与謝野晶子詩歌集

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いづこまで君は帰るとゆふべ野にわが袖ひきぬはねあるわらは 
 
ゆふぐれの戸に倚り君がうたふ歌『うき里去りて往きて帰らじ』 
 
 
 
 
 
 
 
  読後 
 
晶子、ヅアラツストラを一日一夜いちにちいちやに読み終り、 
そのあかつき、ほつれし髪をかき上げてつぶやきぬ、 
ことばの過ぎたるかな」と。 
しかも、晶子の動悸どうきうすものとほしてふるへ、 
その全身の汗はさんごとくなりき。 
 
さて十日とをかたり。 
晶子は青ざめて胃弱の人のごとく、 
この十日とをか良人をつとと多く語らず、我子等わがこらいだかず。 
晶子のまぼろしに見るは、ヅアラツストラの 
黒き巨像の上げたる右の手なり。 
 
 
 
 
 
 
 
  紅い夢 
 
あかねふ草の葉をしぼれば 
臙脂べにはいつでもれるとばかり 
わたしは今日けふまで思つてゐた。 
鉱物からも、虫からも 
立派な臙脂べにれるのに。 
そんな事はどうでもよい、 
わたしは大事の大事を忘れてた、 
夢からも、 
わたしのよく見る夢からも、 
こんなに真赤まつか臙脂べにれるのを。 
 
 
 
 
 
 
 
  アウギユスト 
 
アウギユスト、アウギユスト、 
わたしの五歳いつつになるアウギユスト、 
おまへこそは「真実」の典型。 
おまへが両手を拡げて 
自然にする身振の一つでも、 
わたしは、どうして、 
わたしの言葉に訳すことが出来よう。 
わたしはだ 
ほれぼれとれを眺めるだけですよ、 
喜んで目を見張るだけですよ。 
アウギユスト、アウギユスト、 
母の粗末な芸術なんかが 
ああ、なんにならう。 
私はおまへにつて知ることが出来た。 
真実の彫刻を、 
真実の歌を、 
真実の音楽を、 
そして真実の愛を。 
おまへは一瞬ごとに 
神変しんぺん不思議を示し、 
玲瓏れいろう円転として踊り廻る。