与謝野晶子詩歌集

.

 
 
 
 
 
 
 
さびしさに百二十里をそぞろ来ぬと云ふ人あらばあらば如何ならむ 
 
君が歌に袖かみし子を誰と知る浪速の宿は秋寒かりき 
 
 
 
 
 
 
 
  産室うぶや夜明よあけ 
 
硝子ガラスそとのあけぼのは 
青白あおしろまゆのここち…… 
ひとすぢほのかに 
音せぬ枝珊瑚えださんごの光を引きて、 
わが産室うぶやの壁をふものあり。 
と見れば、うれし、 
初冬はつふゆのかよわなる 
日のてふづるなり。 
 
ここに在るは、 
たび死より逃れてかへれる女—— 
青ざめし女われと、 
生れて五日いつか目なる 
我が藪椿やぶつばきの堅きつぼみなす娘エレンヌと 
一瓶いちびん薔薇ばらと、 
さて初恋のごと含羞はにかめる 
うす桃色の日のてふと…… 
静かに清清すがすがしきあけぼのかな。 
たふとくなつかしき日よ、われは今、 
戦ひに傷つきたる者のごとく 
疲れて低く横たはりぬ。 
されど、わが新しき感激は 
拝日はいにち教徒の信のごとし、 
わがさしのぶる諸手もろでを受けよ、 
日よ、あけぼの女王ぢよわうよ。 
 
日よ、君にもよると冬の悩みあり、 
千万年の昔より幾億たび、 
死の苦にへて若返る 
あまつ焔の力の雄雄ををしきかな。 
われはなほ君に従はん、 
わが生きて返れるはわずかたびのみ 
わづかたび絶叫と、血と、 
死のやみとを超えしのみ。 
 
 
 
 
 
 
 
  颱風 
 
ああ颱風、 
初秋はつあきの野を越えて 
都を襲ふ颱風、 
なんぢこそたくましき大馬おほうまむれなれ。 
 
黄銅くわうどうせな、 
鉄のあし黄金きんひづめ、 
眼に遠き太陽を掛け、 
たてがみに銀を散らしぬ。 
 
火の鼻息はないきに 
水晶の雨を吹き、 
あらく斜めに、 
駆歩くほす、駆歩くほす。 
 
ああおさへがたき 
てん大馬おほうまむれよ、 
いかれるや、 
戯れて遊ぶや。 
 
大樹だいじゆのがれんとして、 
地中の足を挙げ、 
骨をくじき、手を折る。 
空には飛ぶ鳥も無し。 
 
人はおそれて戸をせど、 
世を裂くひづめの音に 
屋根は崩れ、 
いへは船よりも揺れぬ。 
 
ああ颱風、 
人はなんぢによりて、 
今こそむれ、 
気不精きぶしやう沮喪そさうとより。 
 
こころよきかな、全身は 
巨大なる象牙ざうげの 
喇叭らつぱのここちして、 
颱風と共にいなゝく。