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夜の声
手風琴が鳴る……
そんなに、そんなに、
驢馬が啼くやうな、
鉄葉が慄へるやうな、
歯が浮くやうな、
厭な手風琴を鳴らさないで下さい。
鳴らさないで下さい、
そんなに仰山な手風琴を、
近所合壁から邪慳に。
あれ、柱の割目にも、
電灯の球の中にも、
天井にも、卓の抽出にも、
手風琴の波が流れ込む。
だれた手風琴、
しよざいなさの手風琴、
しみつたれた手風琴、
からさわぎの手風琴、
鼻風邪を引いた手風琴、
中風症の手風琴……
いろんな手風琴を鳴らさないで下さい、
わたしには此夜中に、
じつと耳を澄まして
聞かねばならぬ声がある……
聞きたい聞きたい声がある……
遠い星あかりのやうな声、
金髪の一筋のやうな声、
水晶質の細い声……
手風琴を鳴らさないで下さい。
わたしに還らうとするあの幽かな声が
乱される……紛れる……
途切れる……掻き消される……
ああどうしよう……また逃げて行つてしまつた……
「手風琴を鳴らすな」と
思ひ切つて怒鳴つて見たが、
わたしにはもう声が無い、
有るのは真剣な態度ばかり……
手風琴が鳴る……煩さく鳴る……
柱も、電灯も、
天井も、卓も、瓶の花も、
手風琴に合せて踊つてゐる……
さうだ、こんな処に待つて居ず
駆け出さう、あの闇の方へ。
……さて、わたしの声が彷徨つてゐるのは
森か、荒野か、海のはてか……
ああ、どなたでも教へて下さい、
わたしの大事な貴い声の在処を。