第四編
七
彼がいい気になって、N公爵やエヴゲニイ・パーヴロヴィッチとことばを交えているアグラーヤを見まもっている間に、今まで一方の隅で、高官のお相手をして、元気よく何か話を聞かしていた中年の紳士、
話題は……県の地主領に対する現行の制度のことや、何かの騒ぎのことであった。ついに年寄りの高官が、話相手の気むずかしい激越な調子を笑いだしたところをみると、英国狂の話には、何かおもしろいところがあったに相違ない。英国狂は母音に柔らかな力点をつけ、なんだか気短らしく、ことばじりを引きながら、現行制度の直接の影響をこうむって、……県におけるすばらしい所有地を、特に金が困ったというわけでもないのに、ほとんど半値で売ってしまい、しかも同時に、不利益な、訴訟問題がからまっている荒廃した土地を、金まで払いながら、手に持っていなければならなくなった理由を、
「パヴリシチェフ家の領地と訴訟でも起こしたら大変だと考えて、あの人たちのところを逃げて来ました。あんな親ゆずりの土地がもう一つか、二つもあったら、それこそわたしは破産していたはずです。もっとも、わたしはあそこで立派な土地を、三千町ばかり手に入れましたよ!」
「それ、あの……イワン・ペトローヴィッチは亡くなったニコライ・アンドレーヴィッチ・パヴリシチェフさんの親類なんですよ、……君はなんだか、親類の人を捜しておったようだが」と、イワン・フョードロヴィッチは、不意に公爵のところへ来て、彼が二人の話になみなみならぬ注意を払っているのに気がついたので、小さな声でささやいた。それまで、将軍は自分の長官のお相手をしていたのであるが、もうかなり前から、レフ・ニコラエヴィチが全く一人ぼっちになっているのに気がついて、心配しだしたのであった。彼はある程度まで、公爵を話の仲間へ入れて、そうして、もう一度、『上流の人たちに』引き合わせ、紹介をしようという気になった。
「レフ・ニコラエヴィチ君は両親をなくして以来、ニコライ・アンドレーヴィッチ・パヴリシチェフさんに育てられた人です」と彼はイワン・ペトローヴィッチ(英国狂のこと)の視線を迎えて、くちばしを
「いやぁ、実に愉快ですなぁ」と相手は言った、「ようく覚えていますよ。さっきイワン・フョードロヴィッチさんが御紹介くだすった時に、すぐに気がつきましたよ、顔さえ覚えていますよ。あなたは実際、あんまりお変わりになりませんねえ、わたしがあなたを見たのは、まだあなたが子供で、十か十一ぐらいでしたのに。いや、なんとなくお顔に、昔を思い起こさせるところがありますね……」
「あなたは僕が子供のころにお目にかかったんですか?」公爵はなんとなくひとかたならぬ驚きをいだいて尋ねるのであった。
「おお、もうかなり昔のことですよ」とイワン・ペトローヴィッチはことばを続けた、「なんでも、あなたが、
「ちょっとも覚えておりません……」公爵は熱心に念を押した。
それからなお、イワン・ペトローヴィッチのほうは極度に落ち着き払い、公爵のほうはびっくりするほど興奮して、とにかく、互いに話をしてみると、公爵が養育方を託された亡きパヴリシチェフの親類にあたり、金梢村に住んでいた中年のオールド・ミス二人は、同時にまた、イワン・ペトローヴィッチの従姉にあたることがわかってきた。イワン・ペトローヴィッチも世間の誰彼と同様に、どういう子細があってパヴリシチェフが、いとけない公爵の身の上をあんなに心配したのか、説明することができなかった。
「それにあのころ、そんなことに物好き心を起こすのを忘れていましたからね」と言ったが、それにしても、この人がかなりに記憶のよいことがわかった。というのは、彼はマルファ・ニキーチシナという年上のほうの従姉が、幼い子供に対して、どんなに厳重であったかということまで、思い起こさせたからである。
「ですから、一度なぞはあなたの教育方針のことで、その従姉と口ぎたなく喧嘩したことさえもありましたよ。なにしろ、病身の子供を仕込むのに、明けても暮れても
公爵は歓喜と感激とに眼を輝かせながらこの話を聞いていた。今度は彼のほうから、この六か月の間、内部のあちこちの県を旅行しながら、もとの養育院を捜し出して、訪問する機会をとらえなかったことを、常に済まないと思っていると、非常な熱をこめて告げるのであった。
「毎日のように出かけたいとは思いながら、やはりいろんな事情に妨げられたのです。しかし、今度こそは必ず、……是が非でも、……たとい、……県でもかまいません、行って来ます……では、あなたはナタリヤ・ニキーチシナさんを御存じなんですね!(なんという美しい、なんという聖い心のおかたでしょう!)けれど、マルファ・ニキーチシナさんは、……いや、御免なさい、あなたはマルファ・ニキーチシナさんを勘違いしていらっしゃるようですね! あのかたは厳しいおかたではありました。けれど、……あのころの僕のような……
「たぁしかに、そぉです」とイワン・ペトローヴィッチは、公爵をじろじろ見まわしながらほほえんだ。
「おお、僕はけっして……うたぐったがために、そんなことを申したわけじゃありません。それに、まあこれがいったい疑われるようなことでしょうか(へ! へ!)、……たとい少しばかりでも? 全くほんの少しばかりでも!(へ! へ!)僕があんなことを言いだしたのは、つまり、亡くなったニコライ・アンドレーヴィッチ・パヴリシチェフさんが、実に立派な人だったからです! 全くおうような人でしたねえ、本当に、正直のところ!」
公爵は息切れがしたというわけではなかったが、いわば、『美しい愛情のために
「ああ、これはどうも!」とイワン・ペトローヴィッチは笑いだした、「いったい、どうして、わたしは、おうような人の親戚になる資格がないんでしょうね?」
「ああ、とんでもない!」公爵はしだいしだいに興奮しながら、あわてて、どぎまぎしながら叫んだ、「僕は……僕はまたばかなことを言ってしまいました、しかし、それが当然な話です、なぜって、僕は……僕は……それにしても、僕はまた、とんでもないことを言ってしまって! それに、こんなおもしろい話があるのに、……こんなすばらしくおもしろい話がたくさんあるのに、……僕のことなんか話して何になりましょう! それに、そんなおうような人にくらべると、僕は……、だって、全くあのかたはおうような人でしたものね、そうじゃありませんか? そうじゃありませんか?」
公爵はからだじゅうをぶるぶる震わせてさえもいた。なぜ彼がこれというわけもないのに、急にこんなに小躍りして喜んだのか、しかも、話題とはまるで調子が合わないと思われるほど感激したのか、——ということになると、容易に解答がつきかねるのである。とにかく、こうした気分になってしまっていたので、ほとんど彼はこの瞬間に、誰かに対して、何かの理由で、非常に熱烈な、感傷的な感謝の念をさえも感じていたのである、——おそらく、この感謝の念はイワン・ペトローヴィッチにさえも、ないしは客全体にも向けられていたであろう。彼はもうすっかり『嬉しくてたまらなかった』のである。
イワン・ペトローヴィッチはついに、じっと眼を据えて、彼を眺め始めた。『高官』も、しげしげと彼を見つめていた。ベラコンスカヤ夫人は、彼のほうへ腹立たしそうな視線を注いで、唇をかみしめていた。N公爵、エヴゲニイ、S公爵、令嬢たちも、話をやめて聞き耳を立てていた。アグラーヤは、愕然としたらしかった。リザヴェータ・プロコフィエヴナはただただおじけづいていた。この母と娘は変な人たちであった。自分たちで勝手に、公爵は一晩じゅう黙って坐っていたほうがよかろうと決めておきながら、公爵が片隅に全く一人ぼっちになって、自分の境遇に満足しきっているのを見るやいなや、もうすぐに気がかりになってきた。アレクサンドラはもう、そっと気をつけて向こうの隅の彼のところへ行って、仲間に、つまり、ベラコンスカヤ夫人のわきにいるN公爵の仲間に加えてやろうと考えていた。ところが、公爵が自分のほうから話しだすと、母と娘はいっそうはなはだしく気をもみだしたのである。
「立派な人だったということは、あなたのおっしゃるとおりです」と、押しつけるように、もう微笑もみせずに、イワン・ペトローヴィッチが言った、「そう、そう、……あれはすばらしい人でした! すばらしい、そして、値打ちのある人でした」しばらく口をつぐんだが、またこう付け足した、「それどころか、あらゆる尊敬を受くべき価値のある人、といってもいいくらいでした」と、彼は三たび沈黙ののち押しつけがましく付け加えた、「しかし、……しかし、かえって非常に愉快です、あなたがそんなに……」
「そのパヴリシチェフ氏じゃないですか、何か……妙な話があったのは……カトリックの僧院長について、……カトリックの僧院長、どんな坊さんだったか……忘れてしまったけれど、あの当時みんなが何か言ってたようですが」と、ふと思い出したかのように『高官』が言った。
「あれはジェズイト派の僧院長グゥロォです」とイワン・ペトローヴィッチは思い起こして、「そうでした、あれは、わが国でも珍しい立派な、尊敬すべきおかたでした! とにかく、門閥はよし、財産はあり、ずっと続けて勤めていたら、侍従くらいにはなれた人だったのですからね。……それが、どうでしょう、不意に勤務も何もすっかり放り出してしまって、カトリックに改宗して、ジェズイト派になるなんて、しかもほとんど大っぴらで、一種の感激までもっているなんて。実際、いい時に死んだものですよ、……全く。あの時はたいへんな噂でしたね、……」
公爵はわれを忘れてしまった。
「パヴリシチェフさんが……パヴリシチェフさんがカトリックに改宗したんですって? そんなはずってあるもんでしょうか!」と彼は
「え、『そんなはずってあるものか』ですって!」とイワン・ペトローヴィッチはどっしりとした態度で言った、「それは言いすぎですよ、御自分でもおわかりでしょうが、……しかし、あなたは非常に故人を尊敬しておいでのようですから……実際、あの人は善良至極な人でしたよ。つまり、そういうところがあるために、グゥロォという山師につけこまれたんだと僕は考えています。しかし、その後このグゥロォの一件について、わたしがどれほど骨折って奔走したか、全くお聞かせしたいくらいです。いかがでしょう」と彼は不意に高官のほうを向いた、「その連中ですがね、遺産についての要求まで持ち出そうとしたのですよ。そこで、わたしは思い知らせるために、やむを得ず、最も、その強硬なる手段に訴えるようなことにまでなったのです、……なにしろ、あいつらは、したたか者ですからね! 驚き入るほどの! しかし、いいあんばいに、この事件はモスクワで起こったものですから、わたしはすぐ伯爵のところへ駆けつけて、いっしょになって、あいつらに思い知らしてやりましたよ……」
「こんなことを申しても本当にはなさらないでしょうが、僕はあなたのためにすっかり悲観してしまいましたよ、そして、びっくりしてしまって!」と公爵はまたもや叫んだ。
「それはお気の毒さま。しかし、実際のところ、はっきり言うと、この事件は実につまらない話で、いつもおきまりで、あっけなく終わるはずだったんですよ。わたしはそう信じています。昨年の夏」と再び高官のほうを向いて、「K伯爵夫人もやはり、外国のあるカトリックの修道院へはいったという噂です。どうもロシア人はあの……山師にかかったとき、じっと持ちこたえることができないようですね……ことに外国にいる人は、その傾向が著しいものがありますね」
「それはつまり、ロシア人の倦怠から来るんだと……と思う」と年寄りの高官はしかつめらしく、もぐもぐ言った、「まあ、それにあの連中の説教のやり方が……一流の派手なもので、……脅かしがうまいので、わしも三十二年(一八三二)はウィンナで脅かされてね、実際。もっとも、降参しないで、逃げ出してしまったよ。は、は! 本当に逃げ出したんだよ」
「わたしの聞いた話では、あなたはきれいなリヴィツキイ伯爵夫人といっしょに、任務をすてて、ウィンナからパリへ『逃げ出し』たそうじゃありませんか、ジェズイト派から逃げ出したんではなく」と不意にベラコンスカヤ夫人が口をいれた。
「まあ、しかし、それもやはり、ジェズイト派からのがれたということになりますよ、ジェズイト派から!」年寄りの高官は楽しい思い出に笑いながら、ことばを返して、今度は「君はどうやら、今どきの青年に珍しく、かなりに宗教的なほうらしいですね」と口をあけて、相変わらず
「パヴリシチェフさんは頭脳明晰な人で、キリスト教徒でした、本当のキリスト教徒でした」と、にわかに公爵は言った、「ですから、あの人が……キリスト教に合わない宗旨に屈服するはずはありません! カトリックは異教と同じことです!」急に彼は眼を輝かして、一座の者をあまねく見わたすように、前のほうを見ながら、付け足した。
「まあ、これはひどすぎる」と高官はつぶやいて、驚きの眼を見はってイワン・フョードロヴィッチのほうを見た。
「どうしてカトリックが異教徒だというのかね?」とイワン・ペトローヴィッチは椅子に腰をかけたまま公爵のほうをふり向いた、「いったい、どういう宗旨なんです?」
「第一はキリストに合わない宗旨です!」公爵はなみなみならぬ興奮に動かされて、途方もなく鋭い調子で、またもや話しだした、「これが第一です。第二には、ローマカトリックは無神論よりもっと悪いくらいのものです、これが僕の意見です! そうです、これが僕の意見です! 無神論は単に無を説くばかりですが、カトリックはそれ以上のところまで進んでいます。つまり、
公爵はここで、ほっと一休みした。彼の話しぶりはおそろしく早口であった。彼は青ざめて、息切れがしていた。一同は顔を見合わせていたが、ついに、老高官が無遠慮に笑いだした。N公爵は
「あなたは非常にぃ誇張をしてぇいますね」とイワン・ペトローヴィッチはいくぶん退屈そうに、何かしら気恥ずかしげに、ことばじりを引きながら言いだした、「あちらの教会にも、やはり民衆の尊敬を受けるに値する、徳のたかぁい代表者がいまぁすよ……」
「僕はけっして教会の個々の代表者のことを言ったわけではありません。僕はローマカトリックの実体を論じたのです。僕はローマの話をしたのです。はたして、教会はまったくあとかたもなく消滅するなんて、そんなことがあり得るでしょうか? 僕はそんなことを言ったためしはありません!」
「ごもっともです、しかし、そんなことは知れきったことで、むしろ、——不必要なことです、それに……神学に属することでもあり……」
「おお、違います! おお、違います! けっして神学のみに属することじゃありません、全く、違います! これはあなたがたのお考えになるより、はるかに、われわれに接近している問題です。これがただの神学上の問題でないということを、われわれが知らないでいるところに、われわれの
「しかし、失礼ですが、失礼ですが」イワン・ペトローヴィッチはあたりを見まわしながら、おじけづきさえもして、不安になり、「あなたのお考えは、もちろん、賞讃に値するもので、愛国心に満ちています。しかし、全く、極度に誇張されたものです。かえって、この問題は、あとまわしにしたほうがよろしいとさえ思います……」
「いいえ、誇張されてはいません、むしろ、控え目にしたくらいです。たしかに控え目にしてあります。なぜといって、僕にはうまく言い表わす力がないからです。しかし……」
「しつぅれいですが!」
と言われて、公爵は黙り込んでしまった。彼は椅子の上にそり返って、じっとしたまま、燃えるような眼つきでイワン・ペトローヴィッチを見つめていた。
「君はどうも、君の恩人の一件にあんまり驚きすぎたようですよ」と高官は相変わらず落ち着きを失わずに、愛想よく言った、「君は、ひょっとしたら、……孤独だったために、熱しやすくなったかもしれませんね。もう少し、世間へ出て、多くの人とつきあったら、立派な青年だといって、きっと歓迎されるでしょう、そうしたら、むろん、そんな興奮も静まって、こんなことはずっとずっと簡単なことだということがおわかりになるでしょうよ……それに、わしの眼から見ると、あんな珍しい出来事も、一部分はわれわれが、いろんなことに飽きているところから、一部分は……退屈のために生ずることだと思いますがな……」
「そうです、たしかに、そうです」と公爵は叫んだ。「それは実にすばらしい御意見です。全く退屈のためです、われわれが退屈しているためです。しかし、飽きているからではありません、むしろその反対に
ところが、ここに、不意に一つの事件が起こって、公爵の熱弁は全く思いがけずに中断されるのやむなきに至った。
この熱のこもった長広舌、情熱的な、落ち着きのないことばと、統一もなく狂熱的な、あたかも入り乱れてぶつかり合いながら、互いに先を争って飛躍しつつあるような思想の奔流は、見たところは、これという原因もないらしいのに、にわかに興奮してきた青年の気持の中に、何かしら危険な、何かしら特殊なものがあらわれたことを暗示していた。客間に居合わす人々のうちでも、公爵を知っているすべての人は、彼のいつもの臆病でさえもある控え目な性質や、ある場合にまれにあらわれる独自な交際術や、上流社会の礼儀作法に対する本能的な敏感などと、全く似てもつかない今の狂気じみた言動に不安の念をうかべて(ある者は
婦人席のほうでは、気のちがった人でも見るような眼で彼を眺めていた。ベラコンスカヤ夫人はあとになってから、『もう一分もしたら、もうわたしは逃げ出そうと思っていた』と告白した。老人たちは最初に度胆を抜かれて、ほとんどぼんやりしてしまっていた。ドイツ系の詩人は顔色まで変えたが、それでもなお他の人たちにどういう反響があるかと、そのほうを眺めながら、例の作り笑いをしていた。もっとも、こうしたことも、この『醜態』も、ことごとくおそらく、もう一分もすれば、きわめてありふれた自然な道をたどって、全くけりがつくべきものであったろう。極度に驚いていたイワン・フョードロヴィッチは誰よりも先にわれに返って、幾たびも公爵に話をやめさせようとしていた。ところが、どうにもうまくいかないので、今度は固く意を決して、公爵のほうへ客の間を縫って近づいて行った。もう一分しても、効果があがらなかったら、病気を楯にとって、きわめて打ちとけた態度で、公爵を部屋から連れて出すくらいの覚悟をきめていたのであろう。病気というのはおそらく全く正しい事実かもしれなかったが、イワン・フョードロヴィッチは心の中で、たしかにそれに違いないと信じきっていたのである……。しかも、事態は全く別なほうへ変わっていった。
最初に、公爵は客間へはいるやいなや、アグラーヤにおどしつけられた支那焼きの花瓶から、できるだけ遠く離れたところに腰をかけた。ほとんど嘘のような話ではあるが、昨日アグラーヤにあんなことを言われてからは、どんなにその花瓶から遠ざかっても、どんなに災いを避けようとしても、必ず明日は花瓶をこわすに相違ないだろうという一種の消しがたい信念、一種の驚くべき、ありうべからざる予感が、彼の心に乗り移ったのであった! ところが、実際にそのとおりになってしまったのである。夜がふけていくにつれて、例の強い、しかも明るい印象が、彼の心を満たし始めた。このことはすでに言っておいたことである。そうして、彼はついに予感を忘れてしまったのである。彼はパヴリシチェフという名を耳にしたとき、イワン・フョードロヴィッチが公爵をイワン・ペトローヴィッチのところへ連れて行って、あらためて紹介したが、このとき、公爵はテーブルにいっそう近いところへ寄って行って、いきなり安楽椅子に腰をおろした。その傍には美しい支那焼きの大花瓶が花台の上に立っていて、ほとんど彼の肘とすれすれになって、ほんの少し彼の後ろのほうになっていた。
最後のことばを述べたとき、彼は不意に席を立って、なんとなく肩を動かす拍子に、ついうっかりして手を振った、……と、一座の人たちがあっと叫んだ! 花瓶は、最初は、老人たちのうちの誰かの頭の上に倒れようかと、意を決しかねているらしく、ふらふらと揺れたが、不意に反対側の、
とどろき、叫び声、
彼はあたりに湧き返る混乱を、長いこと悟りかねていたらしかった。つまり、全く悟りもし、いっさいを見てとってはいたのであるが、まるでこの出来事に少しも関係のない人のように、ぼんやりとたたずんでいたのである。お
彼はついに、一同があたかも何ごともなかったかのように、席に着いて、笑ってさえもいるのを見て、不思議な驚きを覚えた! 一分の後には、笑い声はいっそう高まった。やがて、感覚がなくなったかのように棒立ちになっている彼をみながら笑いだした。しかも、いかにも打ちとけた、楽しげな笑い方をしているのであった、多くの人たちは彼に向かってことばをかけたが、その話しぶりは、きわめて愛想がよく、リザヴェータ夫人に至ってはことさらなものがあった。彼女は笑いながら、何かしら、かなりに、かなりに親切なことばをかけた。不意に、彼はイワン・フョードロヴィッチが、まるで友だちのように、自分の肩をたたくのに気がついた。イワン・ペトローヴィッチもやはり笑っていた。が、それよりも、いっそう親切で、魅力のある、同情的な態度を示したのは老高官であった。この人は公爵の手を取って、軽く握りしめ、一方の掌で軽くその手をたたきながら、まるでおびえている小さな子供を相手にするように、気をしっかりしなさいと言って聞かせるのであった。これが非常に公爵の気に入った。やがて、ついには公爵を自分と並んで坐らせた。公爵は楽しそうに、相手の顔を見つめていたが、それでもまだ、どうしたわけか、口をきくだけの元気が出て来なかった。彼は息がつまっていたのである。老高官の顔はひどく彼の気に入った。
「え?」と、彼はようやくのことで、つぶやいた。「本当にお許しくださいますか? そして、……リザヴェータ・プロコフィエヴナさん、あなたも?」
笑い声はいっそう高まった。公爵の眼には涙が浮かんできた。彼はわれとわが身を信ずることができずに、まるで魔法にかかったかのようであった。
「もちろん、花瓶はすばらしいものでした。……あたしがこちらではじめて見てから、もう十五……そう……十五年にもなりますよ」とイワン・ペトローヴィッチが言いかけた。
「まあ、ほんとに、とんだ災難でしたわ! 一人の人間が滅びるかもしれないんですよ。しかも、瀬戸物の壺のことから!」とリザヴェータ夫人は声高らかに言った、「本当に、そんなにびっくりなすったの、レフ・ニコラエヴィチさん?」危惧の念をさえもいだきながら、夫人は付け加えた、「たくさんですよ、あんた、もうたくさん。本当にびっくりするじゃありませんか」
「
「C’est ters cnrieux et c’est serieux !(これは実に奇妙なことだ、これは重大なことだ!)」と、彼はテーブル越しにイワン・ペトローヴィッチにささやいた。しかも、かなりに高い声であったから、あるいは公爵にも聞こえたかもしれない。
「では、僕は皆さんのどなたにも、お気にさわるようなことはしなかったんですね? あなたがたは本当になさらんでしょうけれど、僕はこう思うと実に嬉しいんです。でも、それが当然なんです! はたして、ここで、どなたかにお気にさわるようなことをするなんて。そんなことが僕にできるものでしょうか? もしも、そんなことを考えたら、それだけでもまた、御迷惑をかけることになります」
「気を落ち着けなさいよ、君、それは誇張です。それに、君がそんなに感謝するいわれなんか、少しもありませんよ。その感情は美しいけれど、誇張されています」
「僕はあなたがたに感謝なんかしていませんよ、ただ僕は、……あなたがたに見とれているだけです。僕はあなたがたを眺めていると、ほんとに楽しいんです。ひょっとすると、僕の言うことはばかげてるかもしれませんが、しかし——僕は話をしなくてはなりません、説明しなくてはなりません、——ほんの自分自身に対する尊敬の念からでも」
彼のなすこと、することは、いっさいが発作的で混乱していて、熱にでも浮かされているようであった。彼の発することばが、彼の言わんと欲するところと、しばしば違っているということも、大いにありうべきことである。彼は眸によって、『話をしてもいいでしょうか?』と尋ねるかのようであった。
さて、彼の視線はベラコンスカヤ夫人のうえに落ちた。
「かまいませんよ、あなた、あとを続けなさい、あとを、ただ、息を切らさないようにしなさいよ」と夫人は注意した、「おまえさんはさっき息を切らしながら話を始めたもんだから、とうとうあんなことになったんですよ。けれども、口をきくのをこわがることはありません。ここにいる皆様は、おまえさんよりもっと奇妙な人を、しょっちゅう見てらっしゃるから、おまえさんなんかには、びくともしないわ。それにおまえさんなんかまだ、たかが知れてますよ。ほんの、花瓶をこわして、ちょっとびっくりさせたぐらいなんだから」
公爵はほほえみながら、お婆さんのことばを謹聴していた。
「ところで、あれはあなたじゃありませんか」彼はいきなり老高官のほうを向いた、「あのポドクーモフという大学生と、シワーブリンという役人を、三
老高官はちょっと顔まで赤らめて、気を落ち着けるがいいとつぶやいた。
「それから、僕が聞いたあの噂はあなたのことでしょう」彼はすぐにイワン・ペトローヴィッチのほうをふり向いた、「××県で、とうに自由になって、あなたにさんざんやっかいをかけた百姓たちが、焼け出されたとき、家を建てなおすために、
「いや、そりゃぁ、誇張ですよぅ」とイワン・ペトローヴィッチはつぶやいたが、それでもいい気持になって、ぐっと反り身になった。しかし、この場合に、『それは誇張ですよ』と言った彼のことばは、全く事実であった。それはただ、公爵の耳にはいった流言にすぎなかったからである。
「ところで、公爵夫人、あなたは」と、いきなり公爵は朗らかなほほえみを浮かべながら、ベラコンスカヤ夫人のほうを向いた、「あなたは半年まえに、モスクワで、リザヴェータ・プロコフィエヴナさんのお手紙をごらんになって、まるで親身の息子かなんぞのように、僕をもてなしてくださいましたね。そして、それこそ本当の親身の息子に対するような、御親切な忠告を与えてくださいましたね、僕はけっしてあの御忠告を忘れません。覚えていらっしゃいますか?」
「なんだっておまえさんはそんなに躍気になってるんです?」とベラコンスカヤ夫人はいまいましげに言った、「おまえさんはいい人だけれど、おかしいですよ。銅貨の二つももらったくらいで、まるで命でも助けてもらったようにお礼を言うんですからね。おまえさんは、それを賞むべきことだと思ってるんだろうけれど、いやらしいことです」
夫人はもうすっかり腹を立ててしまうところであったが、急に笑いだした。しかも、今度は善良な笑い方であった。リザヴェータ・プロコフィエヴナの顔も明るくなった。イワン・フョードロヴィッチの顔も晴れ晴れしてきた。
「わたしも言ったことですが、レフ・ニコラエヴィチさんという人は、……なんですね、……つまり、いま公爵夫人がおっしゃったとおり、息を切らしたりなんかしなければいいんですが、……」将軍はベラコンスカヤ夫人のことばに感激して、同じことを、有頂天になってつぶやいた。
ただひとり、アグラーヤだけは、なんとなく沈み込んでいた。しかし、その顔には、おそらく、憤慨のためではあろうが、紅らみが残っていた。
「あの男は実際、可愛いい男だよ」とまたもや老高官はイワン・ペトローヴィッチにささやいた。
「僕は心に痛みを覚えながら、ここへはいって来ました」しだいしだいに狼狽しながら、公爵はいよいよ早口に、いよいよ妙な、興奮した調子で語り続けた、「僕は……僕はあなたがたを恐れました。自分自身をも恐れました。何よりもひどく、自分を恐れました。このペテルブルグへ帰って来るとき、僕は是が非でもわが国の第一流のかたがたにお目にかかろう、家柄の古い、遠い昔から続いている名家の人たちにお目にかかろうと心に誓いました。なにしろ、僕自身もこういう人々の仲間ですし、家柄からいっても、第一流のわけですから。だって、僕はいま自分と同じような公爵たちと、席を同じゅうしているんじゃありませんか、そうじゃありませんか? 僕はあなたがたを知りたかったのです。それは必要なことでした、実に実に必要な!……僕はいつも、あなたがたのお噂は、あんまり悪いことばかり聞いていました、よいことよりもよけいに。やれ、あなたがたの趣味がちっぽけで、片寄っているだとか、時世おくれだとか、教育が低いとか、習慣が滑稽だとか、なんのかんのと。——おお、だって、今あなたがたのことはずいぶんあちこちで書き立てられたり、噂に上ったりしてるじゃありませんか! 今日、僕はこちらへ好奇心をいだいてやって来ました、びくびくしながら。僕がみずから見て、直接にはっきりと見きわめたかったのは、——事実において、このロシアの上流階級は、何の役にも立たないものだろうか、黄金時代を過ごして、今は遠い昔からの生活によって干乾らびてしまい、死を待つばかりとなって、しかもなお、自分たちの死にかかっていることには気がつかずに、……相も変わらず、未来の……人たちとささやかな
「まあ、とんでもないことです」とイワン・ペトローヴィッチは毒々しく笑った。
「おや、またテーブルをたたいた!」ベラコンスカヤ夫人はたまりかねて言いだした。
「Laissez le dire(勝手に言わしておきなさい)からだじゅう震えてまでいる」と老高官はまたもや低い声で警告した。
公爵はすっかり夢中になっていた。
「ところが、どうでしょう? 僕は
「もう一度お願いしますが、ねえ、君、気を落ち着けてくださいよ。そんな話はまた今度のときにしましょう、わたしも喜んで、……」と老高官は薄ら笑いをもらした。
イワン・ペトローヴィッチは
「いいえ、ねえ、もう、話をしたほうがいいですよ!」と、公爵は特に相手を信頼するような、あまつさえ秘密をもらすような風までして、老高官のほうを向きながら、熱病やみのような新しい激情をもってことばを続けていった、「昨日、アグラーヤさんが僕に物を言うなとおっしゃって、どんなことを話してならないか、その題目さえもおっしゃいました。そんなことに話が移ると、僕が滑稽になるということを、よく、あのかたは承知していらっしゃるんです! 僕は二十七にもなりますが、まるで子供みたいだってことは、自分でもよく承知しています。僕は自分の思想を語る資格がありません、これは、ずっと前にも申したことです。僕はただモスクワで、ロゴージンにだけは打ち明けた話をしました、……僕らはプゥシキンを読みました、すっかり読みました。あの男は何一つ、プゥシキンの名さえも知らなかったんです、……僕はいつも滑稽な様子をして、自分の
「Vraiment ?(ほんとですか)」老高官はほほえんだ。
「けれど、僕は時おり自分は勘違いをしてるんじゃないかと思うことがあります。まじめだということは身ぶりなんかより大事なものじゃないかと思うんですが、そうじゃないでしょうか、……そうじゃないでしょうか?」
「時と場合でね」
「僕はすっかり説明してしまいたいんです、すっかり、すっかり、すっかり! おお、そうです! あなたがたは僕を
彼は安楽椅子から立ち上がろうとしかかったが、老高官はいよいよ募りゆく不安をいだいて彼を見つめながらも、やはり彼を押さえつけていた。
「皆さん! 僕も話をしてはいけないことはよく知っています。まあ、いっそのこと、単に実例を示したほうがいいでしょう。あっさり始めたほうがいいでしょう、……僕はもう始めていました。……そして、実際において、不幸になるはずはないじゃありませんか? おお、もし僕が幸福になれるものならば、今のこの悲しみや災難なぞは物の数でもないでしょう? ねえ、皆さん、僕は見たい見たいと思っていた木のわきを通り過ぎて、その木を見ながら、どうして人が嬉しい気持になれないのか、わからないんです。会いたいと思っていた人と話をして、その人を愛していながら、幸福を感じないというわけがあるものでしょうか! おお、これは、僕にうまく言い表わせないだけのことなんですが、……しかし、すっかり途方に暮れてしまった人でさえもが、美しさを感ずるような美しいものはいたるところに、どんなにたくさんあるでしょう! 赤ん坊をごらんなさい、こうごうしい朝の光をごらんなさい、草をごらんなさい、どんなに成長してゆくかごらんなさい、あなたがたを見つめ、あなたがたを愛する眼をごらんなさい……」
彼は話をしながら、もうしばらく立ち上がっていた。老高官も今は愕然として彼を見つめるばかりであった。リザヴェータ・プロコフィエヴナはまっ先に気がついて、『ああ、大変!』と叫んで、手をたたいた。
アグラーヤは、まっしぐらに駆けつけて来て、恐怖の念にうたれ苦痛に顔をゆがめながら、彼を危ういところで抱きとめたが、めぐまれぬ人の心を『かき乱して、投げつけた
これは何びとも予期しないところであった。十五分して、N公爵、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチ、老高官など、夜会に再び活気をつけようと試みた人もあったが、そののち三十分とたたないうちに、一同はもう散会してしまった。
いろいろと同情のことばや、さまざまな愚痴や、また二、三の意見なども述べられた。なかでも、イワン・ペトローヴィッチは、『この青年は、スラァヴゥ主義者か、ないしは、そういったぁたぐいのものです。しかしぃ、けっして危険なものじゃぁありません』と言った。老高官は何一つ口を出さなかった。それにしても、そののち、あくる日や翌々日に、誰もが少しく腹を立てたことは事実であった。イワン・ペトローヴィッチは感情を害しさえもしたが、それもたいしたことはなかった。長官の将軍はしばらくイワン・フョードロヴィッチに対して、いささか冷淡な態度を示していた。この一家の『擁護者』である高官もまた、やはり『一家の主人』に向かって、何やら
ベラコンスカヤ夫人は夜会から帰りしなに、リザヴェータ・プロコフィエヴナに言うのであった。
「まあ、お人よしでもあるし、人の悪いところもある。もしわたしの意見を知りたいとあれば、悪いほうがよけいですよ。あんたも自分で見て、どんな人だかわかってるでしょうが、病人ですよ!」
リザヴェータ・プロコフィエヴナもついに心の中で、婿にしては『無理』だと、すっかり決めてしまった。そして、その晩のうちに、『わたしが生きている間は、公爵を家のアグラーヤの婿にするわけにいかない』と、ひそかに誓うのであった。あくる朝、彼女はこの決心をもって、起床した。ところが、その朝のうちに、十二時過ぎに食事のときに、彼女は驚くべき
姉たちの一つのきわめて用心深い質問に対して、アグラーヤは急に冷淡な、しかも、高慢な、まるで断ち切るような調子で答えるのであった。
「わたしはあの人に、約束なんかした覚えはないわ。生まれてから一度だって、わたし、あの人を未来の良人だなんて、考えたことはないわよ。あの人は、世間の人と同じように、赤の他人なの」
これを聞いて、リザヴェータ・プロコフィエヴナは急にかっとなった。
「そんなことを、おまえの口から聞こうとは思わなかった」と夫人は悲しそうに言った、「婿にして無理だということは、わたしも承知しています。そして、幸いに、あんなことになってしまったけれど、よもや、そんなことばをおまえの口から聞こうとは、思いがけなかった! おまえには、もっと別なことを当てにしていました。わたしは昨日の連中をみんな追い出してしまっても、あの人だけは残しておきたいんです。あの人をわたしは、それくらいにまで考えているんですよ!」
ここで彼女は、われながら自分の言ったことに驚いて、不意に口をつぐんでしまった。が、もしも夫人が、このとき娘に対して、いかに不公平であったかということを知っていたならば? もはやアグラーヤの頭のなかでは、いっさいのことが決まっていたのである。彼女もまた同じように、いっさいを解決すべきおのれの時の至るのを待ち受けていたのであった。そうして、ほのめかすようなことばや、問題の核心についうっかりと触れることばを聞くごとに、彼女の心は深く痛められて、張りさけるような思いがするのであった。
(つづく)