白痴(第四編)ドストエフスキー

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  第四編

      十一

 一時間の後には、公爵はもうペテルブルグへ来て、九時過ぎには、ロゴージンの家の入り口でベルを鳴らしていた。彼は表の玄関からはいったのであるが、誰も長いことドアをあけてくれなかった。やがて、ついにロゴージンの老母の住居のドアが開いて、小ぎれいな年増の女中があらわれた。
「パルフェン・セミョーノヴィッチ様はお留守でございます」と彼女はドアの中から知らせた、「どなたに御用で?」
「パルフェン・セミョーノヴィッチさんです」
「お留守でございますよ」
 女中は人慣れぬ物珍しそうな様子で、公爵を眺めた。
「それじゃ、とにかく、教えてくれませんか、昨晩うちでおやすみになったでしょうか? そして……昨日はお一人でお帰りでしたか!」
 女中は相も変わらず相手を見つめながら、返事もしなかった。
「では、あの人といっしょじゃなかったですか、昨日、こちらに……晩方……ナスターシャ・フィリッポヴナさんは?」
「失礼でございますけど、あなたはどなた様でいらっしゃいます?」
「レフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン公爵です、僕らはごく懇意なんでして」
「お留守でございます」
女中は目を伏せた。
「じゃ、ナスターシャ・フィリッポヴナさんは?」
「わたくし、そんなことちょっとも存じませんわ」
「ちょっと待ってください、ちょっと、いつごろ帰りますか?」
「そんなこと、存じませんので」
ドアが閉まった。
 公爵は、もう一時間して来ることに決めた。庭のほうをのぞいたら、門番の姿が見えた。
「パルフェン・セミョーノヴィッチさんはうちかね?」
「はい」
「いったい、どうしていま留守だなんて言ったんだろう?」
「旦那のほうで、そう言いましたか?」
「いや、お母さんのほうの女中だ、パルフェン・セミョーノヴィッチさんのほうで呼び鈴をならしたけど、——誰もあけてくれなかった」
「ひょっとしたら、お出かけかもしれませんよ」と門番は一人で決めた、「だって、出先をおっしゃらないんですからね。どうかすると、鍵まで持って出ておいでになるので、三日も部屋をしめっきりなことがありますよ」
「昨日、家におられたのを、君はたしかに知ってるんだろうね?」
「え、おいででしたよ。時たま、表からおはいりになっても、見かけないこともありますよ」
「ナスターシャ・フィリッポヴナさんは、昨日あの人といっしょじゃなかったろうか?」
「それは存じませんな。あまりしょっちゅうお見えになるわけでもありませんからね。もしお見えになったんならわかりそうなもんですよ」
 公爵は外へ出て、しばらく物思いに沈みながら、鋪道を歩いていた。ロゴージンの住んでいる部屋の窓は、すっかり閉めてあった。老母のいるほうの窓は、ほとんど全部が開いていた。それはよく晴れた暑い日であった。公爵は往来を横切って反対の鋪道に出て、ふと立ち止まって、もう一度、窓を見上げた。窓はすっかり閉まっているばかりか、ほとんどどれもこれも白いカーテンをおろしていた。
 彼は一分間ほど立っていた。と——不思議にも、不意に一つのカーテンの端が持ち上がって、ロゴージンの顔がちらついたような気がした。が、ちらついたと思うと、すぐにまた消えてしまった。彼はほんの少しのあいだ待った後、また出かけて行って、ベルを鳴らしてみようかとも思ったが、また考えなおして、一時間ほど延ばすことにした。『ことによったら、あれはただ虫のせいかもしれないから……』
 こういう気持になったのは主として、ついせんだってまでナスターシャ・フィリッポヴナが間借りをしていた家のあるイズマイロフ連隊跡へ、急いで行ってみる気になったからである。彼女が公爵の頼みによって、三週間まえに、パヴロフスクから、もとの気だてのよい知り合いをたどって、イズマイロフ連隊跡へ移って来たことを、彼は知っていた。知り合いというのはやもめになった教師夫人で、家族もあり、尊敬すべき婦人であったが、立派な道具つきの部屋を貸間にして、ほとんどそれによって暮らしを立てていた。
 ナスターシャ・フィリッポヴナが再びパヴロフスクへ移るとき、下宿を借りたままにして行ったということは、大いにありうべきことである。少なくとも、彼女が——もちろん、昨夜ロゴージンがここへ連れ込んで一夜を明かしたということもありうべきことである。公爵は辻馬車を雇った。彼女が夜まっすぐに、ロゴージンの家へ乗りつけるはずはないから、まずここから取りかかるべきである——と、公爵は行く道すがら、ふと思いついた。『ナスターシャさんはあまりしょっちゅうお見えになるわけでもありません』という門番のことばも、胸に浮かんできた。もし、そんなにしょっちゅうでないとすると、今度のような時に、ロゴージンの家へ泊るいわれはないではないか? こういう気休めにみずからを励ましながら、公爵はついに生きた空もなく、イズマイロフ連隊跡に着いた。
 すっかり驚いたことには、教師夫人のところでは、昨日も今日も、ナスターシャ・フィリッポヴナのことを聞いたこともないと言い、公爵自身の来訪を、まるで奇跡か何かのように迎えた。夫人の家の多人数の家族——いずれも女の子、十五から七つまで、年子としごばかり、——は、母親のあとからぞろぞろと出て来て、口をあけたまま、彼を取り巻いた。そのあとからは、瘠せた黄色い顔の叔母さんが黒い頭巾をかぶって出て来て、最後には、年をとった祖母さんが眼鏡をかけて出て来た。教師夫人が、中へはいって遊んで行くようにと、しきりにすすめるので、公爵もそのとおりにした。
 公爵にはすぐに察しがついた。つまり、この家の人たちに、彼の身分や、きのう結婚式が挙げられたはずだということはよくわかっていて、結婚のことや、今ごろ彼といっしょにパヴロフスクにいるべきはずのナスターシャのことを、かえってこちらから尋ねるという不思議な話をこの人たちは根掘り葉掘り聞きたくてたまらないのに、そんなぶしつけなことのできないデリケートな気持をもっているのだと推察したのである。彼は簡単に、だいたいの筋を物語って、結婚についての一同の好奇心を満足させた。すると、驚愕の声や、嘆息や、叫び声がおこったので、彼はやむを得ず、言い残したほとんど全部のことを、もとより、大まかにではあったが、話してやらなければならなかった。
 ついに、興奮している賢明な婦人たちが相談の結果、まずぜひとも第一にロゴージンの所へ行って、あけてくれるまで戸をたたいて、彼から一部始終をはっきりと聞き取ることが必要だと決まった。もし彼が不在か(これもはっきり突き止めなければならぬ)、あるいは家にいても話してくれる気がなかったら、母親と二人でセミョーノフ連隊跡に暮らしている、ナスターシャ・フィリッポヴナの知り合いのあるドイツ婦人の所へ行ってみること、ことによったら、ナスターシャは興奮に駆られて、身を隠そうとして、この婦人の所に泊まったかもしれないからという話であった。
 公爵は、すっかり途方に暮れて、立ち上がった。ここの女たちは後になってすっかり『まっさおになりました』と言った。事実、彼は足もとがたよりなかった。やっと、彼は、女たちの早口なかん高い声の間から、彼女たちが行動を共にしようと申し合わせて、彼に市内のアドレスを教えてくれるようにというのを聞き分けた。そう言われても、アドレスなどというものがないことがわかった。そこで婦人たちは、どこかの旅館に落ち着くようにとすすめた。公爵はちょっと考えてから、以前の宿屋の番地を教えた。そこは五週間ほど前に発作がおこったところであった。
 やがて彼は、再びロゴージンの家をさして出かけた。ところが、今度はロゴージンのほうのドアをあけてくれなかったばかりでなく、老母のほうのドアさえもあけてはもらえなかった。公爵は門番を捜しに行って、やっと庭で捜しあてた。門番は何か忙しそうにしていて、返事もろくにしてくれず、ふり向いてもくれなかった。しかし、とにもかくにも、パルフェン・セミョーノヴィッチは、『朝早く家を出て、パヴロフスクへ出かけ、今日は家へは帰るまい』とのはっきりしたことを聞くことができた。
「じゃ、お待ちしよう。たぶん、夕方になったら帰るでしょう?」
「ところが、ことによったら、一週間もお帰りにならんかもしれませんよ。なにしろ、あのかたのことですもの」
「してみると、やっぱり昨晩はここでやすんだんだね」
「寝むのは寝んだんですが、……」
 こんなわけで、何もかもが怪しく、気味が悪かった。門番があの合間に、もう新しい命令を受けたということも大いにありうべきことだ。さっきは、おしゃべりなぐらいであったのに、今はただ背を向けているのだ。それにしても、公爵は二時間ばかりしたら、もう一度、来てみて、必要があれば、張り番をしてもいいとまで決したが、まだドイツ婦人のところに一縷いちるの望みが残っているので、セミョーノフ連隊跡へ車を飛ばした。
 ところが、ドイツ婦人はこちらの言うことをわかってもくれなかった。口をすべらした二、三のことばによって、この美しいドイツ婦人が二週間ばかり前に、ナスターシャと喧嘩をしたので、このごろでは彼女の噂など何一つ聞かなくなり、今は一生懸命になって、『たとい、あの女が世界じゅうの公爵をみんなお婿さんに持った』と聞かされてもおもしろくもなんともないという気持を相手に知らせようとしているのだと察しがついた。公爵は大急ぎで出て行った。そのとき、ふっと、——彼女は、ことによったら、またあの時のように、モスクワへ逃げて行って、ロゴージンもむろん、そのあとを追って行ったに相違ない、あるいはいっしょかもしれないという考えが胸にうかんで来た。『せめて、何かの手がかりを見つけたいものだ!』
 それにしても、宿に落ち着かなければならないことを思い出して、彼はリテイナヤ通りへと急いだ。宿ではすぐ部屋をとってくれた。給仕が何か召し上がりますかと聞いたとき、彼はうっかりして、食べたいと答えたが、すぐに気がついて、食事にまたよけいな三十分をかなければならないのだと、ひどく自分で自分に腹を立てた。やっとあとになって、持って来たものを食べないからといって、何も束縛されるわけはないと気がついた。この薄暗く、息苦しい廊下にいると、奇妙な感じに満たされた。何かまとまった考えを形づくろうとして痛々しい努力をする感じであった。しかも、望みをかけている新しい考えというものがはたして何であるかは、やはり洞察することはできなかった。ついに彼は生きた心地もなく宿を出た。めまいがする、とはいえ、——どこへ行ったらよいのか? 彼はまたもやロゴージンの家をさして、馬車を駆った。
 ロゴージンは帰ってはいなかった。ベルを鳴らしても、ドアは開かなかった。老母のほうへ行って、ベルを鳴らす。すると、あけるにはあけたが、やはり、パルフェン・セミョーノヴィッチは留守で、たぶん、三日くらいは帰るまいとのことであった。公爵は相変わらず人慣れぬ好奇心を寄せて、じろじろと見られるので、どぎまぎしてしまった。門番は、今度は全く姿を見せなかった。彼はさっきと同じように反対側の鋪道へ出て、窓のほうを見上げながら、悩ましい苦熱のなかを、半時間ほども行ったり来たりした。あるいは、もっと歩いていたかもしれぬ、今度は何一つ動くものもなく、窓も開かなかった。白いカーテンも、さゆらぎだにもしなかった。ついに彼の脳裡に、さっきのはただ虫のせいだったのだ、窓にしたところで、どう見てもあんなに曇りきっていて、長いこと洗った様子もないから、たとい本当に誰かがガラス越しにのぞいたとしても、見分けることはむずかしいはずだ——という考えが浮かんできた。こう考えてほっとしたので、彼はまたイズマイロフ連隊跡へ出かけた。
 そこではみんなが、彼を待ち受けていた。教師夫人はもう三、四か所も回って、ロゴージンの家へまで寄って来たが、声もなければ、そのけはいもなかった——と言った。公爵は黙々として聞き終わると、部屋へはいって、長椅子に腰をおろし、何を相手が言っているのか呑みこめない様子で、一同を見つめだした。不思議なことに、彼は非常によく気がつくかと思うと、また急に嘘かと思うほど、ぼんやりしてしまうのであった。家じゅうの者があとになって、『あの日一日、あの人は、あきれてしまうほど妙だったわ。やっぱり、あのころからもうその気味があったのよ』と断言したほどであった。
 彼はとうとう立ち上がって、ナスターシャ・フィリッポヴナの部屋を見せてくれと頼んだ。それは大きな、明るい、天井の高い二つの部屋で、かなり立派な道具も並んでいて、少なからず金もかかっているらしかった。あとになって、婦人たちの物語ったところによると、公爵は部屋の中のものを一つ一つ検分していたが、ふとテーブルのうえに、図書館から借り出した本——フランスの小説『ボヴァリー夫人』が開いてあるのに目をとめて、あけてあったページをちょっと折ったと思うと、持って行きたいから貸してくれるようにと頼んだ。その本は図書館のだからと断わったのに、よくも聞かないで、ポケットへ入れてしまったという。
 やがて、あけ放した窓のそばに腰をおろして、白墨でいっぱい書き散らしてあるカルタのテーブルに眼をつけて、誰がカルタをやったのか? と尋ねた。家の人たちは、ナスターシャは毎晩ロゴージンを相手に、『ばか』『り札』『粉屋』『点とり』『君の札』など、あらゆる方法で勝負をしていた、カルタが始まったのはごく最近のことで、パヴロフスクからペテルブルグへ移って後のことであり、いつもナスターシャが退屈を訴えて、『あんたは毎晩じっと坐っているばかりで、何の話もできやしない』と、不平を言ってしょっちゅう泣いたので、そのあくる晩ロゴージンがいきなりポケットからカルタを取り出したところ、ナスターシャが、笑いだして、そこで勝負が始まったのだ——と話した。公爵は、どこに使った札がありますか? と聞いた。が、カルタは出て来なかった。カルタはロゴージン自身がポケットに入れて、いつも持って来て、しかも毎日、一組ずつ新しいのを持って来て、勝負がすむと、また持って帰ってしまうのであった。
 婦人たちは、もう一度ロゴージンのところへ行って、もう一度、少しはげしく戸をたたいてみるように、それもすぐにではなく、夕方にすること、『たぶん、何かわかるでしょうよ』と公爵にすすめた。そのうちに、教師夫人自身は晩までに、何かわかっているかもしれないから、パヴロフスクのダーリヤのところへ行って来ると申し出た。公爵に向かっては、明日は相談をしたいから、とにかく、晩の十時ごろに来てくれと頼んだ。
 みんなに慰められたり、希望を与えられたりしたのにもかかわらず、彼は全くの絶望にとらえられた。彼は言い知れぬ悩みをいだきながら、とぼとぼと歩いて宿にたどり着いた。夏のほこりっぽく息苦しいペテルブルグは、まるでにかけるように、彼を押さえつけた。彼はむずかしい顔をした人や、酔っ払いの群れの間を押し分けながら、何のあてどもなく人々の顔をのぞきこんだ。おそらく、必要以上の道を歩いたことであろう。自分の部屋へはいったときは、もうほとんど日は暮れ果てていた。彼は少し休んでから、すすめられたように、また、ロゴージンのところへ行こうと決心して、長椅子に腰をおろし、テーブルに両肘ついて、物思いにふけった。
 はたして、どれほどの時間が経ったのか、何を考えていたのか、知る由もない。彼はいろんなことを恐れ、自分がひどい恐怖に襲われているのを、胸がうずくほど痛切に感ずるのであった。ヴェーラ・レーベジェワのおもかげが頭に浮かんだ。やがて、たぶんレーベジェフはこの問題について、何かしら知っているだろう、たとい知らないにしても、自分より早く楽に探り出せるだろうという気がした。それから、イッポリットのこと、イッポリットのところへロゴージンが往復することなどを思い出した。さらにまた当のロゴージンのこと、——せんだって葬式のときのロゴージン、それから公園で会った時のロゴージン、それから今度は不意にその廊下の片隅にかくれて、刃物を手に待ち伏せしたときのロゴージンが胸に浮かんできた。彼の眼、あのとき、闇の中で自分を見ていた眼が思い返された。公爵は身震いした。ついさきほど出よう出ようとしていた考えが、今や忽然こつぜんとして脳裡に浮かんだのである。
 それはだいたいこんなことであった、——もしもロゴージンがペテルブルグにいるとすれば、たとえ一時身を隠そうとも、ついには必ず公爵のところへやって来るに相違ない。善いもくろみをもって来るか、悪い目当てがあって来るか、それはわからないが、あの時のようにして出て来るに相違ない。少なくも、もしも、ロゴージンが何かのはずみで、公爵のところへ来る必要がおこれば、この宿屋よりほかに来るところはないのだ。彼はアドレスを知らないはずだ、したがって公爵は以前の宿屋に泊っているだろうと、考えるにきまっている。少なくとも、ここへたずねて来るに相違ない……もし、非常な必要があるとすれば。はたして、非常な必要があるかもしれない、その辺のところは知る由もないのである。
 彼はこういう風に考えていたのである。そうして、この考えが、どうしたわけか、全くあり得べきことのように思われた。彼がも少し深くこの考えをつきつめていって、『なぜ自分が急にロゴージンにとって必要になるのか? またなぜ自分たちがとどのつまり、意気相投合するわけにゆかないのか?』というようなことになると、彼にはどうしても、はっきりした説明がつかなかったであろう。しかも、この考えは重苦しいものであった。『もしも、あの男がいい気持でいられたらやって来ないだろう』と公爵は考え続けた。『が、もし、ぐあいが悪かったら、すぐやって来るだろう。ところで、あの男はきっとぐあいがよくないに相違ない……』
 もちろん、こう考えた以上は、自分の部屋でロゴージンを待つのが当然であった。しかし、彼はこの新しい考えに堪えられなかったらしく、いきなり飛び上がって、帽子をつかんで、表へ駆け出した。廊下はもうほとんどすっかり暗くなっていた。『もしも、あの男が今そこの隅から急に出て来て、階段のところで呼び止めたらどうだろう?』例の所へ近づいたとき、ちらとこんなことがひらめいた。が、誰ひとり出ては来なかった。彼は門のほうへおりて行って、鋪道へ出たが、日の入りとともに往来へ吐き出された恐ろしい人の群れに驚いた(夏休みのころのペテルブルグではいつものことである)。やがて、ガローホワヤ通りをさして歩きだした。宿から五十歩ばかりの四辻へ来たとき、人込みの中で誰かがいきなり彼の肘にさわって、耳もとでささやいた。
「レフ・ニコラエヴィチ君、あとからついて来たまえ、話があるんだ」
 これはロゴージンであった。
 奇妙なことに、公爵は急にうれしさのあまり、舌もつれしながら、ほとんど一つのことばをさえもしまいまで言いきらないくらいにして、いま、宿屋の廊下でどんなに待っていたかということを話しだした。
「おれはあすこにいたんだ」思いがけなくロゴージンが答えた、「さあ、行こう」
 公爵はこの答えに驚いたが、彼の驚いたのは、少なくとも二分ばかりして、いろんなことを思い合わせた時のことであった。この答えを、よく考えてみると、彼は愕然として、ロゴージンをのぞき込みだした。相手はほとんど半歩ほど先へ出て、自分の前のほうばかり見つめて、機械的に用心深く、人々に道を譲りながら、行き合う人の顔さえも見ずに歩いて行った。
「いったい、君はどうして宿で僕の部屋を聞いてくれなかったんだ……あすこにいたのなら?」いきなり公爵は尋ねた。
 ロゴージンは立ち止まって、相手を眺め、ちょっと考えたが、何を聞かれたのか呑み込めなかったらしく、
「おいレフ・ニコラエヴィチ君、君はここをまっすぐ歩いて、家まで行くんだ、いいかえ? おれは別のほうを通って行く。だが、気をつけて、いっしょに行くようにするんだ……」
 こう言って、彼は往来を横切って、向こう側の鋪道へ行って、公爵が歩いてるかどうかとふり返ったが、彼がぼんやりたたずんで、眼を皿のようにして自分のほうを眺めているのを見ると、ガローホワヤ通りのほうへ手を振って、歩きだした。絶えず公爵をふり返って見て、ついて来いと手招きした。公爵がこちらの言うことを悟って、反対側から渡って来ないのを見ると、いかにも元気づいているらしかった。——ロゴージンは誰かを偵察して、途中でおとすまいとしている。だから向こう側へ渡って行ったのだ——という考えが公爵の頭に浮かんだ。『しかし誰に眼をつけているのか、なぜ言わないんだろう?』こうして二人が五十歩ばかり歩いたとき、公爵は急にどうしたことか急に震えだした。ロゴージンは前ほどではないが、やはり振り返って見るのをやめなかった。公爵はとうとうしんぼうしきれなくなって、彼を手でさし招いた。相手はすぐに往来を横切って、彼のほうへ寄って来た。
「ナスターシャ・フィリッポヴナは君の家にいるのかえ?」
「いるよ」
「さっきカーテンのかげから僕を見たのは、君かえ?」
「うむ……」
「いったい、どうして君が……」
 しかし、公爵は、この先どう聞いていいのか、どんな風に質問のけりをつけたらいいのかわからなかった。そのうえ動悸がはげしくて、物を言うのもむずかしかった。ロゴージンもやはり黙り込んで、以前と同じように、つまり、物思わしげな風で、彼を見つめていた。
「じゃ、おれは行くよ」急にまた渡って行くようなけはいを見せて、彼はこう言った。「君は勝手に歩いてゆけよ。おれたちは往来を別々に行くことにしよう、……そのほうがいいからな……別々の側を通ってだ……いいだろう」
 ついに二人が、別々の鋪道からガローホワヤ通りに折れて、ロゴージンの家に近づきかかったとき、またしても公爵の足はふらふらしだして、ほとんど歩くことさえむずかしくなった。もう晩の十時ごろであった。老母のほうの窓は、さっきと同じように開いていたが、ロゴージンのほうのは閉めたままで、薄ら明かりに、白いカーテンがいっそうくっきりと浮き立つかのように見えた。公爵は反対側の鋪道から家に近づいた。ロゴージンは向こう側の歩道から、表の段々へあがって、彼を手招きしていた。公爵は通りを越えて彼のいる段々のほうへやって来た。
「おれのことはいま門番さえ知らないんだよ。帰って来たってことをな。おれはさっきパヴロフスクへ行くって言ったのさ。おっ母さんにもそう言っといた」と彼はずるそうな、ほとんど満足らしいほほえみを浮かべてささやいた、「おれたちがはいっても、誰も聞きつけやしないよ」
 彼の手の中にはもう鍵があった。階段を上がりながら、彼は後ろをふり返って、そっと歩くようにと公爵を脅やかすまねをして、静かに自分の部屋へ通ずるドアをあけて、公爵を中に入れて、その後から用心深くはいって、戸締りをし、鍵をポケットの中へしまい込んだ。
「さあ、行こう」と彼は小さな声でささやいた。
 彼はまだリテイナヤ通りを歩いているころから、小さな声で話をしていた。表面はいかにも落ち着き払っているが、何か心の中には深い不安をいだいているらしかった。書斎のすぐ手前の広間へはいったとき、彼は窓に近づいて、秘密らしく公爵をさし招いた。
「さっき君がベルを鳴らしたとき、おれはすぐにてっきり君だろうと思ったよ。それで、爪立ちしてドアの傍へ寄って聞いてみたら、君がパフヌーチェヴナと、しきりに話してるじゃないか。ところが、おれはもう夜の明けないうちに、言いつけておいたんだよ、もし君か、または君の使いが、誰にもしろここへたずねて来たら、どんなことがあっても言ってはいけないと。もし君が自分で来たら、なおさら気をつけろって、名前まで教えといたんだ。それから、君が出て行ったあとでふっと考えたんだ、もしまだ表に立って、こちらを見たり、往来から見張りでもしていたらと、おれはこの窓の傍へ寄って、そうっとカーテンをめくって見ると、君がそこに立っていて、まともにおれのほうを見てるじゃないか……まあ、こういうわけだったんだ」
「いったい、どこに……ナスターシャ・フィリッポヴナさん?」と公爵は息を切らしながら言った。
「あれは……ここにいるよ」いささか答えをためらうかのように、ロゴージンはゆっくりと答えた。
「いったい、どこに?」
 ロゴージンは眼を上げて、じっと公爵を見つめた。
「さあ、行こう……」
 彼は相変わらずささやくような声で、依然として妙に物思わしげに、急がずに、ゆっくり口をきいた。カーテンのことを話した時でさえも、話は全くむき出しであったが、その話によって、別なことを言おうとしているらしかった。
 二人は書斎へはいった。この部屋には、さきに公爵が訪れたとき以来、いくぶんの変化が生じていた。部屋全体を横切って、緑色の絹のカーテンが引かれて、その両端が出入り口になり、これがロゴージンの寝台が置いてある部屋と、書斎との仕切りになっていた。重々しいカーテンはすっかりおろされて、出入り口もふさがっていた。
 部屋の中はひどく暗かった。ペテルブルグの夏の『白夜』は、暗くなりかかっていた。もしも、満月の夜でなかったら、窓かけをおろしたロゴージンの暗い部屋では、物の見分けも容易につかなかったであろう。しかし、十分に、はっきりとはいかないまでも、どうやら顔ぐらいは見分けられた。ロゴージンの顔は、いつものように青白かった。じっと公爵を見ている眼は強い光を帯びているが、なんとなく、じっと据わっていた。
「蝋燭をつけたら?」公爵は言った。
「いや、いらん」とロゴージンは答えて、公爵の手を取って、テーブルのほうへ引き寄せ、自分も公爵と差し向かいに坐って、ほとんど膝が触れ合うほどに、椅子を引き寄せた。二人の間には小さな丸テーブルが、少しわきへ寄って、置かれていた。
「坐りたまえ、ちょっとここにいよう!」無理に坐らせようとするかのように、彼は言った。一分間ほど、二人とも黙っていた。「おれは、君があの宿屋に落ち着くだろうとはわかっていた」どうかすると大事な話にはいる前に、直接の問題に関係のない、わき道へそれた細かな話から切り出す人がよくあるが、彼の切り出し方も、そのとおりであった。「おれは廊下へはいったとき、ひょっとすると、君もおれと同じように、今おれをじっと待ってるかもしれないと、ふっと思ったよ。教師夫人のところへ行ったかえ?」
「うむ」公爵は胸の動悸がはげしく、やっとの思いでこれだけのことを言った。
「おれはそのことも考えたよ。まだいろいろ話があるだろうと、そう思ったよ。それから、こんなことも考えた、公爵をここへ引っぱって来て泊めてやろう、今夜いっしょにいるように……」
「ロゴージン! ナスターシャ・フィリッポヴナさんはどこにいるんだえ?」不意に公爵はささやいて、手足を震わせながら立ち上がった。
 ロゴージンも席を立った。
「あすこだ」とカーテンのほうをあごでしゃくって、ささやいた。
「眠ってるの?」と公爵がささやいた。
 またもやロゴージンは、さっきと同じように、しげしげと公爵を見つめた。
「じゃ、もう行って見よう!……ただし、君は……いや、まあ行こう」
 彼はカーテンを持ち上げて、立ち止まり、またしても公爵のほうをふり向いた。
「はいって!」彼は、さきに行くようにとカーテンの向こうを頤でしゃくって見せた。
 公爵ははいって行った。
「ここは暗い」と彼は言った。
「見えるよ!」ロゴージンがつぶやいた。
「僕はろくに見えないが……あれは寝台だな」
「もっと近くへ行って見な」とロゴージンは低い声ですすめた。
 公爵は前へ一歩、また一歩、そして立ち止まった。彼はじっと立ったまま、一、二分のあいだ、中をうかがった。二人はそのあいだ、寝台のそばにたたずんで、何一つ言わなかった。公爵の胸ははげしく動悸をうって、死んだような室内の静寂のうちに、聞こえるかとさえも思われた。しかしようよう闇に慣れて、寝台がすっかり見分けられるようになった。寝台の上には誰かが眠っている、静かな眠りについている。かすかな衣ずれの音も、かすかな呼吸いきづかいも聞こえぬ。眠っている人は、頭から白い敷布をかぶっているが、手足はどうにもぼんやりして見分けがつかない。ただ寝台の上が高くなっているので、人が身をのばして寝ているということだけしかわからない。
 あたり一面、寝台の上にも、足もとにも、寝台のすぐわきの安楽椅子にも、床の上にさえも、ぬぎすてた衣裳、ぜいたくな白絹の服や、造花やリボンなどが、乱雑に散らばっている。枕もとの小机には、はずしたまま、投げ散らしたダイヤモンドが、きらきら光っている。足もとには何かレースらしいものが一かたまりにしてかきまぜられているが、その白く浮いているレースの上には、敷布の下からのぞいているあらわな足の先が見分けられた。公爵はじっと見つめていたが、見つめれば見つめるほど、部屋の中がいよいよ死んだように、いよいよ静かになるのを感じた。ふっと、眼をさました一匹の蠅が、うなりを立てて、寝台の上を飛びすぎると、そのまま枕もとのところで、ひっそりしてしまった。公爵は身震いした。
「出よう」彼の手にロゴージンがさわった。
 二人はそこを出て、またもとの椅子に差し向かいで腰をおろした。公爵はしだいに激しく身を震わせながら、物問いたげな眼を、ロゴージンの顔から放さなかった。
「君はなんだな、そんなに震えてるんだな」ついにロゴージンが言いだした、「まるで、ひどくからだのかげんを悪くしたときのようだ、覚えてるだろう、あのモスクワでさ? でなけりゃ、あの発作の前かな。本当にそうなったら、君をどうしたらいいのか、わからないな……」
 公爵はそのことばの意味を悟ろうとして、一生懸命になってやはり物問いたげな眼で、耳を傾けた。
「あれは君かえ?」頤でカーテンのほうをしゃくりながら、やっと彼は言った。
「うん……そうだ……」とロゴージンはささやいて、眼を伏せた。
 二人は五分間ほど口をつぐんでいた。
「だから」ロゴージンはことばの切れていたことに、気がつかないらしく、だしぬけに話を続けた、「だからな、もし病気がな、発作が起こって、どなり立てたら、往来のほうからか、家のほうから、誰かが聞きつけて、ここに人が泊ってるってことを察するだろう。そして、戸をたたいてはいって来る、……だって、みんながおれは留守だと思っているんだから。だから、おれは往来からも、家からも気がつかないように、蝋燭もつけなかったんだ。それにおれが留守のときは、自分で鍵を持って出るもんだから、三日も四日も部屋をかたづけにはいる者もいないんだ。これがおれのところのきまりなんだ、だから、今も、おれたちが泊るってことを知られないように……」
「ちょっと待ってくれ」と公爵は言った、「さっき僕は門番にも女中にも、ナスターシャさんが泊らなかったかと聞いてみたんだよ。してみると、みんな知ってるんだね」
「君が聞いてたのは知ってるよ。おれはパフヌーチェヴナにそう言ったんだ。昨日ナスターシャ・フィリッポヴナさんがちょっと寄ったけれど、すぐその日のうちにパヴロフスクへ立ってしまって、おれのところには十分間しかいなかったって。泊ったってことは知らないんだ、——誰も知らない。昨日、おれたちは、いま君といっしょにはいったと同じように、そうっとはいったんだ。あれはそうっとはいるのをいやがるだろう、と来る道で肚ん中では思ったんだよ、——とても、とても! 小さな声で話をする、爪立ちをして歩く、音がしないように着物の裾をつまんで持ち上げる。梯子段はしごだんでは、あれのほうがかえって指を立てて、おれを脅やかすまねをするじゃないか——それは君を恐れていたからだ。汽車の中では、まるで気ちがいのようだった。やっぱり恐ろしいからだ。ここへは、自分で望んで泊りに来たんだ。初め、おれは教師夫人のところへ連れて行こうと思ったんだが——とてもとても!『あそこへ行けば、公爵が夜の明けないうちに捜し出すから、おまえさんにかくまってもらおう。明日は夜の明けないうちにモスクワへ出かけて、それからオリョール市のほうへ行くから……』って言うんだ。床にはいってからも、しきりにオリョールへ行きたいと言ってたよ……」
「ちょっと待ってくれ、パルフェン君はいまどうするつもりなんだえ?」
「そんなに、震えてばかりいては面くらってしまうよ。今夜は二人でいっしょにここへ寝よう。寝台はあれよりほかにないから、おれはこう考えたんだ、両方の長椅子からクッションをとって、そこのな、カーテンのそばに、いっしょに寝るように、君の分とを並べて敷こうって。だって、もし人がはいって来て、捜しだしたら、あれはすぐに見つかって、運び出される。おれは調べられて、おれだと言う。そうしたら、すぐに引っぱって行かれるんだ。だからな。今はまずあれをそこへ寝かしておこう。おれともおまえと二人のわきへ……」
「そうだ、そうだ!」と公爵は熱心に相づちをうった。
「つまり、自首しないんだ、あれをかつぎ出させないんだ」
「ど、ど、どうあっても!」と公爵は決めてしまった、「ど、ど、どう!」
「そんなら、おれも覚悟をきめたよ、君。どうあっても、誰にも渡しやしない! 静かに夜を明かそうよ。おれは今日、朝のあいだ、ちょっと一時間ほど外へ出たっきりで、いつも傍についていたんだ。でも、それから晩方に君を迎えに行ったがな。も一つ、暑苦しくって、臭いが出やしないかと心配なんだがな。君に臭いがするかえ?」
「たぶん、するんだろうけど、僕にはわからない。朝になったら、きっとするだろう」
「おれは油布で、アメリカ製の上等の桐油布であれを包んで、その上から敷布をかけたんだ。栓を抜いたジタノフ液(防腐剤)の壜も四本並べといた。今でもあすこに立ってる」
「じゃあ、まるで、あそこ……モスクワのとそっくりだね?」
「だって、君、臭いがするんだもの。ところで、あれはじっと横になっている……明け方になって、明るくなってきてから、よく見ろよ。どうした、立てないのかえ?」公爵が立ち上がれないほど、激しく震えているのを見て、ロゴージンはおずおずと、驚きの色を浮かべて尋ねた。
「足がいうことを聞かないんだよ」と公爵はつぶやいた。「つまり、恐ろしいからだ、それは僕も知っている、……こわいのがやんだら立つよ……」
「じゃ、おれが二人の床をとるから、ちょっと待ってて。そして、君も寝るといい……おれも君といっしょに寝るから、……そして聞きたいもんだ……なにしろ、君、おれはまだ知らないんだからな、……おれはな、まだすっかりは知らないんだから。ひとつおまえにあらかじめ言っておくよ。おまえがこのことを前もって、すっかり心得ておくようにな!」
 こんな曖昧あいまいなことをつぶやきながら、ロゴージンは床を伸べにかかった。明らかに、この床はもう朝のうちから肚の中で考えていたらしかった。前の晩は長椅子の上で寝たのであるが、長椅子の上には二人で並んで寝るわけにはいかない。しかも、彼は今どうしても並んで寝たいと思っていたのである。そこで、彼はいま一生懸命に、二つの長椅子から大きさとりどりのクッションをとって、部屋の端から端へと横切って、カーテンの入り口のすぐ傍まで引きずって来た。どうかこうかして、寝床ができた。彼は公爵に近づいて、歓喜にあふれた様子で、優しくその手を取り、立ち上がらせて、寝床のほうへ連れて行った。しかし、公爵は、自分で歩けるということがわかってきた。つまり、『恐ろしいのがやんだ』のであった。それにしても、彼は相も変わらず震えていた。
「なんだな、おまえ」公爵を左側のいいクッションのほうへ寝かして、自分は右側のほうへ着換えもしないで長くなって、頭を両手でささえながら、不意にロゴージンは言いだした、「今夜はずいぶん暑いから、においがするに決まってる……。窓をあけるのはこわいし……ところが、おっ母さんのほうに花をさしてある花瓶があるんだ。たくさん花がさしてあって、とてもよいにおいがするんだ。だからおれはそいつを持って来ようかと思ったんだが、パフヌーチェヴナに気づかれそうなんだよ……あの女はずいぶん物好きなやつだからな」
「そう、物好きな女だね」と公爵は賛成した。
「買って来るかな、花束や花であれのからだをすっかり埋めてやろうかな? でも、可哀そうになるような気がするんだ、花の中なんかで!」
「ね……」と公爵は聞いたが、何を聞くはずだったか、どう考えてみても、すぐに度忘れしてしまうように、「ね、一つ聞きたいことがあるんだ、君はなんであれを?……ナイフでか? あの例の?」
「うん、そうだ……」
「ちょっと待ってくれ! 僕は一つ君に聞きたいことがあるんだ、……僕はいろんなこと聞かしてもらいたいんだ、一部始終、だがねえ、君、いっそのこと、最初から、ずっと最初から話してくれないかな。君は僕の結婚まぎわに、式のまぎわに、教会の入口で小刀でもって、殺すつもりだったのかえ?……そんなつもりだったのかえ、どうだえ?」
「そんなつもりだったか、どうだか知らない……」とロゴージンはいささかこの問いに驚いて、その意味が合点のゆかないような顔をして、そっけなく答えた。
「パヴロフスクへナイフを持って来たことは、一度もないのかね?」
「一度もない。このナイフのことで君に話せるのは、これぐらいのものだよ、レフ・ニコラエヴィチ君」しばらく口をつぐんでから、彼はこう付け足した、「おれは今朝こいつを、鍵のかかった引出しの中から出したんだ。なにしろ事のおこりは、朝の三時過ぎだったからな。こいつはやっぱり、おれの本の中にはさんであったんだ、……で……で……で、おれの不思議でたまらないのはな、ナイフがまるで……七センチ……九センチぐらい……左の乳の下に突き通ったのに……血はみんなで、そうだな……小匙半分ぐらい肌着にこぼれたきりで、それっきり出ないんだ……」
「それは、それは、それは」公爵は急に恐ろしく興奮しながら、立ち上がった。「それは、それは僕知ってる、それは僕は読んだことがある……それはね、内部出血っていうんだよ……時によると、一滴も出ないことがあるそうだ。それがもしまっすぐに心臓に当たったら……」
「ちょっと、聞こえるかい?」と急にロゴージンはさえぎって、おびえたかのように床の上に中腰になった、「聞こえるかい?」
「いや!」と公爵は相手の顔を見ながら、やはり早口に、おびえたように言いだした。
「歩いてる! 聞こえるかえ? 広間を……」
 二人は耳を澄まし始めた。
「聞こえる」と公爵はしっかりとささやいた。
「歩いてるだろう?」
「うん」
「戸を閉めようか。どうしようか?」
「閉めな……」
 戸は閉められた。二人はまたもや横になった。長いこと口をつぐんでいた。
「ああ、そうだ!」またもやある一つの考えをとらえたらしく、またそれをなくしては大変だというように、床の上に起き上がりさえもして、公爵は以前のように興奮して、急にせかせかした声でささやいた、「そうだ……僕は聞きたいと思ってたんだが……あのカルタは! カルタは……君はあれとカルタをして遊んだじゃないか?」
「うん」しばらくの沈黙ののち、ロゴージンはこう言った。
「どこにあるの……カルタは?」
「ここにあるよ、……」前よりもっとしばらく黙っていたがやがてロゴージンは口をきった、「これだよ……」
 彼は前に使ったカルタを紙に包んだのを、ポケットから取り出して、公爵のほうへ差し出した。公爵はそれを受け取ったが、いかにもに落ちないらしかった。新しい、物悲しくわびしい感情が、彼の胸をしつけた。彼は急に自分がこの瞬間、いや、それよりもずっと前に、言わなくてはならないことを言わず、しなくてはならないことをしないでいるのを痛感した。それにまた、自分が手に持って、非常に喜んでいる、このカルタ、これも今は全く何の役にも立たないのだと悟った。彼は立ち上がって両手を打った。ロゴージンは身動きもせずに横になったまま、相手のことばも聞かず、動作をも見ていないらしかった。しかも、その眼は闇のうちに輝いて、大きく見開いたまま、ぼんやりとすわっている。三十分ほどたった。すると、いきなり、ロゴージンは、大きな声でぶっきらぼうに叫んで、声を立てて笑いだしたが、さっき小声で話さねばならぬと言ったことを、すっかり忘れ果てているらしかった。
「あの士官を、あの士官を……覚えてるかい、いつかあれが音楽堂で士官をなぐったろう、覚えてるかい、ははは! それから候補生が……候補生が……飛び出したっけな……」
 公爵はいまさらのように驚いて、椅子から飛び上がった。ロゴージンが静かになったとき(彼は急に静かになったのである)、公爵はそっとかがみこんで、そのわきに並んで腰をおろし、ひどく胸をわななかせて、重苦しげに、息をつきながら、しげしげと彼を見まわし始めた。ロゴージンはそのほうへ首も向けずに、まるで彼のことなどすっかり忘れてしまったかのようにも見えた。公爵はじっと見つめながら、待っていた。
 時は過ぎて、夜が白みかかった。ロゴージンは時おりだしぬけに、声高らかに、鋭い調子で、とりとめもないことを口走りだして、叫び声を立てたり、笑ったりし始めた。そんなとき公爵は震える手をさしのべて、そっと彼の髪にさわったり、頭や頬をなでたりした。……それよりほか、彼をどうすることもできなかったのである! 彼自身もまた、震えだして、まるで急に足を取られたかのようであった。何かしら全く新しい感じが、限りも知れぬ哀愁をもって、彼の心を締めつけるのであった。やがて、夜はすっかり明け放たれた。ついに彼は、あたかも全く力が尽きて、絶望の極に達したかのように、クッションの上に横になって、青白く、じっと動かぬロゴージンの顔に、自分の顔を押しつけた。彼の眼からはロゴージンの頬へ涙が落ちるのであった。しかも、公爵はおそらく、もうそのときには自分の涙を感ずるほどの力もなく、そんなことには全く気がつきもしなかったであろう……
 少なくとも、それからかなりに時間がたってのち、戸があいて、大ぜいの人がはいって来たとき、人殺しは全く人事不省に陥り、熱病の状態になっていたのである。公爵は床の上にじっと坐って、傍近く寄り添いながら、病人が叫び声やうわごとを発するたびごとに、大急ぎで震える手を差しのばして、あたかも彼を愛撫あいぶしなだめるかのように静かに頭や頬をなでていた。しかも、彼はすでに何を聞かれてもわからずに、自分の周囲にいる人たちさえも見分けがつかなかった。もしもシュネイデル自身がいまスイスから出て来て、もと自分の生徒であり、患者であったこの人を見たならば、スイスにおける治療の最初の年に、どうかすると公爵が陥ることのあった状態を思い起こして、あの時と同じように手を振って、こう言ったに相違ない『白痴イジオートだ!』
 
(つづく) 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 

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