与謝野晶子詩歌集

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  夜の声 
 
手風琴てふうきんが鳴る…… 
そんなに、そんなに、 
驢馬ろばくやうな、 
鉄葉ブリキふるへるやうな、 
歯が浮くやうな、 
いや手風琴てふうきんを鳴らさないで下さい。 
 
鳴らさないで下さい、 
そんなに仰山ぎやうさん手風琴てふうきんを、 
近所合壁がつぺきから邪慳じやけんに。 
あれ、柱の割目われめにも、 
電灯のたまの中にも、 
天井にも、卓の抽出ひきだしにも、 
手風琴てふうきんの波が流れ込む。 
だれた手風琴てふうきん、 
しよざいなさの手風琴てふうきん、 
しみつたれた手風琴てふうきん、 
からさわぎの手風琴てふうきん、 
鼻風邪を引いた手風琴てふうきん、 
中風症よい/\手風琴てふうきん…… 
 
いろんな手風琴てふうきんを鳴らさないで下さい、 
わたしにはこの夜中よなかに、 
じつと耳を澄まして 
聞かねばならぬ声がある…… 
聞きたい聞きたい声がある…… 
遠い星あかりのやうな声、 
金髪の一筋ひとすぢのやうな声、 
水晶質の細い声…… 
 
手風琴てふうきんを鳴らさないで下さい。 
わたしにかへらうとするあのかすかな声が 
乱される……紛れる…… 
途切れる……き消される…… 
ああどうしよう……また逃げて行つてしまつた…… 
 
手風琴てふうきんを鳴らすな」と 
思ひ切つて怒鳴どなつて見たが、 
わたしにはもう声が無い、 
有るのは真剣な態度ゼストばかり…… 
手風琴てふうきんが鳴る……うるさく鳴る…… 
柱も、電灯も、 
天井も、卓も、かめの花も、 
手風琴てふうきんに合せて踊つてゐる…… 
 
さうだ、こんなところに待つて居ず 
駆け出さう、あのやみの方へ。 
……さて、わたしの声が彷徨さまよつてゐるのは 
森か、荒野あらのか、海のはてか…… 
ああ、どなたでも教へて下さい、 
わたしの大事なたふとい声の在処ありかを。