白痴(第三編)ドストエフスキー

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  第三編

      七

「私は小さなポケット用のピストルを持っている。これはまだ私が子供のころに買い入れたもので、決闘だとか強盗の襲撃だとか、どういう風にして決闘の申込みをうけ、どんなに潔くピストルの的になるべきかというような話が、急に好きになってくる、笑止千万な年ごろのことであった。ひと月ほど前に私はこれをあらためて、もしもの時の用意をしておいた。今までしまってあった箱の中を捜したら、二発の弾丸たまがあり、薬筒には、三発分の火薬があった。このピストルたるや、実にやくざなしろもので、側のほうへそれてしまうので、せいぜい十五歩くらいの間でしかあたらなかった。といっても、これは言うまでもないことではあるが、こめかみへぴったりと当てて射てば、頭蓋骨をへし曲げるくらいのことはできるのであった。
「私は日の出るころに、パヴロフスクで死のうと覚悟を決めた。しかも別荘の誰にも心配をかけないように、ひとり公園へ行って死のうとしたのである。私の『告白』は警察に対して、事件の顛末てんまつを十分に説明するに足るであろう、心理学に興味を寄せている人や、そのほか必要のあるかたがたは、この『告白』からなんとでも、都合のいいように、結論を下されるがよろしい。それにしても、私はこの原稿が公けにされないようにと念じている。なるべく公爵に写しの一部を手もとに保存し、さらに一部をアグラーヤ・エパンチナに渡していただきたいと思う。これが私の本懐である。ここに遺言して、私の遺骨は学術研究の資料として、医科大学へ寄付することにしよう。
「私は私を裁こうとする人を認めない。私は今、あらゆる法権の外に立っていることを知っている。ついさきごろ、こんなことを予想して吹き出してしまった。もしも今、急に私が手当たり次第に、一度に十人くらいの人を殺すとか、この世の中でとにかく最も恐ろしいことと考えられている何か最もすさまじいことをしてみようと考えついたら、余命わずか二、三週間にして、拷問も折檻せっかんも何の役にも立たない私の前に立つ裁判官はいかなる苦境に陥るであろうかと。私は注意深い医者がついていて、おそらくは自分の家よりもはるかに居心地がよく温かいおかみの、病院で、温まりながら、眠るがごとき往生を遂げるであろう。私と同じ境遇にいる人々に、たといほんの冗談にもせよ、これしきの考えが、どうして念頭に浮かばないのか、私には呑み込めない。もっとも、ことによったら、浮かんでいるのかもしれない。この国には、そのくらいのことを考える陽気な連中が、ざらにいるのである。
「しかし、私がいくら私に対する裁判を認めないとはいっても、すでに、耳も聞こえず、口もきけないような被告になりながらも、裁判をされるくらいのことは、やはり承知している。私は答弁のことばを、——強制されたのではない自由なことばを残さずに、この世を去って行くに忍びない。それもけっして、弁解のために言おうというのではない。ああ、そうだとも! 誰にあやまることもなく、あやまるべきいわれもない。ただ自分でそうしたいから言うだけのことなんだ。
「ここに、まず第一に奇怪な観念がある。というのは、せいぜい二、三週間くらいの寿命しかない私の権利を、無効ならしめようなどという了簡を、いったい、誰が、いかなる権利をたてにとって、いかなる動機によって起こしたのであろう? 今ごろ、裁判なんかというものに、何の用事があるものか? 私が単に宣告を受けるばかりではなしにおとなしく刑期を耐え忍ぶということが、いったい、誰様のためになるのだ? 実際に、誰かにとって必要だというのか? 道徳のためにでもなるというのか? もしも私があふれるような健康と力とをもちながら、『隣人、およびその他の者に対して有用の材となりうべき』自身の命をそこねるのであったら、私が勝手に自分の命を持ち扱ったとか、あるいはおきまりのいわくをつけて道徳のとがめを受けもするだろうことは、よくわかっている。ところが、今は、すでに刑の期間までも宣告されている今はどうなるのだ? いったい、道徳というものは、生命いのちばかりではなしに公爵の慰めのことばに耳を傾けながら、この世の命の最後の原子アトムに別れを告げるときに発する臨終のひと息までも必要とするものなのか? ときに、あの公爵は必ずやキリスト教的論拠に立って、——実際、あんたの死ぬのは何よりも結構なことだというようなはなはだおめでたい思想に到達するにきまっているのだ(彼のごときキリスト教徒は、常にこの観念に到達する。これが彼らの奥の手なのである)。彼らはあの笑止な『パヴロフスクの木立』を種に、いったいどうしようというつもりなのか? 私の生涯の最後の何時間かを和らげようというのか? あの連中は生と愛との最後の幻影によって、あの『マイエルの家の壁』や、淡白に、無邪気に書きつけてあるその上のあらゆる文字をすっかり私の眼から隠してしまおうとしているけれど、私は夢中になればなるほど、私がわれを忘れれば忘れるほど、ますます彼らは私を不幸にするのだということが、はたして、あの人たちには悟れないのか? 君たちの自然、君たちのパヴロフスクの公園、君たちの日の出、日の入り、君たちの青空、君たちの満ち足れる顔も、——今や果てしない饗宴が、ただひとりの私をよけい者と数えて、それを皮切りにいよいよ始まっているとき、——いったい、この私にとって何になるのか? いま私のそばで日の光を浴びながらうなっているいとささやかな一匹の蠅さえも、この饗宴と合唱コーラスに加わり、みずからの所を心得て、これを愛し、幸福に浸っているのに、この私ひとりだけが見すてられているのだと、何もかも美しい中にあって、一分一秒ごとに、むりやりにでも感じなければならないのだ。今までは狭い了簡のために、このことを悟ろうとしなかったまでなのだ! ああ、私は知っている、公爵はじめその他あらゆる人たちは、私をこのような『狡猾な、意地の悪い』ことを言う代わりに、お行儀よく、道徳の勝利のために、有名なミルヴァの古典詩〔この詩は事実においては、ギルバートの作詩であった〕の一節を朗吟するくらいに、しむけてやろうと考えていたらしいことは、よく自分も承知している。

 
Ah,puissent votre longtemps votre deaute sacree
Tant d’amis sourds a mes adieux!
Qu’ls meurent pleins de jours, que leur mort soit pleuree,
Qu’un ami leur ferme les yeux!

(大意)ああ、わが別れのことばに、心をとめぬあまたの友も、なれがとうとき美を末ながく心にとめて、光につつまれ、人々の涙のうちにこの世を去りて、友ありてかたきまぶたをとざさんことを。
 

「だが、信じてくれ、心から信じてくれ、世のおめでたい人々よ、このお行儀のいい詩の中にも、このフランスの詩のアカデミックなこの世を祝福することばの中にさえも、韻律いんりつの中でせめてもの気晴らしをするような、あきらめきれない執念と、奥深い憤懣ふんまんの情とが潜んでいることを。また詩人みずからさえも、おそらくは窮境に陥って、この恨みを感激の涙と思い違えたまま、死んで行ったに相違ないのだ。まことにおめでたい大往生ではある! また、こんなことも申し上げたい、人間のはかなさ、頼りなさの自覚のうちにも、それから先へはもう踏み出すことができず、踏み出した時には人間が自己の醜態の中に、大いなる歓びを感じ始めるというような一定の限界があることを。……さて、もちろん、この意味においてあきらめなるものが偉大なる力となるのだ、これは私も肯定する、——もっとも、宗教があきらめを力と見なすのとは、意味が違うけれど。
「宗教! 私は永生を認めている、おそらく、今までも常に認めてはきたかもしれぬ。至高の神の意志によって、自覚が焼きつくされようとも、この自覚が世界をふり返って、『われ有り!』と言おうとも、また至高の神によって、これこれの目的があるからと言い、——それどころか目的も説明しないで、ただ必要があるからと言って、死んでしまえと命令されてもいっこうかまわない、そんなことは何もかも平気である。しかし、それにしても、『だからといって、何のためにおれのあきらめが必要なのだ?』という相変わらずの疑問がやはり残る。私を食った者に対して、讃辞をささげることなどを私に要求しないで、あっさりと食ってくれないものかしら? この二週間を私がおとなしく待とうとしないからといって、はたして事実において、誰か腹を立てる人があるのだろうか? そんなことは信ずるわけにはいかない。それよりも、こう想像したほうがはるかにもっともらしい。つまり、ただ何かしら全体としての宇宙の調和のためとか、プラスやマイナスとかいうようなもののためとか、あるいは何かの対照とか、かようなもののために、取るにも足らぬ私の生命が、原子の生命が必要なのであろうと。それはちょうど、数百万の生物の命が、それ以外のものの世界を維持するために、毎日のように犠牲に供されるのと、同じわけであろう(もっとも、この思想がそれ自身として、それほど立派なものでないことを指摘しておかなければならぬ)。ところで、そうなってもかまわない! こうしなければ、すなわち、絶え間なく互いの肉を食いあわなければ、世の中を組織だててゆくことはどうしてもできないのだ、——ということには、私も同意している。のみならず、この組織について、自分に何もわからないと言われても、別に私は異存はない。けれども、その代わりに、次のことはしっかりと承知している。つまり、もしも『われは有り』という自覚を与えられたものとすれば、世の中が幾多の誤謬ごびゅうをもって組織されていて、そうでなければ世の中というものがどうしても立っていけないのだとしても、そんなことはもう私には知ったことではないのである。まずそういった次第なのだから、誰にもせよ、私をかれこれと批判する筋合いはないのである。なんと言おうとも、そんなことは不可能なことであり、不公平な話である。
「それにしても、私は一生懸命に念じてさえもいるのに、来世というものも、神というものもないのだとは、どうしても想像することができなかった。最も正確な言い方をすれば、来世も神の摂理もあるにはあるのだが、われわれは来世についても、その法則についても少しも悟るところがないのだということになる。もしも、これを悟ることが非常に困難な、むしろ全く不可能なことでさえもあるならば、私がその不可解なことを会得しえなかったからといって、はたしてそこに何の責任を負う必要があるのか? 彼らが、いうまでもなく公爵もその一人として、——かような場合には服従が必要なのである、なんのかのと理屈を言わないで、ただおとなしく服従しなければならない、従順であればそれは必ずあの世で報いられる、——と彼らが私に言うことはなんの間違いもない。われわれは、自分たちが神を理解しえない腹立ちまぎれに、自分たちの概念を神に押しつけて神をあまりにもつまらない者にしすぎている。が、なんといっても、やはり、神を理解できないとすれば、人間に理解することを許されないということに対して、くり返すようではあるが、責任を持つことは困難なわざである。もしも、事情かくのごとくであれば、私が神の真の意志と法則とを理解することができないからといって、私を批判することなどは、できようはずがないのである。いやいや、もう宗教談のことはこれくらいでよすことにしよう。
「ああ、もうたくさんだ。私がこの辺まで読んでくるうちには、必ず太陽が昇って、『空に鳴り始め』、大きな量り知られぬ力が宇宙にみなぎり渡ることであろう、それもよい! 私はこの力と生の泉を目のあたり眺めながら、この世を去るのだ、この命は欲しくはない! もしも、私が生まれないだけの権力を持っていたなら、必ずや、こんな人をばかにしたような条件によって、存在をがえんずるようなこともなかったはずである。しかし、私はもう寿命がきまっているにしても、なお死ぬだけの権力はもっているのだ。権力は大きくはない。したがって、また叛逆も大きくはない。
「さて、いよいよ最後に告白をしておきたい、すなわち、私が死のうとするのは、けっしてこの三週間を耐え忍ぶ力がないからではないのである。おお、私は十分の力をもっている。もしも、その気にさえなれば、自分の受けた侮辱の自覚にだけでも十分に慰めを得たことであろう。しかし、私はフランスの詩人でないので、かような慰めはほしくはない。ついにまた、誘惑がやって来た。自然は例の三週間の宣告によって、はなはだしく私の行為を制限してしまったので、もうおそらくは、私が自分自身の意志のみによって終始一貫しうる唯一の業といえば、ただ自殺あるのみであろう。さてさて、私は自分の仕事の最後可能性を利用しようとしているのかもしれない。反抗も時としては、ただごとではなくなる……」

『告白』はここに至って終わりを告げた。イッポリットはついに口をつぐんだ。
 これは極端な場合のことではあるが、神経質な人間が激昂してわれを忘れて、もはや何人びとをも恐れず、いかなる醜態をも演じかねない状態に陥り、それをするのが、かえって気持よくさえもなって、他の人々にとびかかって行き、しかもその際に、はっきりしたものはないが、堅固な目的を、つまり、醜態を演じたらすぐに、高い鐘楼の上から飛びおりて、もしも何か困るようなことが起こったら、一挙に死をもって解決してしまおうというくらいのつもりになるときは、皮肉シニカルな露骨さが極端にあらわれる。たいていは、しだいに募ってくる肉体力の衰弱がかような状態の徴候となる。今までイッポリットをささえていた異常な、ほとんど不自然ともいうべき緊張はついにこの極端に達した。見たところでは病気にやせ衰えたこの十八の少年は、樹の枝から離れて震えている一枚の木の葉のように弱々しく見えたが、一時間も読み続けてから、はじめて聞いている人たちのほうをちらりと見渡したかと思うと、——たちまちにして、非常に高慢な、人を軽蔑するような、腹立たしげな嫌悪の表情が、その眸にもそのほほえみにも浮かんできた。彼は急いで、挑戦しようとした。しかし、聴衆は全く憤慨しきっていた。誰もが、がやがやと、気を悪くして、テーブルのところから立ち上がった。疲労と酒と緊張とが、その場のだらしなさと、もしそんなことが言えるならば、印象の汚らわしさともいうべきものをいっそうはなはだしいものにした。
 不意にイッポリットははじかれたかのようにいきなり椅子から飛び上がった。
「陽が昇った!」と、輝きそめた樹々の梢を眼にとめて、彼はまるで奇跡か何かのように、公爵に向かってそのほうを指しながら大声をあげた、「昇った!」
「いったい、君は昇らないとでも思ってたんですか、え?」とフェルデシチェンコが口を出した。
「また一日、暑くなるんだ」とガーニャは帽子を手に、伸びをして、あくびをしながら、気のない、いまいましそうな調子でつぶやいた、「こんなにひと月も、照りが続いちゃたまらん!……プチーツィン、出かけようか、どうだえ?」
 イッポリットは棒立ちになるほど驚いて、聞き耳を立てていたが、ふっと、恐ろしいくらいになって、からだじゅうぶるぶると震えだした。
「あなたは僕をはずかしめようとして、平気を装ってなさるけれど、実にぎごちないですね」と彼はガーニャの顔をじっと見据えながら、ことばをかけた、「あなたはごろつきです!」
「ふむ、なんてえ体たらくだ!」とフェルデシチェンコがわめきだした、「なんてえそのざまはいくじなしなんだろう!」
「なあに、ただばかなのさ」とガーニャが言う。
 イッポリットはいくらか、きりっとした。
「皆さん」と、彼は相変わらず、ぶるぶると震えながら、ひと言ひと言に声をとぎらしながら言いだした、「あなたがたから、個人としての恨みを買ったことは、よく私も承知しています。そして、……この寝言をお耳に入れて、あなたがたを退屈させたのを残念に思っています(と彼は原稿を指さした)、それにしても、ちょっともその効きめがなかったのが残念でなりません……(と彼はばかのような薄ら笑いをした)。効いたでしょうかね、エヴゲニイさん?」だしぬけに彼は一転して、こんな質問を発した。「効いたか効かないか? 言ってみてください!」
「少し長ったらしかったですね、でも、……」
「すっかり言ってください! せめて一生に一度だけでも嘘を言わないことにして!」イッポリットは身を震わせて、こう命令した。
「おお、僕はそんなことはどうだってかまわないんです、お願いですから、そっとしといてください」とエヴゲニイは気むずかしそうに傍を向いてしまった。
「じゃ、おやすみなさい、公爵」とプチーツィンが公爵に近づいた。
「まあ、今にもこの人がピストル自殺をしようっていうのに、いったい、あなたがたはなんです! ちょっとあの人を見てごらんなさい!」叫んで、ヴェーラは驚愕に色を失いながらイッポリットのほうへ飛んで行って、その手を押さえさえもした、「だって、この人は日の出といっしょに自殺をするって、そう言ったじゃありませんか。それだのに、まあ、いったい、あなたがたは!」
「自殺なんかしないよ!」と、幾人かの人の声が、表向きは事もなげにつぶやいたが、そのなかにはガーニャも加わっていた。
「皆さん、気をつけてください!」と、やはりイッポリットの手を押さえて、コォリャが叫んだ。「まあ、ちょっとこの人見てごらんなさい? 公爵! 公爵! あなたはいったいどうしたんです!」
 イッポリットのまわりにはヴェーラ、コォリャ、ケルレル、ブルドフスキイが集まった。合わせて四人の者が彼の手をつかまえた。
「この人は権利を持っている……権利を……」とブルドフスキイは口の中で言ったが、自分もやはり、全く途方に暮れているらしかった。
「失礼ですが、公爵、あなたはどういう処置をおとりになるんです?」とレーベジェフは公爵の傍へ近寄って来たが、酔っ払って、あまりにも激昂していて、無礼なくらいであった。
「どういう処置って?」
「いやはや、失礼ですけれども、わたしはここの主人なんでございますよ、……けっして、あなた様に敬意を払うのをずるけてるわけではございませんが、……まあ、かりにあなた様がここの主人だとしましても、自分の持ち家でこんなことになるなあ、いやでしてね、……私は……」
「自殺なんかしやしないよ、小僧っ子が甘いまねをしてるだけなんだ!」と、イヴォルギン将軍がいきなり、慨嘆にたえぬというように、しかも泰然自若として叫ぶのであった。
「ようよう、将軍様!」とフェルデシチェンコが賞めはやした。
「承知していますよ、自殺しないってことは、ねえ、将軍、でも、やはり……なにしろここのあるじなもんですから」
「ちょっと、チェレンチェフ君」と、プチーツィンは公爵にいとまを告げてから、イッポリットに手を差し伸べながら、言いだした、「君はその手帳のなかで、御自分の遺骨のことを言ってたようですね、大学へ寄付しようっていうんですね? あれは君の遺骨のことでしょう、御自分の、つまり、君のおこつを寄付するっていうんでしょう?」
「そうです、僕の骨です……」
「なるほど。うっかりしてると、間違う気づかいがあるもんですから。すでに、そんな場合があったそうですよ」
「どうしてあなたは、この人をからかうんです?」だしぬけに公爵が叫んだ。
「とうとう泣かせちゃった」とフェルデシチェンコが付け足した。
 しかし、イッポリットはけっして泣いてはいなかった。彼は席を離れようとしていたが、ぐるりにいる四人の人たちが、たちまちいっせいにその手をつかんでしまった。どっと笑う声が聞こえる。
「つまり、手をつかませるようにしむけたんだ。そのために手帳を読んだんだ」とロゴージンが言った、「さようなら、公爵! やれやれ、長居をしてしまって、骨が痛い」
「チェレンチェフ君、君は本当に自殺するつもりだったかもしれんけど」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチは笑いだしてしまった、「僕が君の位置にいてあんなお世辞を言われたら、みんなをからってやるために、わざと自殺しないでしまうんだが」
「あの連中は、僕が自殺するのを見たくて見たくてしようがないんだ!」と、イッポリットは彼に食ってかかった。
 彼はまるで飛びかかるような調子で物を言った。
「見られないもんだから、口惜しがってるんだ」
「それじゃ、あんたは見られないと思ってるんですか?」
「僕はけっして君をおだててるわけじゃありませんよ、それどころか、僕は君が自殺されるくらいのことは大ありだろうと思ってるんですよ。だが、まあ、怒らんことが肝心ですよ……」エヴゲニイはかばうような口調で、だらだらと言っていた。
「僕はやっと今になってわかった。この連中に原稿を読んで聞かせたのは、とんでもない間違いだった」と、イッポリットはまるで親友に向かって友情のこもった助言を求めるかのように、急に信頼に満ちた面持ちで、エヴゲニイのほうをながめながら、もらすのであった。
「君もずいぶんばからしい立場だけれど、しかし、……実際、どんな助言をしたらいいか、わかりませんね」エヴゲニイはほほえみながら答えた。
 イッポリットはじっと眼をらして、相手をにらんだまま、ひと言も言わなかった。時おりは、全く意識を失ったかとも思われるくらいであった。
「いや、失礼でござんすけれど、いったい、なんていうしぐさでござんしょう」とレーベジェフが言いだした、「『誰にも心配をかけないように、ひとり公園へ行って死のう』だなんて! 梯子段から三歩も下へおりて、庭へ出れば、もう誰にも心配をかけないなんて、そんな了簡でいるんですからね」
「皆さん……」と公爵が言いかけた。
「いや、失礼ではござんすけれど、公爵様」とレーベジェフはいきり立って、さえぎった、「あなたも御自分でごらんのとおり、これはけっして冗談じゃございませんし、少なくとも、お客様の半数は、わたくしと同意見で、たしかにそう思っていらっしゃることと存じますが、今ここで、こんなことを言ったからには、必ず、男を立てて自殺しなくちゃなりません。そういうことが皆さんおわかりだとすれば、わたしはここのあるじとして、あなた様に加勢をしていただきたいということを、証人のいる前で、はっきりと申し上げたいんでございます!」
「何をしたらいいんですか、レーベジェフさん? 加勢なら喜んでいたしましょう」
「それは、こうでございますよ。第一にですね、あの人が私たちの前で御自慢なすったピストルを、付属品ぐるみ、さっそく渡してもらいたいのです。もし、引き渡してくれれば、病態に免じて今晩はこの家へ泊らせるのに異存はありません。もっとも、いうまでもなく、わたしのほうから監視をおくということにしましてですね。でも、明日になったら、ぜひとも、どこへなりと勝手に出て行ってもらいます。ぶしつけなことを申しまして相済みませんね、公爵! もしかして、火道具を渡してくれなかったら、さっそく、わたしはあの人の手を取って、わたしが片手を、将軍が片手を取って、じきに警察へ使いをやって知らしてやります。そうすれば、もうこの事件は警察の調べに移るんでございますから。フェルデシチェンコ、君は友だちのよしみで、行って来てくれるでございましょう」
 騒ぎが持ちあがった。レーベジェフは熱くなって、無遠慮になっていた。フェルデシチェンコは警察へ行くしたくをし、ガーニャは猛烈に、誰も自殺をする者なんかいやしないと主張してやまなかった。エヴゲニイは黙っていた。
「公爵、いつかあなた鐘楼から飛びおりたことがありますか?」と、だしぬけにイッポリットがささやいた。
「い、いいえ……」公爵は無邪気にこう答えた。
「あなたは僕がこんなに皆から憎まれるってことを、前に気がつかずにいたと思いますか!」眼を輝かして、公爵を見つめながら、イッポリットはまたもやささやいたが、実際に相手の返答を待ちうけているらしかった、「たくさんです!」と、いきなり彼は一座の者に向かってわめき立てた、「僕が悪かったんです、……誰よりも! レーベジェフさん、ここに鍵があります(と彼は財布を取り出して、その中から三つ四つ小さな鍵のついた鋼鉄の環を引き出した)。この最後から二番目の……そう、コォリャが教えてくれますよ……コォリャ! コォリャはどこに?」コォリャを見ていながら、彼にはそれがわからずに、叫ぶのであった、「そう……あれに教えてもらってください。さっき、僕といっしょにサックをかたづけたんですから。コォリャ、案内してあげて。公爵の書斎のテーブルの下に、……僕のサックがある……この鍵であけて、……その下の箱の中にピストルと火薬筒がある。レーベジェフさん、さっきこの子が自分でかたづけたんですから、この子が教えてくれるはずです。でも、僕が明日の朝早くペテルブルグへ行く時は、ピストルをまた返してくださるという条件つきですよ、いいですか? こんなことを僕がするのも公爵のためで、あなたのためじゃありません」
「いかにも、そのほうがいい!」とレーベジェフは鍵を引っつかんで、毒々しい薄ら笑いを浮かべながら、隣りの部屋へ走って行った。
 コォリャは立ち止まって、何かしら言いたげであったが、レーベジェフはどんどん、引っぱって行った。
 イッポリットは笑っているお客たちを見まわした。公爵は彼の歯が、あたかも強烈な悪寒におそわれているかのように、がたがたと音を立てているのに気をとめた。
「あの連中はなんていうごろつきなんでしょう!」と、イッポリットはまたしても憤激して、公爵にささやいた。彼は公爵と口をきくとき、いつもかがみかかって、ささやくのであった。
「あんな人たちは放っときなさい。君は非常に弱ってるんだから……」
「すぐに、すぐに……すぐに、出て行きます、僕は」
 いきなり彼は公爵を抱きしめた。
「あなたはたぶん、僕を気ちがいだと思ってなさるでしょうね?」と、彼は妙な笑い方をして、相手の顔を眺めた。
「とんでもない、……しかし、君は……」
「すぐに、すぐに、黙っていてください。もうなんにも言わないでください。じっと立っててください、……僕はあなたの眼を見たいんです、……そのとおり立っててください、僕は見るんですから。僕は人に別れるんです」
 彼はじっと立って、身じろぎもせずに公爵を見つめていた、口をつぐんで十秒間も。汗のためにこめかみの毛は乱れ、顔は青ざめて逃げられては大変だとでもいうように、なんとなく妙な格好をして、公爵をつかまえていた。
「イッポリット、イッポリット、どうしたの、君は?」と公爵は叫んだ。
「すぐに、……もうたくさん……僕は寝みます。太陽の健康を祝してほんの一口、飲もう……飲みたいんです、飲みたいんです、放してください!」
 彼は手早く椅子の上のコップを取って、勢いすさまじく席から飛び上がって、またたくうちに露台テラスの降り口へ近づいた。公爵はあとを追いかけようとしたが、あいにく、わざと仕組んだかのように、ちょうどこのときエヴゲニイがいとまごいをしながら、公爵のほうへ手を差し出した。ほんの一秒たったと思うと、だしぬけに露台でみんなの叫ぶ声が聞こえた。それに続いて極度の狼狽ろうばいの一分間がやって来た。
 事の成りゆきはこうであった。
 露台の降り口へ近づくと、イッポリットは左の手にコップを持ったまま、立ち止まって、右の手を外套の右ポケットへ突きこんだ。あとでケルレルの保証するところによると、イッポリットはまだ公爵と話しているときから、ずっと右手をこのポケットへ入れたままで、左の手で公爵の肩や襟をおさえていたという。また、このポケットへ入れたままの右手は、彼の心に最初に不審の念というようなものを起こしたと、こうもケルレルは断言するのであった。そこにどんなことがあったにしても、ある種の不安にかられて、彼はイッポリットのあとを追い駆けて行ったのである。しかし、もうすでに時はおそかった。彼はただ、不意にイッポリットの右手に、何かがひらめいたのを見たばかりであった。その刹那に、小さな懐中用のピストルは、彼のこめかみにぴったりと押し当てられていた。ケルレルは彼の手をおさえようとして飛びついたが、その瞬間にイッポリットは引き金を引いた。鋭い、乾いたような引き金の音が聞こえたが、続いて発射の音は聞こえなかった。ケルレルが抱きとめたとき、イッポリットは気を失ったかのように、その手に倒れかかった。おそらく、実際に自分は死んだものとばかり思い込んでいたのであろう。ピストルはもうケルレルの手にあった。あたりにいた人はイッポリットをつかまえて椅子を差し出し、その上に腰をかけさせた。一同はそのまわりに寄って来て、大きな声でわめきながら、どんなになったのかと聞いていた。引き金の「かち」という音は聞こえたが、見れば、当人は生きているばかりか、かすり傷さえも負っていないのであった。イッポリット自身はどんなことになるのかわからないで、ぼんやりと腰をかけたまま、ぼんやりした眸を一同のうえに投げて行った。このときレーベジェフとコォリャが駆け込んで来た。
「不発だったのかしら?」と周囲の者が尋ねた。
「ひょっとすると、装填そうてんしてなかったのかもしれない」と臆測する者もあった。
「装填してある!」と、ケルレルがピストルをあらためながら叫んだ、「しかし……」
「いったい不発だったんですか?」
「まるで雷管がないんです」とケルレルが叫んだ。
 これに次ぐ哀れな場面は、物語るのさえも容易ならぬものであった。最初の一同の驚きは、たちまちに笑いと変わってきた。なかにはこの出来事に意地の悪い歓びを見いだして、声を立てて笑いだしたりした者すらあった。イッポリットはしゃくでもおこしているかのように、すすり泣きしながら、自分の手を固く握りしめて、誰彼の差別なしに飛びついた。フェルデシチェンコにさえも飛びついて、両手で彼をおさえながら、雷管を入れ忘れたこと、「ついうっかりしていたので、わざと忘れたわけではなく、雷管はすっかりこのチョッキのポケットの中にある、十ばかりある」と誓うのであった(彼はあたりの人にそれを出して見せた)。また、彼が初めから入れなかったのは、ポケットの中で発射しては困ると思ったからで、必要のある時には、いつでも間に合わすことができると考えていたのに、ふっと忘れてしまったのだとも言っていた。彼は、公爵やエヴゲニイに食ってかかったり、ケルレルに泣きついたりして、ピストルを返してくれと哀願し、「すぐにでも自分の廉恥れんち心……廉恥心のあることを証明して見せます」と言ったり、「僕はいま永久にはずかしめられた!」と言ったりした。
 とうとう彼は実際に意識を失って倒れてしまった。彼は公爵の書斎へ運ばれて行った。すっかり酔いの覚めてしまったレーベジェフは、すぐに使いを出して医師を迎えにやって、自分は、娘や息子やブルドフスキイや将軍といっしょに、病床に付き添っていた。感じのなくなったイッポリットが運び出されたとき、ケルレルは部屋のまん中にすっくと立ち上がって、ひと言ひと言はっきりと発音しながら、ひどく感激して、誰にも聞こえるような大きな声で叫んだ。
「諸君、もし諸君のうち誰にもせよ、僕のいる前で、もう一度、わざと雷管を忘れたんだとか、不仕合わせな青年が単なる喜劇を演じただけだとか、かりそめにもそんなことを聞こえよがしに言う者があったら、——誰でも僕が相手になります」
 しかし、答える者はなかった。ついにお客たちはあわてて、がやがやと騒ぎながらその場を離れて行った。プチーツィンとガーニャとロゴージンとは連れ立って出て行った。
 公爵はエヴゲニイが予定を変更して、別になんの話もなしに、立ち去ろうとするので、ひどくあきれてしまった。
「あなたはみんなが帰ったあとで、わたしに話したいことがあるって、そうおっしゃったじゃありませんか?」と彼は尋ねた。
「たしかにそのとおりです」と、エヴゲニイは急に椅子に腰をおろして、公爵をわきに坐らせながらこう言った。「でもわたしはひとまず予定を変更することにしました。正直に言いますと、わたしは少しまごつかされたんです。あなたも御同様でしょう? わたしは考えがめちゃくちゃになっちゃったんです。おまけにあなたと御相談したいことは、わたしにとって、大事なことで、これはいやあなたにとっても大事なことです。実はね、公爵、わたしはせめて一生にただ一度なりと、全く潔白な事を、つまり、全く妙な下ごころなしに、やってみたいと思うのですが、さて、今日という今日は、全く潔白な事をする能力を持ち合わしてはいないように思うのです。しかし、あなただって、やはりそうでしょう……そこで、その……いや、またあとで御相談しましょう。今度わたしは、三日ばかりペテルブルグへ行って来ますが、そのあいだ待っていたら、おそらく、問題はお互いにはっきりしてくるだろうと思います」
 と言って、彼はまたもや椅子から立ち上がった。そんなくらいなら初めに何のために腰をかけたのかと不思議なくらいであった。また公爵にはエヴゲニイが不満をもっていらいらしながら、恨めしそうに自分を見ているが、その眼つきはさっきとはまるで違っているのだと、そういう気がするのであった。
「ところで、あなたはいま患者のほうへ?」
「そう……しかし、僕が気づかいなのは……」と公爵は言いだした。
「気にかけることはありませんよ。きっと六週間くらいは生きのびるでしょう、ことによったら、ここですっかりなおってしまうかもわかりませんから。でも、おして、追い出してしまうのが何よりですね」
「たぶん、僕はほんとにあの人を突き出したかもわかりません、なにしろ……僕は何も話さなかったんですからね。ひょっとすると、あの人は自殺をはかったのを僕が疑っているとでも思ってるでしょうよ。あなたどう思いますか、エヴゲニイさん?」
「けっしてけっして。あなたまだそんなことで気苦労するなんて、あんまりお人好しすぎますよ。よく人に賞めてもらいたいためだとか、また賞めてもらえなかった恨みとかで、わざと自殺する人があるって話は聞いてましたが、今までに本当に見たことはなかったのです。しかし、何よりも本当にすることのできないのは、あの弱気の見本ですね! が、とにかく明日はあれを追い出してしまいなさい」
「あなたはもう一度、あの人が自殺すると思いますか?」
「いいえ、今度はもうやりませんよ。でも、わが国のあんなぶざまなラセネールにはお気をつけなさいよ。もう一度言うようですが、あんな天分のない、気短かな、そして欲の深いやくざ者にとって、犯罪というやつはあまりにもありふれた逃げ道なんですからね」
「あれはいったい、ラセネールでしょうか?」
「やり口はいろいろあるでしょうけれど、本質もとは同じですね。見てらっしゃい、さっきあの人が自分から『告白』の中で言ってましたが、ちょうどそのとおりに、ただ男一匹の慰みのために、十人の人を殺す腕前があるかどうか。僕はあんなことを聞いたので、寝られそうもありません」
「あなたは、気をつかいすぎるようですね」
「公爵、あなたは実に見上げたものですね。あなたは、今あの人が十人もの人を殺す腕前があると、そうは思いませんか?」
「あなたに返事するのはこわいですね、僕は。これはみんな妙ですけれど、でも……」
「まあ、お好きなように、お好きなように!」と、エヴゲニイはいらだたしげにことばを結んだ。「おまけにあなたはそんなに勇敢な人なんですからね。でも、御自分でその十人の数へはいらないでくださいよ」
「でも、あの人はたいてい人殺しなんかしないでしょうよ」と、物思わしげにエヴゲニイを見つめながら、公爵が言った。すると、相手は、意地悪そうに笑いだした。
「じゃ失礼、だいぶおそいですから! ところで、あなたは気がつきましたか、あれがあの告白の写しを、一つをアグラーヤさんにと遺言したのを?」
「え、気がつきました。そして……そのことを考えているところです」
「なるほど、十人殺しのときは……」とエヴゲニイはまたもや笑いだして、外へ出て行った。
 一時間ののち、もう三時過ぎにもなっているのに、公爵は公園へおりて行った。彼はうちでやすもうとしたが、心臓の動悸がはげしくて、だめであった。それにしても、家の中はすっかりかたづけられて、できるだけ静かにされていた。病人は眠り込んで、往診に来た医師は、特にこれというほどの危険はないと言った。レーベジェフとコォリャとブルドフスキイは交代に宿直をすることになって、病人の部屋で横になった。したがって、今は何も心配するものはなくなっていた。
 しかし、公爵の不安は一刻一刻と募るばかりであった。彼はぼんやりと、あたりを見まわしながら、公園をぶらついていたが、ふと驚いて立ち止まった。いつの間にか停車場の前の広場のところまでやって来て、人のいないベンチの列や、オーケストラの楽譜台の列を眼にとめたからであった。ここへ来ると恐怖を覚えて、なぜかしら、彼にはおそろしく醜い場所のように思われた。そこで、彼はきびすを返して、ひたすら昨日、エパンチン家の人たちといっしょに、停車場へ行ったときと同じ道をたどって、あいびきに指定された緑色のベンチに近づいて、どっかと腰をおろし、いきなり彼は大きな声を立てて笑いだしたが、すぐにそのことによって極度の嫌悪の情を感ずるのであった。わびしさはいつまでも続いていた。彼はどこかへ行ってしまいたかった……しかし、どこへ行っていいのやら、自分でもわからなかった。ま上の一もとの樹に、小鳥が鳴いていた。彼は葉がくれに眸を移して、小鳥を捜し始めた。と、不意に小鳥が樹から飛び立った。その瞬間に、どうしたわけか彼の胸にはイッポリットの書いた『熱い日の光を浴びている一匹の蠅』、『この蠅すらも宇宙の饗宴に加わり、みずからの所を心得ているのに、この私ひとり見すてられているのだ』ということばが浮かんできた。その一句はさっきも彼の胸を打ったが、今もこのことが思い返されるのであった。とうの昔に忘れ果てた一つの思い出が、彼の胸のなかにうごめきだして、たちまちにして、一時に、はっきりしたものとなってきた。
 それはスイスへ行って治療をうけていた最初の一年、というよりも、最初の三、四か月の間のことであった。そのころ、彼はまだ全く白痴も同然で、一人前に話をすることさえもできず、ときには、人に要求されることすらも呑みこめないことがあった。ある時のこと、よく晴れた麗らかな日に山に登って、いい知れぬ悩みをいだきながらしばらくあちらこちらをさまよっていた。前には輝かしい青空があって、見おろせば、湖水あり、周囲には、きわまるところもない、明るい、果てしのない地平線が見えていた。長いこと彼はこの景色に見とれながら、苦痛を感じた。この明るい、果てしのない青空に自分が手をさしのべていたことを思い出して、彼は男泣きに泣くのであった。彼を悩ましたのは、これらすべてのものに対して、自分はなんの縁もゆかりもない、という気持であった。昔から、まだ子供の時分から、いつも心をひきよせられて、しかも、彼にはどうしても加わることのできない、この果てしのない不断の大祭、大饗宴は、いったい、なんだというのか? 朝な朝な、同じような輝かしい太陽が昇り、朝ごとに、滝の上には虹がかかり、夕べとなれば、遠いあなたの空の果てに、雪におおわれた、いと高い山が、紫の炎のように燃えあがる。『いま私のそばで、熱い日の光を浴びているいとささやかな一匹の蠅さえも、宇宙の合唱コーラスに加わり、みずからの所を心得て、これを愛し、幸福に浸っている』のだ。草という草は生い立ち、めぐまれている! あらゆるものに自分の道があり、あらゆるものが行くべき道を知っている。歌とともに遠ざかり、歌とともにやって来る。ただひとり自分だけが何一つ知るところなく、何一つ悟ることなく、人を知らず、音をも悟らず、あらゆるものに縁もゆかりもなく、のけものとなっているのだ。ああ、彼はもとより、この時にかようなことばをもって、みずからの疑惑をあらわすことはできなかった。彼は声もなく、おしのように悩むばかりであった。しかも、今になって、彼にはそのころの自分がこうしたことを何もかも、このようなことばで述べたような気がするのであった。また、あの『蠅』のことも、イッポリットが、そのころの彼自身のことばと涙のなかから、取って来たかのように思われた。彼はたしかにそうだと思い込んでいたが、このことを思うと、何がなし動悸がはげしくなってきた。……
 彼はベンチの上で眠りにおちたが、不安の念は夢のなかでも、相変わらず続いていた。眠る前にイッポリットが十人を殺すということを思い出して、この臆測のばかげているのに苦笑をもらした。あたりには快い、さわやかな静寂がみなぎって、ただ木の葉の触れ合う音が聞こえるばかりで、そのためにあたりがいっそう静かに、もの寂しくなるような気がした。彼はかなりに多くの夢を見た。どれもこれも不安に満たされていたので、絶えず彼は身を震わせていた。やがて、一人の女が彼のところへやって来た。彼は彼女を知っていた、悩ましいほどよく知っていた。いつもその名を覚えていて、どこで会っても見分けがつくほどであった。——ところが、不思議なことに、——今のこの顔は、いつもの見覚えのある顔とはなんだかまるで違うような気がして、彼にはたしかに人の顔だと認めるのが、苦痛なほど気が進まなかった。この顔には悔悟と恐怖の色があふれて、たったいま恐るべき罪を犯した大罪人ではないかと思われるくらいであった。涙は青ざめた頬に震えていた。彼女は公爵を手招きして、あとからできるだけ静かについて来るようにといましめるかのように、唇に指を当てて見せた。彼の心臓は氷のようになった。たといいかなることがあろうとも、この女を罪人だと見なす気にはなれなかった。しかも、すぐに何かしら、自分の一生涯にとって恐るべきことが起こって来るような感じにうたれるのであった。女はどうやら、公園の中のほど遠からぬ所にある何かしらを、公爵に見せたがっているらしかった。彼は女のあとについて行こうとして立ち上がった。すると、不意に彼の後ろから誰かの明るい、威勢のよい笑い声が聞こえてきた。誰かの手がだしぬけに彼の手の上にあらわれた。彼はこの手をつかまえて、固く握りしめた、そこで彼は眼がさめた。自分の前にはアグラーヤがたたずんで、声高らかに笑っていたのである。
 
(つづく) 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 

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