与謝野晶子詩歌集

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海棠にえうなくときしべにすてて夕雨ゆふさめみやるひとみよたゆき 
 
水にねし嵯峨の大堰おほゐのひとがみ絽蚊帳ろがやの裾の歌ひめたまへ 
 
春の国恋の御国のあさぼらけしるきは髪か梅花ばいくわのあぶら 
 
今はゆかむさらばと云ひし夜の神の御裾みすそさはりてわが髪ぬれぬ 
 
 
 
 
 
 
 
  帰途 
 
わたしは先生のお宅を出る。 
先生の視線が私の背中にある、 
わたしはれを感じる、 
葉巻の香りが私を追つて来る、 
わたしはれを感じる。 
玄関から御門ごもんまでの 
赤土の坂、並木道、 
太陽と松の幹が太いしまを作つてゐる。 
わたしはぱつと日傘を拡げて、 
左の手に持ち直す、 
頂いた紫陽花あぢさゐの重たい花束。 
どこかでせみが一つ鳴く。 
 
 
 
 
 
 
 
  拍子木 
 
風ふくなかに 
まはりの拍子木ひやうしぎの音、 
二片ふたひらの木なれど、 
かしの木の堅くして、 
としつつ、 
手ずれ、あぶらじみ、 
しんから重たく、 
二つ触れては澄みり、 
嚠喨りうりやうたる拍子木ひやうしぎの音、 
如何いかまはりの心も 
みづから打ち 
みづから聴きて楽しからん。 
 
 
 
 
 
 
  或夜あるよ 
 
部屋ごとにけよ、 
しよくの光。 
かめごとにけよ、 
ひなげしと薔薇ばらと。 
慰むるためならず、 
らしむるためなり。 
ここに一人ひとりの女、 
むるを忘れ、 
感謝を忘れ、 
ちさき事一つに 
つと泣かまほしくなりぬ。 
 
 
 
 
 
 
 
  堀口大學さんの詩 
 
三十を越えていまめとらぬ 
詩人大學だいがく先生の前に 
実在の恋人現れよ、 
その詩を読む女は多けれど、 
詩人の手より 
いへむすめか放たしめん、 
マリイ・ロオランサンの扇。