが、アグラーヤがどうも母親をばかにしてるらしい、そいつがとてもやっかいだ。あの子がひと月ばかり前にエヴゲニイさんの申し込みをはねつけたらしい、二人の間にかなり正式な談判があったらしいということは、あれの姉たちが、謎の形で知らしてくれたんですがね……もっともこの謎たるや、立派な謎なんだが。ところが、あの子は、お話にならんほどわがままな、変なやつでね! おうような気持とか、情や知の方面のすばらしい性質は——なるほど、持ってるかもしれんけど、しかもあの気まぐれ、あざわらい——要するに鬼のような性質で、おまけに空想がはげしいんでね。ただちに母親を、眼の前で嘲笑する、姉たちやS公爵をひやかす、僕なんかときたら言わずと知れたことだ。あの子が僕を嘲弄ちょうろうしないことなんて、しないほうがまれなくらいだ。でも、僕は、ねえ、君、あの子が可愛い、笑うのがかえって可愛いくらいだ。そして、どうもあの子は、鬼の子はそのために僕を特に好いてるような気がする。つまり、ほかの誰よりも好いてるらしい。これは賭をしてもいいくらいなんだが、あの子はもう何かのことで君のことを嘲弄したに相違ない。ついさっき、二階で大騒ぎをしたあとで、君らが話をしてるところへ僕は出っくわしたが、あの子は君と、まるで何事もなかったような顔をして坐っていた」
 公爵はひどく顔を赤らめて右の手を握りしめたが、やはり口をつぐんでいた。
「ねえ、君、レフ・ニコラエヴィチさん!」と不意に将軍は情をこめて、熱心に言いだした、「僕は……それにリザヴェータ・プロコフィエヴナまでが(もっともあれはまた君をちやほやするようになったね、君のおかげで僕にまで当たりがよくなった、どういうわけか解せないが)、共に僕たちは君を愛している。心の底から愛して、尊敬している、たといどんなことがあってもですよ、つまり、見たところはどうあろうともです。ときにねえ、君、考えてくれたまえ、いきなり、あの薄情な鬼の子が(というのはあの子は母親の前に、どんなことを僕たちが尋ねても、実にばかにしきった顔をして、立ってるばかりなんだからね、僕が物を聞いたりする時なんかことにはげしい。それは実に僕がばかをしたのさ——自分は家長なんだから、厳めしいところを見せてやれなんて考えたもんだから、これは実にばかなことをした)、さて、その薄情な鬼の子が、いきなり薄笑いを浮かべて、こんなことを言うのさ、『あの気ちがい女は』(あの子もそう言いました。それで君の言うのとあれの言うのとぴったり合ってるのが、僕には不思議な気がする)。『あの気ちがい女は、どんなことがあろうとも、わたしをレフ・ニコラエヴィチ公爵と結婚させようと思いついて、そのためにエヴゲニイさんを家から追い出そうとしているのを、今まで察しがつかなかったのですか?』とこう言うんです、そう言われた時の妙な気持、いまいましい気持を察してください。ところが、たったそれだけ言ったきりで、なんの詳しい説明もしないで、ひとりで声を立てて笑ってるんです。われわれはあいた口がふさがらなかった、そのうちにあの子は戸をぱたんと閉めて出て行ってしまった。それから、僕はあれと君との一件を聞かされて……それで……それで……ね、君、公爵、いいかね、君は怒りん坊でもないし、かなり分別もあるんだ、それは僕もよく認めている、しかし……怒らないでくれたまえ、誓って言うが、あの子は君をばかにしていますよ。まるで子供がふざけてるようなもんだ、だからあの子を怒らないでくれたまえ、しかしそれは全く確かなことだ。妙なことを考えられては困る——あれはただ、つれづれなるままに君や、われわれをばかにしてるわけなんだ。じゃ、失敬! 君は僕たちの気持を知ってるだろうね? 君に対する真の気持を? それはどんなことがあっても、けっして変わらない、……ときに、……僕は今こっちへ行く、ではさようなら! あんなにまで胸くそ悪かったことは(妙な言いぐさじゃないか?)めったにない。そして今も……これは、これは、いい別荘だ!」
 四つ辻に一人のこされた公爵はあたりを見まわして、すばやく通りを横切り、ある別荘の灯りのともった窓に近づき、将軍と話をしている間じゅう、しっかりと右の手に握りしめていた小さな紙切れをひろげて、かすかな明りをたよりに読んで見た。

 
  明日の午前七時に公園の緑色のベンチへ行ってお待ちしています。わたしはあるきわめて重大な事柄について、あなたとお話をしようと決心いたしました。それは直接にあなたと関係のある事です。
 二伸。この手紙をどなたにもお見せにならないようにお願いいたします。こんなさしずがましいことを申し上げますのは恐縮のいたりですが、あなたにはそういうことをするだけのことがあると存じましたので、あえて書きつけます次第です。あなたのおかしい性質に対して、羞恥の念を覚え、顔を赤らめながら。
 追白。緑色のベンチと申すのは、さきほどお教え申しましたもののことです。恥ずかしいことだとお思いください! わたしはこんなことまで余儀なく書きつけました。
 

 手紙は走り書きでアグラーヤが露台テラスに出て来るちょうどその前に、どうにかこうにかして畳んだことは間違いのないところであった。公爵は驚愕に似た、言い知れぬ興奮を覚えながら、この紙切れをしっかりと手に握りしめて、まるで度胆を抜かれた泥棒のように、窓のそば、灯りのさすところから、そそくさと飛びのいた。ところが身を動かしたかと思うと、すぐ肩のうしろのところに現われた一人の紳士にいきなり強くぶつかった。
「公爵、僕はあなたのあとをけてるんです」と男は言いだした。
「まあ、君はケルレル君ですね?」公爵は驚いて叫んだ。
「あなたを捜してたんです、公爵。エパンチン家の別荘のわきで待っていたのですが、むろん、中へははいれませんでしたよ。あなたが将軍とごいっしょに歩いていなさる間、こちらはあなたがたのあとをつけていたのです。何かお役に立ちたいと存じます。公爵、どうかケルレルになんなりと言いつけてください。もし必要がございましたら喜んで犠牲になりましょう、死をも覚悟のうえです」
「だって……なんのために?」
「いや、もうたしかに申込みが来るはずです。あのマラツォフ中尉は、僕も知っとりますが、個人的にじゃありませんが……あの男はけっして人から失敬なことをされて平気でいるような男じゃないんです。われわれの兄弟分、すなわち、僕やロゴージンはあの男からは、むろん、どちらかというと無頼漢に見られているので、ことによったら、そんなぐあいであんた一人に責任がかかってくるかもしれんのです。酒手はあんたが払わなくちゃならんでしょうよ、公爵。あの男はあんたの様子を聞いてましたが、それは僕も聞いてました。だからきっと明日になったら、あれの友だちがあんたのところへ見えるでしょうよ。いや、たぶん、今ごろやって来て待ってるかもしれません。もし僕を介添え人に選んでくだすったら、そしたら僕はあんたのために火の中へでも飛び込むつもりです。それで僕はあんたを捜してたわけなんですよ、公爵」
「すると君もやっぱり決闘の話をしてるんですね!」と公爵はにわかに大声を立てて笑いだした。これにはケルレルもすっかり胆をつぶした。
 彼は呵々大笑かかたいしょうしてやむところを知らぬほどであった。ケルレルは自分を介添え人にしてくれと申し出たのに、まだ色のいい返事をしてもらえなかったので、実にたまらない思いをしているところへ、公爵が実に陽気な笑い方をしているのを見せられて、ほとんど侮辱されたような気になっていた。
「ですけど、公爵、あんたはさっきあの男の手をおつかまえなすったでしょう。品位ある人物にとって、しかも、公衆の面前でそんなことをされるのは、容易に我慢ができないことです」
「でもあの人は僕を突き飛ばしたじゃありませんか!」と公爵は笑いながら叫んだ、「僕らはなにも喧嘩をするいわれはありません! 僕はあの人にあやまります、それで済むことです。もし喧嘩をしなくちゃならんのでしたら喧嘩もしましょう! 射つっていうんならそれもかまいません、むしろ望ましいことです。は、は! 僕はもうピストルの装填法を心得てますよ! ねえ、君、今しがた僕がピストルの装填法を教わったのを知ってますか! あんたはピストルへ装填するのを知ってますか、ケルレル君? まず初めにピストル用の火薬を買うんです、湿っていないので、大砲に使う火薬のように大粒でないのを買うんです、それから先に火薬を中へ入れて、どこかのドアのところからフェルトを取って来て、さてこんどは弾丸たまをこめるのです。弾丸たまは火薬より先に入れてはだめです。そうすると射てませんからね。あのね、ケルレル君、射てないからなんですよ。は、は! これはとても立派な道理じゃありませんか、ケルレル君、ああ、そうだ、ねえケルレル君、僕は今さっそく、君を抱きしめて接吻しますよ。は、は! どうして君はさっき、あんなに不意にあの男の前へ現われたんです? なんとかして、なるべく早く僕のところへシャンパンを飲みにいらっしゃい。みんなでせいぜい飲みましょうよ、実はね、僕んところにシャンパンが十二本もあるんです、レーベジェフの穴蔵にありますよ。レーベジェフが一昨日おととい、あの人んところへ僕が引っ越して行った次の日に『何かのはずみ』で僕に譲ってくれたんです、それで僕はみんな買い取っちゃいました! 僕はみんなを仲間に入れよう! さて、どうです、今夜は君はやすみますか?」
「そりゃあ、いつもと同じように寝みますよ、公爵」
「まあ、そんならせいぜいいい夢を見なさい! はは!」
 公爵はいくぶん面くらったケルレルがぐずぐずしているのをそのまま置き去りにして、通りを横切り、公園の中に消えて行った。ケルレルは今までこんな妙な気持になっている公爵を見たことがなく、また今まで胸に描いてみることすらもできなかった。
「たぶん熱病だろう、なにしろ神経質な人だからな。それにいろんなことが影響したんだ。しかし、むろん、おじけづきやしまい。あんな連中はびくともしないんだからな、とてもとても!」とケルレルは肚の中で考えていた、「ふむ! シャンパンだって! てもさても、なかなか味のある知らせだな。十二本だってさ、一ダースだわい。わけはない、立派な守備隊だ。それに、賭をしてもいい、レーベジェフはこのシャンパンを誰かから抵当かたに取ったに決まってる。ふむ……あれはとても可愛い男だ。あの公爵は。全く、僕はあんな連中が好きだ。ときに、時間をむだにしたって始まらない……それにシャンパンがあるとなりゃ、こいつはまさに時間そのものだわい……」
 公爵が熱に浮かされていたらしいことは、もちろん、そのとおりであった。
 彼は長いこと、暗い公園の中をぶらついていた、やがて、気がつくと『自分は』、とある並木道をさまよっているのであった。この並木道を、例のベンチのところから、一もとの高い、夜目にも著しい老樹のあるところまで、およそ百歩ばかりの間を三十ぺん、ないしは四十ぺんも、行きつ戻りつした思い出が彼の意識の中に残っていた。公園の中で、少なくとも丸一時間のあいだ考えていたことは、たとい彼がどんなに望んでみたところで、とても再び思い出すことはできなかったであろう。もっともある一つことを心に浮かべると、不意に腹をかかえて笑いださずにはいられなかった。けっして笑うほどのことではなかったのであるが、それでもやはり笑いたくてしかたがなかったのである。彼の胸には決闘についての予想は単にケルレルの念頭にのみ浮かぶべき性質のものではなく、したがってピストルの装填法についての話も、けっして偶然なことではないんだ……というような気持が浮かんできた。
「あら!」と彼は不意に立ち止まった。別の考えが彼の心に光のように射してきたのである。「さっきあのひとは僕が露台の隅のほうに坐っていた時、そこへおりて来て、僕のいるのを見つけると、ひどく驚いて、——笑っていた……茶のことを言いだした。ところで、あの時、あのひとはすでにこの紙切れを手に持っていたはずだ。してみると、あのひとは僕が露台に坐っていることを必ず知っていたに相違ない。ということになるといったい、なんであんなにびっくりしたんだろう? は、は、は!」
 彼はポケットの中から紙を取り出して、ちょっと接吻したが、すぐに、それもやめて、物思いに沈んだ。
「まあ、なんて妙なんだろう! なんて妙なんだろう!」と悲しみに似たような気持をすら浮かべながら、一分間ほどすると言いだした。激しい喜びを感じた時、彼はいつも物悲しくなるのであった。どうしてそうなるのか、それは自分にもわからなかった。
 彼はじっとあたりを見まわして、こんなところへ来ていることにいまさらながら驚いた。彼はかなりに疲れていた、ベンチのところに近づいて、腰をおろした。あたりはげきとして声もなかった。停車場の音楽ももう済んでいた。公園には誰ひとりいないらしかった。もちろん、十一時半は過ぎていた。夜はひっそりして、温かく、明るかった、——六月の初めごろのペテルブルグの夜であった。が、彼のいる、こんもりした、樹かげの多い公園の並木道はもうほとんどまっくらであった。
 もし誰かが、この時、おまえは女に惚れている、熱烈な恋をしていると彼に言ったら、彼は驚いて、おそらく憤慨してまでも、『そんなことはない』と否定したであろう。またもしその人が、アグラーヤの手紙は恋文だ、あいびきの申し渡しだと付け足したら、彼はその人に対する羞恥の念に燃えて、おそらくは決闘を申し込んだであろう。彼にとっては何もかも真剣な問題であって、彼はこの娘が彼を恋するということ、ましてや自分がこの娘を恋するなどということがあり得ることかしらなどとは一度として疑ってみたこともなく、またかような『どっちつかず』な考えをいだくことすら潔しとはしなかった。こんなことを考えたら、彼は慚愧ざんきの念に耐えられなくなったであろう。彼に対する、『彼のような男』に対する恋というものが成り立つとしたら、それを彼は奇々怪々な事実と見なしたであろう。もしもここに何ものかが伏在しているとしたら、それは単に女のいたずらにすぎないのだ、と彼にはおぼろげながらそういう気がするのであった。しかし彼はことさらにこういう考え方に対しては、なんだかあまりにも恬然てんぜんとしていて、こういう考え方をあまりにも在り来たりの普通なことだと考えていた。彼自身はそれと全く違った別のことに気をとられて、心をいためていたのである。
 さっき、興奮していた将軍の口からうっかりもらされたことば、とりもなおさずアグラーヤが一同の者、わけても彼、公爵をばかにしているということは、彼も全く信じて疑わなかった。しかも、いささかの屈辱をも彼は感じなかった。彼のつもりではむしろそうあるべきはずのものであった。明日の朝早く、また彼女に会えるということ、緑色のベンチに彼女と並んで腰をかけ、ピストルの装填法を聞かしてもらって、彼女の顔をしみじみと見ることができるという、ただそれだけのことが、彼にとっての最も重大なこととなっていた。もうそれ以上のことは何一つなく、ある必要もないのであった。また彼に会ってどんなことを話すつもりなのか、直接に彼に関係のある大事のことというのはいったいどんなことなのかという疑問も一度か二度、彼の念頭にひらめいた。そのほかに、わざわざ彼を呼び出すほどの大事なことがはたして実際にあるかしらとは、彼はただ一分間たりとも疑ってみはしなかった。また、その大事なことについて今は全く、ほとんど考えてもみなかった。それよりも、それを考えてみようといういささかのショックをさえも感じなかったのである。
 並木道の砂をきしませて歩いて来る静かな足音に彼は思わず頭をあげた。闇の中に顔がなかなか見分けのつかないその人はベンチに近づいて来て、彼のわきに腰をおろした。公爵はいきなり、ぴったりといってもいいほどその男のほうへ身を近づけた。よく見るとロゴージンの青ざめた顔であった。
「どうせここらあたりを、うろうろしてるだろうとはわかっていた。そんなに暇もとらずに捜し当てたよ」とロゴージンは歯の間から吐き出すようにつぶやいた。
 居酒屋の廊下で会って以来、彼らが顔を合わせたのは、これが最初であった。思いがけないロゴージンの出現に驚かされて公爵はしばらくは、はっきりと一つのことを考えることもできなかった。痛々しい感じが彼の胸に蘇ってきた。ロゴージンは見たところ、自分が公爵にどんな印象を与えたかを悟っているらしかった。彼は最初のうちは途方に暮れて、話をするのにもなんとなく妙に取ってつけたような大らかな風をしているらしかったが、公爵は、ロゴージンには何一つ取ってつけたようなところがなく、またことさらにまごついているような風もないことに、すぐに気がついた。もしも彼のそぶりや話しぶりに、何か調子の悪いところがあれば、それはただ、うわべだけのことではなかったか。精神的にこの男が見違えるようになるなどということは、ありようはずがないのである。
「どうして君は……僕がここにいるのを捜し当てたんだえ?」と公爵は何か口をきかなければいけないと考えて、こう聞いてみた。
「ケルレルから聞いたんだよ(僕はおまえんところへ寄ったんだよ)、『公園へいらしった』って、そう言ってたっけ。だから、そりゃそうだろうって思ってたのさ」
「『そうだろう』ってなんだね?」と公爵は不安らしく、うっかり相手の口からもれたことばじりをとらえた。
 ロゴージンはほくそえんだが、説明はしなかった。
「僕は君の手紙をもらったよ、レフ・ニコラエヴィチ。あんなことはみんなだめだ……はじまらんぜ、君!……ときに僕は今、あれヽヽのところからここへ来たんだ、ぜひとも君を呼んでくれって申し渡されて。なんだかとても君に話してやることがあるんだってさ。今日にも会いたいってさ」
「僕は明日ゆく。今日はすぐ家へ帰るんだ……君……僕のところへ?」
「なんだってよ? 僕はもう話すことはないよ、さいなら」
「じゃ寄らないんだね?」と公爵は静かに聞いた。
「奇妙きてれつなやつだなあ、君は、レフ・ニコラエヴィチ。君にゃたまげるよ」
 ロゴージンは毒々しげに薄ら笑いをもらした。
「なぜさ? なんだって君は今、僕をそんなに恨んでるんだ?」物悲しげに、しかも熱のこもった調子で公爵はことばを引き取った、「だって君は、君の考えてたことが、みんな本当でないってことを自分で知ってるんじゃないか。もっとも、僕は君の恨みが今もって残ってるということは思っていた。いったい、なぜだか知ってるかえ? というのは、実は君は僕の命をとろうとした、だから、それがため君の恨みが残っているんだ。はっきり言うけど、僕はただ一人の、あの日、十字架をやり取りした、あのパルフェン・ロゴージンを覚えているだけだ。昨日の手紙にも、君がこのいやなたわごとを思ってくれないように、忘れてくれるように、この話を僕の前で切り出さないでくれるようにと思って、それでそのことを書いたわけなんだ。なんだって僕のところから傍のほうへ行くんだ? なんだって手を隠すんだえ? ようく言っておくけど、あの時のことは何もかも、ただ、いやなたわごとだと僕は思うんだ。僕はあの日一日の君のことを、わがことのように、そらで覚えている。君の想像していたことは、実際に存在していなかった、存在しようはずもなかったんだ。いったい、何のために僕たちの恨みが存在して行くんだろう?」
「いったい、僕は恨みをもっているのかえ?」公爵の熱のある、全く思いもかけないことばに報いて、ロゴージンはまたもや笑いだした。
 彼は事実、二歩ほど退いて、両手を隠しながら、公爵を遠ざけて立っていた。
「今となってはもう、僕は君んところへどうしたって出入りするわけにゃいかねえんだよ、レフ・ニコラエヴィチ」と彼はおもむろに、しかつめらしい調子で付け加えてことばを結んだ。
「それほど僕を憎んでいるのか、え?」
「僕は好いちゃいねえよ、レフ・ニコラエヴィチ、だから、なんだって君んところへ行くわけがあるんだ? ええっ、公爵、君はまるで赤ん坊みたいだ、玩具を欲しがって——引っ張り出したり、引っ込めたり、そうして物がわからないんだ、それはなるほど、手紙に書いてあることと、今言ってることとは同じことだ。だが、君を僕が信じないなんてことがあるのかえ? 一言一句、君のことばを信じている、今まで僕をだましたこともないし、これから先もだまさないってことは、よく承知してる。だが、やっぱりそれでも好いちゃいねえ。あれ、君は何もかも忘れてしまって、ただ一人、十字架の兄弟ロゴージンを覚えていて、どすを振り上げたロゴージンを覚えていないと、こう手紙には書いてあったな。だが、どうしておれの気持がわかるんだ?(ロゴージンはまたもや、ほくそえんだ)ときに、僕はそんなことは、どうやら今まで一度も後悔もしたことがねえらしいんだ、しかも君はもう兄弟分のわび状をよこしている。ことによったら、僕はあの晩、まるで別なことを考えていて、こんなことは……」
「考えることも忘れてたんだろう!」と公爵があとを引き取った、「そりゃあもちろん! 僕は賭をしてもいいが、君はあの時、すぐ汽車に乗って、このパヴロフスクの楽隊んところへ駆けつけて、人ごみの中を、ちょうど今日みたいに、あれヽヽの尻を追いまわして見張りをしてたんだろう。そんなことはびくともしねえよ! あの時、君がたった一つのことしか考えられないようなありさまになっていなかったらおそらくどすなんかを僕に向かって振り上げはしなかったろうよ……僕はあの日は朝から、君を見るなり、なんだか虫が知らしていた、君はあの時、自分がどういう風をしてたと思う? 十字架をやり取りした時、僕には、そんな気持が動いていたらしい。なんだって君はお婆さんのところへあの時、僕を連れて行ったんだ? あんなことをして自分を押さえつけようとしたんだろう? だが、そんなことを考えるなんて、ありようはずがないことだ。ただ、僕と同じように感じただけなんだね……僕たちはあの時、全く同じことを感じていたんだ。あの時、君が僕に向かって手を振り上げなかったら(だが神様が払い退けてくだすったが)、僕はいま、どんなになってたろう? だって僕は、いずれにしてもこのことでは君を疑った、したがって二人とも同罪だ、全く同じだ!(だが、そんな苦い顔をするなよ! さあ、なんだって笑うんだえ?)『後悔しなかった』って! だが、いくら後悔したがったって、たぶん、後悔はできなかったんだろう。なぜって僕を好いてもいないんだから。それに、あれヽヽが君でなく、僕を愛してるなんかと考えているうちは、たとい僕が天使のように、君に対して罪けがれがないにしたところで、君はやっぱり僕が憎らしくってたまらないだろうよ。してみると、実際に嫉妬なんだ。けれど、僕はついこの週になってから、こんなことを考えついたんだ。ねえ、パルフェン、話して聞かそう、というのは、君は知らんだろうが、あれヽヽは今、君を、おそらく誰よりも愛しているんだよ、そして愛すれば愛するほど、君が苦労するほどだ。あれはそんなことを僕に言わないだろう、だから自分で見抜かなくちゃだめだ。どうして向こうから君んところへ嫁になんか来るものか? いつになったって、行きましょうなんて、言うもんか? ある種の女たちは、こんな風に愛されたいと、そんなことさえも思っている、ところが、あれヽヽがちょうどそういう性格の女なんだ! そして君の性格と、君の愛情は、あれヽヽの心を打つべきものなんだ! 君にはわかるまいが、女ってやつは残酷なことをして、嘲弄して、そうして男を悩ませるだけの腕前があって、しかも一度だって良心の苛責かしゃくを感じないんだ、つまり、男を見るたびに、肚の中では、『わたしはいま、この人を死ぬほど悩ましている、でもその代わりあとになれば、愛して上げてその埋め合わせをして上げる』と考えているからなんだよ……」
 ロゴージンは公爵の話を聞き終わると、声を上げて笑いだした。
「おい、公爵、どうだい、君もいつか、その女に引っかかったことがあるのかえ? 僕はちょっと君のことを耳にしたんだが、本当だったら?」
「何を、何を君は聞いたんだ?」と公爵はぎくりとし、ひとかたならずどぎまぎして立ち止まった。
 ロゴージンは相変わらず笑っていた。彼はいささかの好奇心を覚え、またおそらくは満足をすら覚えて、公爵の話を聞き終えたのであった。公爵の嬉しそうな、熱のある話しぶりは非常に彼を驚かし、また彼に威勢をつけた。
「うむ、とても聞いたというくらいのことじゃねえんだ。今になって、あれが本当だってことが、はっきりわかったよ」と彼は付け足した、「さて、君が今までに今夜みたいに話したことがあったかえ? だってこんな話は君の口から出そうもないことだ。もし君の噂を聞かなかったら、僕はここへだって来なかったはずだ。しかも公園へま夜中なんぞに」
「僕は君の言うことがさっぱり呑み込めないよ、パルフェン君」
あれヽヽが、かなり前に君のことを話してくれたが、さっき、君が楽隊んところで、その娘と坐ってるのを見て、はっきり呑み込めたよ。あれヽヽが僕に誓ったんだ、昨日も今日も誓ったんだ、君がアグラーヤさんに首ったけだってさ。そんなことは公爵、僕にはどっちにしたって同じことだ、こっちの知ったことじゃねえんだ。たとい君があの子を愛しなくなったって、別に向こうは愛しなくなんか、ならねえからな。知ってはいるだろうが、あれヽヽは君をぜひともあの子といっしょにしてやりたいと、誓ってまでいたんだ。へ、へ! その言いぐさがさ、『そうしなければ、おまえさんのところへはきませんよ、あの人たちが教会堂へ行ったら、そのあとから私たちも教会堂へ行きましょう』だってさ、いったい、これはどんなことなんだろう? さっぱり呑み込めねえ。今もって呑み込めたためしがない。それとも、君にうつつを抜かしてるのかしら、……もしそうだとすれば、ほかの女といっしょにさせようってのは、いったいどういうわけなんだろう?『あの人の仕合わせになったのを見たい』なんて言うのは、やっぱり惚れてる証拠だろう」
「僕は口でも言ったし、手紙にも書いてる、あのひとヽヽヽヽはね……正気の沙汰じゃないんだって」と公爵は悩ましそうにロゴージンの話を聞き終わると、こう言った。
「どうだかわからん! それはたぶん君の勘違いだぞ……もっとも、今日ヽヽ、あれは僕が楽隊んところから連れて帰ると日取りを決めたんだ、三週間たってから、ことによったらもっと早く、必ず結婚しようって言うのさ。そう言って誓ったんだ、頸にかけてる聖像をはずして、接吻したんだ。したがって、問題はなあ、公爵、君の出よう一つなんだぞ、へ、へ!」
「それはみんな、たわごとだ! 君が僕のことで言うようなことは、けっして、けっしてあってはならないんだ! 明日になったら君のところへ行こう……」
「いったい、どうして気ちがいなんだ!」とロゴージンが言った、「ほかの人には誰が見ても正気だというのに、ただ君ひとりにだけ気ちがい扱いにされるのは、いったい、どういうわけなんだ? どうしてあれヽヽはあそこへ手紙なんかやれたんだろう? もしも気ちがいだと言うんなら、あそこの連中も手紙を見れば気がついたはずだ」
「手紙って、どんな?」と公爵は驚いて聞いた。
「あそこへやったのさ、あのヽヽ娘に、そしてあの娘が読んだのさ。知らないのかえ? まあ、そのうちわかるだろう、きっと自分から見してくれるだろうから」
「そんなことは当てにならない!」と公爵は叫んだ。
「ええい! おい、レフ・ニコラエヴィチ、君はまだ僕の見たところでは、まだまだこの道の苦労が足りない、やっと乗り出したばかりだ。も少し待ってみろ、自分で警察を構えて、朝に晩に見張りをして、女の足どりがすっかりわかるようになるから、ただもしも……」
「そんな話はよしてくれ、けっして言わないでくれ!」と公爵は叫んだ。「あのね、パルフェン、僕は君が来るちょっと前にここを歩いていたんだが、急に笑いだしちゃったんだ。何がおかしかったんだか、それはわからん。ただね、明日は僕の誕生日だな、とふっと思い出したのが原因もとなんだ、誕生日なんて、まるでわざわざそうなるみたいだ。もう、あらまし十二時だろう。さあ、いっしょに行って、その日を迎えよう! 僕んとこには酒があるから、いっしょに飲もうよ。そして僕にも自分で何を望んでいるのかわからないでいるものの来ることを祈ってくれ。ほかならぬ君に祈ってもらいたいんだ。僕も君の多幸ならんことを祈ろう。それがいやなら、十字架を返してくれたまえ! まだ君は十字架をあのあくる日に送り返してもくれなかったじゃないか! 下げてるじゃないか? 今もってまだ下げてるじゃないか?」
「下げてるよ」とロゴージンは叫んだ。
「さあ、行こうよ。僕は君がいないところで、新しい生活を迎えたくはないんだ。なにしろ僕の新しい生活は始まったんだから! ねえ、パルフェン、君は知らんだろうが、僕の新しい生活は今日いよいよ始まったんだよ?」
「今、僕にも見える、本当に始まったんだ。あれヽヽにも、そう言って知らしてやる。君はまるで、正気じゃないぜ、レフ・ニコラエヴィチ君!」
 
(つづく) 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 

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