白痴(第三編)ドストエフスキー

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  第三編

      五

 レーベジェフの弁論が終わろうとしているころ、長椅子の上でにわかに眠り込んだイッポリットは、今度は確かに脇腹を突かれたかのように、いきなり眼を覚まして、身震いをして、起き上がり、あたりを見まわしたかと思うと、青くなった。一種の驚愕の念にさえもうたれて、あたりを眺めていたが、やがて、いっさいのことを思いおこしたとき、彼の顔にはほとんど恐怖ともいうべき表情が現われた。
「どうしたんです、もう散会ですか? おしまいになったんですか? 何もかもおしまいに? 太陽は出ましたか?」と彼は公爵の手をつかまえながら、不安そうに尋ねた、「何時なんじです? どうぞ教えてください、一時ですか? 僕、寝過ごしちゃった。しばらく寝てましたか?」ほとんど絶望したような様子をして、彼は付け加えたが、少なくとも、彼の運命の別れ目となるべきほどの時を寝過ごしてしまったかのようであった。
「君は七分か八分、寝ただけですよ」とエヴゲニイが答えた。
 イッポリットはむさぼるように彼を見つめて、しばらくは物思いにふけっていた。
「ああ……たった、それだけ! してみると、僕は……」
 こう言って、彼は非常な重荷でも放り出すかのように、深い深い息を心ゆくまでつくのであった。ついに彼は思い当たった。何ひとつ『おしまい』にはなっていないし、まだ夜も明けないし、お客たちがテーブルを立ったのはおつまみ物の御馳走になるためだということ、そしてただレーベジェフのおしゃべりだけが済んだところなのだと、こう考えついて、彼はほほえんだ。結核性の潮紅が、二つの鮮かな斑点のように彼の頬にあらわれてきた。
「じゃ、あなたは僕が寝ている間に、一分二分の勘定をしてらっしゃったんですね、エヴゲニイさん」と彼はあざけるようにあげ足を取った、「あなたは一晩じゅう、僕から眼を放しませんでしたね、僕はちゃんと見てましたよ……ああ! ロゴージン! 僕、たった今あの人を夢に見ました」苦い顔をして、彼はテーブルに向かって坐っているロゴージンをあごでしゃくりながら公爵にささやいた、「ああ、そうだ」と彼はまたもや、たちまちに話をそらしてしまって、「弁士はいったい、どこにいます、レーベジェフはどこに? レーベジェフはしてみると、済ましたんですね。何の話をしてたんです? 公爵、本当でしょうか、あなたがいつぞや、世界を救うものはただ『美』あるのみだとおっしゃったのは? 皆さん」と彼は一同に向かって叫びだした、「公爵は美なるものが世界を救うと主張してらっしゃるんです! けども、僕は断言しますけれど、公爵はそんな遊戯的な思想をもっているのは、恋をしているからなんです。皆さん、公爵は恋をしてるんですよ。さっき、公爵がここへはいって来られた時、僕はてっきりそうだと思いました。赤くなんかならないでください、ね、公爵、あなたが可哀そうになってきますから。いったいどんな美が世界を救うんです? コォリャが僕に言ったことなんですが、……あなたは熱心なキリスト教徒なんですってね? コォリャの話では、あなたは御自分でキリスト教徒だとおっしゃってるそうですね」
 公爵はじっと気をつけて、彼を見つめていたが、返答はしなかった。
「返事してくださらないんですか? あなたは、僕があなたを非常に好いているものと思ってらっしゃるでしょうね?」不意にイッポリットは、取って付けたように言い添えた。
「いいえ、そうは思いません。君が僕を好いていらっしゃらないことは僕も承知です」
「え! 昨日のことがあってもですか? 昨日、僕はあなたに対して誠実だったじゃありませんか?」
「昨日も僕はやはり承知はしていました、好かれていないってことは」
「というのは、つまり、僕があなたをそねんでるからでしょうか? 嫉んで? いつもあなたはそう思ってらしったんです、今でもそのつもりで、けども、……いったい、なんだって僕はこんなことをあなたに言うんでしょうね? 僕は少しシャンパンが飲みたい。ケルレル君、いでください」
「もう君は飲んじゃいけません、イッポリット君、僕は上げませんよ……」
 と、公爵は彼の傍から杯を押しのけた。
「いや、全く……」と、彼は物思いにふけるかのようにして、すぐに同意した。「きっと、いろんなことを言うだろうな……しかし、あいつらがなんて言ったって、かまいやしないんだ! そうじゃないかしら、そうじゃないかしら? あとでなんとでも言わしておきましょう、そうでしょう、ねえ、公爵? それに、あとヽヽでどんなことになろうと、われわれにとって、そんなことは問題じゃないんですからね! もっとも、僕は夢うつつなんです。僕はなんて恐ろしい夢を見たんだろう、たったいま思い出しました。……僕はあなたにこんな夢を見せたくはありません、公爵、実際に僕はあなたを好いていないかもしれませんけれど。それにしても、好いていないくらいなら、その人に何も悪いことを祈る必要はありませんね、そうじゃありませんか? いや、なんだって僕はこんなことを聞いてばかりいるのかしら。相変わらずいろんなことを聞いてばかりいて! さ、手をお出しなさい、僕はしっかり握ってあげましょう、ほら、こんな風に……けどもあなたはよくまあ僕に手を出してくれましたね? してみると、僕がまごころから握りしめるんだくらいは、よく御存じなんですね? ……おそらく、僕はもう酒は飲まないでしょう。何時なんじでしょう? もっとも、聞かなくってもいいです、僕は何時だか知ってますから。時間が来た! 今こそ、ちょうどいいときだ! なんですね、あれは? あちらの隅で、おつまみ物を並べてるんですか。してみると、このテーブルは空いてるんですね? うまい、うまい! 諸君、僕は、……と言ってもこの諸君は聞いちゃくれない……。公爵、僕は文章を一つ読もうと思っています。おつまみ物はむろん、ずっと興味があるはずですが、しかし……」
 と言いながら、いきなり、全く思いがけなく、彼は上衣の脇のポケットから、大きな赤い封印のしてある大型の紙包みを取り出した。彼はそれを自分の前のテーブルの上に置いた。
 この思いがけないしぐさは、これに対して心構えをしていない、というよりもむしろ、別なものに対して心構えをしていたといったほうがよい一座の人々に感銘を与えた。エヴゲニイは驚いて椅子の上で飛び上がったほどであった。ガーニャは大急ぎでテーブルのほうへ寄って来た。ロゴージンもまた同じようであったが、いかにも問題の真相を悟っているかのように、一種の性急な鬱憤を含んでいるらしかった。すぐそばに居合わしたレーベジェフは、物好きそうな眼を見はって近づいて来て、じっと包みを眺めていた。彼は問題の真相をさぐろうとしていた。
「何ですかそれは?」と公爵は心配しながら尋ねた。
「太陽がちょっとでも顔を見せたら、僕は床にはいります。公爵、僕が言ったことは間違いありませんから、よく見てらっしゃい!」とイッポリットは叫んだ。「だけど……だけど……あなたたちは僕にこの包みの封が切れないと思ってらっしゃるんですか?」いどみかかるような眼をして、一同を見まわしながら、特に誰に向かうともなしに、彼は付け足した。
 公爵は、彼がからだじゅうをぶるぶると震わしているのに気がついた。
「われわれは誰もそんなことを考えていませんよ」と彼は一同に代わって、答えた、「それに誰かがそんな考えをもっているなんかって、どうしてそんな気になるんです? それに、物を読んで聞かせるなんて、ずいぶん妙な思いつきじゃありませんか? それはいったい、何なんですか、イッポリット君?」
「いったい、何です? この人はまた、どうかしたんですか?」と、あたりの人たちが尋ねた。
 一同はイッポリットのほうへ寄って来た。なかにはまだおつまみ物を頬張っている者もあった。赤い封印をした紙包みは、まるで磁石のように人々を引き寄せた。
「これは僕が昨日、自分で書いたものです、ちょうど、あなたのところへ行って暮らしますって、お約束をした直後でした。僕は昨日一日、それに夜どおし書いて、今朝になって書き終えたのです。ゆうべ、夜明けごろになって、僕は夢を見ました……」
「明日にしたほうがいいじゃありませんか?」と公爵は恐る恐るさえぎった。
「明日になれば、『こののち、時は延ぶることなし』ですよ!」イッポリットはヒステリックな薄ら笑いを浮かべた。「もっとも、心配しないでください、四十分——まあ、一時間もすれば、すっかり読んでしまいます……それにごらんなさい。みんなが興味を寄せてるじゃありませんか。みんなこっちへやって来て、みんなこの封を見ています。実際、もしも僕がこの文章を包まなかったら、なんの効果も与えなかったでしょうよ! は、は! これがすなわち、神秘というものですね! 封を解きましょうかどうしましょう、諸君?」と彼は奇妙な笑い方をして、眼を輝かしながら叫んだ、「秘密! 秘密! ところで、公爵、誰が『こののち、時は延ぶることなし』〔黙示録第十章第六節に出る〕と宣言したか、覚えてらっしゃいますか? それは黙示録の中のおおきな、力強い天使が宣言したのですよ」
「読まないほうがましです!」と、だしぬけにエヴゲニイが叫んだ。しかも、その様子は、彼にも思いがけなかったほど不安の色を浮かべていたので、多くの人には奇妙な気がするのであった。
「読むんじゃありません!」と、公爵も紙包みに手をのせながら叫んだ。
「読まなくってもいい。今は食べ物が出てるんだし」と、誰かが言った。
「文章ですって? 雑誌にでも載せるんですか?」と、ほかの者が聞いた。
「きっと、おもしろくないものでしょう?」と、次の者が付け加えた。
「いったいどんなものです?」と、その他の者が尋ねた。
 しかし、公爵の驚いた身ぶりには、まるで当のイッポリットさえも驚かされたらしかった。
「それでは……読まないんですね?」青ざめた唇にゆがんだ微笑を浮かべて、彼は畏れをなしているかのように公爵に向かってささやいた、「読まないんですね?」以前の、まるで一同に食ってかかるようなそぶりをして、またもや一同の者に言いがかりをつけるかのように、眼や顔を、順々に見渡しながら、彼はつぶやくのであった、「あなたは……こわがってるんですか?」と、彼はまたもや公爵のほうをふり向いた。
「何を?」相手はいよいよ開きなおって、問い返した。
「どなたか、銀貨をお持ちのかたはありませんか!」イッポリットは誰かに突かれたように、いきなり椅子から飛び上がった。「どんなのでも鋳貨ぜにならいいですけど」
「じゃ、これ!」と、さっそくレーベジェフが差し出した。病気のイッポリットは気がちがったのだという考えが、ちらと彼の胸にひらめいたのである。
「ヴェーラさん!」とイッポリットはあわただしく呼んで「これを取ってテーブルの上へ投げてください。わしが出るか格子が出るか、鷲だったら——読むんです!」
 ヴェーラはびっくりしたように銀貨とイッポリット、それから父親の顔を見くらべたが、やがていかにも無器用そうに、まるで自分はもう銀貨を見てはならないのだと思い込んでいるかのように、頭を上のほうへふり向けながら、銀貨をテーブルの上に投げつけた。出たのは鷲であった。
「読むんだ!」とイッポリットは、あたかも運命の判断にしひしがれたようにつぶやいた。彼は、かりに死刑の宣告を読み上げられたとしても、これ以上にはなるまいと思われるほど青ざめた、「だが、それにしても」と、ほんのちょっとの間、口をつぐんでから彼は不意に身震いをして、「いったいこれは何なのか? はたして僕はいま運命のくじを引いたのかしら?」彼は相変わらず、おしつけがましい無遠慮な態度で一座の者を見渡した、「しかし、これは驚くべき心理学的な項目じゃありませんか!」と彼は心から驚異の念にうたれて、公爵のほうを向きながら、不意に叫ぶのであった、「これは……これは、実に不可思議な項目です、公爵!」やっとわれにかえったらしく、彼は活気づいて、念を押した、「これを書き留めておいたらいいでしょう、公爵、そして、覚えてらしったらいいでしょう。だって、あなたは死刑に関する材料を収集してらっしゃるんでしょう、……そんな噂を聞きましたよ、僕は、は、は! おお! なんてわけのわからんばかげたことを僕は言ってるんだろう!」彼は長椅子に腰をおろし、テーブルに両肘をついて自分の頭をかかえた、「かえって恥ずべきことではないのか!……しかし、恥ずかしいなんかっていうことは、僕には問題じゃないんだ」と、彼はほとんど同時に頭を上げて、「諸君! 諸君、僕はこの包みをあけます」と、たちまちにして決心がついたらしく、宣言した、「僕は……僕は、しかし、無理に聞いてくださいとは言いません!……」
 興奮のために震える手で、彼は包みの封を切って、細かい字のいっぱいに書いてある何枚かの書簡箋を中から取り出し、自分の前に置いて整理し始めた。
「いったい、これはなんでしょう! いったい、これはどんなものなんでしょう? 何を読むんでしょう?」とある者は憂鬱そうにつぶやいたが、その他の人たちは黙っていた。が、誰も彼も席に着いて、好奇心をいだきながら眺めていた。おそらく、彼らは、実際に何かしら異常なものを待ちうけていたのであろう。ヴェーラは父の椅子にしがみついて、驚愕のあまり、ほとんど泣きださんばかりであった。コォリャもまたほとんどこれと同様に驚愕の念に満たされていた。レーベジェフはもう席に着いていたが、急に立ち上がって、蝋燭ろうそくを取り、いっそう読みよくしてやるために、イッポリットの傍へそれを近づけてやった。
「諸君、これが……どんなものだかということは、今すぐにおわかりになるはずです」イッポリットは何かのために、こう言い添えて、いきなり朗読を始めた、『必要なる告白!』題銘 Apres moi le deluge(わが死後はよしや洪水あるとも)ふむ、畜生」まるで火傷でもしたようにどなり立てた、「よくまあ、本気でこんなばからしい題銘がつけられたもんだ!……さあ、聞いてください、諸君!……、はっきりお断わりしておきますが、結局のところ、これはみんな、おそろしいナンセンスになるかもしれません! しかし、いくらか僕自身の思想があることだけは……もし、皆さんがここに何か秘密なこととか、あるいは……禁止されていることがあるようにお考えでしたら……つまり、ひと口に言うと……」
「前置きをぬきにして、読んでもらいたいんです」と、ガーニャがさえぎった。
「気取ってやがる!」誰かが付け足した。
「文句が多いぜ!」と、今まで黙りこんでいたロゴージンが口を出した。
 イッポリットはふっとそのほうを見たが、二人の視線がぴったりと合ったとき、ロゴージンは苦々しそうに、気むずかしそうに、作り笑いをして、おもむろに奇怪なことばを発した。
「こういうことはそんな風に細工しちゃだめだよ、若い衆、そんなじゃだめだ……」
 ロゴージンが何を言おうとしたのかは、もとより誰にもわからなかった。しかし、このことばは一同の者にかなり奇妙な印象を与えた。ある一つの共通した考えが、誰もの心をちらりとかすめたのであった。イッポリットに対しても、このことばは恐るべき印象を与えた。彼はひどく震えだして、そのために公爵は手をのばしてささえようとしたほどであった。もしも、急に声がつまったりしなかったら、必ず声を立てたことであろう。まる一分間というもの、彼は物も言うことができずに、重苦しげに息をつきながら、ずっとロゴージンを見つめていた。ついに彼は息を切らしながら、必死になって言いだした。
「それじゃ、あれはあんただったんですか……あんた……あんただったん?」
「何がさ? 何が僕だったのさ」と、ロゴージンはに落ちないで、答えた。しかし、イッポリットはかっとなって、ほとんど狂暴に近い調子で、あげ足を取った相手に向かって、辛辣しんらつに、力をこめて叫んだ。
「あんたは先週、僕が午前中にあんたのところへ行ったあの日の晩、一時過ぎに僕んところにいたはずです、あんたは! 白状しなさい、あんたでしょう?」
「先週の晩だって? けども、おまえは本当に気がふれたんじゃないのかえ、若い衆?」
『若い衆』は、何かと思いめぐらしているらしく、人さし指を額にあてながら、またもや一分間ほど黙っていた。しかし、今なお恐怖のためにゆがんでいる青ざめたほほえみの中に、不意に何かしら、狡猾らしい、勝ち誇っているらしくさえも見えるものが、ちらとひらめいた。
「あれはあんたでしたよ!」ついに彼はほとんどささやくかのように、しかも非常な確信をもってくり返した。「あんたはあのとき、僕のところへ来て、窓ぎわの椅子に、一時間も、もっと、黙って坐っていたのです。夜中の十二時過ぎから一時ごろにかけて。それから二時過ぎに、立って出て行ったのです……あれはあんただった。あんただった! 何のために僕をおどかしたのやら、何のために僕を苦しめにやって来たのやら、——呑み込めないけれど、しかし、あれはあんただったのです!」
 彼のひとみの中には、今もなお恐怖の念に震えが止まらなかったが、不意に果てしのない憎悪の色がひらめいた。
「このことは、ねえ、皆さん、今にすっかりおわかりになります、僕は……僕は……さあ、聞いてください……」
 彼は再び、恐ろしくあわてながら、原稿をつかんだ。原稿はばらばらに手から滑り落ちた。彼はそれを拾い合わせるのに骨を折った。紙は彼のわななく手の中に、震えていた。長いこと彼は気を落ち着けることができなかった。
「気がちがったか、それともうわごとを言ってるかだ!」と、ロゴージンは聞きとれないほどの声でつぶやいた。
 ついに朗読が始まった。初めのうち五分ばかり、この思いがけない文章ヽヽの筆者はなお相変わらず息を切らして、しどろもどろに読んでいた、そのうちに声はしっかりして、文章の意味を遺憾なく表わすようになった。ただ時として、かなりに強いせきにさえぎられるだけであった。文章の中途ごろから、ひどく声がしわがれてきた。朗読の進むにつれて、いよいよはなはだしく彼の心にあふれてくるなみなみならぬ感激は、聞く人に与える病的な印象とともに、終りごろになると、頂点に達していた。この『文章』の全部は次のようなものであった。

 わが必要欠くべからざる告白
 A pres moi le deluge !

「昨日の朝、私のところへ公爵がやって来た。いろんな話のついでに、自分の別荘へ引っ越して来るようにとの勧めがあった。きっと彼がこのことを主張するだろうとは、前々からわかっていたし、それにまた、例のようにま正面から、『別荘の人たちや木立の間で死ぬほうが気楽だろうから』と、いきなり切り出すだろうとはよくよく信じきっていた。ところが、今日という今日は、死ぬほうヽヽヽヽがとは言わずに、『暮らすほうが気楽だろう』と言った。それにしても、私のような境涯にあるものにとっては、いずれにしたところで大差はないのである。彼がしょっちゅう『木立、木立』と言っているのは、はたしてどんな意味を含ませてのことか、またなんだってそんなに『木立』を私に押しつけるのかと尋ねてみたら、私自身が、あの晩に、今生の思い出にぜひとも木立が見たいとて、わざわざパヴロフスクへ来たのだと、そんなことを言ったとかいう話を聞かされて、私は少なからず驚いた。しかしながら、木立のかげに死んでゆくのも、窓の外の煉瓦れんがを見ながら死んでゆくのも結局同じことではないのかしら、余命わずかに二週間という今となっては、何もそんなに固苦しいことをいうがものはないと、公爵に言ってやった。そしたら、すぐに賛成はしたけれど、彼の考えによると、木立の青々しい色合いと、澄みきった空気は、必ず私の身体に一種の生理的変化をもたらして、私の興奮も、私の夢も変わってきて、おそらくは緩和されるだろうと、そういう話であった。私は笑いながら、あなたの話はまるで物質論者マテリアリストの話のようだと、また指摘してやった。すると、彼は例のほほえみを浮かべて、自分はいつも物質論者マテリアリストだと答えた。けっして嘘をつく人ではないから、こういうことばも何かの意味を含んでいることであろう。彼のほほえみぐあいがよかったから、私はいまさらながら、いっそう気をつけて彼の顔をじろじろと眺めてやった。私は今、彼を心から愛しているのやら、いないのやらわからない。今は、そんなことに世話をやいている余裕はないのである。これは気にとめておかなければならないが、五か月にわたる私の彼に対する憎しみは、この一か月の間に、すっかり和らいでいる。ことによったら、私がパヴロフスクへ行ったのは、主として彼に会うためであったかもしれない。しかし、……私はあの時に、なんだってこの部屋を見捨てて出て行ったのであろう? 死を宣言された者は、自分の運命に甘んじて、そこに踏みとどまっていなければならぬ。したがって、もしも今、私がかような確定的な決心をつけずに、むしろ、じっと最後の時の至るのを待とうと覚悟を決めていたならば、その時はむろん、どんなことがあってもこの部屋を見捨てて、パヴロフスクの彼のところへ『死にに』来いなどという、彼の申し出を聞き入れなかったはずなのだ。
「私はどうしても明日までに、この『告白』を全部仕上げなければならない。したがって、読み返したり訂正したりしている暇はあるまい。明日になって、公爵と、たぶんそこに立会ってくれるはずの二、三の人に読んで聞かせるとき、はじめて読み返すことになろう。ただ一つの虚言もなく、あくまでも絶対的な、厳粛な真理のみによって終始するはずであるから、これを私が読み返すそのときに、この真理が私自身にいかなる印象を与えるものか、私には今からそれが楽しみなのだ、それにしても、『絶対的な、厳粛な真理』などということばを、よくいたずらに私も書いたものだ。それでなくてさえも、余命わずかに二週間という今となっては、嘘などついたところでしかたがないのだ。というのは、今から二週間を生きたところでしかたがないからだ。このことこそ、私が唯一の真理を書いているという最もよい証明になる(NB、ここで、私はこの時、いや、このごろ、気が違っているのではあるまいか? ——という気持をおろそかにはできない。よくよくの肺結核患者が、どうかすると、一時的に発狂することがあるという話を私は断定的に人から聞かされている。これは明日になって、朗読の時に、聞く人たちに与える印象によって、よく吟味をしてみなければならぬ。この疑問は必ず、十分に的確に解決をつけなければならぬ。さもなくば、いかなることにも手出しすることができないのである)。
「私は今、なんだかひどくばかげたことを書いたような気がする。けれども、前に言ったように、訂正をしている余裕がないのである。それにまた、たとい五行目ごとに、自家撞着じかどうちゃくをやっていることに自分ながら気がつくようなことがあったとしても、私はこの原稿のただの一行たりとも、ことさらに訂正しないことをここに誓っておきたい。私はつまり、自家の思想の論理的傾向がはたして正鵠せいこくを得ているかどうかを、明日、はっきりと確かめたいのである。はたして自身の誤謬ごびゅうを認めるのであろうか、したがって、六か月の間、この部屋の中で、つくづく私が考えていたことは、何もかも正確であったろうか、それともただ単に、たわごとにすぎないものであったろうか。
「もしも、二か月前に私が、今のように全くこの部屋を見捨てて、マイエルの家の壁にも別れを告げることになっていたら、必ずや私は悲しい思いをしたに相違ない。ところが、今となっては全くなんの感じもないのである。それに、明日はこの部屋をも、あの壁をも、永劫にヽヽヽ見捨ててしまうのだ! したがって、わずか二週間のために物を惜しんだところでしかたがなく、または感覚といったようなものに身を任せたところでしかたがないのだという確固たる信念が、ついに私の天性を克服して、すでに今は私のいっさいの感情を支配しうるようになっている。ところで、これは本当なのか? 私の天性が今や全く克服されたというのは、これは本当のことなのか? もしも、人がいま私を詰問しだしたら、きっと私は悲鳴をあげるだろう、そして、わずかに二週間の命なのだから、いまさら悲鳴をあげたり、痛みを感じたりしたってしかたがない、……などとはけっして言わないはずである。
「はたして、わずか二週間の命で、私はもう生活の日がわずか二週間それ以上のことはない、——というのは本当だろうか? あの時、パヴロフスクで私は嘘を言った。Bは私には何も言わなかったし、一度だって私に会ったためしはないのだ。が、一週間ほど前のこと、私のところへ大学生のキスロロードフが連れられて来た、彼自身の信念によると、彼は物質論者マテリアリストで、無神論者アテイリストで、虚無論者ニヒリストだという。だからこそ、ことさらに私はあの男を呼んだのだ。今度という今度は、おべっかをつかったり遠慮をしたりせずに、ざっくばらんに本当のことを言ってくれる人が欲しかったのだ。ところで、彼はそのとおりにしてくれたのだ。ただ単に快く、遠慮会釈がなかったばかりではなく、いかにも満足らしい顔をして、してくれたのだ(もっともこんなことは、自分の本当のつもりではよけいなことだ)。彼はだしぬけに、まっ正面から、私の余命が、せいぜい一か月だと言いだした。境遇がよければ、あるいはもっと長く生き延びるかもしれないが、ことによったら、それよりずっと早く行くかもしれないとそうも言った。彼の意見によると、私は急に、たとえば明日にでも死ぬかもしれないという。こんなことはよくあることだが、つい三日ばかり前にも、ある若い女で、私と同様、やはり肺病で、やはり同様の境遇にあったロームナの女が、市場へ食料品を買い出しに行こうとしたくをしているうちに、不意に気分が悪くなり、長椅子にどっかと倒れたままため息をついたと思ったら、とうとうあの世の人となった。これはみんなキスロロードフが、自分の無感覚と不注意とを気取るような風までして私に聞かしたことであった。彼は、まるで私に敬意を表するように、つまり、死ぬということなどをもちろん、なんだとも思っていない自分自身と同様に、私を目していっさいを否定する高等な人間だと考えているようなそぶりを見せながら話すのであった。結局、事実はとにもかくにも、はっきりとわかってきた。ただ一か月、けっして、それ以上ではないのだ! と。けっして彼の言ったことに間違いはないのだと、私は全く信じきっている。
「さきほど、公爵は、私が『悪い夢』を見るということを、いかなる子細があって、あれほどまでに見抜いてしまったのだろうか、ということが私をいたく驚かした。パブロフスクへ来れば、私の興奮も私の夢も変わってくるだろうと、彼は文字どおりそう言ったのであった。それにしてもいったいなんだって夢なんかということばを使ったのであろう? 彼は医者なのか、それとも事実において、なみなみならぬ知恵をもち、非常に多くのことを臆測することのできる人間なのだろうか(とはいえ、なんといっても彼が『白痴』であるということ、そこにはなんらの疑いをさしはさむ余地もないのである)。彼がたずねて来る直前に、私はまるで、ことさらめかしく、よい夢を一つ見た(もっとも、それは今日このごろ私が幾たびとなしに見る夢と類を同じゅうしているものであった)。私はいつしか眠り込んだ、——おそらく彼がたずねて来る一時間前のことであったと思う、——すると、夢の中で私はある部屋の中にいるのであった(しかも私の部屋ではなかった)。それは私の部屋よりも大きく高さも高く、道具の類もずっと上等の、明るい部屋であった。戸棚、箪笥たんす、長椅子、それに、緑色の、絹の、ふっくらした掛布団のかかっている大きな、広々とした私の寝台があるのであった。ところが、私はこの部屋の中に一つの恐るべき動物、一種の怪物を目にとめた。それはさそりに類するものであったが、蠍とは違って、もっと汚らわしく、ずっとずっと恐ろしかった。おそらく、かような動物が自然界にいないこと、またそれがことさらに私の所へ現われたこと、その中に何かしら神秘ともいうべきものが潜んでいること、そういったようなことが、私に右のような気持を感じさせたのであろう。私はよくよくこの怪物を見きわめた。それは褐色をしていて殻のようなものにつつまれている爬虫類はちゅうるいで、長さは四ヴィルショーク〔一ヴィルショークは四・四一五センチメートル〕ばかり、頭のところの厚さは指を二本並べたほどで、尾に近づくにつれてだんだん細くなっていた。それゆえに尾の先はせいぜい一ヴィルショークの十分の一ほどしかなかった。頭のところから一ヴィルショークほどのところに、二ヴィルショークくらいの長さの足が、胴の両側から四十五度の角をなして一本ずつ出ていた。そのために、上から見ると、この動物の全体が、三本槍のような形をして見える。頭は十分に見きわめなかったが、あまり長くはなく、丈夫な針のような形をして、やはり褐色をしている二本の触角が見うけられた。こういったような触角が、尻尾の先にも、両足の先にも二本ずつ、したがって、全部合わせると八本出ていたのである。この動物は足と尻尾とで身体をささえながら、実にすばやく、部屋じゅうを走りまわっていたが、走りまわる時には、固そうな殻をもっているのにもかかわらず、胴と両足とが非常な速度で、まるで小さな蛇のようにのたうちまわるので、それを見ているとひどく胸がむかつくのであった、私を刺しはしないかと、非常に私は恐れていた。これが毒をもっているということは、かねてから聞かされていたが、私に最も苦痛を感じさせたのは、誰がいったいこれを私の部屋へ追い込んだのか、また私をどうしようというのか、ここにいかなる秘密があるのか、という恐ろしい気持であった。怪物は箪笥や戸棚のかげに隠れたり、あちこちの隅にはい込んだりしていた。私は椅子の上に両足を上げて、どっかと胡座あぐらをかいた、怪物は部屋をすばやく斜めに横切り、どこかしら私の椅子の辺にかくれて見えなくなった。私はあまりの恐ろしさに、あたりを見まわしたが、胡座をかいているので、まさか椅子の上まではい上がっては来ないだろうと、それを当てにしていた。ところが、にわかに後ろのほうで、しかもほとんど私の頭のあたりで、かさかさという変な音が聞こえてきた。ひょいとふり返って見ると、もういやらしい動物は壁づたいに、私の頭と同じくらいの高さのところへはいのぼって、とてつもない速さでうねりくねっている尻尾が、もう私の髪の毛にさえも触れているのだ。私が飛び上がったら、そいつの姿は見えなくなった。私は怪物が枕の下へはい込んで来ては大変だと考えて、寝台に横になるのが恐ろしかった。そのうちに、部屋の中へ、私の母と、もう一人、母の知合いの人がはいって来た。二人は怪物をつかまえようとかかったが、私よりはずっとずっと落ち着き払っていて、こわがりさえもしなかった。もっとも、二人は何が何だかわからなかったのである。またもや不意に怪物ははい出して来た。今度はかなり静かに、何か特別な下ごころでもあるかのように、おもむろに身体をうねらせながら、——それはまた、いっそう胸の悪くなることではあったが、——またもや部屋を斜めに横切り、戸口のほうへ歩いて行った。すると、母はドアをあけて、家の飼犬のノルマを呼んだ、——これは黒い尨犬むくいぬで、ずうたいの大きなテルニョフ〔ニューファウンドランド種〕であったが、今から五年まえに死んでしまった。さて、ノルマは部屋へまっしぐらに駆け込んで来たが、まるで釘づけにされたかのように、怪物の前にぴたりと立ち止まってしまった。怪物もやはり相変わらずからだをうねらせて、床を両足や尻尾の先で、とんとんたたきながら、やはり立ち止まった。もし私が勘違いをしていなかったら、動物というやつは、神秘的な驚愕を感ずることのできないものであろう。ところが、この瞬間、私にはノルマの驚愕のうちに、何かしら普通でない、ほとんど神秘的といってもよいような何ものかがあって、したがって、ノルマが私と同じように、この動物に何かしら宿命的な、一種の秘密がひそんでいることを予感しているかのように私には思われた。静かに用心深く、怪物がノルマのほうへはい寄って来ると、ノルマはのそのそと後へ退くのであった。怪物はどうやら不意に相手を襲って、そうとしているらしかった。しかし、ノルマは極度に恐れているのにかかわらず、ひどく恨めしげに、あしをぶるぶるさせながらも怪物のほうを見まもっていた。不意に、そろそろと、恐るべき歯をき出したかと思うと、ノルマは大きな赤い口をあいて、隙をうかがいながら身構えしていたが、ついに覚悟を定めて、いきなり怪物をくわえた。おそらく、怪物はすべり抜けようとして、力いっぱいもがいたことであろう。そこでノルマは落ちかけた敵をもう一度、歯でくわえて、二度までも口をいっぱいにあけて、あたかも呑み込んでしまうかのように、絶えず落ちかかる敵を押さえつけた。殻は歯に当たって、からからと音を立て、口からはみ出している尻尾や足の先は、恐ろしい速さでぴくぴくと動いていた。不意にノルマは物悲しそうにきゃあと鳴いた。怪物は見事にノルマの舌を螫してしまったのである。えたり、うなったりしながら、ノルマは痛さに耐えかねて、口をあけた。まれた怪物が半ば圧しつぶされた胴体から、踏みつぶされた黒い油虫の液体に似た白い液をいっぱいにノルマの舌に吹き出しながら、口の中に横になり、なおもうごめいているのが眼についた。……ここで、私は眼が覚めた、公爵がはいって来た」
「諸君」とイッポリットは急に朗読をやめて、ほとんどきまり悪げな様子をさえもして言うのであった。「僕は読み返さなかったけれど、なんだか、僕は、実際、むだなことをたくさん書いてしまったような気がします。この夢は——」
「そんなとこもありますね」と、ガーニャは急いで口をはさんだ。
「ここには個人的なことが多すぎるんですね、ほんとに。つまり、ことに僕だけのことが……」
 こう言いながらイッポリットは、疲れて、弱りきった風をして、ハンカチで額の汗をぬぐった。
「そうでござんすね、あんまり御自分のことにばかり、気をひかれすぎてらっしゃるようですね」と、しわがれ声で言ったのはレーベジェフであった。
「僕、諸君、もう一度、申しますけれど、どなたにも強いて聞いてくださいとは申しませんからね、おいやでしたら、あちらへいらっしってくだすってもいいんですよ」
「追い立てるんだな……他人様ひとさまの家へ来ているのに」聞こえるか聞こえないくらいのかすかな声で、ロゴージンが不平を言った。
「どうしたもんでしょう、われわれがみんな、いきなり立ち上がって、あちらへ行ってしまったら?」今まで大きな声を立てて口をきくのをはばかっていたフェルデシチェンコが不意に口を出した。
 イッポリットはにわかに眼を伏せて、原稿をつかんだ。けれど、同時にまた首をあげて、両方の頬に赤い二つの斑点をうかべ、眼を輝かして、じっとフェルデシチェンコを見つめながら、言いだした。
「あんたは僕を全く好いてない!」
 すると、笑い声が聞こえてきた。もっとも、大部分の者は笑いはしなかった。イッポリットはおそろしく顔を赤らめた。
「イッポリット君」と公爵が言った。「その原稿を伏せて、僕によこしなさい。そして、ここの僕の部屋でやすみなさい。二人で話しましょう、寝る前に、それから明日も。でも、この原稿はもうけっしてひろげないことにしてですよ。いいですか?」
「そんなことって、できるもんですか?」イッポリットはすっかり驚いて、彼の顔を眺めた。「諸君!」とまたもや熱に浮かされたように勢いこんで彼は叫んだ、「ばかげた余興で、僕は自分を押さえつけることのできないのをお目にかけてしまった。もうこれからは朗読を中途でやめないことにします。聞きたいかたは——聞いてください……」
 彼は大急ぎでコップの水を呑んでから、人目を避けようとして、すばやくテーブルにひじをついて、根気よく朗読を続けた。それにしても、羞恥の色はたちまちにして消えうせてしまった。
「わずか二、三週間、生きてみたところで(彼は読み続けるのであった)しかたがないという観念が、明らかに私を克服し始めたのは、一か月ほど前、まだ四週間の寿命があるというときのことであったと思う。しかし、全く私を克服しきったのは、パヴロフスクのあの夜の集まりから戻って来たときで、わずかに三日前のことである。直接に全くこの考えに入りびたった最初のときは、公爵の家の縁側でであった。すなわち、この一生涯の最後の試練をしようと考え、人と木立とを見たいと思い(私自身が言ったことにしておこう)、熱くなって、『私の隣人』たるブルドフスキイの権利をあくまでも主張し、誰も彼もが急にびっくりして両手をひろげ、私を胸にだきしめて、何がなし私に許してくれといい、また私も彼らに許してくれというようなことになろうと空想した、あの刹那せつなのことであった。けれど、要するに私は、結局、頭の足らないばか者のようなことになってしまった。ところで、この時に、『最後の確信』が私の胸の中に燃えあがったのだ。この六か月というもの、どうしてこの『確信』をもたずに生きてこられたのか、私は今にして驚くばかりである。自分は肺をわずらい、しかも不治の病いにかかっているのだということは、はっきり承知していた。そうして、みずからを欺くことなく、私は事実を明瞭に呑み込んでもいた。事の真相を知り尽くしていた。しかも、明瞭に呑み込めば呑むほど、私は震いつくほど生きたかった。人生にしがみついて、いかなることがあろうとも、生きようと考えた。あの時、私をはえのようにつぶしてしまえと下知した(もちろん、わけがわからずに)あの暗い、陰惨な運命に対して、私が癇癪かんしゃくを起こしたのが当然だということはみずから認めている。けれども、なんだって私はただ単に恨むだけで済まさなかったのか! もう生きられはしないのだと、よく承知をしながら、私はなんだって実際に生きることを始めたのか? 今ははや試むべき何ごともないと、よくよく承知をしながら、何ゆえに試みをしたのか? それにしても、私は本さえも読むことができずに、ついに読書をやめてしまったのだ。何のために読書をするのか? 何のために六か月の間に物を覚えようとするのか? かような考えは一度ならず、私に書物をなげうたせた。
「そうだ、あのマイエルの壁は、いろんなことを伝えることができる! あの壁に私はいろんなことを書きつけた。あのよごれた壁に、私がそらんじていないような汚点しみは一つもないのだ。のろわれたる壁よ! とはいえ、とにもかくにもあの壁は、パヴロフスクのありとあらゆる木立よりも、私にとっては貴重なものだ。すなわち、もし今、あらゆるものに私が何のかかわりもないというのでなかったならば、あの壁は何よりも貴重なものでなければならないはずだ。
「今にして思いおこす。あのとき、私はいかばかりむさぼるように興味をいだいて、世の人々の生活に眼を注ぎ始めたことであろう。あれほどの興味は、前には絶えてなかったのだ。病気がひどくなって、そのために表へ出ることができなかったとき、私は時おりコォリャの来るのを待ちかねて、来るのがおそいと言っては悪しざまにののしっていた。私はあらゆる小さなことを穿鑿せんさくして、あらゆる風説に興味を動かし、ついに一人前の告げ口屋になってしまった観がある。私には、たとえば、なぜ世間の人たちはあれほど長い生活を与えられていながら、金持になれないのか、というようなことがどうしてもせなかった(もっとも、今もなお解せないのである)。私は一人の貧乏人を知っていたが、あとでこの人が餓え死にしたという話を聞かされた。忘れもしないが、この事実は私に勘忍袋の緒を切らせた。この貧乏人を再びよみがえらせることができたならば、私はたぶん、この男に刑罰を与えたことであろう。どうかすると、二、三週間も続けて気分の軽くなることがあって、私は通りへ出てゆくことができた。が、その通りへ行ってみると、ついに激しい憤激の情にかられるので、私は人並みに表へ出ることのできる身ではありながら、わざわざ幾日も幾日も部屋のなかに閉じこもったきりでいた。鋪道に沿って私の傍をうろつきまわる、あのいつも心配そうな、気むずかしげな顔をして、あくせくと、そわそわしながら、どこへでも出しゃばる世間のやつらが、どうにも私には我慢がならなかった。何のために、あの連中は明けても暮れても悲しそうに、いつもそわそわして、あくせくしているのか、年百年じゅう、何のために気むずかしく、意地悪そうにしているのか(いや、あの手合いは実際に意地悪、意地悪、意地悪なんだから)? 彼らがいずれも六十年の長い生涯をっていながら、運が悪くて、気のきいた暮らしができないからといって、はたして、誰の罪なのか? 何のためにザルニツィンは前途に六十年の生涯をもちながら、おめおめと餓え死にをしたのか? それぞれに襤褸ぼろやら節くれだった手を見せびらかして、腹を立てたり、『われわれは牛のように働いて、苦労をして、しかも、犬のように餓えて、貧しいんだ! ところが、ほかには働いたり、苦労をしたりしなくとも、金を持っているやつらがいる!』などとわめき立てているのだ(おきまりの文句を!)。『家柄者だ』とかいうイワン・フォミッチ・スーリコフというみじめな、しわくちゃ爺——これは私と同じ家で、上に暮らしている——こいつもやはりあの連中と同じ仲間で、いつも、肘が抜けてボタンのちぎれた服を着て、あちこちのいろんな人の走り使いに雇われ、朝から晩まであくせくと駆けずり回っている男がいる。この男と話をしてみるがいい、『貧乏で、乞食のように、しがない者でござんす、女房は死んでしめえましたが、薬を買うだけの銭がなかったもんでして。今年の冬は赤ん坊を、凍え死にさせましての。上のあまっ子はお囲い者になっちめえまして……』明けても暮れてもめそめそと、いつも泣き言を並べているのだ! ああ、私には——今も昔も、こんなばか者どもに対しては、全くなんらの憐憫れんびんの情もない。私はあえて、誇りをもって、言いうるのである。いったい、どうして彼らはみずからロスチャイルドにならないのか? 彼らに、ロスチャイルドのように、何百万の金がないからといって、誰に罪があるのか? あたかも謝肉祭の見世物小屋にうず高く積まれているイムペリアルやナポレオンドルの山(共に金貨の名)——すばらしく高い金貨の山が彼らにないからといって、誰の罪なのか? 生きているからには、何もかもが自分の勢力範囲にあるのではないのか! 彼らにこれくらいのことが呑み込めないからといって、誰の罪であろうぞ? ああ! 今となっては、どうなろうともかまいはしない。今となってはもう癇癪をおこしている余裕がない。しかし、あのころ、あのころは、くり返していうが、私は夜ごと夜ごとを狂暴の念にかられて、文字どおり、枕を噛んだり、夜着を引き裂いたりした。あのころ、私はほとんど着る物もなく、かぶる物もない十八の少年であったが——その私を、不意に往来へ追い出して、全く一人ぽっちに置きざりにしてくれるようにと、いかばかり空想したことであろう、いかばかり願ったことであろう、ことさらにいかばかり願ったことであろう! 家もなく、仕事もなく、一きれのパンとてもなく、身内の者もなく、かぎりなく広い都に頼るべき一人の知合いもなく、餓え果てて、疲れ果てて(それに越したることはない!)しかもただ健康で、かくてこそ、世の人々に、男を見せてやろうものをと!
「どうして男を見せるのか? と諸君は聞かれるであろう。
「ああ、はたして諸君はそれでなくてさえも、すでにこの『告白』によってみずから男を下げたのを、私が知らずにいるものと推察しておられるのか? さて、誰も彼も、私がもはや十八の少年ではなく、この六か月を私が生きて来たような生き方をするのは、すなわち髪の毛の白くなるまで生き延びるのと同じことになるということを忘れ果てて、私を目して人生を知らないやくざ者だと言われても、かまいやしない。実際に私は自分で作り話を自分に言い聞かせていたのだから。そうして、私はかような作り話によって、自分の夜な夜なを常に満たしていたのだ。私は今でもすっかりそれを覚えている。
「しかし、はたして私はそんな作り話を改めてここにくり返すべきだろうか、——私にとって、すでに作り話の時代が過ぎ去った今となって? それにいったい、誰に話して聞かせるのか? 私がかような作り話によって、みずから心を慰めていたのは、ギリシア文法を読むことさえも禁ぜられているということが、はっきりわかったときのことで、ちょうど『文章論シンタキスまでもいかないうちに私は死んでしまうだろう』という考えが、ふっと、最初の一ページから頭に浮かんできて、たちまちテーブルの下へ書物を放り出してしまったころのことだ。今もその本は同じ所にころがっている。私は女中のマトレーナに、拾ってはいけないと言いつけたのだ。
「私の『告白』を手にして、しんぼうづよく読み通してくれる人があったなら、その人は私を気ちがいか、または中学生とすらも考えるであろう。それともまた、死を宣告されて、自分以外のあらゆる人があまりにも生命を軽んじ、あまりにも粗末に浪費し、あまりにも懶惰らんだに、あまりにも恥知らずにそれを利用し、したがって、誰も彼もが、最後の一人に至るまで、生きてゆく資格がないのだという風に考えだした人間だと、そういう風に見なすかもしれない。いったい、なんだというのだ? 私は言明する、かような読者は勘違いをしているのであって、私の信念はけっして私の受けた死の宣言には関係がないのだと。彼らに尋ねてみるがいい、幸福というものが、はたしていかなるところにあるものかということについて、世間の人たちの誰も彼もがいかなる見解を持っているか? それを聞いてみるがいい。ああ、実にコロンブスが幸福だったのは、彼がアメリカを発見した時ではなく、発見しかかっていた時のことだ。実に、彼の幸福の絶頂に達した瞬間は、おそらくは新世界発見のまさに三日前であったろう。絶望のあまり乗組員が反乱を起こして、今にも船をヨーロッパへ向けて引返させようとした時であろう! ここで、問題は新世界にあるのではなく、そんなものは消えてなくなってもかまいはしなかったのだ! コロンブスは、ほとんど新しい世界を見ずに、実際自分が何を発見したのかさえも知らずに、死んでしまったのだ。問題は生活にあるのだ、ただただ生活のみにあるのだ、——絶え間なく、やむこともなき生活を発見する過程にあるのであって、けっして、発見そのものにあるのではないのだ! だが、何を言っているのか! 私の今言っていることの全部が、きわめてありふれた決まり文句に似通っているので、必ずや、人は私のことを『日の出』なんかに作文を投書している、中学の下級生と見なすかもしれない、あるいは、『おそらく、何か言おうとしたのであろうが、どんなにあせってみたところで、……やはり「告白」なんかできなかったのだ』と、そう言うかもしれない。私はそれを危ぶんでいる。しかし、そうはいっても、私はこう付け加えておこう、すなわちあらゆる天才的な思想、もしくは新しい人間的な思想、ないしは、ただ単に何びとかの脳裡に生じたあらゆるまじめな思想の中にさえも、どうしても他人に伝えることのできないものが何かしら残っていて、たとい多くの書物を書き埋めても、三十五年もかかって、その思想を解説しても、けっして頭蓋のなかから出て行こうとせず、永劫に自身の内部にふみとどまっているような何物かが残っている。そのために、人々はおそらく自己の思想のうち最も重要なものを、何びとにも伝えずして、あの世の人となってしまう。ところで、私がまた同様に、六か月の間私を悩ませたいっさいのものを伝えることができなかったら、私はあの『最後の信念』を獲得したとはいえ、あまりにも高い値をそれに支払ったと考えられるであろう。実に私はこのことをこそ『告白』の中で、ある目的のために、ぜひとも明らかにしておく必要があると考えていたのである。
「それにしても、なお先を続けることにしよう。
 
(つづく) 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 

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